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新田義貞伝承を追う③ 「首塚伝説」の謎

物語を物語る

前回の続き。

今回は「義貞の首塚」伝承について。

義貞の首塚として「名墓録」に出てきた場所は、4か所
①勾当内侍が埋めたとされる伝説 
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町。これは前回書いた。

②善昌寺の伝説  群馬県桐生市新里町新川
桐生市市役所ホームページから
「善昌寺はもともと大同寺と称していました。 1294年に記された応仁記によれば大同元年(806年)伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(天台宗開祖)が上野(こうずけ)へ下向(げこう)(都から地方へ行く)の際、弟子の宥海(ゆうかい)によって創建され、大同寺と称したと記されています。ちなみに山上多重塔は801年(延暦20年)建立です。赤城南麓では最も古く創建されたお寺です。」

この寺の「義貞首塚の伝承」は2つある。
1、その首級(しるし)を桃井次郎が密かに持ち帰り、新田義貞の重臣、船田長門守義昌に預けた。義昌は、主君の首級を手厚く葬り、供養のためこの寺で生涯を終えた。
2、京都へ上送された義貞の首を追って、単身京都に潜入した善昌が、勾当内侍の侍女であった「丹の局」という女性の協力を得て義貞の首を首尾よく上野新田荘まで持ち帰った。
と関わった人物が少し違っています。
それ以降は、「善昌は大同寺に住して、終生、義貞の菩提を弔ったので、寺名を改めて、善昌寺とした」ということで同じです。
葬られた場所がかなり北なのは、新田荘が足利氏の勢力に制圧されていたので、新田荘の最北郊の大同寺に義貞の首を葬ったという、話らしい。
善昌寺(善昌寺の義貞首塚塔)

奥富敬之著「上州 新田一族」にはさらに興味深い話が載っています。
大正時代に新田氏家臣の末裔という村岡五郎氏が桐生警察署立会の上で発掘調査を行った。義貞の首と云われた墓には、多人数の人骨を集めたものが埋葬されていて、結論としては戦場で落命した新田氏族の骨を集めて埋葬したのではないか、としている。
また、善昌寺の裏山にある「新田義貞首塚塔」のほか大小二十基の五輪塔が残っているが、足利氏を憚って「頼朝塚」「頼朝逆修塔」と称していたと寺伝にある、という。

こうなると他の場所にも、新田一族の墓や供養塔は別の名称となっている可能性は高いのではないか。
、船田善昌が関わる違う伝説
「新編相模国風土記稿」の「足柄下郡之十二」には、船田善昌が、獄門台から義貞の首を盗みだし、上州新田荘を目指したが、相模国一色村まで来て急病になってしまった。止むを得ず、この地に義貞の首を弔ったという伝説もある。
これが小田原市酒匂の「新田社」であり、宝篋印塔一基を中心に、両側十二基ずつの小さな五輪塔が並び、その左手に「新田義貞公首塚」と印刻された自然石が立っている。

ただし船田善昌は延元元年・1336年にすでに戦死している。これは義貞よりも1年以上も早く死んでいたことになる。太平記十五巻「正月十六日合戦、附、船田入道討死事」に記載がある。(義貞戦死は巻二十だからかなり前となる)
といってこれらの伝説がすべて否定されるわけではない。船田善昌の家臣や縁者とかが残した伝承かもしれない。伝承や伝説が残るのには何らかの行為が行われた痕跡が残ったと見るべきだろう。


③糟目犬頭神社の伝説  

犬頭神社(画像は岡崎市観光協会から)
「和田城主宇都宮泰藤が、当社の近くで鷹狩をし、当社境内の大杉の下で休憩をしていた。
ところが、大杉の上には大蛇がおり、泰藤を襲おうとした。
泰藤がつれていた白い犬が、これに気づき、吠えて主人に知らせようとしたが、泰藤は寝ていて、気づかず。犬は、三度吠え続けたが、目覚めた泰藤は、犬の吠えることを怒り、犬の首をはねてしまう。
はねられた犬の首は飛び上がり、大蛇の喉に噛み付き、大蛇を殺し、主人を救う。大蛇に気づいた泰藤は、この犬に感謝し、犬の頭を手厚く葬り、これを祀ったという。また、犬の尾は犬尾霊神として、下和田新宮に祀ったという。各地に伝わる「犬塚伝説」の一つ。この犬頭伝説からすると、「いぬがみ」と読むのが正しいのかもしれない。
ただ、犬頭伝説の真相は、新田義貞の首塚であるという。新田義貞の首を、宇都宮泰藤が、京都より奪って来て、これを埋めた首塚が当社にある大和田島弁財天社
境内に徳川家康に仕えた本多作左衛門重次の生誕地碑がある。」とある。
http://www.genbu.net/data/mikawa/kentou_title.htmから
ただし、この由来のある大杉は、1590年田崎城主・田中吉政によって伐採されてしまうなど、かなり弾圧を受けた。しかし1603年徳川家康により朱印を受け、復興する。(本多家文書)
場所は、「愛知県岡崎市宮地町」で、徳川・松平家の本拠地に新田義貞の伝承が伝わっているということが重要。

④妙国寺の伝説
前出の奥富敬之氏によれば「三河上和田村(現岡崎市上和田町)の法華宗本寿山妙国寺に残る元禄八年・1695年の寺伝によると、義貞の首を持ち逃げしたのは、義貞の家臣・宇都宮泰藤であったということになっている。この寺伝によれば、泰藤が東山道ではなく、東海道を通ったのは、途中の三河上和田の本領に妻子がいたので、これに暇を告げるためだったということになっている。また、網一色村に現存する新田社は、本尊が地蔵であるが、「妙国寺寺伝」では新田大明神であったという。その寺伝には、「泰藤の子孫に至って、此地を領すること、偏に新田大明神、当家の守護神と成給うものならん歟」とあるように、宇都宮氏の子孫と称する大久保忠隣が、小田原の領主になった近世初頭に、そのことと付会して成立した伝説ではないかと考えられる。」とある。
この伝承について詳しいサイトがあったそれは、「神奈川県小田原市白鴎中学校」のホームページに書いてある。http://www.ed.city.odawara.kanagawa.jp/kids/chuugaku/hakuo/siseki.html

どうやら学区内に義貞首塚があって、地元に残る歴史として紹介しているものだ。伝承の内容は上のものと同じ。
義貞首塚案内板
義貞首塚碑(画像は白鴎中学校ホームページで紹介されている「義貞首塚案内板」と「首塚碑」)

宇都宮泰藤の寺は岡崎市にあって、首塚は小田原にあるということ。松平・徳川家の本拠地である岡崎市に妙国寺があるというのがミソです。
徳川家譜代の家臣は、競うように新田・南朝伝承と自分の家系を結びつけ、これを喧伝するようになった。このような新田伝承を持つ徳川家家臣に多くいた。関連記事
(ただし、これは大久保家の失脚と同時に、新田伝承をもつ青山成重、服部正重、安房里見家九代目当主里見忠義(新田氏系唯一の大名)などが一掃されられた。これも別の話だが)また、
また、平凡社 日本歴史地名体系によれば、「寺伝では、上和田城主・宇都宮泰藤の妻である徳子の父・美濃国里見城主の土岐頼直が法華経を信仰していて、それによって建立された。泰藤が100石を寺領として寄進、先祖供養した。宇都宮氏は宇都、大窪と姓を変え大久保氏の祖となった。泰藤は文和元年・1352年に没し、妙国寺に葬られる。以来、大久保・久世家の菩提寺となる。」となっている。
義貞の首云々の話は別にしても、宇都宮泰藤と新田義貞との関係は深そうである。

以上の伝承をまとめてみましょう。
義貞首塚伝説は、
人物①船田善昌  ②宇都宮泰藤  ③勾当内侍
場所①新田荘周辺 ②相模・三河など新田へ向かう途中の地域  ③京周辺地域
となっていて、これらが混合され組み合さっている。


だた、どれも確かなものはない。(だからこそ多くの伝説が生まれるわけだが…)
義貞の「墓」「供養塔」「首塚」は数多く存在するが、どこに義貞の首が埋葬されたかとなると、全く分らない。
実際のところ「義貞の首」は、どこにいったのでしょうか?

それが大きな謎です。

ということで以下は、私の推理となります。

まずは、太平記巻二十から「義貞の首」がどうなっていたのかを書き出してみます。

「義貞左中将の首が京都に着くと、これこそ朝敵の最たるもの、武家の仇敵の第一であるとして、都大路を引きまわして獄門にかけられた。この人はさきの後醍醐帝の寵臣で、その武功により世に質するところも多かったから、京都には天下の支柱としてその好意を喜び、その恩顧を期待する者は幾千万と数知れぬほどあった。そこで、この日、車馬は路上に滞り、男女者どもは街角にたたずんで変わり果てた義貞の姿を見るに忍びず泣き悲しむ声が多かった。<中略>
(悲しみに暮れる内侍が京へ行くと) 陽明門の前あたりを通りかかられた。すると道ばたに多くの人が立ち寄って、ああ哀れなことだなどという声がするので、何ごとかと立ち止まって御覧になると、越前の国まではるばる尋ねて会えずに帰った義貞卿の首が獄門の木にかかって、眼は塞がり色もすでに変っていた。
内侍の局はこれをふた目と見ることもできず、傍の築地の陰に泣き伏されたので、事情を知る人も知らぬ人も、みなこれを見てともに涙を流さぬ者はなかった。……」とある。

この後、義貞の首がどうなったのかが分からないのだ。

同じように南朝方でさらし首になった楠木正成の首は、その行方が太平記には書かれている。
湊川の戦いで戦死したあと、正成の首は京の六条河原で晒されたが、その後、足利尊氏の情けにより、河内の故郷に送られたとある。(太平記巻十六 正成首送故郷事 )
ただし「正成の首塚」は3つある。
①千早神社近く(金剛山の登山道)②観心寺③杜本神社境内(羽曳野市)
が、河内に返されたことは分かっているので、かなり絞られる。
だが、義貞の首に関しては伝説のみが残っているだけなのだ。

では、
義貞の首はどこに?

義貞討ち死にが7月2日なので1ヶ月後、足利尊氏は8月11日、征夷大将軍に就任し、正式に室町幕府を開いた。

仏心の篤い尊氏が、義貞の首をそのままにして置くだろうか?
私は何らかの処置をしたのではないかと思う。
敵方の武将を厚く葬る。それは怨霊を鎮めるといった意味もある。尊氏が無慈悲なことはしないと思う。夢窓疎石は尊氏を「慈悲天性にして、人を憎まれることがない。怨敵を、まるで我が子のように許される。」と評している。(梅松論)
そういったところからも他の武将に慕われていた。
それに、慶事(武家にとっては悲願の、足利家にとっては先祖からの宿願である「武家の棟梁・将軍」となる日)が控えているのだ。
きっと義貞の首をそのままにしておくはずがない。
ではどこに?
上州新田荘だろうか。それはない。
なぜかと言えば、新田一族の英雄である義貞の首が故郷に帰ったとなれば、それこそ神と崇められ、反足利のシンボルとなってしまうだろう。(遺髪ぐらいならありえるが)
それは、足利方にとっては最大の脅威だ。(足利家に対抗できる血筋は、新田家しかないということをお忘れないように)
尊氏は、密かに、目の届く範囲に義貞の首を葬ったのではないか、と私は推理している。
そう京の近くに……。

さて、「名簿録」サイトには、一つだけ勾当内侍にも新田一族にも関係しないところに「義貞の供養塔」が出てくる。
場所は「滋賀県大津市坂本四丁目」
寺名は「慈眼堂」
そこに眠る人物は「天海」


そう、そこに新田義貞の供養塔がある。


続きは次回。




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Comment

[109]
いやーこのテーマ、面白いですね。確かに義貞の墓もしくは供養塔はあちこちにありますから、どこが本物なのかは非常に興味深い。

ただ1つ気になったことが。

>新田一族の英雄である義貞の首が故郷に帰ったとなれば、それこそ神と崇められ、反足利のシンボルとなってしまうだろう。

と、ありますが、そもそも「首」を崇めて、反乱の象徴にした事例はあるのでしょうか?
また、その論法だと、正成の首は河内に送っているのに正成の首はシンボルにならないのかという疑問も‥‥。

それと、新田荘は義貞戦死後には、すでに足利方についた岩松氏によって相続されていましたよね?
で、岩松の方でも、尊氏の認可のもと義貞の供養をしていた、というような話を何かで読んだ覚えもあります。たぶん、新田町誌か、久保田順一氏の本ではなかったかな。
勿論、だからといって上野国まで義貞の首が送られたということではありませんけど。

ともあれ非常に面白い話をありがとうございます。
今日のところはここまでしか読めませんでしたが、
また続きを読みに参ります。
では。

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