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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第3章 3

物語を物語る

「それでも、どこからは新田・南朝の伝承を仕入れなければならないから、きっと、南朝の残党が奥三河に潜んでいて、伝えたんだと思う」
「系図や伝承がいきなりどこからか湧き出ることもないし、現在と違い、情報も発達しているわけではないから、上野国の情報を三河で得るにはなんらかの伝達者がいなければならない。しかも足利の時代であるから南朝や新田のことなど表沙汰にはできないことである。このことを知るにはやはり特別な情報提供者がいなければならないと考えられるのだ。一口に系図買いというが、売るほうがいて成り立つものだからね」
琴音は納得するように頷いた。それを確認して真船は話を進めた。
「ここまでをまとめると、信濃と吉野を結ぶ伊那街道の中継地点である奥三河に南朝の拠点が築かれた。南朝衰微後も、新田や南朝の残党が住み着いていて、そこに松平家が来たのではないか。要するに奥三河が松平家と新田伝承を結ぶキーワードになるわけだ。それでは、そのノートの付箋が付いている次のページを見てください」
真船に促されて、琴音は次のページをめくった。

『徳川家臣団・2』
①酒井氏……酒井家と松平家の祖は、元々同じで、松平親氏・徳阿弥である。この徳阿弥とは、新田義重の四男義季の子孫である。義季は世良田家の始祖であり、得川郷にも領地があったため『得川殿』とも呼ばれた人物である。その六代後が世良田政義で、新田義貞と行動をともにする。そして政義の三代後が世良田(徳川)親氏、つまり徳阿弥である。親氏は、永亨の乱で鎌倉公方足利持氏に味方し、敗れた。室町幕府の追及が厳しく、親氏は、時宗の僧に身をつやして、諸国を巡り、三河に流れ付くと、酒井郷の土豪に養子に入って、そこで生まれたのが酒井家の祖となる広親である。その後親氏は、妻がなくなったために、松平郷に移り、松平信重のところに婿に入る。そこから九代目が家康となる。つまり酒井家と松平家は同系となる。そして家康の時代、酒井家は酒井忠次であり、徳川四天王といわれ、家康家臣の中でも一番の重臣であった。
②井伊家……井伊家は遠江国井伊谷城主であった。南北朝時代には後醍醐天皇の子・宗良親王が東下した際、ここを南朝拠点として戦った。宗良親王は、その後信濃大河原城へ行くが、井伊家は南朝方として足利と戦う。宗良親王が没すると、井伊家菩提寺・龍潭寺に祀ったのである。井伊家の南朝寄りはこれだけでもわかる。
南朝衰微後、井伊家は今川家に屈してその家臣となる。井伊直政のときに家康の小姓として仕え、この後頭角を現して徳川四天王の一人となり、家康関東入国の地割りでは、家臣一番の所領である上野箕輪城十二万石を賜った。また直政は、武田遺臣を引き継ぎ『赤備え』の最強軍団を率いた。
ここで一つの疑問が湧く。なぜ家康は、新参家臣の直政に甲斐の武田遺臣をつけたのだろうか。井伊家の伝承に、武田遺臣たちが引き付けられたというのは考え過ぎだろうか。武田家と徳川家は反目し合っていたが、なぜか結び付くものも多い。家康が信玄を尊敬していたこともあるが、武田家が滅んだ後に多くの家臣を召抱えた。(大久保長安など) そして武田家から徳川家に仕えたものも多い(天海、奥平家など) また武田へ内通していたかどで、殺された家康嫡男の信康や正室の築山殿、なぜか内通を疑われるのは武田家が多い。しかも武田家が滅んだあとに、徳川の軍法を武田流に変えてしまった。武田家と徳川家になにか結びつけるものがあったのか。一つ考えられるのは、武田家の領地である甲斐・信濃にまたがる銀山、鉱山である。信玄はこれらにかなり力を注いでいた。山の民、百足といったキーワードがこの結び付きを解く鍵になるだろう。
③大久保家……大久保家は家康時代に、忠世や忠隣を出し、一族の武功は三河武士の見本とまで云われた。また一族の忠誠心は家臣の中で群を抜くほどで、三河国を二分した一向一揆でも一族の誰一人も家康を背くことはなかった。その大久保家であるが祖先は宇都宮氏の庶流で南北朝時代は新田方についた。(本家は足利方)
大久保泰藤は新田義貞が討たれるまで付き添い戦っていた。が、京都に義貞の首が晒されているのを知ると、足利方の警護の目を掻い潜り義貞の首を密かに持って逃げたという。そして、三河和田町に隠れ住み、義貞の首を妙国寺に祀った。その妙国寺が大久保家の菩提寺となった。その妙国寺は、松平家の本拠地である愛知県岡崎市にある』

「うわー、すごい。この最後の大久保家の伝承は強烈ですね」
「本当に義貞の首を持って逃げたかは、分からないが、伝承としては最高だね。この場合、ウソか事実かが問題じゃないんだ。この伝承を喧伝するだけでも、松平徳川家に忠臣であると広めることができるからね。でもそれと同時に新田伝承を背負うことになるんだ」
「どういうこと?」
「時代とともに、新田一族の残党とそこに仕えていた家臣は没落し、地下にこもって足利氏に抵抗した。これは世代を重ねていくと、怨念というか執念みたいなものが受け継がれていった。力は失ったが、その感情が積怨となっていく。この恨みに似た宿望は、足利氏を倒し武家の棟梁になりたいという新田一族のもっている大望と重なり、いつしかこれを果たそうという感情のみが残る。新田を名乗ることでその感情をも引き継ぐことになるのだ」
「この点が問題なのね。今までは家康が将軍になるために、系図を買いそれに結びつけたと簡単に片付けられたというわけね。まだまだ研究が必要というわけか」
「まあ、武家の棟梁となるには、新田源氏は系図上でもっとも近い武門の名門だからね。この最高の切り札を松平徳川家は得たことになる。彼ら松平家にも大望があり、それだけの実力を備えようとしていた。これは新田の名を称するとともに、新田一族の持っていた宿願、無念、悲運をも取り込んでいった」
「だんだん分かってきたわ」
「ここまでをまとめてみよう。松平氏は親氏のときから近隣の土豪などを攻めて領土を拡げていった。松平氏のいた松平郷は山間の狭い土地であったために、勢力を拡大していくには、南下して行くしかない。そして三代目の信光のときに西三河に進出、七代目清康のときに岡崎に本拠を構えて西三河を制圧する。そして九代目が家康となる」
琴音はいちいち頷いて、話を聞き、知識を吸収していった。
「また、松平家が奥三河にいた南朝の残党拠点を征服していく過程で、新田・南朝の伝承を取り入れていった他に、南朝の持っていた陰のネットワークを知り得たのではないかと、私は思っているのです」
琴音は先を促すように助手席から真船を見つめる。真船は正面を向いたままハンドルを握りながら話を進めた。
「つまり新田源氏を名乗ることにより、我らは南朝の後継者であると宣言したことになる。これは地下に潜み、子々孫々と無念やら大望やらを残していた反体制者たちの心に訴えたのではないか。いつしかそんな人物が出てくることを待っていたのだ。南朝に協力した人たちを思い浮かべれば、彼らは実力こそは失っていたが、全国的なネットワークを持ち、特異な能力を持っていた。そんな人々が奥三河に多く残存していた。事実この辺りには南朝の伝承、言い伝えが多く残っている。そんなときに松平家が現れた。最初は小さな勢力であったが、そのうちに武力で近隣を切り従えていく。西三河を制圧した清康のとき、新田一族である世良田氏を名乗り始めたのがタイミングとしていいでしょう。南朝方にとって新田源氏というのは足利氏に匹敵するほどの名門であり、武家の棟梁の旗頭としては最高の切り札だ。それを松平清康は名乗ったことになる。そこで松平家はその切り札をどこで手に入れたかだが、それは今となっては確証を得られるものはない。だがその断片は見ることはできる」
「それはなに?」
「三河に六所神社というのがある。六所神社は松平始祖の親氏が、陸奥国の一宮である塩釜神社から勧請したものである。最初は松平郷に建てられ、松平家の産土神として代々礼拝されてきた。産土神とは生まれた土地の守り神つまり氏神のことで、松平家にとって大切な神社であることは間違いない。この後、松平家の本拠が岡崎に移動したために、六所神社もここに移った。
ここでの問題点は、何故、陸奥つまり宮城県にある塩釜神社からわざわざ三河まで勧請してきたかだ。親氏が塩釜や陸奥に関係した話は伝わっていないし、六所神社にも詳しい伝承もない。しかしである。実は、塩と釜は製鉄に深い関係があるんだ。古来より塩を作るときに、海水を釜でくみ上げて塩を精製する。そのために塩を作る場所では製鉄が必要となり、製塩と製鉄が結び付くことになる。しかも鉄も塩も作るべき場所を求めて旅をする。これが集団となって移動し、漂白民が形成されていく。これらの民と同じように全国を漂流する人々がいる。それが猿楽師や田楽師のような芸人、また時宗の僧、修験道者など多くいる。彼らは諸国を巡る者たちが、情報を交換し合い、結び付いて独自のネットワークを作っていったんだ。
では、この松平家とこれらの接点はどうか。それが飯田街道だ。これは私のまとめたレポートにありましたよね。飯田街道は吉野から伊那谷に抜ける南朝の重要な街道で、三河の上部を通り、中馬街道や足助などと結びつき交通の要所となっていた。そしてなんといってもこの街道は塩の継ぎ立てで賑わっていたというんだ」
「だんだんとつながってきたわ」
「この奥三河に南朝拠点を作るべく入居してきたのが、児島高徳とその一族である三宅氏だ。三宅氏の本拠は備前の児島である。ここは、平安時代の『延喜式』には児島が塩の産地として、租税を塩で充てていたという。その地図を見てください」と琴音にノートに挟まれていた地図のコピーを指差した。
それを見て琴音は「瀬戸内海ね。あー、この赤穂の塩というのは良く聞くわ。ここに近いのね」
「瀬戸内は塩の産地だからね。それで塩をキーワードとして見て行くと、児島高徳・三宅氏=塩=塩釜神社=六所神社=徳川・松平家とつながる。しかも六所神社勧請が松平始祖親氏の代であることと、奥三河という地域的なことから、推理していくと、児島高徳またはその子孫が、南朝復興のために、三河周辺に流れ着いた浪人たちに新田伝承を授けたのではないか。これは児島氏や楠木正成のような家系では駄目なんです。何度も言いますが、武家をまとめていく正統性、足利家に対抗できる唯一といっていい家柄。新田残党からいえば今では勢力を失っているが、いつかは義貞、いや新田始祖義重からの大望を叶え、無念を雪ぐためにも、この地域で力を付けつつあった松平家と結び付いたと、自分は結論付けました」
「私もその意見には今のところは否定しませんけど」
「厳しいですね」
「決定的証拠がないとやはり諸手を挙げて賛成とはいきませんね。ただいい線は行ってると思います……。やはりこの説で重要なのは児島高徳になるわね」
児島高徳こそこの時代を解く鍵になると、自分はにらんでます。ただ謎が多すぎる。その一つに高徳の終焉の地です。ある研究者によると高徳の墓といわれるものが全国には9ヵ所あると言います」
「多いですね。それほど有名人でもないのに」
「歴史的有名人でありながらその終焉の地が確定されていなくて、墓といわれるものが各地に散らばっている人は結構いますね。例えば小野小町とか源義経とかね。ただ高徳の場合は、それ程有名人じゃないし、しかもその実在さえ疑われているのにです」
「まったく不思議な人物ね。それで真船さんはどこだと思うの?」
「高徳の墓は全国に散らばっていて、岡山や大阪、高知、愛知などにあります。その中でも、『児島高徳と新田一族』の著者浅田晃彦氏は、高徳が新田一族とともに行動していたことから、終焉地は新田荘であったとしています。それに太田市の隣にある大泉町には児島神社があり、そこに高徳が祀られています」
「うーん、いかにも伝説上の人物という感じね。でも神社に祀られているということは、そこに滞在したか、その地で何か事跡を残したということにはなるかしら」
「まあ神社として今も残り、伝承が伝えられ続けているからには、高徳の墓はここだと信じている人が大勢いるわけだ。それが昔から現代まで連綿と続いて、いつしか伝承、伝説となる。ここでちょっとした逸話を紹介しましょう」といって信号待ちしている間に、写真をコピーした紙を二枚琴音に見せた。
一枚は、寺の前で老人三人が正面を向いて写っている記念写真だろうか。
もう一枚は、寺社の境内に相撲取りが四股を踏んでいる写真だ。その力士の横に二人の相撲取りが控えている。その周りに多くの群衆がいる。奉納土俵入りというやつだろう。二枚とも古い写真だ、コピーでも分かった。
「これは昭和55年5月27日、高徳寺で行われた児島高徳600年忌祭の模様です。四股を踏んでいるのが当時横綱の北の海で、太刀持ちが増位山、露払いが闘竜です。そしてもう一枚の方ですが、ここにいる中央の人が当時相撲協会理事だった三保ヶ関親方です」
「これが何か?」
「この三保ヶ関親方の祖先が児島高徳だったんです」
「えっ。その親方という人は知らないけど、現代にもつながっていたなんてちょっと驚き」
「この三保ヶ関親方はこの日謝辞を読み、感涙に咽んだ、と基の本には書いてありました。親方の本名は沢田国秋といい、兵庫県出身です。そこで児島高徳の子孫となりますが、高徳の子は4人いたと伝えられ、長男高秀は宇喜多氏の祖、三男高貞が三河三宅氏の祖、四男良寛は三河国大林寺の僧となった。で、次男の高久が播州の庄屋沢田家に養子となり、沢田氏の家系が続くことになります。これが、親方と結びつくわけです。親方は幼いときから児島高徳の末裔であるという話しを聞かされていたというんです。まあ、その縁あって児島高徳の神社で、記念祭が行われた際に奉納土俵入りの儀式を行うことになったのだ」
「面白いエピソードね。こういう風に伝承は受け継がれて行く訳ね。でも高徳って新田一族とそれほど関係があったの?」
「高徳は建武の新政のころは護良親王に従っていたが、親王失脚後は義貞ら新田一族と行動をともにして、足利方と戦っていた。とくに新田の北国落ちや義貞の死も経験し、脇屋義助とともに四国にも行っている。だから新田一族を良く知った人物といえる。その高徳が偶然のようにこの地で死んで、神社に祀られている。この地に何か重要なことがあったのかもしれない」
「でも高徳が祀られている場所は数多くあるんでしょう。するとこの東毛の地ではないのでは」
「うーん、そうかもしれない。でもこんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、それは問題じゃないんだ。祀られているのが高徳本人じゃなくてもいいんだ」
「それは駄目です」
「いや最後まで聞いて、高徳の名前を残して死んだ人物がいたと考えている。その人物は高徳の家臣であったかもしれないし、縁者であったかもしれない。でもその人物がどうしてこの地に来て、どうしてこのような伝承を残して祀られているのかが問題なんだ。自分はそこに重大な意味があると思っている。今はまだ分からないけど……」
「それじゃー納得がいかないわ」と琴音は少し不満であった。だが琴音の心に『児島高徳』という名前が深く刻まれた。



目的地である太田の大光院に着いた。
大光院は1613年に家康が始祖である新田義重を追善するために建てた浄土宗の寺である。山号は義重山で、開山は然誉呑竜。「子育て呑竜」として有名で東毛地区きっての大寺である。初詣や節分の豆まきは、観光客で賑わうという。
二人は境内を歩きながら問答を繰り返した。
「新田関連の寺院の中で、家康が建てたものが一番大きいというのも皮肉なものね」
「そうだね。やはりこうゆうものは権力の大きさと比例するんだね。寺院も権力の象徴ということかな。まあ、ここで重要なのは、新田の始祖である義重を祀っているということだね」
「新田を騙った家康が、その始祖を祀るのは一見自然だけど」
「もう一度新田氏の歴史を見てみれば、義重は武家の棟梁になるという野心を抱いたが、それが叶わず死んだ。これは一族の大望として残った。そして義貞も今一歩まで行ったが叶わない。そこに新田氏末裔を名乗る家康が、この宿望を叶えたことになる。でも武家の棟梁になるというのは本当に大それたことだし、公言するのも大変なんだ。武将たるもの武家を束ねる者になりたいと思うだろうが、実際は家格が高くなければなれない。厳密に言えば源氏でなければなれない。しかもまわりの誰もが認める家柄でなければ、武将はついていかない。でもそんな高い家柄はそれほどないんだ。だから家康は新田庶流の世良田でなく新田始祖を祀ることで新田源氏であることを印象付けようとしたんだと思う」
「じぁー徳川・世良田氏は祀らなかったの?」
「いやそれが特殊なんだ。それは次の満徳寺に移動してからね」
「そう。それじゃー少し休みましょう」
二人は参道近くにあった茶屋に入った。
琴音はすっかりファンになった焼きまんじゅうを注文した。真船は太田名物の呑竜焼きそばを頼んだ。
「それでさっきの続きだけど、新田伝承を松平家に授けたのは、松平家の家臣だったの?」
「それは分からない。天下統一を果たした家康には、新田や南朝の伝承をもつ家臣団が多くいたことは分かったけど、そこから直接的に新田伝承を得たのではないと思う。でも一つ言えるのは、彼ら家臣団は、家康に対して中世的な忠義心で尽くした。そして他の武将はこの鉄の結束を恐れた。戦国時代は下克上の風潮もあり、主従関係はそれほど強くなかったからね」
「でもそれだけじゃ、天下統一はできないでしょう?」
「家康には、彼を支える強力な家臣団のほかに、表舞台には登場しない異能集団が存在していたことは知られている。天下を取った秀吉にもいわれていることだけど。家康にも陰の軍団みたいなものの存在がちらつくんだ」
「それって忍者とか」
「まあ俗ぽくいえばそうなる。でも南朝を支えた集団も特殊な能力を持った者たちであったから、家康と南朝・新田をつなぐヒントになるかもしれない。では、さっきのノートについている次の付箋を開いて欲しい」
琴音は焼きまんじゅうを食べながら、そのページを開いた。

①服部家……服部家というと伊賀の忍者というイメージが強いが、服部半蔵の父である保長の時代から松平家の清康に仕えていたから譜代の家臣といっていい。服部半蔵は保長の五男で1542年、家康と同じ年に生まれた。家康が戦ったいくさには、すべて参加したという。半蔵のエピソードで有名なのは、本能寺の変際、家康が堺から三河に逃げ帰ったとき、家康一行を護衛した。世にいう「伊賀越え」である。この家康脱出に功があったとして、伊賀の忍び百二十名を取り立てた。そして半蔵がその伊賀忍者の組頭となった。(伊賀越えには諸説あって謎が多いが、ここでは取り上げずに、通説だけとした)
半蔵には、三人の子があった。嫡男正就は、家康の異父弟松平定勝の娘を妻とし、家督を継ぐが、家臣の反乱があり、改易となる。そこで次男の正重が跡を継ぐ。正重の妻は、大久保長安の娘であった。大久保長安は、後で語るが、金山総奉行であり、幕府領地総代官である。しかしこれが仇になる。長安死後、謀反の疑いありという理由でお家断絶となり、正重も連座して改易となる。三男は三千石で幕府に仕えていた。その後、服部家の系統は、後に今治藩の主席家老となった。
半蔵は「鬼の半蔵」ともいわれ、槍の名手であった。服部家の菩提寺西念寺には、半蔵の愛用していてた槍が今も残っている。ここで奇妙な一致があった。それは槍の名前である。その名前が「鬼切丸」であった。この太刀の名前で思い出すのが、義貞が北国落ちの前に日吉大社に大願して奉納した、源氏の重宝「鬼切り丸」。そして義貞が討ち死にしたときに佩刀していた「鬼切り丸」と「鬼丸」これは偶然の一致なのか。ここで「鬼切り丸」「鬼丸」の伝承を刀辞典より抜粋してみよう。

鬼切り丸……鬼を切ったという古名剣。坂上田村麿から伊勢神宮、そして源頼光さらに渡辺綱と渡り、妖怪の母子を退治し、酒呑童子を討伐したと太平記に記述あり。新田義貞が源氏の重宝として佩刀。義貞が討ち死にすると、寄せ手の大将斯波高経がこれを分捕った。足利尊氏からの提出命令が来ていたのに、焼失したと」虚偽の報告をした。尊氏はこれに怒って、義貞撃滅の大功を立てた斯波高経に何の恩賞も与えなかった。それが後に斯波高経が尊氏に叛く一因になった。

鬼丸……鬼丸と名づけた由来については、太平記に詳しい。鬼切り丸と同じ様な経路を辿る。斯波高経の子孫は、鬼丸を足利家に献上。そして戦国期を経て豊臣秀吉に渡り、京都の愛宕山に寄進。そして本阿弥家へと移る。これら鬼切り丸鬼丸がどれほど重宝であったかを示すエピソードとして、足利義昭が豊臣秀吉に幕府再建の野心を捨てたことを表明するために足利三宝刀を譲った。その内の一刀が鬼丸だ。また徳川慶喜が大政奉還をすると、朝廷は本阿弥家に通達した。鬼丸は朝廷の御物であるから、従来の鬼丸の太刀から鬼丸御剣と呼ぶように通達してきたのである。

それではなぜ、服部半蔵はこのような大層な名前をつけたのだろうか。「槍の半蔵」の槍の名にである。あやかって付けるにしても謎があり過ぎる。半蔵自身も、周りの武将も名前の由来を知っていただろう。武士が刀や槍にこだわらないはずがなからだ。 家康→新田→鬼切り丸→半蔵(服部家)→松平清康からの家臣、という図式が成り立たないかという事である。

そしてもう一つ、鬼切り丸には謎がある。
新田義貞が佩刀していた鬼切り丸は、北国落ちしたときに日吉大社に奉納されたはずである。しかし義貞が討ち死にしたときに佩刀していたのも鬼切り丸であった。「梅松論」によると奉納されたのは鎧であると記述されていて、実際に奉納されたのも鎧であった。では太平記には何故鬼切り丸を奉納したと書かれたのだろうか。勿論、刀が二本あったというのではない。太平記の解説書などによれば、ただの書き間違いという説明しかない。
しかしこれは明らかにおかしい。
何故ならば、太平記には鬼切り丸や鬼丸についての記述は何度も登場していて、その由来まで事細かく書かれている。義貞との関係についても湊川の戦いで激戦する場面、日吉大社に奉納する場面、義貞討ち死にの場面と重要なところで必ずといっていいほど記述されている。巻十七で日吉大社に奉納、巻二十で義貞討ち死にとそれほど間はあいていない。作者として、これほどまで詳しく書いてきたものをこのクライマックスの場面で書き間違えるだろうか。
ここで一つの仮説が出てくる。太平記は複数の作者によって書かれたという説である。つまり巻や場面で書く人が違っていて、間違いが生じたのではないかとも思われる。
しかし鬼切り丸や鬼丸については、なにか作為的なものを感じるのだ。つまり、義貞は、後醍醐天皇に裏切られた無念さや、一族の子孫への託した大望を源氏の重宝である太刀に秘めたのではないか。太平記の作者は義貞の心情を理解して、あるいは意図として、あえて太刀を奉納したように書いたのではないだろうか。
では話を服部家に戻す。一説によれば、室町時代に活躍した能の観阿弥は、伊賀の服部信清の三男で母は楠入道の娘といわれる。その、楠入道は楠木正成の父親であったというのだ。つまりは、楠木家と伊賀の服部家は姻戚関係にあり、能の大成者世阿弥は楠木家と同系である。楠木正成は「悪党」であった。悪党とは、幕府や領主に反抗して荘園を押領していく集団である。南朝はこの勢力を最初から利用した。山の民を中心とした楠木正成と伊賀の忍者服部家、陰の勢力が見え隠れしている。
ここで強引に一つの図式を導き出す。家康=新田義貞(家康が新田源氏を名乗ることで同系) 、服部半蔵楠木正成(同系) 、そして家康→半蔵(主従関係) 、義貞→正成(主従関係ではないが、南朝では義貞が大将) つまり大将となる家柄・源氏の名が必要であることがわかる。家康が南朝の伝承を持つ家臣をまとめ上げるのに、新田源氏を名乗った理由はここにもある。

②藤堂高虎……高虎は豊臣家臣であったにもかかわらず、家康からの信頼は譜代の家臣並みであった。高虎は最初浅井家に仕え、後に豊臣秀吉の弟秀長に長年に渡り仕えた。朝鮮の役での功により四国板島七万石の領主になる。秀吉死後、家康に近づいた。なぜか家康は高虎を信頼していた。その代表例として、秀吉なき不穏な時期に家康は高虎の屋敷に泊まったという。
高虎は築城の名手としても有名で、自分の領地である伊予の今治城と宇和島城、伊賀の上野城、そして幕府の命で江戸城、大坂城も手掛けた。高虎は1603年に伊賀と津に領地を与えられた。伊賀は大坂・豊臣家の監視などの役割と大坂方を牽制する意味でも重要な地点である。ここに旧豊臣家臣の外様大名の高虎が入ったのだ。家康の高虎に対する信用の高さを示すものである。伊賀に入った高虎は、伊賀の次席家老に安田采女を起用する。安田采女は服部半蔵の縁者であり、伊賀忍者を支配するのに最適であった。高虎と服部家の結び付きは強い。改易され没落する服部家が、のちの今治藩の主席家老となっている。
高虎の謎として最大のものは、高虎が東照宮に深くかかわっていたことだ。
まず日光東照宮の奥殿には、家康が東照大権現として、左に山王権現、右に摩多羅神が祀られている。その山王権現にあたるのが天海で、摩多羅神にあたるのが高虎だといわれているのだ。
また江戸の上野には高虎の江戸屋敷があったが、この地が江戸城の鬼門にあたるということで、幕府に自分の敷地を献上した。そこに建てられたのが、東叡山寛永寺、上野東照宮である。しかも、ここ上野東照宮には家康の相殿として、天海と高虎が祀られている。

大久保長安……長安は元々、猿楽師であった。猿楽とは、平安時代から始まった芸能であり、それが発展したものが能と狂言である。しかも全国を旅する修験者であり、金や鉄など鉱物を探す金鉱者でもある。
当初、長安は武田信玄の招きにより仕えることとなる。武田信玄は金銀の鉱山開発を進める一方で、猿楽師のもう一つの姿、忍者を多く抱えていたことは有名である。信玄は、これら陰の集団の価値を知っていたのであろう。長安はここでその能力を発揮した。
武田家が滅ぶと長安は、家康家臣の大久保忠隣に登用され、頭角を現し、大久保姓を貰うまでになる。その後長安は、鉱山や化学の高度な知識を生かし、佐渡金山や石見銀山の開発に努め、家康に莫大な財力を提供した。これにより長安は幕府内で出世を進めていった。天領百五十万石の総代官、老中、所務奉行、家康六男忠輝の後見役と多大なる権力を持った。
しかし長安が没すると、生前に金銀隠匿、幕府転覆の陰謀が発覚した。これにより長安の息子六人すべてが死罪、石川康長など姻戚関係にあった大名、代官が連座して失脚していった。長安の娘を妻としていた服部半蔵の次男正重が改易となったのもこの一件からであった。
この長安と新田伝承を結ぶ糸があった。
大久保家には祖先の宇都宮泰藤が新田義貞とともに戦い、晒された義貞の首を持って三河まで逃げ、菩提を弔った。この強烈な新田伝承をもつ大久保家に、長安は庇護され、大久保姓を名乗るまでになる。それでは、長安自身が新田と結び付くものがあるかといえば、それはある。
まず太平記巻二十の義貞討ち死にの場面を振り返ってみよう。

この義貞を弔った時宗の寺が称念寺である。
称念寺は福井県丸岡市内にある時宗の寺で、新田義貞の遺骸を埋葬した寺である。また称念寺はもうひとつある。新潟県上越市寺町にあり、二世園阿上人のときに、足利尊氏が義貞を弔うために建てた寺で、福井の称念寺と住職は兼帯した。越後の称念寺はその後の領主たちに安堵され、発展した。1611年に長安は、越後の称念寺に百五十石の朱印地を寄進した。これにより江戸時代には、広大な敷地を与えられ、葵の御紋の使用も許された。幕府からでも、徳川家からでもなく、長安名義で百五十石も寄進しているのは、破格のことである。長安が義貞菩提寺にこれほどまでに尽くすのは訳がありそうだ。
この称念寺はこれからのキーワードとなるので忘れずにしてもらいたい。
以上三人を見てきたが、三人とも陰の集団と深く関係しているのが分かる。しかも家康が天下を取るために尽力していることと、南朝、新田とどこかでつながっているのが分かる』

琴音は一気に読むと、ふーと唸った。
「どう?」真船が堪らずに聞いた。
「うん。かなり強引なところもあるけどいいわ。私は太平記が一人で書かれたものではなく複数の人が関わっていたという話は聞いたことがあるけど、義貞の太刀から複数説を出してきたのはいいと思う」
「それだけ?」真船は満足がいかなそうな声を出した。
「それだけじゃないけど……。でも怪しい人たちがたくさん出てきたわ」
「そうです。今のは、これから出す自説の基本項目なんだ。だからキーワードを忘れないで」
「例えば?」
「鬼切り丸、鬼丸、斯波高経、愛宕神社に寄進、日吉大社に天海、鉱山、時宗、称念寺などなど。多くのヒントがここにあるから忘れそうになったら何度も読み返してみてね」
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by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


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