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謎の人物・児島高徳  新田義貞伝承を追う!実は……。シリーズ⑧

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新田義貞伝承を追う!シリーズ8回目は「児島高徳その1」です。
このシリーズは、勾当内侍の墓、新田義貞の墓、首塚、ときて、天海、明智秀満と続き、今回が児島高徳。
これらバラバラのものが、最後には収束してある一つの結論に達することを目的に書き続けています。今まさにそこに向かって驀進中であります。(その割には更新ペースが遅いですが……)
今はその途中です。

では、まず国史大辞典から「児島高徳」を引いてみます。
児島高徳 (こじまたかのり)生没年不詳。南北朝時代の武将。備前の人。備後三郎と称し、備後守範長の子。元弘元年(1331年)後醍醐天皇が北条氏討伐の軍をおこして笠置山に行幸し、諸国の兵を募ったとき、直ちにこれに応じて備前に挙兵した。しかし間もなく笠置を陥り、翌二年三月天皇は隠岐に遷されると聞いて、高徳は一族らの兵を率いて播磨・備前境の船坂山、さらに播磨・美作境の杉坂に、遷幸の途次を要して、車駕の奪還を企てたが、事成らず、一味の衆も散じたため、高徳は一夜ひとり美作院荘の行在所に潜入して、庭前の桜樹に一遍の詩を書き留めて赤心を奏上した。同三年閏二月天皇が隠岐島を脱出して伯耆の船上山に還ると、高徳は父範長とともに一族を率いて馳せ参じ、やがて千草忠顕に属して京都に攻め上がり、六波羅攻略にも参加した。建武中興後は備前に帰り、足利尊氏が建武政府から離反したのとも、高徳は引きつづき宮方に属し、今木・大富・和田・射越氏ら、備前邑久郡地方の一族とともに、足利方に敵対して備前・播磨の間に活躍した。また延元三年(北朝暦応元、1338年)には新田義貞に属して越前に赴き、義貞が藤島に討ち死ににしたのちは、義貞の弟脇屋義助に属して、興国三年(北朝康永元、1342年)には伊予に転戦したこともある。さらに翌四年には備前において、丹波の荻野朝忠と通謀し、相呼応して兵をおこそうとしたが、密計が事前に洩れ、室町幕府は備前・備中・備後の守護に高徳の追討を命じたので、高徳は海路にのがれて京都に入り、同志を語らって尊氏・直義らの邸襲撃を企てた。しかしこれまた事成らず、同五年四月、五条坊壬生の隠家を逆に幕兵に襲われて、信濃にのがれ、やがて剃髪して志純と号したというが、その後の消息は詳らかでない。これら高徳の事跡は「太平記」にみえるのみで、他の確実な史料にその名が伝わらないため、高徳を架空の人物とする論がかつて行われたが、その後、田中義成・八代国治らによって「太平記」の記事の傍証となる史料なども指摘され、また児島氏が今木・大富・和田らの一族とともに備前邑久郡地方を中心に繁衍した土豪であることも確かとされ、今では高徳の実在を疑う人は少ない。
とある。

さて、この児島高徳だが、謎の多い人物である。ここにもあるように「太平記のみに書かれている」ということで、他の文献には出てこないという。
そこで「太平記」のどのあたりに登場しているのかを拾ってみた。(私が調べたものなので、見落としがあるかも。児島、小島、三宅、和田などで出ていたものはもっとあったような気もしますが…)
①第四巻、「備後三郎高徳事付呉越軍事」  児島高徳を有名にした「桜樹題詩」の場面で、「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」が出てくる。説明はWikipediaで。 これが彼の初登場で、かなりのインパクトがある。
②第七巻、「船上合戦事」  反鎌倉幕府で挙兵した武将の中に高徳の父・和田備後二郎範長の名がある。高徳も参戦したようだ。
③第八巻、「主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事」  京都で反幕軍に参加。後醍醐天皇側の大将は千種忠顕で、その軍の中に児島備後三郎の名がある。ここには面白い場面がある。負け戦に逃げてしまった大将・千種忠顕に激怒した高徳が「情けない大将忠顕よ、堀に落ちて死んでしまえ」とひとり呟くといった場面がある。まるで主観的描写。それに伊予の河野氏と児島高徳の三宅氏は同族であるといった説明も入る。このあたりで高徳のことが妙に詳しく書かれている。やはり太平記の作者は児島高徳なのかと思わせるものがある。
④第九巻、「足利殿着御篠村則国人馳参」  足利尊氏の六波羅探題攻めには参加せずに、独自に北陸道から京に攻め入る一軍の中に児島の名がある。
⑤第十四巻、「諸国朝敵蜂起事」  足利方が各地で蜂起した。備前にいた児島高徳ら一族が足利軍に囲まれ四面楚歌の状態に陥ったため、高徳は後醍醐天皇に援軍を請う。
⑥第十六巻、「児嶋三郎熊山挙旗事付船坂合戦事」、「備中福山合戦事」  このあたりから児島高徳と新田氏の関係が深くなる。足利方に対抗するため高徳ら一族は新田義貞に味方する。この合戦で、高徳は負傷し、父・範長らを始め一族の多くが討ち死にした。この辺の児島・三宅一族の描写はかなり詳しい。これにより、以後、高徳は新田義貞の傘下に入る。
⑦第二十巻、「義貞牒山門同返牒事」  高徳が草案した書状を比叡山に送る。この文面が名文だという。新田義貞に献策ができる立場にあって、新田軍の参謀格・軍師のような存在になったようだ。
⑧第二十二巻、「義助予州下向事、義助朝臣病死事付鞆軍事」  ここに児島の海賊、河野水軍が登場し、児島、三宅氏が南朝方として登場する。
⑨第二十四巻、「三宅・荻野謀叛事付壬生地蔵事」  京にて、高徳は荻野朝忠や脇屋義助の子・義治らとともに、足利尊氏ら幕府の要人たちの暗殺計画を実行しようとした。が、事前に計画が幕府側に露見し失敗した。
⑩第三十一巻、「南帝八幡御退失事」  高徳は児島三郎入道志純と名乗ったとある。(太平記にはこんなことまでわざわざ書いてある) 後村上天皇の命を受けて関東に向かう。

といったあたりでしょうか。
こうしてみてみると、児島高徳の登場回数は少ないが、長期にわたって登場していることがわかる。これだけの記述があって児島高徳が架空の人物だとしたら、逆に妙です。もし、これが太平記の作者が創造したキャラだったとするならば、大局に大して影響を与えることもなく、負け続ける人物を、ちょこちょこと長期間わたって書き加えていく意図が分からないし、それにもっと派手な活躍をさせるのではないのでしょうか。(何らかの特別な意味があるのなら別だが) そういった意味でも、「児島高徳」という人は存在していた、ということになるのではないのか。(全く確証のない推測的意見ですが) まあ、現代では傍証となる史料も発見されているので、存在自体を否定する人はほとんどいないようですが…。
これはどこか、「風林火山」の山本勘助と似たような存在ではないか、とふと思った。
山本勘助も実在した人物なのか、架空の人物なのかについて、随分と長い間議論され続けている。(現在は実在説が有力) また両者とも、軍師的の役割をしていながら、それでいて、どこか影の人、忍びの人といった「謎の多い人物」といった雰囲気を漂わせている点もどこか似ている。(ただし山本勘助の方は、派手に活躍していて、かなり有名ですが…)
それに、太平記の児島高徳の登場場面を読むと、その状況が詳しく書かれていて、また妙に長文になる、といったこと傾向にあることも分かる。ここが実に不思議であり、同時代の史料には名前さえ書かれていない児島高徳が、太平記のみにその活躍や言動が細かく書き込まれている。また、前に書いた高柳光寿の「足利尊氏」には、(あれだけ厚い本なのに)児島高徳についてはたったの一回しか名前が出てくるのみ。高柳氏は史料至上主義なので、そういった研究者から見れば、高徳の存在は歴史の流れにほとんど影響しない人物だったということになるのだろう。(また当時は架空の人物だという意見も強かったので、敢えて触れなかったのかもしれない) それだけに、「ではなぜ太平記には児島高徳について詳しい記述があるのか」、という疑問も生じてくる。
 それに義貞や新田一族に関しての記述も詳細であり、特に義貞の北国落ちから、義貞戦死までがかなり書き込まれていることも分かる。(「梅竹論」には義貞の戦死さえ全く触れていない。だが太平記では、義貞が見た竜の夢の話や義貞の馬が暴れたといった細かいことまで書かれている) これは太平記の作者(あるいは情報提供者)が、義貞の近くにいてその状況を見聞きしていたということになるのではないか。となると、その時期義貞に従っていた児島高徳は新田一族をよく見ていた人物であり、また高徳は文章が巧みだといわれる点もあって、太平記の作者としてその名が浮かんでくるというわけだ。
となると、児島高徳が太平記を書いたのか?
……。
とここまで書きつつ、ここは次回へ持ち越し。

さて、高徳が、新田義貞、脇屋義助らとともに戦った南朝方の武将ということで、新田一族とはかなり関係が深い。よって新田図書館や太田市図書館には、手に取れる(閉庫になっていない)、児島高徳に関する史料は少なからずあって、彼についての事跡については結構読むことができる。しかし他の地域ではどうなんでしょうか?不人気の南北朝時代で、しかもマイナーな脇役で、実在さえ危ういとされる人の史料なんてあるのだろうか?(戦前ならあっただろうが…)  となると、いま一番手に取りやすい本となると、児島高徳を主人公にした唯一の小説、火坂雅志著「太平記鬼伝 児島高徳」(小学館文庫)あたりしかないのではないか。火坂雅志氏は、NHK大河ドラマ「天地人」の原作者としてブレイク中(?)だが、(「天地人」という名の清酒に、原作者・火坂氏の顔写真が付いているのを見て驚いた) かつてはこういった一風変わった歴史時代小説を結構書いてました。(私が好きなのは「忠臣蔵心中」「西行桜」「黒衣の宰相・崇伝」など)
火坂版「児島高徳」
これは文庫版。「鬼道太平記 風雲児・児島高徳」(PHP研究社)を改題、加筆したもの。後半部分がかなり加筆されているように思う。もちろん小説なのでフィクションも多いが、実に読みやすい。児島高徳の人と為りとその一生、南北朝時代の流れと、彼が身を置いた南朝の悲壮な戦いなど、これらを平易に知ることができる小説となっている。それに、なによりも児島高徳を主役にして長編小説を書いた火坂雅志氏に敬意を払いたい。(なぜ高徳を書こうとしたのか、なぜ売れそうにない題材で出版にまでに至ったのか、そのあたりの経緯が私にとってはとても気になるところ)
この本が面白いのは、高徳ら児島・三宅一族を「忍び」の人々だとみている点だ。「あとがき」にこうある。
「児島高徳が生まれた備前国児島。 いまでこそ陸地とつながる半島になっているが、戦国時代までは瀬戸内海に浮かぶ島で、古来、畿内と九州地方を結ぶ海上交通の要衝となっていた。熊野水軍を擁する熊野山伏が児島に移り住み、この島を修行の霊場としたのも、ここが海上交通のキーステーションであった事実と無関係ではない。 <中略> 児島高徳はただの忠臣ではあるまい。山伏、すなわち修行勢力の力を背景に、野望渦巻く南北朝という苛烈な時代を生きたひとりの風雲児であったはずだ。多くの山伏がそうであったように、かれもまた早業や杖術など秘伝の武術を身につけていたに違いない。 <中略> 高徳はいざ事をおこすとき、単独か、または少人数で微服潜行している。これは何を意味するのか。 『究竟(くっきょう)ノ忍ビ』と、「太平記」に書かれた児島五流山伏である。かれらの首領であった高徳が、“忍ビ”の活動と無縁であったはずがない。  楠木正成、新田義貞、名和長年ら南北朝期のほかの武将にくらべ、高徳の事績が詳らかでないのは、彼が闇に生き、闇に死んだ忍びの系譜を引いていたからではないか。 <以下略>」とある。
これ、なるほどと思わせるものがある。彼らの史料が極端に少ないという点を高徳の系譜である児島・三宅一族らが「忍び」であったからではないかと見ていることだ。山伏と新田氏との関係が深いことは「太平記」の数々のエピソードからも分かっているので、そこから、児島高徳と新田氏が結び付いたというのも分かるだろう。南朝方が闇の勢力(山伏、天狗なんて者たちがキーワードとして頻繁に登場する)を味方につけていたことも分かる。そういったこともこの小説でより理解できる。よって、この小説を南北朝時代の忍者モノとしても読むことができるので、児島高徳が行った太平記巻二十四の「尊氏暗殺計画」の場面はかなり迫力がある。
しかも面白いのは、児島高徳が、新田義貞よりも弟の脇屋義助を慕っている点だろう。直情型の義貞よりも兄をサポートし続けた義助を智将としている。(こうした見方をしている人は結構いて、他に浅田晃彦氏がいる) ここには書かれていないが、高徳は脇屋義助との関係の方が実に深く、そういった逸話はかなりある。(ここも次回で)

さて、この児島高徳の墓といわれているものは全国で9ヶ所あるという。
宮家史朗著「児島高徳 実在論」によれば、
①備前国児島郡林村(高徳の屋敷跡地があったところ) ②備前国児島郡木見村(高徳の城があったという。高徳の子を葬った寺がある) ③播磨国揖西郡坂越村妙見山(高徳が傷を癒した場所) ④河内国観心寺(吉野で病没? しかし、高徳は後村上天皇の勅を受けたとあるので、この地で死去したとは考えにくいとある。ここにあるのは、楠木正成の首塚) ⑤出雲国能義郡雲樹寺境内(雲樹寺が後醍醐天皇の勅願所であり、高徳が訪ねた所。) ⑥土佐国高岡郡半山郷春日神社(ここに児島神社があるが、児島氏の子孫が建てたものであって、高徳の墓があるわけではない、としている) ⑦三河国賀茂郡東広瀬高済寺(三河三宅氏の地。) ⑧陸中国和賀郡妙見寺(「三宅系譜」に書かれた「妙見寺に於いて卒す」という記述と、高徳の東北募兵行脚から出た説。ただし伝承と年代が合わないことから否定している)
⑨上野国邑楽郡古海村高徳寺(新田荘にある。高徳が新田一族と深い関係にあったことや、寺宝などから、ここが最有力地)
この群馬県大泉町にある「高徳寺」が高徳終焉の地としてもっとも有力であるといわれている
ではなぜ児島高徳は「新田荘」にいて、この地で没したのか、という疑問も残るでしょう。
その理由となれば、何といっても、後南朝の長慶天皇やその子尊良親王が、一時この地に隠棲していて、高徳はそれに従っていたからだということになるだろう。実際、この周辺には長慶天皇に関する伝承・伝説多く残っている。またもう一点は、新田義貞が愛した勾当内侍も新田荘に逃れていたという伝説あるからだ。しかも義貞とのあいだに子もあった。(これは新田義貞伝承を追う①で) 私も「勾当内侍を新田の地に連れてきたのは児島高徳だ」、ということを東毛奇談のオチにしている。
さてその新田荘だが、ここは実質的には足利方に制圧されていた。だが、もともとこの地には、新田一族に連なる縁者、家臣、下僕、恩義のある者、またそれらにつながる家族などなど、新田氏に心を寄せるものがまだまだ数多くいたのだ。支配者である足利方には従ってはいたが、面従腹背、心情的には新田方・南朝方に味方になる者も多かったというのだ。(新田氏系でありながら足利方に味方し新田荘を支配した岩松氏だが、岩松満国の養子満純は新田義貞の孫(義宗の子)だと称して、岩松氏を継いでいる。また、下克上で新田荘を支配した横瀬氏(のちに由良氏を名乗る)は、新田義貞の孫貞氏を祖であるとして「由良系図」まで作った。つまり新田荘を支配するには、新田氏、義貞の子孫であることを強調しなければならなかった。それだけ新田氏に心を寄せていた人々がこの地に多くいたということだろう) そういったことからも、ここが南朝方の一種の逃避場所となっていたようである。(この辺の説明がうまくつかない。ただ、だが新田荘には、南朝方の伝承や遺跡がいまも多く残っているのも事実なのである。)

ということで、「高徳寺」を訪ねてみた。何回かは行ったこともあるが、今回はデジカメ持って、じっくりと見て来た。
高徳寺1
高徳寺2
高徳寺3
正式な寺名は「真言宗古義派医王山延命院高徳寺」。開基は義晴法師児島高徳入道志純。天授六年(1380年)三月に建立されたが、明和四年(1767年)に火災によって建物、文書類がほとんど失われる。翌五年に再建されたという。(この火災がなければ、貴重な史料が残っていたはずなのに…)
高徳寺4
高徳寺5
戦後荒廃していた寺は、今は建て替えられていてかなり新しくなっている。しかも境内はかなり整備され、記念の石碑も増えていた。
ここで逸話を一つ。
この地で、北の湖が現役時代に奉納土俵入りの四股を踏んだ。
昭和55年5月27日、高徳寺で「児島高徳600年忌祭」が行われた。そこで、奉納土俵入りの儀式が行われた。四股を踏んだのが当時横綱の北の海で、太刀持ちが増位山、露払いが闘竜だったという。なぜこれが執り行われたかといえば、当時相撲協会理事だった三保ヶ関親方の祖先が児島高徳だということからだ。
図書館の郷土資料の中に、このときの模様を伝える冊子があった。その本によれば、「三保ヶ関親方はこの日謝辞を読み、感涙に咽んだ」とある。親方の本名は沢田国秋といい、兵庫県出身。児島高徳の子は4人いたと伝えられ、長男高秀は宇喜多氏の祖、三男高貞が三河三宅氏の祖、四男良寛は三河国大林寺の僧となった。そして、次男の高久が播州の庄屋沢田家に養子となり、沢田氏の家系を継いだ。これが、三保ヶ関親方の祖先にあたる。親方は幼いときから児島高徳の末裔であるという話しを聞かされて育ったという。親方の子供のころは、当時皇国史観に支配されていたから、忠臣の鑑である児島高徳はかなり持て囃されていた。よって、児島氏の子孫であるということは、その家の誇りとなったはずである。
この冊子には写真も掲載されているが、北の湖が若い。まさか平成20年の今になってこんな事態になろうとは本人も思っていなかっただろう。

と、そういったことを思いつつ、高徳寺の境内にある神社へ向う。「長良神社」とあった。
いままでそこが「児島神社」だとばかり思っていたが、それは大きな勘違いだった。
そして、グーグルマップを見て気づいた。「児島神社」は高徳寺にあるのではなく、少し離れた場所にあった。(ヤフー地図や普通の地図にも出ていない。)

大きな地図で見る
早速、向かってはみたが、これがなかなか見つからない。ただ、見当をつけて、こんもりとした林の中を行くと、それらしき鳥居が見えた。
児島神社2
神社には扁額もかかっていなければ、社名が書かれたものも一切ない。それに掲示板もなければ、案内板もない。
児島神社6
ただ、ここが「児島」という地名だと分かったのは、この公園にある標識だけだった。神社のある周辺が公園になっているらしい。ただ人気は全くなく、不気味なほど静かだ。公園とは名ばかりで、ここで子供が遊ぶとは到底思えない。
おそるおそる、境内を進むと、社殿が見えた。
児島神社1
荒廃した神社とはこういったものなのか、と実感するほど荒れ果てている。それにこれが「児島神社」だと示すものは何ひとつない。
ただ、屋根を見て、ハッとした。そして、「ここが児島高徳を祀った神社だ」と確信した。
児島神社3
児島氏の家紋である「児」の文字をあしらった家紋が見える。(画像は見づらいですが、実物は目視で分かる)
児島神社4
そして、三宅氏の家紋である「三宅輪宝」。これがしっかりと残っている。
まさしく児島・三宅氏の家紋。
そして、「三宅輪宝」は天海、明智秀満が使った家紋。また日光東照宮の慈眼堂で見たあの家紋。
すべてのつながりはこの家紋にある。


それに、この神社に来て分かったことがある。
それは、この神社や児島高徳の墓が、利根川の河川敷に近くにあるということだ
川は重要な交通手段であり、陸路よりも迅速に、人と物を大量に運ぶことができる。
この川をたどっていくと、「勾当内侍の墓」「世良田」「長楽寺」すべてが一直線で行き来できるということに気がついた。
距離的には少し離れている大泉町に、なぜ児島高徳の建立した寺や墓があったのか、今まで疑問だった。だがその疑問は氷解した。川運を利用したということだったのだ。
世界・ふしぎ発見 世良田・地図

画像は「世界・ふしぎ発見」で紹介されたもの。これは埋蔵金を江戸から世良田に運んだという説明のときに出てきた図。これが利根川。つまり、この川を利用すれば、上州から武蔵国、江戸へ抜けられるという位置に世良田や大泉があったということなのです。

今回はここまで、次回に続く。
(この調子じゃ、終わるまでに何年もかかりそうだ)

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