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源頼朝事故死の真相  週刊「歴史のミステリー」第8号から 

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週刊「歴史のミステリー」第8号から 源頼朝事故死の真相  

源頼朝の死については、多くの謎があるという。週刊「歴史のミステリー」8号ではこの謎を検証しています。
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①「幕府の正史に空白があるのはなぜなのか?」
通説では、1198年(建久八年)12月、源頼朝は相模川の橋供養に臨席した帰路に落馬して、それが原因で翌年1月13日に死去した、と伝えられている。
この頼朝の死に関して、不審なことが多いといわれる。
1、「吾妻鏡」には、頼朝の死から前後3年間が欠落している。鎌倉幕府が編纂した正史「吾妻鏡」に、初代将軍の死にまつわる記録がなくなっている(またはもともとない)というのは、あまりにも不自然であるという。
2、頼朝は、落馬が原因で死んだと「吾妻鏡」に書かれたのは、死後13年も経った後のことである。
3、武家棟梁が落馬で死んだとなれば、大変な不名誉となるため記載されなかったという説もあるが、それならば、なぜ13年あとに書かれた記述も削除しなかったのか。
4、頼朝が死んだのは落馬してから、17日もたった後であった。しかもその期日もはっきりしていない。1192年3月2日に「故将軍四十九日の御仏事なり」という記述から計算して、1月13日に死去したことが分かるというもので、その死因についても全くわからない。

②「頼朝は本当に事故死だったのか?」
そこで、頼朝は本当に落馬で死亡したのかという疑問がわく。
そこでは、各説を列挙している。
1、「脳卒中説」 明治時代の医学史家・富士川游氏などの説脳血管の障害により突然意識を失い、手足が麻痺したというもの、突然これに罹り、落馬したのではという説。
2、「糖尿病説」 頼朝の死後5日、関白・近衛実家の日記に『前右大将頼朝卿、飲水に依り重病』とあり、これも脳卒中と同じような症状。
3、「亡霊説」 頼朝に殺された源義広、義経、行家などのほか安徳天皇の亡霊が現れ、その祟りで病気になって死んだ。(保歴間記)
4、「誤認説」 愛人のところへ忍んで行こうとした頼朝が、曲者と間違われ斬られた。
5、「溺死説」 「盛長私記」によれば、橋供養の際に亡霊が現れ、驚いた馬が走りだして川に落ち、落馬して河原の石に頭を打った。また川に落ちて水を飲み溺死した。これは2の「飲水に依り重病」ということにもなる。
6、「刺客説」 橋供養から帰る頼朝を兵士の残党が女装して待ち伏せし、突然斬りかかったため、頼朝が落馬した。
7、「北条政子下手人説」 妻の政子が頼朝の浮気に怒って殺害したという説。「常山紀談」「見聞私記」など。

5、7は本文にはない。いまは、落馬が直接の死因ではなく、病気による死去が、どうやら有力らしい。または、これらの説が合わさった複合説もある。

③「頼朝の朝廷工作は成功したのか?」
ここでは頼朝の朝廷への工作が、自身の死に影響しているのかを考察している。
1185年に頼朝の朝廷改革に着手し、親幕派の九条兼実を関白にする。1190年に上洛した際には、丹後局や土御門通親(ここでは源通親となっている)と接近し、頼朝の娘・大姫を入内させようと、工作する。しかし親幕派の九条兼実は失脚、親幕派の一条能保は死去したため、頼朝の朝廷工作は失敗した。頼朝が不審な死をするのは、この直後であった。
結果として、北条時政や政子は、頼朝の政治能力を見限った。鎌倉幕府の将来を見据え、北条氏にとっても「頼朝不要」となったのではないかと、この本では見ている。

④「将軍をとりまく人々との関係」
頼朝と北条政子との関係を記載。また北条一族が頼朝を利用していたことを記載している。

⑤「相次いだ誅殺事件の真相とは?」
頼朝の死の前後多くの者が死んだ。頼朝の長女・大姫、親幕派の一条能保、高保親子の死。畠山重保、梶原景時、稲毛重成と頼朝を取り巻く人々が死んで行く。この後も頼朝の弟・阿野全成、源頼家、比企一族と次々と滅ぼされていき、実権は北条氏に移っていくことになる。

⑥「鎌倉幕府をわが物にした北条氏」
「週刊歴史のミステリー」では「頼朝暗殺説」を採り『相模川の橋供養に臨席した頼朝は、そこで毒を盛られた。実行犯は稲毛重成。暗殺計画の首謀者は北条時政であり、協力者は北条政子であった。幕府の公式記録「吾妻鏡」にはこのあたりのことが記載できずに3年間の空白期間ができてしまった」と結論つけています。

さて、頼朝暗殺事件などを詳細に書いた本となると、奥富敬之著「源氏三代、死の謎を探る」 (人物往来社)となります。
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「歴史のミステリー」で書かれていることは、ほとんどここから採っているとみていいでしょう。

少し補足すれば、頼朝の死には、朝廷内の親幕派と反幕派の激しい対立が影響していたという。頼朝の死の3年前に反幕派の土御門通親が、政変を起こして親幕派を一掃してから不可解な事件が頻発しているというのだ。
土御門通親が、頼朝の娘・大姫の病気回復を祈るために験者を鎌倉に派遣した直後、大姫は死んだ。そして親幕派の一条親子が相次いで死ぬと、ここで頼朝が不可解な死を迎えた。この変事に、親幕派が土御門通親を暗殺しようとしたが、失敗。(三左衛門ノ変)。
また、幕府は頼朝の次女・三幡姫を入内させようとしていたが、土御門通親の遣わした医師の薬を飲んで急死してしまった。
また、藤原定家の日記「明月記」には、土御門通親は、頼朝の死去の知らせを聞いていたにも関わらず、天皇、上皇らにそれを報告せず、自分の都合のいい閣僚名簿を作り任命までしてから、そこで初めて頼朝の死の報告を聞いて、驚いたふりをした。そして、自分の邸に引きこもると、門を閉めて閉じこもったというのだ。そこに三左衛門ノ変が起こるのだから、事件をあらかじめ予測していた節があった、と書いているという。
それに鎌倉の梶原景季、大江広元も土御門通親の後押しで出世した人物だった。

これらのことから、頼朝暗殺首謀者は、土御門通親ではないのか、という結論だ。

だが、土御門通親は、頼朝の死んでから、3年後に急死してしまう。頼朝の死後、実権は北条氏に移っていく。やはり「頼朝の死」で最後に得をしたのは北条氏ということになるのか。
作家・楠木誠一郎氏によれば、「吾妻鏡」の欠落した部分を廃棄したのは「大江広元」ではないかと推測している。つまり自分らに都合の悪いところは、正史といえども捨てられて、真実は隠されてしまうということになる。

太平記にも巻二十二がない。これも権力者・足利氏にとって都合の悪いことが書かれているということで、焼却されたというのだ。権力者に不都合なことは、やはり消されてしまう運命だ、ということか。

追記   「歴史のミステリー」の中で「曾我兄弟の仇討は頼朝暗殺未遂だった」という記事も出ていた。曽我兄弟の仇討が「王殺し」「源氏王朝滅亡」の物語であるといったことを書いたのは、丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」だ。ここで、これに絡めていこうとしたが、長々となるし、主題から外れていきそうなので、やめました。他にも曽我兄弟仇討の真相を書いたものがあったはずなので、思い出したら、後で書きます。

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消えた二十二巻

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