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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第4章 4

物語を物語る


上野駅から地下鉄を乗り継いで赤坂を目指した。
その車中で「家康暗殺計画!」と琴音は思わず大きな声を上げてしまった。回りの乗客が一斉にこちらを見て、琴音は手で口を押さえた。
真船が、家康暗殺計画を立てたのは信長であったと、仮説を言ったからだった。
家康暗殺をネタにした小説やドラマは良く目にするが、信長がその計画を立てていたという話はそれほどないであろう。しかも琴音にも信じがたい説と言えた。奇説珍説はテレビ的には面白いし、物語のネタとしては意表を突くだろうが、これもある程度は信憑性がないと成り立たない。
家康信長の同盟者であり、幾多の合戦にもともに戦っていた。本能寺の変のとき、家康信長が討たれたと知ると、京に上って弔合戦をしたいと言い、叶わぬのならここで腹を切るとまで言ったと伝わっている。まあ、これほど家康信長に心酔してはいなかっただろうが、同盟者の死に対して表面上は嘘でも言ったのではないか、と琴音は思った。
真船は琴音の心中を察したのか、話を始めた。
「問題なのは、信長の方が家康をどう見ていたかだろう。本能寺の変の3ヶ月前、信長は東方の憂いである武田家を滅亡させ、天下統一を目前に控えていた。これまで東の抑えとして、徳川家は有用であった。武田家を討伐した信長の目は、このときから本格的に西国方面へ向かっていた。毛利攻め、四国・九州征伐のために軍を向かわせなければならない。
そこで東方面である。問題なのは徳川家が信長の家臣ではなく、名目上の同盟者であるということだ。戦国の世であるから、いつ裏切りがあるか分からない。家康といえどもだ。徳川軍は兵が強く、家臣たちは主君家康に忠実である。信長はこの軍を後に背負うことになる。後顧の憂いを無くしておくためにも、早いうちに潰しておかなければならないと考えなかったかということだ」
「でもそれだけの理由なら、家康を殺すことより、生かして利用しようといた方が利口じゃない」
「それもある。しかし信長家康を生かしておくのは危険だと感じた時があったんだ。まあ自分の想像だけどね。それは、武田家を滅ぼし、物見遊山をしながら、家康の接待を受けていたときだよ。『信長公記』には、信長が家康の接待の見事さを褒めたことが記述されている。その接待ぶりが尋常ではなかった。思いつきで行動する信長の行く先々を、予測し先回りして、事に備えた。一日で川に橋を掛け、茶屋や馬屋まで建てて信長を手厚くもてなした。信長にして『これ程まで賑々しく、もてはやされる事は、古来でもないであろう』と言ったという。
そのときまで信長は、家康のことを三河の田舎武将と過小評価していた節があった。それに反して、この様な接待を行える財力と人力と情報力を、家康は有していることを示したのだ。信長は驚きとともに、恐れを抱き、家康が侮り難い存在であることを認識したのではないかと思うんです」

駅の改札を抜けて、目指すは日枝神社。
「さっきの話だけど、それって信長はただ感心しただけじゃないの?」
「いや違うと思う。信長はだいぶ猜疑心の強い人物だから、いくら同盟を結んでいたといっても、戦国の世だから裏切り、寝返りの可能性はある。だから同盟者といえども、あまりにも力が強大になるのも面白くはないはずだ。それに家康率いる三河武士は半端ではないくらい強い、敵に回れば恐ろしいことになる。信長とともに戦うときは、家康の軍が常に主力となっていたんだ。浅井家を滅亡させた姉川の戦い、武田家と戦った長篠の合戦など……。家康軍がいなければ勝てなかったといわれる。しかも家康の兵には粘り強い力があり、家康の忠誠心は一途といってもいい。これらは信長の軍にはないものである。
また家康と信長の考え方も大きく違う。例えば、信長は武田征伐したときに、武田の残党を見つけ次第すべて惨殺した。しかも信長方に降伏し投降した者さえ容赦なかった。一方家康は、武田遺臣を殺すどころか、次々と登用して自分の家臣に取り立てたんだ。だから武田の残党は家康の方に集まる。この中には大久保長安など有能な人物が多くいた。これを信長は快く思ったかどうか。それに恐怖さえ感じなかったか。人心がなびくほど乱世で怖いものはないからね。家康には寛容という人を引き付ける要素をもっていたけど、信長にはそれはまるっきりない。信長自身もこの点は知っていた。それにあまりにも違う考え方の二人が、同盟という微妙な関係で今はつながってはいるが、いつまでこの状態が続くかどうかを、信長は天下統一直前に考えたはずだ……」

二人は日枝神社に入った。神社の小高い丘には正面にある真っ直ぐ延びた急な坂がある。ここを上り詰めると威風漂う社殿があった。その向こうには国会議事堂や官庁街があり、正に日本を動かす中心地が見渡せる。
日枝神社は、江戸時代まで山王様と呼ばれ、今でもその名が通る。「ひえ」は日枝、日吉のことで京都比叡山の日吉大社のことである。もともと川越の日吉神社は太田道灌が勧請したのが始まりで、江戸時代に天海が日吉神道である山王一実神道を広めたことにより、この日枝神社も隆盛を極めた。よって山王権現の氏子の地域は広い。南は芝町、西は麹町、東は霊厳小網町あたりまで、北は神田と百六十町にも及ぶ。神田明神と隔年で行われる天下祭りには、壮麗な山車が半蔵門から江戸城に入ることが許され、徳川将軍が吹上で上覧したという。
日枝神社の特色は神門に猿の姿をした像があることだ。翁と嫗の衣装をつけた神猿が安置されている。また本殿前の両側には、狛犬の替わりに猿の置物が構えている。古くから山王権現の使いは猿であるといわれているのでこうゆう形になった。また山王権現の山王とはずばり山の神ということである。
「信長が家康に対して疑心暗鬼を生んだのが、武田征伐後の一件だと、睨んでいるのね」
「そうです。これからは毛利家や九州征伐として西に軍を向かわせなければならない。もし万が一、家康が裏切ったらと、信長が考えたなら、背筋の凍る思いがしたのではないか。信長の妹を嫁がせていた浅井長政は肝心なところで、信長を裏切り、朝倉氏に大敗を喫した。しかもこのとき信長自身の命さえ危ないところまで追い込まれた。信頼していた義弟に裏切られたショックは大きく、他人に対する猜疑心は更に深まったといわれる。だから同盟者だといっても安心はしていなかったはずだ。例えば、もし家康が北条氏と組んだりすれば、東国に一大勢力が出現することになる。実際徳川と北条氏の仲は良好だったからね。じゃー、もし信長が家康の立場だと想像していたらどうでしょう」
「それはきっと満足していないでしょうね」
「そうでしょう。信長の性格からいって計略、密略を巡らして、立場を逆転しようとするだろう。戦国武将はそうゆうことを常に考えていた。特に信長はね。ただ信長が想像力豊かだから、そう考えていくと止め処もないんじゃない。だから信長は家康の力が強大になるのも面白くないはずなんだ」
「ほとんど被害妄想じゃない。……でも戦国乱世では、昨日の友は今日の敵なんていうから仕方ないか」
「そんな疑り深い信長でも、最後は家臣に裏切られ殺されるわけだから、結局何が起るか分からない。でもね。思うんだけど、信長は自分に死期が近づきつつあるのを感じていたんじゃないかな。権力を掌握しつつ、孤独感と不安とがない交ぜとなって、彼本人を責めたんじゃないかな。天下統一、それにともなう危険や敵も増えることになる。それは目に見える敵だけではない。敵兵が襲ってくるなら、武力で戦えばいい。しかし信長は気づいた。何か得体の知れないものがこの世の中を支配し、統治していることに。それを壊そうと必死になったんだ。この精神的圧迫が、信長を狂気に駆り立てた」
「信長の内面的問題かな。それとも武力を持たない敵とは、つまり朝廷のこと?」
「それだけじゃなくて、日本という国は、何をもってして成り立っているのか、この国の主とは何なのか。実のところ明確ではない。何を倒せば、国を統治することができるのか、信長はそういうことを考えていたんじゃないかな。だからその精神的プレッシャーはかなり大きかったと思う。その結果が殺戮だったと思う。信長ファンは否定するだろうけど……。その見えない敵は実体がないから、疑いのあるものはすべて消そうと必死になったんだ」
「これじゃー、真船さんの信長への想像になってしまうわ。信長の心境に迫るのもいいけど、今聞きたいのは、家康暗殺計画の話よ。問題だけ出して、答えがないなんて許さないわよ。それに証拠はあるの?」
「確実な証拠はない。あっても消されている。だけどね、信長には怪しい行動があるんだ。それは武田征伐後のこと、家康は駿河一国を貰った返礼のために、安土城を訪れた。このとき、家康は主だった家臣を伴っていた。井伊直政、榊原康政、石川数正、酒井忠次、大久保忠世ら、本国三河に重臣はいないのではないかと思われるほどであったという。信長が、家康とその重臣を殺すのにこれ程のチャンスはない。なにしろ家康一行は三十人ほどしかいないのである。しかもこのとき、家康には成人した子供もいなければ、跡を相続する兄弟もいないのである。主なる家臣を殺せば、東海三国は崩壊し、徳川家は自滅していくだろう」
「でもそれはおかしいわ。東海が混乱することになれば、また東国を治めなければならない。それは信長の天下統一プランの遅れを意味すると思うけど」
「そんな疑問も出るかと思っていました。そこで家康家臣の中に内応者がいたのではと推理してみました。そこで思い当たったのが、酒井忠次です」
「酒井忠次って、確か家康と同じ系統で新田源氏になるはずよね」
「そうです。新田世良田流であった時宗の僧が、三河国に流れ着いて、最初に酒井家に入り、その後松平家に婿入りしたから、徳川家と酒井家は祖を同じくする家柄ということになります。その酒井家は家康家臣団の中でも第一の重臣であった。その酒井忠次であるが、疑惑の発端となる事件があった。それが築山・信康事件です。家康の正室である築山殿が、武田勝頼と密約を交わし、徳川家の混乱を謀ろうとしたというものであった。その情報を家康の嫡男信康の夫人である五徳姫が知り、父である織田信長に訴えた。信長は早速、酒井忠次を呼びつけて、築山殿の件と信康の悪行について問い質した。ここで忠次は反論もせずに、これらの所業を暗に認めてしまったのである。これにより、信長は家康に命じて、信康と築山殿を死に追い込んだ。この事件は数々の憶測を呼び、諸説が入り乱れた。しかしここで、問題にしたいのは、信長がこの一件について呼び出したのが酒井忠次であったという点だ」
「そうね、本来徳川家の問題なんだから、家康に聞けばいいのに」
「そうさ、また忠次の方もこの事件に対して、全く反論もせずに、信長の意見を受け入れたのだ。しかもこの信長と忠次の会談は家康の知らない内に行われたという不可解な点もある。事は徳川家の跡取りの生死に関わる問題である。忠次は徳川家重臣という立場を放棄したような態度であろう。この姿勢は、家康を始め、徳川家臣の間でも不審がられた。
単純に考えても、信長はこの事件で徳川家の分裂を目論んだといっていい。実際忠次は、東三河の軍司令官で大名並の権力、権限を持っていた。しかも西三河には石川数政が同じような権限を有していた。信長の狙いは、この分裂を図ったのではないだろうか。徳川家に派閥があったのは事実で、豊臣秀吉の時代には、石川数政が突如として秀吉側に出奔した事件も起きている」
「強大な力を持ちつつあった家康軍が二つに分裂していた方が、信長にとっては都合がいいってわけね。一つの対等な勢力と組むより、力が分散していた方が支配しやすいものね」
「その通り。でも築山殿事件では、信長の目論見は外れた。一方、家康の方は嫡男を失うという損失は大きかったが、それよりも信長との関係を重視したことになる。そこで信長は実力行使に出た。家康の実力は強大になり、すでに兵の強さは信長軍以上かもしれない。だから家康を殺すには無防備に安土城を訪れている今しかないと、狙いを定めた。上洛中に家康とその一行を殺し、忠次には、三河に帰り事態を収拾するように指示をしたのではないか。このまま信長政権が始まれば、徳川家の運命はどうなるかわからない、と言い含めて、忠次と密約を交わしたのではないか」
「想像が多すぎるわ。ちょっと暴走ぎみだよ。それに討たれたのが信長の方であるから、この説は全然駄目よ」
「そう言うと思いました。でもね、本能寺の変が起り、家康一行が伊賀越えをして岡崎に帰り着いたときに、家康の言った言葉が面白いんだ。『たわけものの意見にしたがっておれば、かようのように帰るまじ』とね。この『たわけもの』とは酒井忠次のことだよ。
信長のこの計画は、本能寺の変が起って頓挫した。だけど忠次は変が起きなくとも結局のところ、信長の言には従わなかったと思うよ。どこかの時点で忠次は家康に話していたはずさ。まあこんなことがあったからか忠次のその後は不遇だった。井伊直政が十二万石、榊原康政十万石と高い家禄の中、家臣四天王筆頭格の酒井家は、下総臼井の三万石でしかなかった。すでに忠次が隠居して子の代になったとはいえ、あまりにも少ない家禄であった。忠次はその後隠棲して京都で没した」
「面白い説だけど、今いちね。まあ逞しい想像力で、信長はどこで家康を暗殺しようとしたのか聞かせてよ」
「全くの想像だから気軽に聞いて下さい。信長が家康を暗殺しようとしたのは、安土城の中ではないかと思います。家康一行が光秀に饗応されていたときです。信長は光秀に、家康一行を毒殺するように指示をした。イエズス会のフロイスが記録した記事によれば、この時期に信長の好みに合わぬ用件で光秀が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、光秀を足蹴にしたというから、やはり二人の間には何らかの確執があったに違いない。
この時点では光秀と家康は気脈を通じており、饗応の生魚に毒を仕込ませているのに、光秀が気づき、魚や食品、食器まですべてを濠に投げ捨てた。それを信長が知って激怒したのだ」
「そんな逸話があったわね。でもそれは信長が、腐った魚が異臭を放っているのを発見して、激怒するとともにお壕に投げ捨てたという話しではなかったけ。これでは逆よ」
「それは話しが反対に伝わったのさ。で今度は、信長は光秀に、家康を闇討ちするように命じた。その決行日が6月2日、本能寺の変が起きた日だ。この日、光秀軍は毛利攻めへの参陣を兼ね、家康らも討つように命じられていたんだ。しかし光秀は、朝廷との計画にすでに参加していたので、討たれたのは信長の方であった」
「うーん、想像力の産物もここまでくると大したものね。いっそのこと小説にでもしたら、……冗談よ。怒らないで続けて」
「よしそれなら少し真実味を持たせよう。光秀の家臣で本能寺の変に参加した武士の覚書が残っているんだ。本城惣右衛門という人物なんだけど、それによると、彼ら下級武士には、誰を襲うのかは知らされていなかった。それも本能寺に討ち入ってからも分からなかったというんだ。だが今上洛している武将であるから、家康たち一行ではないかと思ったというんだ。これは何を示すのか。つまり彼らのような下級武士たちでさえ家康を討つことは不自然ではなかったということだ。結構この時期の家康は危ない立場だったんじゃないかな」
「そう言われると、信長が家康を殺そうとしたかもしれないけど……。となると家康の方では身の危険を感じてなかったのかな」
「それが家康も警戒していた節がある。本能寺の変があった6月2日は、京で信長と謁見する予定になっていた。前日には家康一行は堺を見学していたが、2日の朝には、家臣の本多忠勝を京へ先駆けさせて様子を見に行かせている」
「それはおかしいわね。だって、信長と会う予定があるなら、そんなことする必要がないわ」
「そうなんだ。家康の2日の行動は不自然だよ。そして本多忠勝は、京から偶然下ってきた京の商人である茶屋四郎次郎と出会い、本能寺の変のことを聞いた。茶屋四郎次郎は京の豪商で、後に家康と昵懇の仲となる。そんな人物と偶然に出会うこと自体おかしい。電話もなにもない時代だ、まるで待ち合わせでもしていたみたいだろう」
「ほんと、ましてこんな大事件が起った時に、タイミングが良すぎるわ。信長のことを警戒していたのか、変が起ることを予め知っていたかのようね」
「怪しいでしょう。それに茶屋四郎次郎が京の商人であったことも重要で、出会う人物が武士では駄目なんだよ。京の都では空前の変事が起って、畿内は大混乱した。このとき武士では、明智方でも織田方でも自由に動き回れることは難しい。この点、商人なら事変が起ったとしてもある程度自由に動けるし、怪しまれることなく、京から抜け出せる。しかも名の通った豪商ならなお更だ。それに商売上、堺に行くことは不自然ではない。なにしろこの時、家康は堺にいたのだから……、こう見ていくとあまりにも偶然が重なり過ぎていることになる」
「うーん、そう言われると家康もかなり怪しい」
「多分、家康は本能寺で起ることを予め知っていたんだ。そうでなければ、本多忠勝を先駆けさせることもないし、偶然に茶屋四郎次郎が現れることもない」
「でも、家康は危険を感じていたなら、堺など見学してないで、さっさと三河に帰れば良かったじゃない」
「そうだね。そう言われると思って、理由を考えてみた。まず第一点に、本能寺の変が起ったときにいた場所が堺というのがミソだね。ここで堺の町を少し説明しておくと、一大貿易港として発展したのは応仁の乱以後のこと。遣明船の発着港として始まり、これが南蛮貿易の拠点となった。なによりも堺といえば、豪商たちが集まり行政を行う自由都市として有名だ。今井宗久、津田宗及、千利休など茶人を多く出したところでもある一方で、鉄砲の生産も盛んであった。
この堺の自治権を奪ったのが、信長であり、当時実質管理をしていたのが光秀であったんだ。堺奉行が置かれたのは、秀吉の時代からで、それまでは、光秀と堺の町は結び付きがツヨカッた。それに、光秀の茶の師匠は津田宗及であり、彼も堺を支配していた会合衆の一人であった。本能寺の変直前に開かれていた茶会には、堺の商人が多く参加していたことから、信長暗殺の陰に堺商人がいたという説もある。つまりは本能寺の変が起る直前までいるには、安全な場所だといえる。しかも京にも近いしね。
それに第二点目、家康は、事の成り行きを見ていたのではないかと思う。もしかして、信長暗殺計画が失敗するかもしれない。嫡男信忠が逃げおおせる可能性もある、と家康は慎重になったんだ。彼の性格ならきっとそうするだろう。そして実際に、変は起り信長も信忠も生きていないことを確認すると、すぐさま三河へ帰る行動を起こした。もし変が失敗して、信長が生きて残っていて、家康がいそいそと三河に逃げ帰ったことが知れたら、それだけで変に関わったと疑われてしまうかもしれない。それに信長のことだから、俺が襲われているのに一人逃げたなあ、と同盟関係をたてにして責めてくるかもしれない。とにかく、事の次第を見届けるまでは、動けないという状態だったんだ。まさか、信長の死を悼んで腹を切ろうとしたなんてことだけはないよ」
「そうだけど。今の意見だと家康は本能寺の変が起ることを知っていたことを前提で言っているけど、家康はどこでその情報を知ったのかしら」
「それは、近衛前久が流したんだ。その理由は後でやるとして、家康にも何か役割を与えていただろう。そうでなければ計画の内容を話す訳がない。役割を与えて仲間に引き込むのがセロリーでしょう。そうなると、光秀が畿内を押さえて、家康は三河に帰り、兵を整えて、東海か東国に備えるというという感じになろう。ただこの計画も秀吉が突如として現れ、信長の旧家臣を味方に引き入れたために、すべての目論見が外れてしまった。これにも大きなからくりがある、それを説明したいために今まで長い前振りをやってきたんだ。それを確かめるために場所を移動しましょう」
「楽しみね」

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Comment

[36]
う~ん、本能寺の「真相」。面白いです!
そういえば、信長の猜疑心繋がりで書きますと、確か『三河物語』だったか‥‥あれ?それとも『葉隠』だったっけ。ちょっと忘れてしまいましたが、その中に、ちょっと面白い一節があったのを思い出しました。
それは、本能寺で襲われた信長が、襲撃を告げられた直後に「城之介か?」と口走ったって話です。この城之介というのはもちろん嫡男信忠のことですが、そのまま受け取ると、信長は自分を襲撃した相手として、最初に実子の反逆を疑った、ということになりますよね。
まぁその当時、洛中に信長を上回る軍勢を率いていた武将といえば、息子信忠しかいなかったというのも理由としてあるんでしょうけど、それにしても‥‥
もしかして、信長と信忠、二人の間にも、何らかの意見の相違や相互不信が生じていたのかもしれない(朝廷に対する扱いとか?)、結果的に、二人とも相次いで死んでしまったので、それらが表面化しなかっただけで‥‥なんてことまで、貴殿の小説を読んでいて、考えてしまいました。
[37] 「三河物語」では
毎回、コメありがとうございます。
ちょっと調べてみました。三河物語にその記述があるようです。そのほかにもどこかで、忠信が本能寺の変の首謀者だったといった記事を読んだ記憶があります。もしかしたら小説だったかも。
忠信に関しては、信長同様にその遺体が発見されなかった、という謎があります。
信長は生き残っていて、薩摩あたりに逃げたという説は、小林久三の本の中にありました。もしかしたら、忠信生存説なんていうのもあるかもしれませんね。

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消えた二十二巻

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