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「週刊 歴史のミステリー第7号・桶狭間の戦い」と「明石散人の騙し討ち説」

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桶狭間の戦い   1560年、尾張国桶狭間における織田信長と今川義元の戦い。  
 東海地方に威勢をふるった駿河の今川義元は大軍を率いて尾張に侵入し、丸根・鷲津の二城を攻略した。信長は折からの雷雨をおして手兵を率い、義元の宿陣する桶狭間北方の田楽狭間を急襲し、義元を敗死させた。今川家滅亡と信長台頭の契機となった。(日本史辞典)

では、ディアゴスティーニ「週刊歴史のミステリー」第7号~桶狭間の戦いは奇襲だったのか~の記事から
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①「義元は上洛を目指していたのか?」
通説では、今川義元は、「足利将軍家が途絶えれば吉良家が継ぎ、吉良が絶えれば今川家が継ぐ」と言われるほどの足利家系の名門である。この名門意識から、天下統一を目指していたのではないか、といわれている。足利尊氏が上総介→治部大輔→三河守→将軍となったことから、尊氏と同じコースをたどっている義元もそれにならって、将軍を目指していたというのだ。
しかし、ここでは、この説を否定し、静岡大学の小和田哲男教授の「尾張の領土を侵そうとしたもので、上洛を目指したものではない」という解説を載せて、「領土拡大のための尾張への進軍」であったと説明している。義元の三河守任官が1560年5月8日で、尾張への進軍がこの年の5月12日である。だから、将軍になろうとして上洛するには、あまりにも早急過ぎるというのだ。
いまは、この「領土拡大説」が主流の説となっているようだ。

②「(信長が) 砦の家臣を見殺しにしたのは何故か?」
5月18日、丸根砦の佐久間盛重と鷲津砦の織田秀敏から、今川軍の攻撃があるとの急報を受けたが、信長は救援を差し向けなかったという。これが「見殺し」にあたるのかということだ。
これについての解説は、「敵の大軍が、両砦の攻撃のために分散することを狙ったものだ」という説を取り上げている。ここでは「織田信長の合戦全録」の谷口克広氏の説明を載せている。

③「信長の進軍はどのような経路だったのか?」
通説では、織田軍の勝利は、今川軍の虚を突く、迂回攻撃の奇襲によって行われたものである、と言われている。しかしこれには多くの疑問があるといわれる。「信長公記」には信長軍が迂回したとは書かれてなく「直進説」となっている。また通説では、義元がいた場所は「田楽狭間」といわれるが、「信長公記」によるとそれは「桶狭間山」と記されているというのだ。つまり進軍経路、義元の本陣場所について全く確定されていないということだ。

④「今川軍はなぜあっけなく敗れたのか?」
通説では、今川軍は尾張に入ってからの連戦連勝により、義元は上機嫌であったという。田楽狭間で休息を取った義元はそこで、献上品を肴に酒宴を張ったという。この情報を知った梁田出羽守が、信長にこの情報を伝えた。ただちに出陣した信長は、激しい雷雨にも助けられ、義元の首を上げることが出来たという。よってこの勝利の最大の貢献者は梁田出羽守だとしている。
しかし、義元が酒宴を張ったという記述は、「信長公記」を始め一級史料には一切書かれていないというのだ。しかも梁田出羽守に最大の論功行賞を与えたという資料はなく、あってもかなり後になって書かれたものだという。
「なぜあっけなく義元の首を取ることができたのか」という肝心な点だが、「歴史のミステリー」の中では、豪雨に信長軍は助けられたとしか説明がなく、「なぜ」の部分があまり語られていない。

⑤明治時代の陸軍が広めた奇襲説
信長の迂回進軍という奇襲戦法説が広まったのは、小瀬甫庵の「信長記」によって書かれたためである。甫庵は、「信長公記」を江戸時代になって書き直したものであるため、脚色が多く、この点も書き加えたものではないかということだ。
そして、明治時代になって陸軍参謀本部が戦史書として刊行した本で、「桶狭間の戦い」を取り上げられ、そこで「信長の迂回奇襲説」が採用されたために、より一層この説が広まった、という。

⑥兵力を分散させ敵を油断させた信長
「武功夜話」の話を中心に、「信長の戦術は、籠城でもなく、野に出て陣を構えて合戦を挑むものではなく、敵の軍が分散した瞬間を狙った正面攻撃だった」と結論付けています。

⑦勝算があった最終決戦
ここでは、兵力の差を問題にしています。通説では、今川軍の兵士の数が4万人といわれていますが、実質では2万5千人。対する織田軍が2千人といわれています。しかし、実際には、石高から計算しても信長にも5千人ほどの兵力があったのではないかと思われる。今川軍が両砦に分散していたので、「正面攻撃ならば、勝機があった」という信長の読みがあったのではないか、ということです。

⑧信長進撃の真相
さて、これらのことを踏まえて、この本では「信長は迂回奇襲攻撃ではなく、正面からの攻撃をしたものであった」と結論付けている。しかも、「信長はここで勝てるとは思っていない、敵に一泡吹かせてやろうというぐらいの気持ちしかなかったという」かなり消極的な説を取り、この決死の作戦にタイミングよく豪雨に助けられたもので、勝利は奇跡的ものだった、と結んでいます。

と以上が「週刊歴史のミステリー」の記事。

信長の勝利が「奇跡的な勝利」でただの幸運だった、という結論はどうも腑に落ちない。
「信長に何らかの秘策があったのではないか」、というのを求めてしまうのは、信長を買いかぶり過ぎているというのか。

新田次郎著「梅雨将軍信長」の中に、この時期に雷雨があることを予測し、その家臣の進言に従って戦いに勝利したという内容の短編小説があった。(記憶があやふやだが) 
これは「気象予測」に焦点を当てて桶狭間の戦いを書いた短編で、なかなかよかった。
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また、桶狭間の戦いは、「歴史のミステリー」の中にもあるように、謎だらけで、実際のところはほとんど分っていないというのが真相でしょう。そういった事なので、多くの説が出ています。
そんな諸説ある中でも、最も奇抜だったのが、明石散人が出した「裏切り、騙し討ち説」でしょう
それは、「二人の天魔王―信長の真実」(講談社)の中の「第6章必勝の戦、桶狭間」にあります。
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この本の明石散人によれば、まず一級史料とされる「信長公記」でさえ、「桶狭間の戦い」の部分があやふやに書かれていることを言及し、これは太田牛一の創作のではないのかと指摘しています。そこから、出てきたのが「信長は、今川義元に降伏を申し出て、会見すると称して、おびき出して殺したという」という説です。

では、本文から引用。
『信長は、この二百騎をもって駆けに駆け抜けたんです。義元本陣は会見場所ですから義元の兵も少なく、恐らく三百人くらいしか居なかったんだと思います。今川方は信長は精々二、三十騎と思っていますからね。信長は会見場所へ着くと本陣幔幕からいきなり手勢を送り込みました。中には数十人しか居なかったはずです。ですから義元の首を取るのは簡単なことでした……。首を取った信長は馬前に掲げ「今川義元の首討ち取った、今川勢は総崩れ」と怒鳴りながら、今川勢の中を駆け抜けたのです。こうでもアピールしなければとても無事には清州までは帰れませんし今川軍勢も引きません……。総大将が失われれば合戦は成り立ちませんから、ここで戦は終わってしまいました。今日信長、義元がどこで戦ったか誰にも解明できないのは、この会見場所が信長一人のみ知り得る場所だからなのです……』

上総介信長ハ、御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ならさるる程に日の内に清州……。「信長公記」首巻

ここだけ読んだだけでは分らないですが、この説は実に刺激的で、またスリリングに書かれています。
最初読んだときは、なんて奇抜な説だと思い、信じられないような説だと疑ってました。しかし、今回「歴史のミステリー」の「桶狭間の戦い」の謎の部分を考えてから、明石散人の説を読み返してみると、「なるほど、これはしっくりくる」と思ってしまいます。(ただし反論は多いと思います。まあ、そういう私も半信半疑ですが……)

ちなみに「二人の天魔王」とは、足利義教と信長のことで、本の中では、「信長は義教のコピー、マネでしかない」ということが書かれています。一読の価値ありで、読むと「信長像」が変わってしまうかもしれません。

この明石散人は京極夏彦が「師匠」といって慕っているほどの人で、私も好きな作家です。










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