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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第3章 4

物語を物語る

 5

30分ほど行くと尾島町に着く。この町は徳川発祥の地として知られ、川向こうが埼玉県深谷市となり、県境に位置する町だ。
ここは、徳川家最大の謎を秘めた場所である。満徳寺に、世良田東照宮、長楽寺がある。
まず満徳寺に行く。
平成4年に、かつての伽藍のうち本堂と玄関、門・塀や庭園が復原され、縁切寺満徳寺遺跡公園となっている。真新しい資料館には、数々の資料や展示品があり、琴音は興味をそそられた。
「満徳寺が縁切り寺だなんて」
「そうなんだ。今まで新田と家康の関係を見てきたけど、徳川郷はどうだろうか。家康の回りは新田伝承であふれているのに、家康本人は、新田・南朝に対して何か冷遇している様な気がするんだ。つまり新田ゆかりの長楽寺の復興、大光院の建立などの事業を行っているが、家康自身は、新田荘や徳川郷には一度も訪れていない。しかも徳川発祥の地、徳川郷にある満徳寺は縁切り寺であるからね」
「縁切りっていうのも意外ですよね。徳川発祥の地というのだから、何か縁起の良い神社や寺を思い浮かべていたんですけど」
「それが違うんだ。それに、このことを不思議にも思わないのか、今までだれも説明していないんだ」
「そうなの」
「特別な意図があったとしか思えないよね。それなのに誰も疑問に思わないなんて……。まあそれはおいおい話していきましょう。その前に寺の成り立ちから見ていきましょう。
世良田(徳川)義季の娘、浄念が開いた時宗の尼寺で、代々新田一族が住職を務めてきた。そして家康の時代になると、祖先の出身地であることから、百石を寄進。大坂城落城の際、豊臣秀頼の妻であった家康の孫千姫を満徳寺に入山させて、豊臣家との縁を切らせ、本多家に再婚させた。実際には千姫の代わりに侍女の刑部局が入り、俊澄と改め住職になったという。このような経緯から満徳寺は、縁切り寺として栄えた。鎌倉の東慶寺と並んで二大縁切り寺といわれる」
「でもこれをみると、縁切り寺になったのが自然な流れであったから、特別おかしくはないような……」
「いいかい、このパンフレットにも書いてあるけど、ここで縁切りのお祈りをすれば、地縁、血縁などすべての縁を切ることができるというんだ。よく考えてみてよ、徳川家の発祥した土地に、縁切り寺を置く意味があるかい。ここで想像だが、徳川家は、徳川郷出身の新田源氏ではなく、その名を騙った呪いから逃れるために、この地に、縁切り寺を置いたのではないだろうか。それでも満徳寺は徳川時代のかなり前から存在していたので、縁切り寺になったのは自然の成り行きだと、反論するかな。しかしこの近くにある新田ゆかりの寺である長楽寺は、天海が入るとすぐに宗派を臨済宗から天台宗に改めさせている。つまり徳川の都合のいいように改宗や、寺の移転やらなんでもできるんだ」
「こういうことね、満徳寺が縁切り寺であったなら、徳川郷は徳川発祥の地であるから、他の土地に移転しなさいといえるわけね」
「しかもこの寺が特異な点はまだある。満徳寺は、本山・末寺もなく、無宗・無流派であり、日々徳川安泰を願い、代々徳川将軍の位牌を祈ったという。江戸幕府の寺社政策は全国の寺を本山末寺に組み入れて統括しようとした。しかしこの寺は違う。どこにも属されずに、ただ別れたい、離れたいと願う者たちがひたすら祈るわけだ。この念は強い。その念力が徳川安泰を願うのだから、この寺は異様だ」
「ちょっと怖い。……徳川郷に縁切り寺はやっぱり変ね。でもそれが本当だとして何が目的だったの」
「呪術的目的だと思う。新田ではないが、新田を騙ったことによる逃れだろう。家康にとって、朝廷から源氏であることを承認されれば、特別に新田流である必要ではない。これは、江戸幕府が成立した後に起こったことを列挙してみれば分かる。問題は新田・南朝伝承はどうなったかだ。それは、封印され、抹殺されていったんだ。それではまたノートを見てください」
 早速、琴音はノートを開いて読んだ。
① 江戸幕府が開府したころ、家康は家臣に対して、葵の御紋を使用することを禁じた。しかし以前から葵の御紋を使ってきた家臣が、家康に言上した。「殿は新田源氏であるのだから、大中黒(新田の家紋)を使った方がよろしいのではないか」と。そう言われた家康は返答に困ってしまい、その家臣に葵の御紋の使用を許可した。この話は、家康が大中黒の紋を使うのをためらったとしている。つまり、家康も使用しない大中黒の紋は神聖なものとなってしまった。(新田・大中黒の封印化)
 ② 鎌倉の高下家に伝わる由来書によれば「高下家は、昔より新田姓であったが、幕府から新田姓は名乗らぬほうがよろしかろう、というお達しがあり、一段下がって高下と改名した」という。つまり、新田を名乗ることを禁止した。こゆうことは全国的に行われたのではないか。(抹殺化)
 ③ 上野国にいた新田系の岩松氏には十石程度しか与えられず、新田系であると名乗り出た者には微禄を与えた。つまり新田系の子孫であった者には生かさず殺さずの生殺しにした。(抹殺化)
 ④ 八代将軍吉宗のとき、天下一坊事件が起きた。天下一坊なる人物が、将軍の後落胤だと称して世間を騒がせた。この時天一坊は、自らが「世良田新田徳川天一坊だと名乗った。そして天一坊は、神聖な将軍家の名を騙ったとして、処刑された。つまり世良田・新田は、徳川と同じくらい神聖なものと位置つけられていた。(封印化)
 ⑤ 大久保家失脚事件。大久保家は幕府内で本多家と権力争いを続けていたが、大久保長安の事件から立て続けに、忠隣が失脚となり、本多正信、正純父子の勝利となった。この事件では大久保家の他に青山成重、服部正重、そして外様大名であるが大久保家と姻戚関係にあった安房里見家と次々と改易、処分されていく。こう見ていくと、新田の伝承を持つ家が多いことに気づく。特に安房里見家は、新田義重からの分かれで、徳川家とは、言わば同門である。里見家は大久保家と深い姻戚関係であったために、九代目当主里見忠義は配流地の伯耆の倉吉で没する。これで新田源氏里見家は滅び、よって結果的に有力新田源氏系の大名は徳川家のみとなった。
 つまり新田の一掃である。
 本多正信・正純父子には新田にまつまわる伝承もなく、三河一向一揆では、家康に反旗を翻す。(大久保家とは全く逆) 本多家は、その後許されて帰参、智略を以って権力を増大させていき、ライバル大久保家を蹴落としていく。そして二代将軍秀忠の時代になると、本多正純は宇都宮城主となる。秀忠は日光東照宮参詣の帰りに宇都宮城へ寄ることになっていたが、正純に謀反の虞ありということで、急遽江戸に帰った。世にいう宇都宮釣天井事件である。正純は、この後改易、配流された。
 これは、大久保家一派の本多父子に対する報復とみられる。この戦いは、駿府の家康・本多家vs江戸の二代将軍秀忠・大久保家という二頭政治による権力闘争が存在していた。 家康存命の間に本多父子は、大久保家を失脚へ追い込んだが、家康無き後は、秀忠側の報復とも見て取れる。
これを新田伝承を持つ人物に当てはめると面白いことになる。つまり宇都宮釣天井事件で秀忠に、正純謀反の疑いありと伝えたのは亀姫で、秀忠の姉であり奥平家へ嫁いでいた。そして前の宇都宮城主が奥平忠昌。秀忠の父はもちろん家康だが、生母がお愛の方で、父は伊賀の服部宗家の正長であり、もう一方の兄は、旧名が服部七右衛門で、秀忠の傅役となり、縁あって青山家へ婿入りして青山成重となる。つまり青山成重は秀忠の叔父となる。しかも大久保長安とは姻戚関係でこれにより失脚している。図式化してみる。→図省略

本多父子は、秀忠の勢力を削ごうとしたのがよく分かる。宇都宮釣天井事件で登場する亀姫・奥平家、これら全てが新田の伝承をもっている。つまり三河譜代の古参武功派が、新田伝承を持っているために、こうゆう現象が起こる。そして古参武功派の失脚は、本多父子の計略であるが、   それを意としたのは、家康であることは間違いない。新田伝承をもつ家臣は、表舞台から降りていくことになる。(消滅化)
 ⑥ 家康は、1590年関東に入国すると、祖先の出身地である上野国徳川郷に朱印状を与えた。その徳川郷の郷土であったのが正田隼人であった。この正田家を詳しく解説しよう。
 正田家の祖は、源義国に従い新田荘尾島に来住し、正田(庄田)隼人と称した。1590年家康の関東入部の際に呼び出され、新田徳川の系図を提出した時に、正田に改めたという。江戸時代を通じて徳川郷の名主となり、代々隼人を襲名した。徳川郷にあった満徳寺は、現在復元され内部は歴史博物館となっている。そこに、正田家が使用した駕篭が展示されている。
 そして江戸中期に館林へ分家し、こちらは文右衛門を襲名して米穀商を営んだ。明治維新後、醤油醸造業に転じ、「正田醤油」を興す。また正田貞一郎は後の「日清製粉」となる館林製粉を興した。貞一郎の三男・英三郎が日清製粉を継ぎ、その長女・美智子は昭和34年皇太子・明仁親王の妃となる。
 現在の皇太后と徳川家康が新田で結び付く歴史の面白さもあるが、ここで取り上げたいのは、系図である。昭和34年にご成婚となる前に、正田家は新田源氏の流れを組む家系ではないかと、かなり調査されたが、確証となるものは遂に見つからなかったという。伝承では、正田家は新田氏系であるという。ここで考えられるのは、新田徳川の系図は家康の手に渡ったばかりか、正田家は新田の出であることを、家康に手放したのではないか。つまりこう考えられる、家康は新田の地に新田の系図のみならず新田の形跡のようなものまで取り上げたのではないか。これではご成婚前の皇室(つまり国が)上げての調査にも関わらず何も出てこないはずである。(抹殺化)

「正田家が徳川郷の名主だなんて。不思議なめぐり合わせね」
「まあ、これだけでも新田伝承は面白いでしょう。それで、徳川幕府が新田伝承の封印化・抹殺化・消滅化を進めていったのは明確でしょう。そして徳川家は、新田源氏であるということよりも、清和源氏の末裔であるというという移行ができたわけです」
「それでは、江戸時代には新田伝承は消えてなくなってしまったの?」
「いや、それが意外なところへ受け継がれているんです。それを見に場所を移動しましょう」 



車で5分ほど行くと、歴史公園に着いた。この敷地内に新田ゆかりの世良田東照宮や長楽寺などがある。
この公園内に、地域の文化財を保存、公開している東毛歴史資料館がある。まずここに入った。
館内の展示品は長楽寺の寺宝が多く、新田一族に関する資料も公開されていた。琴音は、中でも、長楽寺住職であった天海像に強く引き付けられた。
「ここまでずっと家康を取り巻く人々を見てきたけど、家康自身の謎っていうものもあったわね。ずっと前に『影武者 徳川家康』という本を読んだことがあったわ。昔のことだから内容は忘れてしまったけど、面白かったというのは覚えているわ。確か家康が二人いた、という話しじゃなかったけ」
「隆慶一郎ですね。関ヶ原の戦いで死んだ家康に替わって、姿形がそっくりな男が家康の影武者になって、二代将軍秀忠と争うといった内容でしたね。確かその主人公の名前が、世良田次郎三郎です」
「世良田。ここの地名というわけか」
「そう、家康を主人公として世良田の名前を出す小説は結構あるけど、その筆者たちはここを訪れたことがあるのかなあ……。案外世良田という名前は知っているけど、実際に地名として残っていることは知らないかもしれないかも」 
「私も知らなかったし、実際そんなものかもしれないわ。それで、家康のことだけど、さっきの二人説とかは多いの?」
「結構あるんです。家康が晩年『私は子供のころ売られたことがある』と語り、これは『駿府記』『松平記』に記載されていて、これが人質時代を語ったものなのか入れ替わりの事を語っているのかは不明である。そのため多くの憶測を呼び、数々の俗説を生んだ。それに家康自身の出自の曖昧さからくる謎も多い。その俗説として有名なものに、家康願人坊主説がある。村岡素一郎氏の『史疑 徳川家康』では、松平元康と世良田次郎三郎元信という別々の人物が入れ替わって徳川家康になったという説だ。その世良田次郎三郎が祈祷などをおこなって諸国を巡る願人坊主であったという内容であった。この説を基に南條範夫氏が小説にしたものが、広まったんです。そのほかにも家康影武者説は多い。家康の死亡時期にも諸説あって、関ヶ原の戦いで死んでいたとか、大坂夏の陣のとき死亡していたとか、かなりある。その説ごとに、身代わりを立てたというもので、これらのネタは小説の素材として使われている」
「この問題だけでも数日かかりそうね。ところで話は変わりますけど、さっき徳川水戸家からの寄贈品が展示されていたけど、水戸家と新田家は何か関係があるの?」
「あります。水戸家は家康の十一子頼信を祖とする徳川御三家の一つで、最初二十八万石であったが、後に加増されて三十五万石となった。しかし御三家で一番家禄は低く、将軍を出すことはできない。また有名な水戸光圀は始祖・頼房の三男で、一六二八年生まれの一七〇〇年没。水戸黄門という異称は、黄が中納言を表わすところからきている。光圀は、熱烈な南朝支持者で、南朝正統論に基づいた『大日本史』を編纂した。この大日本史は、一六五七年から着手を始めて、完成したのが一九〇六年・明治三九年という。またこの内容は、国学、史学、神道を根幹とした国家意識を特色とした。これが幕末に尊王攘夷運動に大きな影響を与えることになる」
「やはり南朝指向が新田と結び付くわけね」
「そうです。光圀が、なぜこれほどまでに南朝を支持したのかは分からない。南朝の北畠親房が南朝の正統性を主張するために書いた『神皇正統記』を光圀が読んで感銘を受けたのが最初といわれている。また楠木正成への尊敬の念は強く、湊川神社に『嗚呼 忠臣楠子之墓』という墓碑を建てている。また光圀は、テレビドラマのように全国を渡り歩くことはなかったけれど、鎌倉を旅したことが有名で、この行程の記録は日本最初の旅ガイドブックと言われています。この旅の目的は、祖母にあたるお勝の方を開基とした英勝院を訪ねることで、あとは江ノ島を見たり、極楽寺を通り抜け、稲村ガ崎を見たりしたという。そして時宗の総本山・清浄光寺の寺宝に後醍醐天皇の像があることは有名で、もちろんこれを見ただろう。時宗は南朝寄りといわれ、徳川の始祖親氏も時宗の僧・徳阿弥となって、三河に流れ着いた訳であるから、光圀がここを訪れた意味もあったんだ」
「でも新田を顕彰したわけでもないんでしょう」
「そうですね。家康の孫にあたる光圀になると新田源氏というより清和源氏というのを全面に押し出すから……。一つの例として光圀は偶像崇拝を好まず神社をかなり破却したが、その一方で光圀の母を祀る久昌寺の隣に、源義家を祀る位牌を立てて礼拝したという。その位牌には『遠祖光圀奉記』と記して、義家を材にした詩まで作っている。『義家の香り高い徳望は春風とともに現世まで香り、その名声はすでに諸葛孔明を凌駕している』と義家の武徳を高く賛美している」
「源義家ってそんなに尊敬されていたのね」
「武将にとって、義家は伝説的ヒーローなんだ。だからその末裔であるというのは大変誇らしいことであって、徳川家はそのことを喧伝したいんだ。新田源氏であることよりね。まあ、それが光圀の時代になると、我らは清和源氏であることを全く疑っていない。こうしてみれば家康の目論みは成功したことになる」
「消え行く新田か」
「でも興味深い話がある。ここで水戸家に伝わる茶器について語ってみたいと思います。それは今も水戸の徳川博物館に所蔵されていて、絵葉書になって売られているほど有名なものである。その茶器の名前が、新田肩衝という」
「にった かたつきー」
「そう。肩衝とは肩の角ばった茶入れの一種で、新田、初花、楢柴と合わせて天下三大茶名物の一つといわれている。伝来は、村田珠光が所持し、その後三好宗三が所持、そして織田信長に献上され、本能寺の変で一時明智光秀が所持するも、光秀討たれた後に大友宗麟の手に渡り、天正15年豊臣秀吉が似茄子と百貫で交換。その年の北野大茶会にも用いられた。その後大坂城が落城すると、徳川家康の命により藤重藤元・藤厳父子が焼け跡から拾い出して、漆で修正すると徳川家の所有物となった。これを水戸家始祖・頼房が拝領して現在に至っている。
そこでこの新田肩衝が新田義貞愛用の品だという説がある。桑田忠親氏も新田の名が付く以上、新田氏が所有していたものではないかと推察している。奥富敬之氏、浅田晃彦氏も新田氏所有説に賛同している。ただ義貞が所持していたものかどうかの確証は得られていない」
「でも新田の名をもつ天下の茶器が、最終的に天下を取り、新田源氏を名乗る徳川家康の手に渡ったという点が面白いわ」
「そこで天下の茶器を所有するほど義貞や新田一族に茶を好む素地があったかという問題もある。でもこれが大丈夫なんだ。実は、ここ世良田の長楽寺の開山・栄朝は、茶祖といわれた栄西の弟子であった。また茶を広めたと言われる円爾弁円も一時長楽寺に入山していた。そして寺の回りには茶畑もあったというから、茶を親しむ習慣があったことは間違いない」
「確か、当時お茶は薬であったというのを聞いたことがあるわ。しかも貴重品だったんでしょう」
「そうですね。日本で最初に書かれたお茶に関する本は、鎌倉時代に栄西によって書かれました。『喫茶養生記』といいます。この本によると、お茶は養生の仙薬であり、主に効能を説いています。お茶は鎌倉時代までは僧侶や公家のものであった。それが南北朝時代には武将の間で爆発的に普及し出したのである。義貞が、九州落ちした尊氏を追撃しなかった理由の一つとして、闘茶に凝っていたという説があります。この闘茶とは、南北朝時代・室町時代に流行した茶会で、本茶と非茶を判別し、茶の品質の優劣を競った遊戯であった。佐々木道誉などの婆娑羅大名は、この遊戯に熱中した。義貞もこの遊戯に凝っていた可能性は高い。お茶はこの当時流行し、後の茶道のはしりとなった」
「戦乱の世の中で、そんな遊びが流行るなんて面白い」
「さて、分かっている新田肩衝の最初の所有者は村田珠光である。珠光は茶道の祖とも言われる人物で、1422年生まれであるから、義貞の活躍した百年ほど後に生まれている。そして新田肩衝については、珠光所有以前の来歴が全く分かっていないんだ。不思議なことにね。初花、楢柴もある程度の来歴は分かっている。それが新田肩衝に関しては不明なことが多く、その名前の由来も分かっていない。だが、多くの研究者が新田という名前、闘茶の流行などの点から、この茶器は義貞の持ち物であったと考えているんだ。
そして重要な点は、茶器にそれほど関心があったとも思えない家康が、わざわざ大坂城の焼け跡から見つけ出し、補修までさせた意図はどこにあったのだろうか。大坂城の焼け跡から見つかった茶器は他に、九十九髪肩衝や松本茄子などの名品があった。だが、それら名品は、補修させた藤重親子にくれてしまったんだ。それに藤重親子にはその功績として知行百五十石が与えられた。
家康は新田肩衝を手に入れると、茶道を好んだ水戸家始祖の頼房に与えた。ここで新田の名前を持つ茶器が、南朝志向の高い水戸家に伝わるという興味深いことになったんだ」
「新田肩衝とともに、新田伝承が水戸家に受け継がれたのね。その後もどこかに引き継がれていったのかしら」
「このあと幕末に突如として新田伝承が出てくるけどそれは後のことになるでしょう」

歴史資料館を出て、同じ敷地内にある長楽寺へ向かう。歴史公園の敷地はなかなか広大で、歩く距離もある。その途中に三仏堂という建物があった。鎌倉時代に建立されたと伝えられ、徳川三代将軍家光により再造された。中には釈迦、阿弥陀、弥勒の過去、現在、未来を意味する三仏が安置されている。
お堂の扉は開け放たれていて、中を覗くことができた。琴音はお堂の中を見て驚いた。建物に似合わず、仏像があまりにも大きかったからだ。
そこには観光客どころか、寺の人もいない。ただ線香や御札などが無造作に置かれていて、欲しい人が勝手にお金を賽銭箱に入れて買うらしい。なんとも長閑な風景に、琴音は思わずぷっと吹いてしまった。
琴音は小銭を賽銭箱に投げ入れ、線香を手向けると、手を合わせ神妙に拝んだ。その光景を見ていた真船も、つられてたどたどしく拝んだ。
琴音は新田関連の神社仏閣に来る度に、拝む自分に奇妙な感覚に襲われた。

少し行った辺りに蓮池があり、渡月橋と呼ばれる小さな橋が架かっていた。池は「心」という文字をかたどって作られたという。その上を散った花びらが漂っていて、風情があった。その向こうには別名開かずの扉と呼ばれる勅使門がある。勅使や上使の参向したときにだけ開かれる。そのあたりを見渡せる東屋に二人は腰掛けた。
真船は琴音にノートを開いて手渡した。「天海の経歴」と書かれている。琴音は何も言わずに読み始めた。

『天海……定説では、1536年会津に芦名氏一族として生まれたという。また別説に室町将軍足利義晴のご落胤説、公家貴種説などがある。出自についての確証はない。十一歳のとき高田竜興寺に入門、その後比叡山に入り天台宗を学ぶ。また南都興福寺で仏門を深め、下野の足利学校で儒教などを学んだ。1571年武田信玄に招かれ講師となり、信玄死後は上野の世良田長楽寺に入る。1590年星野山無量寿寺に赴き、豪海僧正に師事して天海の名を受ける。それまでは随風と称していた。その翌年江戸崎不動院に入った。1608年徳川家康と謁見する。(1590年初謁見という説もある)その後家康、秀忠、家光の徳川三代に仕え幕府政治に深く参画した。川越喜多院を本拠とし、比叡山延暦寺を復興、日光山の整備に尽力。家康死後は、東照大権現の贈号と日光山改葬を主導、また上野寛永寺を創建し、大蔵経を刊行するなど仏門でも尽力した。諡号は慈眼大師、1536年(?) 生まれ~1643年没。108歳まで生きた。(別説あり)』

「どこまで読んだ?」
「今、天海の経歴まで」
「ああ、それでこの後が、歴史雑誌に載せようと自説をまとめたものなんだ。まだまだ長いから読み終わったら言ってください」
「わかったわ」琴音は素早く資料に目を通した。

『天海と家康の接点……天下統一を成し遂げ江戸幕府を開いた家康は、1605年秀忠に将軍職を譲り、自ら大御所となって、駿府で政務を執る二頭政治を行っていた。そして1616年1月21日に家康は、鷹狩りに出て突如発病した。25日に駿府へ帰城。その後病状は小康状態であったが、四月には病状が悪化した。自ら死期を悟ると、本多正純、天海、金地院崇伝を枕元に呼び死後の処置を指示した。
『遺体は、駿府国久能山に葬り、江戸増上寺で葬儀を行い、三河国大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎた後、下野日光山に小堂を建てて勧請せよ』と言明した。
4月17日に家康が薨去すると、遺言通り久能山へ葬られた。その葬儀は、神祗官吉田兼見の弟・神竜院梵舜が執り行った。そして五月下旬に、家康の神号を崇伝が推す『大明神』にするか天海が推す山王一実神道による『大権現』にするかで論争となった。このとき天海は、『大明神』で祀られた豊臣秀吉の末路を力説したために、将軍秀忠は『大権現』にしたという。
この論争は実際にはなく、もともと大権現で祀るということは決まっていたという説もある。そこでこの山王一実神道とは何であろうか。これは比叡山延暦寺の地主神で天台宗とは深い関係にある。日吉(日枝)神社を中心とした神道で、天海が広めるまではあまり知られた存在ではなかった。また日吉神を山王として立て、唯一乗教理を織り込んだことから、山王一実神道という。江戸に勧請された日枝神社もこの系統であり、山王権現といわれる。
さてここで太平記の記述を一つ提示する。
新田義貞が北国落ちする前に、比叡山の日吉大社で大願をした文言だ。これは太平記巻十七、新帝を立てて義貞につけられる事、にある。
「十月九日はあわただしく御即位の儀式や遷幸の準備で日も暮れた。夜も更けたころになって、新田左中将はひそかに日吉大宮権現に参詣され、神前に心を静めて祈願を込められた。『いやしくもこれまでの私は、濁世に示された御仏の御願にすがって日々を送り、仏法に反する戦をしながらも、仏道にはいる因縁を結んで日もすでに久しくなります。願わくば、遠く征戦の路の果てまで神の御加護をお与えくださり、ふたたび大軍を起こして朝敵を滅ぼす力をお与えくださいますように。不幸にしてたとえ私の存命中にこの願いを達することがなかったとしても、我が祈念の心が神の御心にかなうならば、必ずや子孫のうちに大軍を起こす者が現れて、父祖の屍の無念を晴らしてくれることを請い願います。このふたつの願いのうちひとつでも達することができましたら、わが子孫は末永く当社の檀那となって、霊神の御威光を輝かすようにいたしましょう』信心を込めてこのように誓いを立てて、義貞は新田家重代の家宝で鬼切という太刀を社前に奉納した」
この文言は重要だ。つまり家康は、新田源氏を名乗っているので、曲りなりにも大願を達成したことになる。しかも天海は、織田信長によって焼き打ちにあった比叡山延暦寺を再興させた。それに、東国の天台宗総本山寛永寺を江戸上野に建立している。そして時の権力者・家康を山王一実神道に拠って祀っていることも重要である。山王一実神道=日吉大社=比叡山延暦寺=天台宗すべて同じことである。これらが江戸時代に隆盛を極めたのは、天海の力に他ならない。
松平家は代々浄土宗であり、世良田長楽寺は、天海が改宗するまで臨済宗であったし、新田ゆかりの寺、円福寺(新田累代の墓所)、正法寺(脇屋義助菩提寺)、照明寺(新田義貞館跡)などは真言宗である。つまり新田家、徳川家ともに天台宗とはあまり縁がないのだ。となれば、なぜ家康は天台宗にこだわり、天海を用いたのかだ。その目的は、義貞が日吉大社に誓ったことを果たそうとしたのに違いないのだ。』

「この義貞が祈願した事と家康、天海を結び付けたこの説は真船さんが考えたことなの?」
「そうです。この点にだれも気がつかないのか、誰も触れない。元々、家康が新田源氏を名乗ったという問題を軽視しているから、思いつかないんだよ。まあ、君の妄説だよと言われてしまえば、それまでなんだけどね。それに家康が新田関連の寺院にいかに力を入れていたのかを見せましょう」と言ってノートを開いた。

『江戸時代、上野国の社寺で100石以上の御朱印が下賜されたのは、

大光院       300石 ※
世良田東照宮   200石 ※
貫前神社      177石
大信寺       107石
八幡寺       100石
長楽寺       100石 ※
満徳寺       100石 ※
養林寺       100石
善導寺       100石
普済寺       100石

と※印の付いたものが新田関連寺院となっている。貫前神社は上野国一ノ宮であるが、それよりも大光院や世良田東照宮の方が多くなっている』

「こうやって見てみると、徳川家の力の入れ方も分かるわね。ベスト10の中に4つも入っているんだから」
「それじゃー、実際に徳川家の手足となって働いた天海が、住職となった長楽寺の方に行ってみましょう」

琴音が拝んだ三仏堂を抜け、太鼓門という変わった門を通り、更に奥まったところに長楽寺はあった。
鎌倉時代、世良田(徳川)義季が高僧であった栄朝を招いて開いた東関東最初の禅寺である。栄朝の弟子には、東福寺を開山した円爾弁円や南禅寺を開山した無関普門、寿福寺の蔵叟朗誉らがいる。室町時代、幕府により五山十刹の制が定められると、長楽寺は十刹の第七位に数えられた。しかし今ある寺にその面影はなかった。町寺の印象で少しうらぶれた感じさえする。
「江戸時代初期、天海はこの寺を天台宗に改宗させた。実はこのとき地元の人々の抵抗は相当であったらしいんだ。だが、これは幕府直々の命令でもあり、当時の宗教界最高の権力者であった天海が、自ら住職となり改宗を進めたのだから従うしかなかったのだろう。それにしても幕府がそこまで力を注ぐ理由が、この寺にはあったというほかないということだ」
「やはり変よね。長楽寺が、比叡山延暦寺とか、京や奈良にあるような大寺というわけでもないのにね。その裏には新田対策みたいなものがやっぱりあったのね」
「天海はかつて長楽寺で修行をし、足利学校で学んでいたことからも、この辺りの土地勘はあった。それに世良田にいれば自然と新田伝承も聞いていたから、天海は適任だったといえるでしょう。天下を取った家康が最初にした宗教対策は新田対策だったんじゃないかな。だって徳川発祥の地・世良田で新田を祀ることは家康にとって重要なことなんだから。家康がスムーズに将軍になり、幕府を開けたのも、源氏であるからだし、これは徳川家の根幹に関わることだからね。それは新田を疎かにはできないでしょう。そこでまず満徳寺で新田を封印して、長楽寺や大光院で新田を祀ったんじゃないかと思っているんです」
「でも大光院って浄土宗じゃなかったけ、それに天海もかかわってなかったはずじゃない」
「良く覚えてますね。実は長楽寺と大光院では役割が違うのではないかと考えているんですよ。徳川家は、松平家のときから浄土宗であり、家康も芝増上寺を菩提寺とした。大光院は、その増上寺の末寺であるから、無論、浄土宗だ。つまり大光院の役割は、新田一門を浄土宗でも祀ることではないか、ということだ。新田と徳川家を結び付ける点からも、浄土宗で祀ることは意味がある。だから大光院は新田始祖である義重を祀っているんだ。それともう一方で、家康は天台宗の寛永寺も徳川家の菩提寺としている。これと同じ様に、新田一門を世良田長楽寺で、新田を天台宗で祀っているのだ。この意味することは、長楽寺は天海による新田一族を慰め・癒す装置だといえるのではないかと思うんだが……」
「天海は、新田義貞が比叡山日吉大社で願文したことに対して約束を果たそうとした、というわけね。あと思い出したんですけど、義貞が日吉大社で祈願したとき、奉納したのが鬼切という太刀と太平記では書かれていたけど、実際は鎧だったんでしょう。これは何か意味があるわけ?」
「さっきも言ったけど、太平記の筆者がなぜ書き間違えたのかは分からない。ただ簡単なミスだとしてもおかしいんだ。鬼丸、鬼切りの太刀は何度も太平記に記述されている。義貞死後も、この太刀を巡り尊氏と斯波高経の確執が始まり、これ以後の足利兄弟の争いと物語りはつながっていく。だから義貞が日吉大社に奉納してしまうと重要な小道具がそれ以降無くなってしまう。だから義貞が自分の命に替わるほどの物を日吉大社に授ける必要があったと、太平記の筆者は考えたんだろう。それほどこの夜の義貞の願文は深いと見るべきだ。それに、鬼切りは義貞の血を吸っているんだ」
「えっ、どういうこと」
「義貞討ち死にの場面を思い出してごらんよ。義貞は鬼丸か鬼切りで自分の首を掻き切っているだろう。だからこの太刀には義貞の念が込められている。そんな太刀を、太平記の筆者は神社に奉納することに書き換えた。その神社が日吉大社、比叡山延暦寺であり、天台宗だ。鬼切りの太刀が運命の剣であり、何かを暗示している。武将が太刀を神に奉納するという意味は、我々が思う以上に深いよ。だからその視点で太平記を読んでいけば、分かる人には分かるように、意図的に書き間違えているんだ。ここがポイントだとね」
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Comment

[24]
いやー、よく調べてますねぇ。面白いです。
ところで名刀鬼切と鬼丸ですが、今はどこにあるんですかね?何かで現在は皇室御物となった、という話を読んだ覚えがありますが、一方で多田神社の宝物館にある、という説、京都の北野天満宮にある、という説も読んだ記憶があって、一体どれが本当なのかと…。
あと義貞の前には、木曾義仲が所持していた、という話もありますよね。義仲と義貞、共、無双の勇者でありながら、最期は泥田の中に愛馬の足をとられて最期を遂げたという似通った最期のシーンを思いあわせると、何か因縁のようなものまで感じてしまいます。
[25]
朝倉さまコメありがとうございます。
鬼切り丸と鬼丸に関しては弟5章9に、少し書きました。斯波高経が、刀を義貞から分捕ったあとの顛末です。
木曾義仲と新田義貞は本当に同じような運命をたどっていますね。
むかし、太平記が平家物語を模して書いているといった説を読んだことがあります。そのとき義仲=義貞だったと思います。その説では、2つの物語の人物を各々あてはめて、いました。これがなかなか面白かったのですが、今はすっかり忘れてしましました。思い出したら書いてみます。
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