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新田幕府誕生! 宮城谷昌光「風は山河より」  新田義貞伝承を追う⑤

物語を物語る

前回の続き
「新田義貞伝承を追う」の五回目。

宮城谷昌光の「風は山河より」全5巻読み終わりました。
風は山河より

Amazonの本の内容説明から、
『戦国前夜の奥三河。野田城主・菅沼新八郎定則は、瞬く間に西三河を統一した松平清康の驍名を聞き、卓越した判断力で帰属する今川家を離れる決意をする。鬼神の如き戦術の妙、仏のような情義の心。家康が目指したのは、祖父の清康だった―。中国歴史小説の巨匠が初めて挑む戦国日本、躍動の第一巻。』

第一巻の最初に、松平清康「それがしは、清和源氏、八幡太郎義家が子孫、新田太郎義重が裔孫、世良田弥四郎頼氏が末孫、松平三郎あらため、世良田次郎三郎でござる…」 安祥三郎、松平という名をやめて世良田姓にした、というセリフを吐いて颯爽と登場する。
第一巻はほとんど世良田次郎三郎
の活躍が中心となっている。
そうあの「世良田」です。

ということで、全五巻の中から「新田氏」に関するものを抜き出してみました。
以下、太字が「風は山河より」からの抜粋。

「わたしが世良田次郎三郎である」清康はあえて松平とはいわず、世良田といったところに累代の松平の家主がもちえなかった壮志があり、この荘志が孫の家康に受け継がれて華栄を得るのである。ここにも血の不思議がある。」

「清康が三河を平定し、国力と意志とを集約させれば、つけこむ隙のある両国を切り崩すのは至難ではあるまい。自家の血胤の尊さを誇る諸豪族は、松平には頭を下げないであろうが、世良田には頭を下げやすい」

「すなわち松平清康が今橋城を攻めるということは、今川氏に戦いを挑むということである。今川氏は足利氏の親戚といってよいから、―それで松平は世良田と称したのか、と新八郎は合点がいった。」

「伊賀八幡社を勧請したのは、清康の曽祖父の松安院殿すなわち松平親忠である。ちなみに祭神は、応神天皇、神功皇后、仲哀天皇ではあるが、清和源氏の氏神を武神として崇めていたと想ったほうがいい」

これらのことから分かるのは、松平氏が「新田氏の末裔」を名乗った理由とその経緯です。さらに松平清康が「世良田氏」を名乗ったことには深い意味があった、ということもわかる。
さらに、南朝、新田氏と関連のある一族が、松平家の家臣として集まってくる記述を抜き出してみた。

「ところで大久保氏は三河の草莽から生じた族ではない。はるか東、関東の下野の宇都宮氏が先祖であり、三河大久保家の始祖である泰藤は南北朝のころ武人で、官軍に属し、新田義貞が戦死したあと、三河に移り住んだ。三河山間の陽光のとぼしい郷邑に松平家を興した親氏が、上州から三河に流れついたのが、南北朝合一が成されたあとの応永年間であると伝えられるので、大久保家の方が先着した族であるといえる。その松平と大久保家が君臣の関係になったのは、松平三代の信光のときで、大久保の家主は泰藤の曾孫の泰昌であった。それらのことを考えると、松平家の家風というのは、三河の風土に北関東の気風を積み上げたもので、しかもその深部に反足利の色があり、その色が清康の代に顕現したといえるだろう」

「奥平氏の祖先は新田義貞とともに戦い、足利氏を敵としたのであり、その旧(ふる)い怨みが、足利一門である今川家にむけられても不思議ではない」ただ奥平貞勝は、「松平家が称している清和源氏の新田氏庶流をまがいものであると軽蔑していた。」

「林家が松平家にとって格別な家であるというのは、松平家の創立以前の逸話にかかわりがあり、話はいたって古い。松平家の始祖である親氏が時宗の僧となり、徳阿弥と称して、父とともに流浪していたという伝説は怪しむにあたらない。が、その父子の血胤を新田一門の世良田氏や得川氏に結びつけるのは無理かもしれない。」

「親氏が諸国をさすらううちに、信州の林郷で泊まったことがあった。親氏をもてなしたのは、小笠原一門の林藤助光政であった。光政も親氏の人格の奥深さに魅了されたひとりであり、―この人はどこかで偉業を成すかもしれない。と予感した。好意が敬意に昇華した。その敬意を表すべく、光政は年末に雪中で狩猟を行い、一匹の兎を得た。元旦に、それを羹にして出した。親氏という人は、この一事の裏側にある人の苦労や篤情などを洞察できる美質を持っていたらしく、かれの感動と感謝の念が光政に伝わり、-やはり、この人には人というものがわかるのだ。と光政は肚がふるえるほど感銘を受け、信州を去る親氏を追って林郷を出てしまった。光政は親氏の最初の家臣といってよいかもしれない。はるかのちに親氏の子孫が岩津、安祥、岡崎、浜松、駿府と本拠を遷して江戸において天下を取ってからも、林家の当主は元旦に兎を献じて、一番杯をたまわるという吉例が踏襲された。くどいようであるが、松平一門よりさきに林家が正月の酒盃をいただくのである。その家柄の古さは、「林家に越すものなし」といわれる。

「井伊谷のあたりはかつて南朝方の拠点であり、その地の豪族は勤皇の思想を失っていない井伊氏である…」

「松平広忠を殺害したのは、新田庶流の岩松八弥。広瀬城主・佐久間全孝が放った刺客。」

ここにもあるように、松平氏が新田源氏の末裔ではないことは、確かなことだろう。
ただ、この本にもあるように、「松平氏」が「新田一族の末裔」を名乗ることによって多大なるメリットがあると、知恵を付けた者がいたはずである、とみて間違いない。
どこかに何らかの接点があるはずなのだ。
まずは、地理的な接点であり、それは奥三河周辺にあったのではないということ。
以下は、その周辺の記述。

「足助は交通の要所であり、三河から出ていくもの、三河に入るもので足助を通らぬということはないほどで、それゆえに清康は足助を重視し、岡崎を取ったあと、わき目もふらずに足助の真弓城を攻めたのである。鈴木家を婚戚とし、危険を排除した足助を足がかりにすれば、そこから信濃にも尾張にも征(ゆ)ける。いすなわち清康の気宇がなみはずれていたことは、家督を継いでほどなく足助を支配下に置いたという事実からもあきらかである。」

「……熊谷氏には地侍が多く従っております。織部さまが宇利をお攻めになれば、城には浜名氏(佐久城)や新田氏(刑部城主)が加勢の兵を送りましょう」
「新田……、そういえば、引左 (郡)には新田がいたな、まさかあの新田ではあるまい」
あの新田、とは、新田義貞の血統のことである。
「ところが、あの新田のようです。ただし本流ではなく支流です」


引左は、静岡県浜松市井伊谷にある。ここには、龍潭寺がある。 この寺を菩提寺とした井伊氏は保元の乱で源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子、宗良親王を迎えて北朝方と戦っている。のちに井伊直政が徳川家康に仕えることになる。
やはり、このあたりが南朝方の拠点となっていて、また新田氏の残党が残っていたことになる。
また、児島高徳の末裔「三宅一族」に関しても一文ある。

「清康の本拠地である岡崎は額田郡に属し、その北に加茂郡がある。その加茂郡に広瀬という地があり、そこに城をもつ豪族を三宅氏という。備前の児島からでた族で、三河に入った三宅氏は祖先に児島高徳をもつというのが伝承である。三宅氏は広瀬を中心に衛星のごとく城を配した。東の中金城 鷹見城、西の伊保城、御船城、南の梅坪城、北の月原城、藤沢城。……」

やはり、児島高徳の末裔がカギを握っているように思う。
ただし、その三宅氏も松平氏に最初から従っていたわけではなく、松平氏と戦いを交えている。
ただこういったことが考えられる、松平氏が勢力を拡大させて、その土地にいた領民を征服していくうちに、南朝・新田氏のイデオロギーをも内包していったのではないだろうかということ、そしてその過程で新田氏に関わる伝承や伝説を、松平氏が取り込んで吸収していったのではないだろうか、ということだ。(東毛奇談で) これが反足利(三河周辺を領地にしていた足利一門の今川・吉良・細川に対抗)という形となって現われ、これを喧伝することによって、現状に不満をもった反体制勢力が反足利の象徴である「新田一族」の名の下に集まったのではないかということだ。
その辺りのことが「風は山河より」を読むとよく分かる。(特に、第一巻)

さて興味深いのは第四巻にあった以下の記述。

「家康は永禄九年十二月二十九日「家康」に改め、三河守に任ぜられた。新田氏の庶流の世良田を姓としたのは祖父の清康であるが、家康はその姓を採らず、世良田の本家にあたる、得川を選定した。ところが得川氏の嫡流は消滅しておらず、やむなく一字を変えて徳川とした。いうまでもなく、得川氏も新田氏から岐出した血胤のひとつであるから、家康の希望としては源氏の旗頭である新田の氏姓を自家のものとしたかったであろう。それがうまくいっていれば、新田家康が誕生し、新田幕府、新田時代が日本史の呼称として現出したであろう。」

「新田幕府」という呼称は成り得なかったが、家康が「新田源氏」を名乗っている以上、実質的には、「新田氏の幕府」が誕生したことになる。(たとえ徳川家の祖先が実際には願人坊主だったとしても、日本の血統と官位を統括する朝廷から、「徳川家は源氏の流れを組む武家の棟梁にふさわしい家系である」というお墨付きがもらえれば、誰が何を言おうとも、論理的にも形式的にもこれは成り立っているのである)

さて、この「新田義貞伝承を追うシリーズ」からの流れからいえば、
「児島高徳」の子孫「三宅一族」、彼らこそがキーポイントとなるのですが……。
次は、加藤廣の小説「明智左馬助の恋」で、同じようなことをして、どんどん外堀を埋めていくことにします。
明智左馬助の恋
絞り込む点は、明智秀満(左馬助)の本姓は「三宅氏」だということ……。

次回に続く。
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