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天海と新田一族の接点 新田義貞伝承を追う④

物語を物語る

前回の続きです。

この「新田義貞伝承を追う」のシリーズは、
1回目が勾当内侍の墓
2回目が新田義貞の墓
3回目が義貞の首塚
ときて、今回が「義貞の首の行方」と「天海と新田一族の接点」である。

先に私の推理を書くと、足利尊氏が密かに義貞の首を葬ったとすれば、やはり京都周辺の義貞伝承が残る場所に「義貞の首」が眠っているのではないかと、にらんでいる。
ただしこれは証拠もなければ、確証もなく、ただ単に、私の「直観」を基にした推理です。(フロスト警部か!) また根拠もないのに勝手に推し量っていけば、「勾当内侍の伝承」は新田義貞の首を隠す偽装だったのではないかとさえ思える……。(飛躍し過ぎか!)

そして、京都周辺の地図を眺めて考えた。

やはり、新田義貞、勾当内侍、南朝方と縁の深い「比叡山」「琵琶湖周辺」には、新田義貞の伝承が多く残っていて、そこに勾当内侍の墓があることが分かる。
比叡山延暦寺と南朝の関係はかなり深く(護良親王は比叡山・天台座主であったし、後醍醐天皇が都落ちした際も延暦寺を頼り、叡山僧兵は足利方と戦っている)、そもそも義貞が北国落ちする際、勾当内侍を留め置いていたところが「今堅田」であったことからも新田贔屓の土地柄だったのだろう。だからこそ現代にまで勾当内侍の霊を慰める「野上祭り」が伝えられ、内侍を祀る野上神社や泉福寺があるわけだ。やはりこの辺りは「義貞の首」を葬る場所としてふさわしいということだろう。(ここは現地調査が必要だが)
その近くに「慈眼堂」はあるのだ。
(また滝口寺、祇王寺など奥嵯峨周辺の愛宕山付近などもあるが、これは次回書く)

となれば、前回書いた「なぜ天海の墓“慈眼堂”に新田義貞の供養塔があるのか」という謎が出てくる。
(「慈眼堂 新田義貞」で検索するとかなりの数でヒットする。「慈眼堂」を訪ねた人もかなりいるようで、画像付きのものが多かった。Wikipediaに解説あり。)
http://med.honnet.co.jp/metro/oumi/o193/oumi_40.htm
義貞供養塔(慈眼堂)(画像は「慈眼堂の石仏」のサイトから、新田義貞の供養塔)


答えとしては、天海は「新田」とかなり関わりが深いからだろう。

その前に、「東毛奇談」の根幹となる「太平記巻17」にある「義貞が日吉大社に祈願した願文」を載せておきます。
「十月九日はあわただしく御即位の儀式や遷幸の準備で日も暮れた。夜も更けたころになって、新田左中将はひそかに日吉大宮権現に参詣され、神前に心を静めて祈願を込められた。『いやしくもこれまでの私は、濁世に示された御仏の御願にすがって日々を送り、仏法に反する戦をしながらも、仏道にはいる因縁を結んで日もすでに久しくなります。願わくば、遠く征戦の路の果てまで神の御加護をお与えくださり、ふたたび大軍を起こして朝敵を滅ぼす力をお与えくださいますように。不幸にしてたとえ私の存命中にこの願いを達することがなかったとしても、我が祈念の心が神の御心にかなうならば、必ずや子孫のうちに大軍を起こす者が現れて、父祖の屍の無念を晴らしてくれることを請い願います。このふたつの願いのうちひとつでも達することができましたら、わが子孫は末永く当社の檀那となって、霊神の御威光を輝かすようにいたしましょう』信心を込めてこのように誓いを立てて、義貞は新田家重代の家宝で鬼切という太刀を社前に奉納した」
とある。
ここにある当社の檀家になるとは、天台宗、山王権現、比叡山延暦寺を信仰するということ。
(実際は、ここに鬼切の太刀を奉納したのではなかった。鬼切は義貞が自刃したときに自ずから首を切った刀で終世義貞の手元にあった。なのに何故「その太刀を奉納した」とわざと書き間違えるようなことをしたのか。ここに太平記の作者の隠された意図がある。それほどこの願文が重要だということだろう。ここも辺りも次回書く)

そして、徳川家康は「新田源氏」を名乗った。(経緯は「東毛奇談」で)
東照宮で祀られたのは天海を主導とする天台宗だが、徳川家は松平家以来「浄土宗」の檀家であって、天台宗とはあまり縁のない家柄なのだ。
それがなぜ天台宗なのか?
そこに天海と「新田」との関係を見ていけば、「天海の墓に義貞の供養塔が建っている」理由が分かり「世良田東照宮が東向きに建てられたのか」が分かるということです。

天海とは、
天海像(天海僧正像、長楽寺蔵)
いまでは都市伝説の本に載っていることも多く、そちら方面ではかなりの有名人物となっている。「東京は呪術都市だ」などという本(ハローバイバイ関など)や「徳川埋蔵金」のときでも必ずその名が出てくる。、ただその経歴となるとあまり書かれていないようで、家康に仕える以前の経歴にはあまり触れていない。
また「天海」について書かれた小説を読むと、世良田、長楽寺、善昌寺など新田一族の関連するものが少しだが出てくる。(小説「天海」は、中村 晃、堀 和久など、最近では内田康夫の「地の日 天の海」がある )

天海の出自は会津の芦名氏の一族であったというのが定説であるが、足利将軍家の御落胤説など貴種説もある。天海死後に、側近の弟子たちがまとめた一代記「東叡山開山慈眼大師縁起」によれば、「氏姓も生年も忘れて久しい、一度仏門に入った以上、俗人であった時のことなど知ったところで仕方ない」と語ったという。この曖昧さが多くの俗説を生む結果となった。
定説では、会津高田に生まれ、同地の稲荷堂の別当弁誉に得度した。その時の名は隋風である。その後宇都宮、比叡山、三井寺、奈良の興福寺で修行した。
奈良遊学中に故郷から母の病気の知らせを受けて急遽帰郷し、母を手厚く葬ると、再び修行の旅に出る。1557年下野足利学校に入門し、孔子や老子を学ぶ。1564年二十九歳のときに上野新里の善昌寺に入った。善昌寺は、新田義貞の執事であった船田入道善昌が開いた寺といわれ、長楽寺の末寺であった。(ここに新田義貞の首塚がある) このことは長楽寺文書により確かめられている。ここで首楞厳経と易学を学び、長楽寺流の学風に染まったという。(シリーズ③の「義貞の首塚」)
この後再び比叡山に登り天台宗の教義を深めていった。しかしここで信長の比叡山焼打ちに遭った。天海は命からがら山を脱出して、甲斐の国まで落ち延びた。甲斐の武田信玄は天台宗の大旦那であった。ここで講師に迎えられ、しばらく過ごした。
会津に戻る途中、長楽寺に立ち寄り、時の住職春豪から葉上流の灌頂を受け、大阿闍梨の位を許される。葉上流は天台密教、台密十三流の一つであるという。会津では長楽寺葉上流の灌頂を相承した大寧禅師に学んでいる。
天海にとって新田や長楽寺がかなり深い関係であり、新田一族の寺院で修業していたことが分かる。
この後も天海は諸国を修行の旅に出て、諸般の知識を高めて、江戸崎の不動院、川越の喜多院、長沼の宗光寺などに入った。
一説には、1590年川越の無量寿寺の豪海に師事していた時、家康が関東に入部した際に、天海は呼び出され初めて謁見したという。
1608年 家康は天海を駿府城に招き説教を聞いた。1609年 天海は権僧正となり、1611年 大権正になる。1612年 川越無量寿寺を喜多院として関東天台宗総山とする。1613年 家康は「関東天台宗法度」を発布。このように天海は家康に重用され、権力が集中し、宗教的地位が大きくなった。家康死後、1617年日光東照宮建立、1622年から東叡山寛永寺建立に着手、1643年に108歳で死去した。

ここまで家康が天海を重用したのは何故だろうか。
これには二つの理由があると考えられる。
①天海が諸国を巡り幅広い知識を得ていたこと。これは、家康にとって必要なことであった。家康は「もっと早い時期に出会うべきであった」と語らせた。それほど天海は博学であり、人格者であった。天海の知識の広さは、仏法に止まらず、神道、修験道、陰陽道の宗教的ものから、薬学、鉱山学まで広範囲に及んだ。これらの知識は諸国遊学中に得たものである。
②家康と出会う前から、天海が長楽寺や新田伝承のある寺院と深く関わっていることが重要だった。家康が新田源氏を名乗っている以上、新田氏の発祥地を無視することはできない。家康が新田源氏の末裔であること名乗ったことによって得られた効果が大きければ大きいほど、新田の地を手厚くしなければならないのだ。この点において適任者となれば、天海しかいない。天海は長楽寺、善昌寺に学び、その思想を受け継ぎ、新田周辺地域(足利学校も含む)の地理にも詳しいからだ。

長楽寺は新田氏の根本私領であり、経済上・交通上の中心地である世良田にある。新田始祖義重の子は義季を名乗り、世良田氏を起こす。この義季が1221年に臨済宗の栄朝を招いて郷内に氏寺を建立。鎌倉中期に北関東根本道場・十刹寺院として発展する。また「顕密禅三兼修の寺」とされてきた。後鳥羽上皇が長楽寺に下賜された五枚の勅額の一枚にも顕密禅とあるように、それが長楽寺の寺風で世良田流とも言われた。しかし室町・戦国時代には衰退して、荒れ放題になってしまった。これを家康は天海に命じて、臨済宗から天台宗に改宗させて、江戸時代には700もの末寺を抱えるほどに発展した。

また世良田東照宮は、寛永19年日光輪王寺の住職でもあり、世良田長楽寺の住職であった天海が、3代将軍家光に請うて、不要となった日光の旧社殿を長楽寺境内に移築し、そこに東照宮を勧請したことにはじまる。
家康は生前、長楽寺の衰退を嘆き、天海に復興を命じていたが、天海は日光東照宮の遷座に忙殺されていたので、弟子を派遣して再興に動いたのが寛永16年(1639年)と「長楽寺中興文書」にある。翌年4月には日光で家康の二十五回忌が営まれ、将軍家光と天海は寛永の大造営で手をつけなかった唯一の奥社の改造命令はその4ヶ月後。天海は家康二十五回忌に臨む直前、長楽寺に立ち寄り、周辺の山を崩すなどの工事を指示した。奥社は東照宮の要であり、この社参を機に、家光に進言し移築したと見られる。世良田東照宮は移築した奥社に合わせて本殿を新造、寛永二十年に完成した。天海はこの半年前に他界したために、落成式は一年延期された。

しかしこのことが事実であるか疑われたことがあったが、千葉大学教授・大河直躬氏らの研究により、世良田東照宮の拝殿、唐門などが、旧日光東照宮の奥社の拝殿や多宝塔だったことが判明している。

天海死後、遺体は日光東照宮の傍らに葬られることとなった。十月六日に霊柩は、東叡山寛永寺を出発、同日に川越喜多院に到着。翌日川越を出て、世良田長楽寺に入る。このとき上野国の僧侶が一同に集まり焼香散華したという。8日長楽寺から下野佐野の春日岡惣宗寺、9日に鹿沼薬王寺を経て、10日日光に入る。江戸上野から日光まで遠回りであるにも関わらず、世良田長楽寺に入っていることをみても、天海がこの地に関係が深いことが分かる。


世良田東照宮は建物の方向も記されており、日光に建てられた時は南向きであったが、当地に建てられた際に東向きとなった
25年も家康を祀ってきた社は、神格化されるために多くの祭事を施され、多くの人々に拝まれてきた。この社には崇拝を受けたパワーがあり、また拝まれた社には神として祀られた家康の魂が宿っていると考えられる。この拝殿を世良田に移したという事実は、大きな意味を持つ。
天海は世良田に、日光にあった霊的装置を移築し、世良田の霊的地位を高めた。各地に配置された東照宮が、家康を神格化して、天下を治める霊的装置であったことは、現在多くの研究者が訴えていることである。ならばこの世良田東照宮もなんらかの意味があったとみて間違いないであろう。
そして東向きの意味を!


さらに、天海と長楽寺の関係について詳しく書かれていた本があった。
天海資料

橋本幸雄著「上野国世良田 長楽寺改宗と天海」(岩田書院)
新田源氏を名乗った家康にとって、祖先の地である新田が俄かに重要になった。この地においての天海・天台宗と増上寺・浄土宗との覇権争い、それに天海の長楽寺へのこだわりが書かれている。2007年発刊の本で、かなり参考になった。
橋本幸雄氏は在野の「新田氏研究」として有名な方らしく、その資料、文献はかなりの量となり、いまは「橋本文庫」として公開しているそうです。(東京都北区)

では、天海と長楽寺との関係について書かれている部分を本文より少し抜き出してみましょう。
『家康はかねがね自分の遠祖新田氏に対して、称号を頂くよう朝廷に奏請していた。慶長16年・1611年、新田義重(新田氏始祖)に朝廷は「鎮守府将軍」の号を宣下されたのを機に、その義重を祭るべき墳墓の地の調査を存応(増上寺住職)及び、土井利勝、成瀬隼人の三人に命じた。「駿府記」。そして、その地が見つかった事を聞いた家康はすこぶる御機嫌であったと記されている。家康は存応に命じて、新田徳川の菩提所を新田郡太田に決め、そこに義重山新田寺大光院を建立した。天海は天台でも徳川御先祖の菩提を弔いたいと願って、世良田長楽寺を欲したという。』
天海が長楽寺を欲したのは、浄土宗との対抗意識があった。これら一連の記録は「東叡開山慈眼大師伝記」「東叡開山慈眼大師縁起」「慈眼大師文書纂」などに、度々長楽寺の改宗についての記述があるという。
『東叡開山慈眼大師伝記」によると、天海が家康より長楽寺を拝領したのは慶長5年・1605年で、それから長楽寺を天海が改宗すべく着手したのが寛永16年・1639年。天海は約34年間も所望し続けたことになり、その天海の執念に対して、果たして長楽寺が彼にとって、いか程の価値があったものか、その興味は計り知れない。』

そして、秀光の時代になると、日光東照宮の大改修を手掛けて、「山王一実神道」=天台宗を確立すると、長楽寺の改宗を実行した。
天海の晩年急がれた長楽寺改宗
寛永16年に入ると、天海はもはや百歳を超える高齢で、身体も伏せりがちであった。このままで居たのでは、いつ迄待っても長楽寺が天台に帰依するのは不可能と感じた天海は強引に長楽寺の介入に踏み切ったのである。それは時の幕府の権力勢力を駆使した大規模で過酷なものであった。天海はかつて天台の傘下に入れんが為に多くの寺院の改宗に、色々の策を施してきたが、今度のように厳しい改宗、いわば乗っ取りを行ったのは、今までにない事であった。ここ晩年の天海の焦りが感じられる。天海にしてみれば、家康が政権を握って以来、心の中に願い続けてきた長楽寺である。やっと三十年余り待った今、我が手中に帰することが出来る。そして、今度こそ新田徳川の菩提を我が天台でお護りする事が出来るという切実な気持ちが余生幾何もない天海をそうさせたのだと思う。

長楽寺改宗の意義と天海の心中
天台宗の基礎は日光東照宮の大改修を最後に確立したとみてもよい。そして、ここに近世天台の中興を天海が成し遂げたと考えてもよいであろう。であるから、今さら長楽寺改宗と云う事は天下の大勢からすると、もうたいした問題ではなくなっていた。しかし、天海の考えは、家康、秀忠、家光と徳川三代に亘る将軍に仕え、その間、おおいに天海は寵愛を賜って来た。その徳川氏に対する恩顧を、御先祖をお守りする事で是非お返ししたいと云う願いが心の奥深くきざみ込まれて、長楽寺を我が天台に改めてこそ天海の心の中の天台の基礎が完成するのだと、肝に銘じていたのかも知れない。即ち、「天海の精神的な天台の終着点」が長楽寺の改宗であった。』

と結んでいる。

さてこの本によれば、「長楽寺」「徳川家の祖先である新田氏を祀ること」がいかに江戸幕府確立時にとっていかに重要であったかが分かる。
またこの本に書かれている「なぜ天海がそこまで長楽寺にこだわったのか」については、ここに自分の説ある「天海と世良田氏との接点」、「新田義貞の比叡山・日吉大社で掲げた願文」を加えていくと、更にこの説を後押しすることになるだろう。

やはり、新田一族の世良田氏が、会津へ行き葦名氏に仕えていたことと、天海が会津・葦名氏の出であることに注目すべきことで、ここに「新田」と「天海」の接点があったと見るべきだろう。(東毛奇談、及びシリーズ1回目で)
そして「なぜ世良田東照宮が東を向いて建っているのか」「なぜ新田義貞の供養塔が天海の墓である慈眼堂(比叡山)にあるのか」も分かるのではないだろうか…。

さて、話はこれで終わりではありません。
さらに、「天海」と「新田」をからめて「明智光秀」について話を進めます。

次回は天海の家紋である「三宅輪宝」について、
三宅輪宝
これは、三宅氏の家紋
そう新田一族と深い関係にある児島高徳の一族です。

次回に続く。
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