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物語を物語る

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司馬遼太郎が南北朝時代を書かなかった理由がわかった。その2

物語を物語る

前回の続き

司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由として、①「イデオロギー」の問題 ②南北朝時代には「美意識がない」、という2点に集約されることが前回の司馬自身の文章で分かった。
ほかにこれに関することが載っている本がないか探していたら、ありました。
半藤一利著「清張さんと司馬さん」(文春文庫)。当時、司馬遼太郎と松本清張の担当編集者であった半藤一利が、昭和の二大巨匠について語り、また2人にまつわる数多く逸話を紹介していました。いい本です。
その中から今回に関することを抜き出してみる。

「梟の城」は現代小説のつもりで書いたものです。いまでこそサラリーマン仲間に入れたといっても、長い間丸ノ内や北浜の商社や銀行員とは一線をかくされてきた新聞記者という職業を、正式の侍になれなかった伊賀者、秀吉の首という特ダネを狙う忍者によって書いてみたかったのです。結局、人生は自分の心の中にある美意識の完成だと思います。やっぱり、誰も知らない心の中の勲章をブラさげて死んでいけばいいんだと思います。」(週刊文春・昭和35年2月1日号)
(司馬の)直木賞受賞の弁です。いまから考えると、司馬さんは実に率直に話されているようです。たしかに、司馬さんの生涯は美意識の完成を目指していたといっていいようです。美意識とは、その人の生き方の好みです。イデオロギーとか理念とか、体系として強制してくるものを、司馬さんが嫌ったのはそのためでしょう。司馬さんがイデオロギーを嫌うのは、単にマルクス主義の物神化をさしているだけではなく、キリスト教、朱子学、水戸学、皇国史観……などといっさいの思想の物神化としてのイデオロギーを嫌ったのです。


この一文に、司馬遼太郎が南北朝時代を書かなかった理由が含まれている。「梟の城」は長編デビュー作であるから、小説を書き始めたときからすでに「美意識の完成」は彼のテーマだったことも分かる。

でも、「美意識」って、これは難しい問題だ。
人によって「美しい」「痛快」だと感じる点は大きく異なる。まさに主観の問題で、これこそ個人の感性に左右されるもの。司馬遼太郎がどこに「美」を感じていたかということは、司馬史観、司馬遼太郎の本質にも関わることで、とてもではないが、素人がブログで書くような簡単なレベルではないことと思い、ここでは軽く問題提起くらいにしておく。(とりあえずここで予防線を張っておきます。)

さて、私は皇国史観からも民衆闘争的な視点の歴史学からも解放された世代にある。その私が「太平記」を読めば、そこからいくらでも「武士の美意識」「痛快だ」と思う逸話はいくらでも見出せる。だがこれらの逸話は、司馬自身のいうところの「武士の美意識」とは適合しなかったようだ。やはり司馬遼太郎の頭の中では、「太平記」が「イデオロギー」や「宋学」に基づいて書かれたものであり、のちに「水戸史学」や「皇国史観」によって濾過された虚構のものだという固定観念が形成されているから、素直には受け入れられなかったのだろう。これは当時の時代背景と戦後の歴史学の状況が司馬遼太郎に大きな影響を及ぼしていたのだろう、と推測できる。(また、戦後の時代背景を全く知らない世代の私には、こういった見方があったというのが、逆に新鮮だった。)
やはり、「南北朝時代」の根底に「功利主義」「私欲の争い」があるのは事実で、またいつ果てるとも知れない骨肉の争いが続く「太平記」は、司馬遼太郎を辟易させ、持て余すものだったのだろう。
また、Wikipediaにもあるように、合理主義であった司馬遼太郎が、「司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとする発想」といった文を読むと、太平記がこれらすべてを含んでいる(3部で展開される天狗や怨霊話はうんざりするかもしれない。)こともあり、やはり、これらを考え合わせれば司馬遼太郎が、「太平記」「南北朝時代」を基にした小説を書くはずがない。
かなり残念。
また、「手掘り日本史」で引用している部分を読むと、要は「南北朝時代は、前時代の美意識もない、新しい美意識もまだ生まれていない、空白の時代だ」ということも言いたかったらしい。
これには、丸谷才一・山崎正和著「日本史を読む」 (中央公論社)の中に、興味深い一文があった。
「室町時代に始まったものは多く、生け花、茶の湯、水墨画、能、狂言、座敷、床の間、掛け軸、庭、醤油、砂糖、饅頭、納豆、豆腐……などなど、現代日本人の大筋のところは、みんな室町時代に始まっているという。それを評して、中国学の大家・内藤湖南の言葉を引いて「日本を知りたいならば、室町以降を知れば十分である。それ以前の日本は外国みたいだ」という名言があり、これを司馬遼太郎はほめているという。本文では「司馬さんが内藤湖南の説に喝采する心理的動機としては、司馬さんの近代主義が大きく作用している。つまり、近代日本の胚芽は室町時代にある、それ以前は前近代だったという気持ちがあるわけですね。」という丸谷氏の言がある。
ということは、司馬遼太郎にとっての日本史のとらえ方は、鎌倉末期までが前近代、室町時代が近代であり、南北朝時代はそれらが何もない、一つの境界線であり、その過渡期、変革期であったとことだ。それに南北朝時代は非常に捉えにくいエコニミック・アニマルの時代だという認識だった。

さて「武士の美意識」がないと、小説を書かないのかという点で他を考えてみた。
そこで司馬遼太郎の「義経」を挙げてみる。
司馬遼太郎 義経
この小説「義経」は実に不思議な小説なのだ。文庫上下巻で、義経の人生を描いた長編のはずだが、実のところ義経の人生の後半部分が描かれてないのである。
義経と兄頼朝が対立を始めるころからそれ以降の事柄を、紹介程度のほんの数ページで済ましている。(義経の父母の代から物語を始めているにも関わらずだ。) 「義経」の人生の面白みは栄光から転落していく様にあり、物語としてもここから盛り上がるはずだ。(と私は思う) つまり、頼朝からの追手を逃れて奥州までたどり着く逃避行の様子や、静御前の別れやそれにまつわる話、弁慶の立ち往生なんていう山場や、奥州藤原氏一族の葛藤、そして義経の悲劇的な最期……などなどすべてが端折られている。よって、当然のように、それに以降にまつわる伝説(義経不死伝説など)などにも一切触れていなかった。
「これじゃ中途半端だよ」と読了後は呆然としてしまった。また、なぜ後半部分を書かなかったのが不思議と思っていた。
それが今回の「美意識」と関係があったか、と何となくわかったのは、前出の「日本古典文庫・太平記」の司馬遼太郎の解説にあった。以下引用。

「…しかも最後は要するに陰惨な兄弟げんかで、さらに義経その人の最後は、右の3人(諸葛孔明、真田幸村、楠木正成)と同様劇的なものでありながら要するに「不如帰」の浪子と武男と同質のものなのである。」

とある。
義経と頼朝の争いを「陰惨な兄弟げんか」で、しかも「義経の死を痴話喧嘩の果て」と見ている。
つまりそこには司馬的な「美意識」がなかった。だから、小説「義経」には、頼朝と義経が争い始めるあたりで収束し、それ以降がないのだ。
それでも、思い入れのある人物や事柄があれば作家は「書きたい」という衝動に突き動かされるものだが、その意欲は失ってしまったようだ。

小説というのは、何もない空気をかき回して、そいつを自分でひねって、ひねっているうちに、結晶みたいなものができてくる。それが小説になるんだ。そのためには燃え上がるような力ずくのエネルギーがいるんだ。リビドーというか。……


と司馬の創作意欲の素が書かれていた。
この原動力のひとつが司馬のいう「美意識」だったのだろう。それがなければ、小説の途中でもそれ以降は書かない。そうみれば、「南北朝時代」はこういった争いの連続で、これがイヤというほど出てくるわけです。(私にはそこが「太平記」の一つの面白さだと思うが…) 源義経でさえそうであるのだから、南北朝時代はそれ以上だろう。
やはり司馬遼太郎が「太平記」書かなかった理由もこれで分かります。

さて最後に、半藤一利著「清張さんと司馬さん」の中から、なるほどと思った一文を。
司馬さんが亡くなる一年前のインタビューで、珍しく憂国の情をあらわにしたという、部分から。

「土建エネルギー」によって蹂躙された戦後日本への怒りと嘆きともいえるものでした。ただ醜悪なだけの巨大コンクリートの箱を造るために、長いこと人々の心をなぐさめてきた美しい日本の景観が容赦なく破壊される。
戦後日本は、「暮らしいい社会をつくろう」という即物的な理念しかもたなかった。いま私たちはその「土建エネルギー」「豊かさの追求」ということの脆弱さに気付かされています。公のために存在しているはずの官僚システムがまったくそうでなことが白日のもとにさらされています。いま眼前にあるのは精神の荒廃のみで、このままでは、「日本国の明日はない」と観じた司馬さんは、おのれを殺し世のために尽くすという日本人の昔から持っていた律儀さ、実直さを諄々と説き、警鐘を鳴らし続けたんです。
国の行く末を思うのは、特殊な職業にある人々だけではありません。一人ひとりの生き方の総和が国の方向を定め、歴史をつくっていく。禁欲的なサムライの美的論理こそが国を救う。それが司馬史観のエッセンスといっていいでしょう。 <中略>  わたくしは、この「自然をもう壊さない」を司馬さんの遺言としていま大事にしています。とともに、そうか、司馬さんが(夏目)漱石先生を懐かしがるのは、同じ思いを漱石も抱き、そして警鐘を鳴らし続けたからなんだ、と納得することにしています。
漱石は言います、日本の二十世紀は堕落しきっていると。その理由は「生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促した」からで、そこで、何ととか一日も早くモラルを回復せよ、漱石は訴えるのです。そのために日本人よ、欲望を減らせ、自己限定の決意を固めよ、とも説くのです。そうなんですね、司馬さんの言う「自然を破壊しない」と、漱石の「自己限定せよ」とは同じことを言っているのです。
全力疾走でここまできた日本。物質的繁栄では世界に冠たりと誇りつつ、神経衰弱にかかって気息奄々たるいまの日本。「気の毒とは云わんか」、この漱石の言葉は死語になっていないのです。司馬さんは同憂の思いを漱石のうちに感じていたに違いないのです。


南北朝時代も、「禁欲的なサムライの美的論理」を失っていた時代だと司馬遼太郎は思っていた。夏目漱石が言った「生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促した」という言葉が、司馬が「楠木正成の時代、このにぎやかな時代がつまらぬ時代である」と称した南北朝時代と同化する。
そのどちらもが「今の平成の時代」とどこか重なる。そう、欲望に満ちた現代は、混乱の南北朝時代と同じなんですね。

だが、そんな時代でも、「美意識」のある話は、いくらでもあるはずだ。
司馬遼太郎を縛っていた「イデオロギー」は、今は消えた。
ならばいまこそ、混迷し、迷走し、功利主義に走った「南北朝時代」は、現代の今こそ、書かれるべきものなのだ。
さて、1990年12月号「歴史読本」に、当時南北朝時代を書きまくっていた北方謙三のインタビューがある。その中で「闇の南北朝時代にこそ男の夢がある」「南北朝は歴史小説の宝庫になる」といっていた。しかしそんな北方謙三も、これ以降はこの時代から離れていった。
また、ここから20年近く経つが、他の作家が南北朝時代の歴史小説に本格的に挑戦したということはない。
それは司馬遼太郎が活躍した時代に縛っていたイデオロギーが消えた現代にこそ「南北朝時代」は書かれるべきものであり、南北朝時代の中に混迷した現代が学ぶべきものが実は多く眠っている、と思う。
司馬遼太郎版「太平記」は存在していませんが、
「書き上げると生命を縮める」と言われる「南北朝時代」に挑む「作家」はいないのだろうか?
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消えた二十二巻

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