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司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由が分かった。 その1

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今まで、司馬遼太郎が「南北朝時代」を書いていないのが不思議だった。
彼の膨大な作品群の中で、なぜか、鎌倉幕府滅亡~南北朝時代つまり「太平記」の時代がぽっかりと抜けているのだ。戦国時代以前の作品では、奈良時代の「空海」、平安時代の「牛黄加持」など短編が数編あり、鎌倉時代成立時の「義経」、室町時代・応仁の乱では「妖怪」、「花の館」、と数は少ないがそれぞれあった。
だが、南北朝時代のものは短編でさえ一つもない。ただ興味がなかった、いやその機会がなかったのか、その辺りのことは分からない。ただ、もし、司馬版「太平記」があったなら、この時代を舞台にした小説の決定版になっていたはずだろう。果たして、どんな物語になっていたのだろうか、といろいろと想像してしまう。(たぶん、関西出身なので楠木正成を主役にしていただろう。そして義貞は良くは書かれないとは思いますが……)
そこに、フト手にとった本の中に、司馬遼太郎が「南北朝時代を書かない理由」が、本人の弁で書かれていた。
それは、文春文庫「手堀り日本史」という歴史エッセイの本の中にあった。
司馬遼太郎 手掘り日本史

かなり平易で、さばけた感じの文章。ただそれだけに「本音」が伝わってきます。
ページ数にして3pほどなので抜き出してみました。
「第3章 史観というフィルター」の中の「楠木正成の時代、このにぎやかな時代がつまらぬ時代であること」という題で、楠木正成の人物像や水戸学史観に触れたあとで、先にインタビュアーの質問があり、それに答える形になっている。
以下引用。

「楠木正成という人物についても、いまおっしゃったことはよくわかりますが、それに、微妙にからまる問題として、いつか司馬さんが、この正成の生きた南北朝の時代について、作家はこの南北朝時代に手を触れてはならない、とおっしゃったということを、間接的にお聞きしたことがあります。間接的に聞いた話なので、このことば通りのことだったかどうか。もっと手につけにくい厄介な時代だ、というニュアンスでおっしゃったのかもしれませんが、そのことをちょっと伺いたいのです。ずっとお話になってこられた史観の問題と手掘りということに関して、作家がその対象にしようとするときの南北朝時代とはどういう時代なのか。いまお話になられた正成の像というものとも密接な関係があると思います。小説の対象になりにくいとはどういうことなのか。」

という問いに、司馬遼太郎の長い説明がある。

「南北朝時代というのは、治乱興亡の起伏が激しく、後醍醐天皇から、大塔宮、楠木正成、新田義貞、さらに足利尊氏などと、役者がそろっていて、その意味ではドラマチックな時代ではありますね。そこでつい、これを舞台にして小説が書ける、と思ってしまう。しかし、私の感じでは、どうせ小説にはならない。すくなくとも小説にしにくい感じなんです。
なぜ小説にならないのか。自分でもまだハッキリはわかりません。断定できないのですが、これまで鷲尾雨工さんの「吉野朝太平記」だとか、吉川英治さんの「私本太平記」だとか、多くのかたがこの南北朝時代を小説に書かれています。しかし、いずれも、これを書きあげると仕事が衰弱するか、亡くなってしまわれる。
あるいは、作家の創作意欲というものが、体力的にも衰弱されたころに、手を染められている、というようなこともあるのでしょうか。なにか、南北朝ものというのは、縁起ものの匂いがしてくる。その作家にとって縁起ものの感じがするという点が、南北朝時代という時代をみるのに大事な点だと思います。」

とあった。
だが、ここから更に、南北朝時代を実に簡単に斬っています。

「南北朝時代について書き出すと、作家はかならず苦しくなる。なぜかというと、みな水戸史観で訓練された目で南北朝を見ようとする。吉川さんも、残念なことに、水戸史観を頼りにこの時代を見ておられます。それ以前の作家たちも、たとえば矢田挿雲という人もここを書いておられますが、やはり水戸史観を頼りにされている。
そういうわけで、非常にきらびやかな、楠木正成などという人物が登場してくる。後醍醐天皇の悲劇もある。笠置から落ちていかれる道行きもある。全部悲愴美に飾られているわけです。
ところが、その悲愴美は水戸史観を通してこそ出てくるわけで、通さなければこれは何でもない騒ぎなんです。そう見ていくと、これはおよそつまらない時代なんです。」


げ~そこまで言い切るかって感じですが、更に、司馬遼太郎がこの時代を好まなかった理由が述べられます。

「まだ相続法というものが確立してない時代で、遺領を相続する場合にも、長子が相続するか、末子がするか、あるいは生き残っている誰かが相続するのか、よくわからない。そういうことが何となく曖昧な時代なんです。
ですから、たとえば、ある地侍の家で、三男が相続してしまう。すると長男が怒る。そこへまた叔父さんまでが加わって喧嘩になる。まんじ巴になってしまう。鎌倉体制が古びていくと、そういうことが、九州から東北にいたるまで、全国どこでも発生する。小さな地侍の家でも、始終そんなゴタゴタがあったわけです。
何か新しい、ピシッとした形がほしい、とは、時代の誰でもが思っている。そういうばくぜんたる時代の期待から足利尊氏が出てくるのですが、彼は、オレについた奴にはその権利を認めてやる、と言うんですね。
ちょっとこまったことに、この時代的英雄であるはずの尊氏には、思考の基準というものがない。たとえば長男が尊氏に付きしたがえば、お前の家の領地はお前のものだ、ということになる。すると次男が怒ってしまって宮方につく。どこの土地でも、すくづらくなる。創造的なことが出てこないために、しだいに苦しくなり、ちょうど胃液も何も出ないものを消化しようとするような、そういう身体の状態になって衰弱してしまうのですね。」


簡素にして的確。南北朝時代を理解するポイントを述べてます。これは前回の「井沢元彦の新田幕府誕生か」と同じ指摘がある。以下ではさらに、司馬遼太郎が歴史小説を書くときに必要なのものは何なのかが逆説的に見えてきます。

「もうひとつ、南北朝の時代には、時代の美意識というものがない。鎌倉時代には鎌倉武士の美意識があった。私たちがいかにも痛快だと思うような、畠山重忠とか、生田の森で箙(えびら)に梅をさして戦った梶原景季だとか、そういうものがあった。そういう美意識が鎌倉時代の末期には衰弱し、しかも新しい美意識はまだ生まれてこない。ここにあるのは利権・利害だけですから、小説にはなりにくい。ある種の小説にはなりますでしょうが……。
歴史小説というものは、前時代の美を壊すか、あるいはそれに乗っかる、その態度が最初に必要なのですが、そのための素材が何もない。現実は果てもない利権争いの泥沼というだけのものが、水戸史学のフィルターにかけられ、一見すばらしい風景に見えるんです。だからうっかりそれに乗ってだまされてはいけない。作家たちも、ずっとダマされてきたんです。観念史観にせよ、唯物史観にせよ、史観というもののこわさがそこにあります。ときに歴史をみる人間に、麻薬剤の役目をします」

と以上がすべてです。
南北朝時代には美意識がないのか? だからこの時代が嫌いなのか。
だだ、好まなかった理由はそれだけではないようです。重要なのは、最後に書かれている「史観」これこそに問題にあるようです。

それにもうひとつ、南北朝時代を書かない理由を載せていた本がありました。
それは、「司馬遼太郎の日本史探訪」(角川文庫)。
司馬遼太郎 日本史探訪

楠木正成」の章の中に書かれていました。以下その部分を引用。

「南北朝時代というのは、何だろうということですけど、これはもう小説にも書けない時代ですな。小説に書ける時代というのは、その時代のモラルがある、あるいはモラルに代わるものとして、たとえば美意識でもいい。鎌倉武士の畠山重忠にしても、それから平家の平敦盛にしても、彼らそれぞれが美意識をもって行動しますね。彼らは利害関係で動くわけですけども、その戦闘行動とか生死のあり方というものは、美意識でもって動かされている。南北朝時代になるとそれがないんですよ、時代全体にないわけです。もう功利社会そのものでしてね、エコノミック・アニマルの時代なんです。
その時代が持っているモラルなり美意識なりに乗っかっても小説は書けるんです。あるいは、それに対してパンチをくらわせるという形でも小説は書ける。しかし何もない時代が南北朝でしょう。ただ利害関係だけという時代ですから、なかなか書きにくい時代ですね。それがなぜなのか。非常に簡単に言いますと、土地相続法がはっきりしていなかったんですね。
とにかく南朝・北朝に分かれて争ったというのは、南朝の天皇と、北朝の天皇が喧嘩をしたというだけでなく、もっと基盤的にですね、村々字々の小さなやつが土地相続をめぐって一族で争い合っているわけです。で、おれが正統な相続者だということを認めてもらいたさに、いろいろの上とつながりをもたしていっての争いだから、南北朝は日本全国の争いですね。つまり国じゅうの武士たちが、欲望で黒煙をあげているような時代だったんです。だけどそれを水戸光圀が編纂責任者だった『大日本史』では、思想問題として扱っている。南朝方に属した人は忠義である。武家方に属した人は忠義ではないかもしれないようなことになっている。それを頼山陽が『日本外史』という通史を書いて明確にしたわけです。そころが武士たちは、そんな意識で動いているわけではないんで、そんな意識で動いたのは、どうやら楠木正成だけじゃないかと思います。」


とほとんど「手掘り日本史」と同様のことが書かれています。違う本に同じ内容ということは、司馬遼太郎の「南北朝時代」の認識はこれで間違いないということでしょう。
そして、重要なのは、これに続く楠木正成とイデオロギーについての文です。

「……その教養人ということについてですが、中国の宋学というのには、こういう考えをすべきだという、つまり名分論なり国家論というものがある。国家や皇帝について、あれは、偽物の皇帝だ、これは本物の皇帝だという、その見分けるセンスというものが学問で大事だというのが宋学です。南宋で発達した思想ですが、正成はそれを持っていたんじゃないかと思う。珍しい人ですよ。政治的なイデオロギストとしては、日本で最初ですね。
私は、イデオロギストという人たちが苦手なほうなんですけれども、なぜ苦手かというと、非常に頭が固くて話していてもおもしろくない。なぜ面白くないかというと、おにぎりを作る器具をデパートで売っていますが、枠にご飯を入れておにぎりをパチッと作るみたいにして物事を考える。頭がどうも固い。ところが正成はそうじゃないんです。非常に柔軟な政治感覚を持っている。イデオロギストとして見たら珍しいほどです。日本人のイデオロギストというのは、大正・昭和にもマルキストがずいぶん出ましたけれども、どうも本物なのかどうなのか、メッキなのか純金なのか、わからないとこもあるでしょう。だけどこの正成は、もしイデオロギストだとしたら、数少ない純金の人物じゃないかと思いますね。」


さて、ここで問題なのは、「楠木正成がイデオロギストだったのか」といった内容云々ではなく、司馬遼太郎が何度もイデオロギー、イデオロギストという言葉を頻発させていることにある。この本で扱っている楠木正成の章は17ページほどだが、この短い文章の中に、この言葉が10回ほど使われ、ほかにもレーニン、マルキスト、宋学、革命などといった言葉が何度も登場し、例えとして「東大の安田砦みたいだ」などという表現も使われていた。
司馬遼太郎にとって南北朝時代を説明するためには「イデオロギー」を抜きには語れなかった、ということだろう。
それに時代背景もあっただろう。当時、戦後昭和の時代は、「皇国史観」の残滓と「マルクス主義・唯物史観」の勃興という狭間にあって、まさに混乱の状態にあったようだ。「歴史学」「日本史」を書く際に、このことを抜きにはできなかったということだろう。それは小説といえども、これを無視しては書けなかった。それが端的に表れていたのが「南北朝時代」であったと司馬は考えていたのではないか。難しい言葉が並んでいるが、簡単に言えば「南北朝時代には安易に触れてはならない」といった意味に取れる。
これは、高柳光寿著「足利尊氏」の序文やあとがきにもイデオロギーのことにかなり触れていたことでもわかる。

さて、もう一つ、河出書房新書・日本古典文庫14「太平記・上」に、司馬遼太郎の解説が載っている。ここでも、主に「楠木正成」と「後醍醐天皇」と「太平記のイデオロギー」について書いている。
十数頁の文章だが、ここでは「イデオロギー」という言葉が17回も登場し、朱子学、宋学、皇国史観、マルクス・レーニン・ソ連といった言葉が連発する。
この本は「太平記」の現代語訳の本なので、「太平記」そのものについての解説が妥当であるはずだが、司馬遼太郎はここでも「太平記」「南北朝時代」を「イデオロギー」の面から解説している。
またこんな一文がある。

「私はイデオロギーというものを、たとえば体質的に酒を好まないという程度においてそれを好まないが、ところが太平記には酒臭がにおっている。大胆にいえばイデオロギーの書であるといえるかもしれない。」


とある。「日本史探訪」と同じような例えでやんわりとイデオロギーはヤダと言っているが、相当キライなようだ。それに司馬遼太郎自身もその歴史観の批判を多く受けている。Wikipediaの「司馬の考え方」「歴史観への批判」の記事が取りあえずはわかりやすい。(昭和40年代生まれの私はこの辺りが残念ながらよく分からない。司馬遼太郎作品を読み始めた平成の時代には、皇国史観もマルクス主義も無くなっていたので…。)
つまり司馬遼太郎は、「イデオロギーの問題はやっかいなことだ」と辟易していたのかもしれない。
そう考えれば、「太平記」がイデオロギーの本だと認識している司馬にとって、思想的にもデリケートな南北朝時代を取り上げることなど、まずありえない話だったのだろう。

次回に続く。
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Comment

[441]
知らなかった。
右にしろ左にしろ脊髄反射する人は嫌ですよね。

>南北朝は日本全国の争いですね。つまり国じゅうの武士たちが、欲望で黒煙をあげているような時代だったんです。

これって本当なんかな?戦国時代とかは
どうなんだろ?

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