スポンサーサイト

物語を物語る

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

三宅弥平次こと明智秀満は何者か? 新田義貞伝承を追うシリーズ⑦

物語を物語る

新田義貞伝承を追う!⑦

第7回目は「明智秀満」です。
なぜ、三宅弥平次こと明智秀満が、「新田義貞伝承を追う!」なのかは最後まで読むと分かります(何となくですけど…)
実際には⑤の続きです。一か月以上かかった理由は、「明智秀満」を調べれば調べるほど分からなくなっていったからですが、取りあえずは、明智秀満が三宅氏だということが書かれたものを列挙していくことにします。

まずは、経歴から。
明智秀満(?~天正10年・1582年) 旧姓三宅弥平次。光秀の父光綱の弟光安の子(「美濃諸旧記」)、光秀の従兄弟、光秀の甥(細川家所録)など諸説ある。秀満の出自については確証となるものはない。はじめは三宅弥平次を称していたが、光秀の女婿となって、明智姓と改めた。光秀の娘である秀満の妻は、先に摂津茨木城主・荒木村重の子息村安に嫁していたが、天正6年に村重が信長に叛したため、秀満に再嫁した。
光秀の丹波経営に主力として活躍、天正9年には、丹波福知山(京都府福知山市内記)の城主となっている。 同6月2日の本能寺の変に際しては、先鋒として本能寺を焼き打ちしている。その後、近江安土城の守備についていたが、山崎の戦いで光秀が敗北したことを知る。ここに羽柴秀吉の先鋒堀秀政が攻め寄せたが、秀満は名馬に乗り、白練りの人馬織りを靡かせ、琵琶湖を渡って光秀の居城近江坂本城へ退いた。これが「湖水渡り」の伝説を生んだ。(「川角太閤記」) 狩野永徳の描くこの光景は、講談にまでなって広く喧伝された。
ほどなく、坂本城は包囲されたために、城に火を放ち、連れていた夫人・子、家臣らとともに自刃して果てた。自害の前に秀満が、名刀・名茶器が失われるのを惜しんで、目録を添えて堀直政に引き渡した。
(新人物往来社「明智光秀のすべて」 二木賢一編からのまとめ)

さて、この明智秀満がなぜ「三宅氏」を名乗っていたのかが、これでは分からない。ただ、どれも似たような内容で、光秀について書かれた本には必ず秀満のことは出てはくるものの、この点に言及したものはあまりないようだ。
なぜ「三宅姓」なのか、そこが疑問だ。
これが問題の謎を解くカギになるような気がしてならない。
そこでその点に触れているものを手元にある書籍から拾ってみる。

まずは定番の
明智光秀 高柳光寿
高柳光寿著「人物叢書・明智光秀」(吉川弘文館)から「明智秀満の出自に関する部分を引用してみた。

『秀満については、「太閤記」には左馬助と呼名が書いてあるだけで諱はない。「明智軍記」には左馬助光春とあり、「増補筒井家記」にも同様である。「武辺咄聞書」には左馬助秀俊とある。しかし少しく良質の本、すなわち「秀吉事記」「豊鑑」「川角太閤記」などにはみな明智弥平次とある。そして丹波天寧寺の「御領主暦(歴)代系図記」には明智弥平次秀満とあり、同寺所蔵の天正9年10月6日付けの諸色免許状には明智弥平次秀満という署名がある。 中略 
ところが「明智氏一族宮城家相伝系図書」などという悪書になると、名を光俊として、童名岩千代、三宅弥平次、明智左馬助、本名光春とある。俗書に見えるだけの名を上げている。後世の作りものであることは明らかである。それにしても「細川家記」がこれら俗書の類に誤られているのは困る。
秀満の出自については、「細川家記」には塗師の子であるといっているが勿論信用できない。また「武功雑記」には白銀師の子であるという。これも勿論信用できない。「細川家記」所収の「三宅家記」には光秀の甥だとある。「増補筒井家記」には光秀の従弟とし、「宮城相伝系図」には光秀の父光綱の弟光安の子としている。これらはいずれも信用の限りではない。しかし三宅氏であったことは確かであり、「宗及茶湯日記」には天正8年9月21日のところでは三宅弥平次とあり、天正9年4月10日のところでは明知(智)弥平次と見えている。この間に明智の名字を貰ったと見える。その年齢については「細川家記」に46歳だったとあるが、これは「明智軍記」よったもので全くに信用できない。しかし「細川家記」に秀満の妻は、秀林院様、すなわち細川忠興の妻の姉であったとあるのは信用してよい。なお「兼見卿記」によれば、秀満の父は秀満自殺の天正10年6月14日ののち間もなく丹波横山で捕らえられ、7月2日粟田口で磔にされたとあり、「言経卿記」にはこの父の年齢を63歳と記している。』

とある。「明智秀満が三宅氏であったことはまちがいない」としている。
だがこれ以上のことは分からない。

そこで、明智光秀の出自について詳しく調査している永井寛氏。
学研・歴史群像シリーズ「俊英 明智光秀」でも明智氏の子孫・系図について担当していて書いた記事が載っている。(ここでは、明智氏の子孫として、坂本竜馬、遠山の金さん、大石内蔵助などについての説明があって興味深い)
ここではより詳しく書かれている「明智光秀」(三一書房)の中から
明智光秀 永井寛
「明智氏と三宅氏の関係」の記述を取り出してみました。

『「土岐系図」光秀・側室(公家・原仙仁の娘)との子、次男秀寿丸、三宅藤兵衛を名乗り、その後細川忠興に仕えて肥後に住み着いたという。恐らく、この人物が安国寺開山の明厳梵鉄和尚ということなのだろう。』

『明智光廉は、光秀の叔父にあたる。この人物が「三宅大膳入道長閑斎」と号し、光秀と行動をともにした。捕らえられて磔にされた三宅出雲と同人物。』
『遠山景行「景行(民部・相模守・入道宗叔)、永正六年(1509年)、明知城中に生まれる。室は三州(三河)広瀬の三宅某の女である」と「明智町誌」にある。遠山景行は明智光安と同一人物であり、明智光安は秀満の父である。』

また上総英郎編「細川ガラシャのすべて」 (新人物往来社)にもある。
 『本能寺の変後、浪々の明智左馬助の一子、三宅藤兵衛を引き取り、天草富岡城主にしたのは、寺沢志摩守であり、天草の乱で藤兵衛は討ち死にした。またガラシャ夫人が殉教するに当たり、家老小笠原少斎に、「子どもたち、三宅藤兵衛を預かって欲しい」と言い残したとある。藤兵衛の母は光秀の妹であり、こうした伝承は、ガラシャの母は「綿考輯録」がしるす美濃妻木氏の出であることを如実に物語っている』といいった話もある。(この三宅藤兵衛は三宅重利)

これらのことから分かることは、明智氏と三宅氏が早い時期から姻戚関係を結んでいて、両者の関係はかなり深いということ。それに秀満は母方である三河の三宅姓を名乗っていると永井氏は書いているから、それならば児島高徳の子孫ということを意味する。

また永井寛著「明智光秀」の中に
『遠山本家は岩村城にあったが、それより分かれた明智遠山氏の始祖は、景朝の子景重で、遠山明知(明智)三郎を名乗った。中略 このころことであるが、堀口貞満の女が土岐明智氏初代頼重(長山遠江守頼基)の室で、明智遠山氏に関係する遠山式部少輔光景の母であったことが「姓氏家系大辞典」の堀口系図にあることは述べた。…』とある。
堀口貞満は新田一族であり、新田義貞とともに戦ったの重臣である。「太平記」巻十七には、後醍醐天皇の前で「新田一族の忠節心」を涙ながらに訴えた新田一族を代表する人物。そんな新田の血が遠山明智氏に流れていた。母方の系統も重要視されるから清和源氏新田流は尊重されたはずだ。またその後の堀口氏子孫は明智家、斎藤家に仕えていたという。
このように新田一族は全国にちらばり土着した。ただ奥三河や美濃など周辺には、南朝方の伝承は多いし、ここと結びつく(姻戚関係、主従関係など)有力武将が多かったはずだ。(松平氏や明智氏の発祥地と重なる。ここは次回以降で)
そんなことで、明智秀満こと三宅弥平次が「新田氏」とつながらないか、関連がないか、と調べたのだが、いまのところはこれ以上のことは分からなかった。(ただ探せばあるはず。調査続行中)

ただ「明智氏」の系図・出自は読めば読むほど分からなくなる。これが混乱のもととなった。
高柳光寿氏の俗書の批判から始まり、それに対する永井寛氏の高柳説への反論、また小和田哲男氏の説などなど、関連書によってそれぞれ意見が違って、いくら見ても分からない。
ネット上では、「Wikipedia明智秀満ノート」が熱かった。遠山景玄=明智秀満説、遠山景行が明智光安、これに関する賛成・反対・反証・反論の応酬で読んでいくとどんどん訳が分からなくなる。(だだし一読を。天海=秀満説も出ているので読むと面白い。そして誰か分かりやすく解説を入れてださい)
また、別サイトでは、明智光秀の出自と系譜 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/akechi1.htm などもある。
児島高徳、三宅氏、明智秀満=天海説についてかなり詳しく書かれているサイトがあったが、これは少し違った方向(私にとって)に向っているので、興味のある方だけ見てください。
一応アドレス http://kouhoka.exblog.jp/8056473/


そんな中で、明智秀満は児島高徳の子孫とキッパリ言い切っている小説がある。
明智左馬助の恋
加藤廣 「明智左馬助の恋」
明智左馬助とはもちろん明智秀満、三宅弥平次のこと。

この本は、傑作です。(その理由は後で)

では本書の中から、いくつか拾ってみましょう。
明智秀満のセリフ「…我が三宅氏の祖・児島高徳が<北面の武士>を称していたことから、拙者、ことのほか興味深く、御座を眺めた次第。…」と左馬助が光秀に語る。

「それゆえ、我らは、この世の生業として武を選んだ身ではあるが、ゆめゆめ<知の権威>である朝廷をないがしろにしてはならぬのだ。万一、そのような、身の程知らずの武の権威者が現れた時は、我らは、敢えて<知の権威>側にはせ参じてこれを阻止せねばならぬ。そなたの祖・児島高徳殿と同じようにな」
これは、朝廷からの御綸旨で「信長を討て」との命令が下ったということを説明しているシーン。この指示をしたのが近衛前久だということ。

また左馬助が父に諭されるシーン「「愚か者め。そちらの方は、ろくに調教もできなかったのか。そんなことだから、たかが一人の明智の娘への懸想を断ち切れぬのじゃ。そんなことで、我ら三宅氏の大望を無にするな。時はよし、足利幕府は滅ぶぞ。百五十年余に亘って、我ら三宅氏の行く手を阻んだ仇敵足利が消えるのじゃ。即刻に明智家へ戻れ。戻って外から兄徳久と三宅氏を支えてくれ。老い先のない父の、たっての頼みぞ」

「三宅弥平次―。生まれは備前(岡山)の南端・児島半島の常山。父は地場の国人(地元武士)で三宅徳置といった。弥平次は、その次男である。幼名光春。」から始まり、以降4頁にわたり、「児島高徳」と「三宅氏」の解説を入れている。
これは、前作「秀吉の枷」でも明智秀満が登場したシーンに、これと同じように、三宅氏と児島高徳の解説を入れていた。

加藤廣氏の「信長の棺」から始まる一連の作品で、「本能寺の変・朝廷関与説」を取っている。
となると、明智左馬助が児島高徳の血を引く者「三宅氏」というのが重要となってくるわけだ。
児島高徳が天皇への忠節を尽くす忠臣であったということから、反朝廷となりつつあった信長を討つという構図になっている。それが根底に流れている。そこに明智光秀が出てくる。
私の自説では「新田義貞=明智光秀説」を唱えてます。歴史的役割が同じだったということ意味で図にすればこうなります。
東毛奇談・図2
図の説明はここで、http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-45.html
ここに明智秀満が児島高徳の子孫でそのイデオロギーを受け継がれたとなればこの説が補強されていくことになる。

3部作の中で本書は比較的評価は高くないようだが、児島高徳のことを知識として頭に入れながら、この本を読むと明智秀満の役割が鮮明となり、実に分かりやすくなる。南北朝時代を知っていれば余計にこの構図が分かり、児島高徳・南朝方に立つ明智方は敗者となり破滅の道にい進む、といったことも分かる。

どうも、義貞と光秀は「悲劇、悲運の武将」というイメージで重なっていくのだ。そういった視点で読むと小説「明智左馬助の恋」は傑作だ。(あくまでも私の視点で)

次回に続く。次は、その「児島高徳」についてです。

追記  ただ、この小説を原作にしてテレビドラマ化されたが、これはあまり面白くなかった。
(テレビ朝日系2007年12月放送、題名「敵は本能寺にあり」、明智左馬助役は市川染五郎、その他に玉木宏、釈由美子、中村梅雀が出演)
秀満・左馬助が児島高徳の子孫であり、そのイデオロギーを引き継いでいるといった説明も描写もまったくないため、ただ「本能寺の変」をなぞっただけで、実に残念だった。
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

«  | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ --年--月 --日 (--)
  ├ カテゴリー
  |  └ スポンサー広告
  └ スポンサーサイト
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ 2008年11月 07日 (金)
  ├ カテゴリー
  |  └ 新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編
  └ 三宅弥平次こと明智秀満は何者か? 新田義貞伝承を追うシリーズ⑦
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。