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新田義貞伝承を追う②  義貞の墓

物語を物語る

前回の続き

今回は、全国にある「新田義貞の墓」の伝承を追ってみます。
まずは「名墓録」サイトから「新田義貞」と検索し、そこに出てきた場所を拾ってみます。http://www.hugyou.jp/meibo/index.cgi
(数年前まではそれこそ図書館に籠って調べたものですけど、今は便利になりましたね。検索すれば一気に出てくるんですから……。)

さて、義貞の墓や供養塔などがある場所とされるは、大きく分けて3つになる。
1、戦死した越前・福井周辺 
2、新田氏の本拠地である群馬県東毛地区 
3、勾当内侍の伝承があるところ。(特に京都)

となるでしょうか。

1-① 新田塚」  (福井県福井市新田塚一丁目)、「藤島神社」   (福井県福井市毛矢3-8-21)など
藤島神社(画像は藤島神社)

新田塚」は、新田義貞が戦死したと伝えられる灯明寺畷。江戸時代に兜が発見され、その地が戦死伝承地となった逸話は、当ブログで何度も書いています。そして、このエピソードが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」大序のモチーフとなっているわけです。
藤島神社」の建立は福井藩主・松平光通。新田源氏を名乗る将軍家の遠祖として、また自分の祖先として『暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所』と刻んだ石碑を建立し、遺跡を顕彰した。徳川家・松平家が新田源氏の末裔であることを世間に喧伝するためにも必要だといえる。ただし家康から数代下ると、松平・徳川家縁類の人たちは、自分たちは「(新田)源氏の血を引く末裔だ」と信じ、疑っている様子は全くない。それは徳川光圀が、源義家を遠祖として讃え、位牌を祀っていることからも分かる。

1-② 称念寺  福井県坂井市丸岡町長崎
称念寺
ここには、義貞の遺骸が葬られている。(首は京へ送られる)
現存する義貞の墓は、天保年間に福井藩主松平宗矩によって建てられたもの。
太平記に「(義貞の死の報が伝わると)ただちに、時宗の僧8人が義貞戦死の地に差し向けられ、遺骸をのせた輿は、往生院称念寺に運ばれた」とある。
この寺については「明智光秀」について書かれた本の方が詳しく載っている。「明智光秀」永井寛著(三一書房)によれば「称念寺は時宗の名刹で、新田義貞を葬っていることでも知られている。称念寺と義貞が関係するのは、延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の命により、恒良親王、尊良親王を奉じて越前に下向した際、この寺をたびたび訪れ、時の住職の白雲上人より仏の道を学んだことからという白雲上人は、延元三年閏七月二日、義貞が越前藤島(福井県灯明畷町)の戦いで討ち死にしたとの噂を聞き、僧7、8人を引き連れて、義貞の遺骸を運び、寺内に手厚く葬った。 その後、後花園天皇により勅願の道場とされ、住職は天皇の「園」を賜って園阿上人を代々称し、昇殿を許された。」とある。
この何代目か後の園阿上人と明智光秀が関わることになる。朝倉氏仕官以前の10年ほど、光秀は家族ともどもこの寺に世話になっている。だから細川ガラシャについて書かれた本にも称念寺が載っている。(明智玉が生まれたのは永禄6年・1563年だからここで生まれている)
また、光秀の妻・煕子が髪を売って夫のために金を用意したという有名な逸話が残る場所であり、これに因んで松尾芭蕉が「月さびよ 明智の妻の 咄せむ」と詠んだ。この句碑は境内にある。明智家とこの寺の関係は深い。
また光秀は、家族を称念寺に残し全国を放浪したという。これが後の光秀が財産となる。この称念寺は時宗である。時宗は全国に情報網を持つ特殊な宗派で(しかも南朝寄り)ある。その情報網を利用したに違いない。ちなみに、徳川・松平家始祖となる世良田(徳川)親氏も時宗の僧・徳阿弥となって、諸国を巡り三河に流れ着いたことなっている。つまり、称念寺、時宗がキーワードになるということ。ここに光秀が関わっていくということです。
でもこれはまた別の話。

また、余談として、「称念寺」は新潟県上越市にもあるが、これは「2世園阿の時、足利尊氏が新田義貞の菩提所として建てた越前長崎称念寺の住職を兼帯し称念寺と改称。<中略>慶長十六年大久保長安から150石の朱印地を寄進され、葵の紋の使用を許された…」(角川日本地名大辞典から)とある。
ここには大久保長安が出てくる。これもまた別の話。

2-① 円福寺  群馬県太田市別所町
新田氏累代の墓(画像は新田氏累代の墓)
円福寺は、かつては新田宗家の住居があったと伝わり、新田氏累代の墓がある。円福寺があったあたりが由良と呼ばれたことから『由良殿』ともいわれたという。後に義貞菩提寺・金竜寺を建立した横瀬氏が新田系を顕示するために「由良氏」を名乗ったのもそのような理由からでしょう。(これが仮名手本忠臣蔵の大星由良助の役名はここからきているとにらんでいるのですが、これもまた別の話)
新田次郎著の小説「新田義貞」の中にこういった解説があります。
『円福寺は、無住職の寺で、荒れ果てた境内の裏手を廻ったところに五輪の塔が数基並んでいた。新田氏代々の墓だといわれても、にわかに信じがたいような佇まいであった。新田氏代々の墓という感じはなく、どこかそのあたりにころがっていた五輪の塔をそこに集めて置いたようにさえ見えた。訪れる人は無いらしくなにもかも忘れさられた過去を見るように悲しい気持ちで五輪の塔に手を合わせると、頭上で小鳥の声がした。それが救いだった』と書いています。

ここ以外にも、東毛地区の新田氏関連寺院には新田義貞の供養塔などが必ずあるはず。太田の大光院、大慶寺など、この周辺にはかなりの数があると思われる。

2-② 「金龍寺」  群馬県太田市金山町、「金龍寺」  茨城県龍ヶ崎市若柴町
 金龍寺
金龍寺は、新田義貞の孫・貞氏を祖とする由良氏(横瀬氏)が、応永14年(1407)に金山の麓に建立した寺。天正十八年((1590)に由良国繁が牛久城主になった時、金龍寺もいったん牛久の新地(現在の東林寺)に移り、その後、山口氏が牛久藩主に任じられた際に龍ヶ崎市若柴に移った。金龍寺は、新田家(由良氏)の菩提寺で、新田家累代の墓所や義貞の供養塔がある。上野国の金竜寺は、館林城主・榊原康政の手で再興され現在に至っている。
また、一説には、金山城主であり、新田氏族であった岩松満純が、越前の慈眼寺を開いた天真自性を呼び、義貞追善のために建立したのが始まりといわれます。義貞の遺骸を越前の称念寺から、その金竜寺に運んで、改葬して大法要を行ったといわれます
慈眼寺は、福井県今庄町にある。1387年のこと天真自性禅師が開基した曹洞宗の寺で、盛寺には末寺を千二百寺も有したと伝わっている。
金竜寺と慈眼寺は、末寺と本寺の関係で、天真自性が上野国まで義貞の遺骸を運んで追善法要を行って寺まで建てたとなると、もしかしたら、新田・南朝に関係があった人物であるかもしれない。(ただしこれは確証なし)
だが、ここで慈眼寺という寺名が出てくるのが実に因縁深い。(これもまた別の話)

3 
  勾当内侍が関連するものとして、①往生院  京都府京都市右京区梅ケ畑上ノ町
②京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町 ③滝口寺  京都市右京区嵯峨亀山町⑦蔵光寺  福島県東白川郡棚倉町富岡
とここは、前回書いたところ。

ということで、新田義貞の墓、供養塔に関する場所はだいたいこんなところでしょうか。

次回は、「義貞の首」を祀ってある場所とその伝承について書きます。

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