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物語を物語る

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「うの」と「カツマー」と「清貧の思想」

物語を物語る

1「勝間和代」と「清貧の思想」

まず、読売新聞 平成21年3月10日国際面から

「清貧カルバンブーム」
禁欲的教理で知られる16世紀のキリスト教宗教改革指導者ジャン・カルバンが、金融危機をきっかけに、オランダで一躍脚光を浴びている。日本でバブル経済崩壊後の1990年代に起こった「清貧ブーム」とそっくりの現象で、華美や快楽、金銭欲を戒める動きが広がっている。
オランダのバルケネンデ首相は先月、金融危機に関する論文で「物欲、金銭への執着、利己的商法が(危機を)引き起こした」と指摘。カルバンの教えに立ち返ろうと国民に呼びかけた。
日刊紙トラウは、自社ウェブサイトに「カルバン度」を試す診断コーナーを開設した。「ぜいたくな食事が好きか」「ファッションにこだわるか」など24項目の設問に答えると、自分がどれだけカルバン主義か、百分率で表示される趣向だ。
カルバンを「16世紀のバラク・オバマ(米大統領)」と紹介する特集記事を載せた雑誌は、発売と同時に売り切れた。
オランダは国民の4割超が「無宗教」を称する一方、国土干拓にまつわる苦難の歴史を背景に、欧州でも特に倹約志向が強いことで知られる。
ただ同国の王手銀行などは過去数年、性急な海外事業拡大に走った結果、金融危機で資金難に陥り、痛手を被った。好調だった実体経済も、2009年の国内総生産(GDP)は3.5%のマイナス成長が予想され、雇用不安が強まっている。
今年はカルバン生誕500周年に当たり、厳しい経済情勢と相まって、国民の“清貧魂”が呼び覚まされたようだ。昨秋以降、新車販売が落ち込む一方、自動車の売上が急増するなど、カルバン旋風は実際の消費行動にも現われ始めている。
<オランダ ブリュッセル=尾関航也>

とあった。
一種の「揺り戻し」現象なのか。
ここでは、17世紀に起こったオランダの「チューリップバブル」には触れていないが、このときも同様に、カルバン主義派と狂乱した市場経済の対立があった。欧州のキリスト教国で、アメリカ型の経済至上主義に対して、反動的な動きが起こるのは、ある意味自然なことかもしない。

そこで、この新聞記事で挙がっていた中野孝次著「清貧の思想」(草思社)読んでみました。(当時は読んでいなかった)
清貧の思想 中野孝次

バブル経済崩壊直後の1992年発行。浮かれた経済市場への反省や、過剰なまでの金銭欲への自省からか、71万部も売り上げたベストセラーとなった。
まずは、本文から、その当時のことが書かれた部分を抜き出してみます。
「八〇年代後半から九〇年代初めにかけてすべてバブルだったということになっているけれども、過去数年財テクなどといういやな言葉が横行し、猫も杓子も株をやって財テクをしないのは人ではないような風潮があった。大新聞までが財テク欄をもうけて金儲けをしかける有様なのを、わたしは終始にがにがしく思っていたが、あんなふうな現象が起こるというのも一般に金があることだけをよしとする風があるからだろう。すべては数字ではかられ、数字であらわせぬ価値は目もかけられないのである。
(中略)
現代のビジネスマンが海外で「かれらは金の話しかしない、すべての価値を金で計ることしか知らない」などと評判を立てられているらしいのをまことに残念なことと思わずにはいられないのである。
日本人はかつては決してそうではなかった。かつてはかれらも人前で金銭の話をするのを卑しみ、なによりも名誉を重んじ、高潔にふるまうことを尊んだ。」とある。

いまから17年前に書かれた本ですが、今でも経済を取り巻く人々の意識は、これとあまり変わっていないようです。いやむしろ、競争・金銭至上主義が強まっているようにも思える。(この間に起こった「ITバブル」が、なお一層世の中にこの考えを浸透させ、金儲け=成功という考えを植え付けて、あたかもそれが正しい考えであるかのようにしてしまった、と思う。)
では、経済不況の真っただ中にある日本は一体どういった傾向になっているのでしょうか?
世間の人々はオランダのように「清貧」を求めているのでしょうか?
一つには、去年あたりから、雇用不安や格差社会を反映して、「蟹工船」「小林多喜二」ブームが起こっている。プロレタリア文学が全盛となった昭和初期と、時代背景がどこか現代と重なっているともいわれる。戦争への流れが加速して、世の中が重苦しい雰囲気となり、経済不況や貧富の格差が広がって、社会主義思想が流行したあの時代と、似ているというのだ。
これも現代日本の一端を反映していると見て間違いはない。ただこれは「清貧の思想」とはまた違った流れのようにもみえる。
ではほかに、危機的状況の日本で、経済を取り巻くものの中で何が流行っているんでしょうか?
まわりの人に聞いてみた。
カツマーじゃないの」という答えが多かった。
なに!勝間和代かよ。
……。
ということで、ここで、「胡散臭い」「怪しい」などと、彼女のことについていろいろ罵詈雑言を書き連ねようと思った。しかし、いろいろ検索してみると、あちこちで散々に書かれまくっているので、ここではあまり書きません。
ただ、私には、この人は「細木数子の変形」にしか見えない。
それは、「占い師」を「経済アナリスト」に替えているだけで、「分かり切ったことと」を自分の色を付けて言っているだけで、見かけは違うが本質的には同じだ、ということなのです。
また、その手法も同じ。自分自身を前面に押し出して売り込む方法だとか、正論や当たり前なことを、あたかも自分が発見したかのように言い切る物言いだとか、自分を高みに置いて、愚昧な者どもへ教え諭してやっているといった態度だとかなどなど、ほとんど両者が同類に見える。
だが、それもよく聞くと、自分がいかに優秀なのかという自慢話しかしていない。そんな点も似ている。それに対して批判してくる人たちには「それは成功した私へのやっかみ。悔しかったらテレビに出て、本を書いて、私みたいに金儲けしてみなよ」といった逆ギレ的言い草も同じだ。だがそのくせ、それだけ自分を立派だと自画自賛しているわりには、本業の占い、経済予想はとんと当たらないから、不思議だ。
それに、ところどころ自分の身の上話や苦労話を織り込んで、同情を引こうとする点や、ギャップを出すためにやけに庶民的な面も見せて共感を得ようとするところも同じ手口。結局はそんなことまでウリに使うのかという点でも共通している。
メディアに露出し、知名度を上げ、講演会や本の出版で、金儲けシステムの構築にひたすら励み、その金儲け至上主義をあたかも正しい教えのように広く「布教」し、自分を「教祖」みたいに祭り上げて、蒙昧な読者を信者に仕立て上げ、金を吸い取り、「ネズミ講方式」でそれを増やしていく点など、ちょっと新興宗教ぽいところも似通っている。
勝間和代は「日本を変える」などと言っているが (細木も同じようなことを言う) 、結局のところ、自分のシンパを増やして「金儲けシステム」を作り出すことが2人の共通した最終目的となっているのである。
これだけ辛辣な言葉を並べるのも、本屋に行っていくつかの「カツマ本」読んだからだ。書店で、彼女の等身大のポスターが飾られているカツマ本のコーナーに立ったが、まずそのこと自体が恥ずかしかった。そしてデカデカと本人の写真が載った表紙の本を手に取るのは、それこそかなり勇気のいることだった。(「断る力」の表紙のこの臆面のなさは、どうだろう。こっちが気恥ずかしさを覚えるほどだった。この自分を売り込むやり方が細木と同じ)
「勝間和代成功を呼ぶ7つの法則 」「効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法」あたりをペラペラめくる。芸人が書いた「タレント本」くらいにクイクイ読める。別段新しいことは書いていないし、内容も大してないのでどんどん読み進められる。(立ち読みで十分) 確かに表現されている言葉は新しく、パッと見、新鮮に映る。しかしこの程度のハウツー本なら昔からいくらでもある。ブックオフに行けば、青春出版社・ワニ本、光文社カッパブックス、祥伝社ノンブックスあたりの100円古本コーナーで売っているものとそれほど変わらない。
それに、すべての勝間本の根底を成している基本的思想は、五日市剛の「ツキを呼ぶ魔法の言葉」(マキノ出版)や野口嘉則の「鏡の法則」といった種類のものと、わたしにはそれほど変わらないように見える。(「手相をペンでなぞると幸せになる」とかいった程度の本) つまりは、幸せになる(金持ちになる、出世する)ための方法論を唱える一連の本と同類なのだ。(だから売れるのか、と納得) もちろん「経済」やら「ネット」やらの用語を使って新味を出し、それなりに体裁が整えられ、逆シュガーコート(難しい事柄を分かりやすくすることがシュガーコート。この逆で、分かり切ったことをわざと難しい言葉や専門用語を使って表現する。これによって自分を賢そうに偉そうに見せることができる)で包んでいるだけなのだ。
そして、もっとも問題なのが、これを有り難がって聞く人が日本に大勢いるという現実だろう。(この前、麻生首相が、知識者会合に彼女を呼んで高説を聞いていたが、首相がそんなんで大丈夫か?) 国が危機的状態なのに、こんなものが流行ること自体、日本の未来は危うい。
勝間勝代の「自意識過剰なエリート思考」は、ほんの一部の人には有用とされるものであっても、広く一般人には全く意味をなさないものだ。(専門書は英語の原書を読む、十代で源氏物語を読破、最年少公認会計士合格……そんな優秀な頭脳をお持ちの彼女と同じようなことができるわけがないし、マネをしても続かないだろう。大体それができるような知能の高い人は、こんな本はそもそも読まないよ)
これとは、全く正反対に位置するのが「清貧の思想」となるだろう。
「清貧の思想」では、そんな「貪欲な金銭欲」「経済優先の日本」を激烈に批難して、日本人が本来持っていた「日本には物作りとか金儲けとか、現世の富貴や栄達を追求する者ばかりでなく、それ以外にひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある」という清貧を尊ぶ思想をひたすら説いている。そういった意味でいえば、「清貧の思想」は経済至上主義や金銭欲に対して過剰なまでに批難を加えている「過激な本」だといえるかもしれない。
また著者・中野孝次が例として挙げた本阿弥妙秀は「慳貪(物をおしみなくむさぼること、欲張り)にして富貴なるものを憎んだ」といい、「彼女は他に貧しい者が大勢いる中己に一人が多くの物を所有することを悪と感じていたに違いないのである。」とし、「ある国が他に抜きんでて富める繁栄国、貿易黒字国となる背景には、そのために犠牲になる貧しい国々があるのと同じだろう。全体が貧しい中で一国だけ富裕になるには、たとえ法律が許しても、そこにはなんらかの無理が行われているはずである」と話を続ける。
これは「もしも世界が100人の村ならば」(中野裕弓のサイトhttp://www.romi-nakano.com/100.html)と同じような思想だろう。
経済優先の社会に対する反動的思考は、いつの世でもどこの世界でも芽生えるようである。これは、過度な経済の発展は、突き詰めれば「貪欲な所有欲」を奨励することも意味するので、そこに反発するかのように、人の心の中に、罪悪感が生まれるからだ。
無論、人間には本来競争意識を持っていて、これが社会を発展させているのも事実。また他人よりもお金が欲しい、もっといいモノが欲しいというのも人間社会においては自然なことだろう。 だが必要以上に多くのものを求めることや、「幸福」を計る物差しを分かりやすい金や所有物にするのがおかしいと「清貧の思想」は説いている。(このバランスをいかに上手く取るかが、私は重要だと思う。)
いまの日本は、米国的発想である「人の幸せ=金持ち、成功、出世」という基準判断を容易に取り入れ、これが深く浸透した。そして本来持っていた「日本人の精神」を捨ててしまった、というのだ。この考えは藤原正彦の「国家の品格」にも共通する。
私が、勝間勝代に反発心を感じるのは、競争・金銭至上主義を必要以上に煽り、自分の考えを強引なまでに推し進めている点にある。もちろんこれを唱え、自分の金儲けに利用している経済アナリスト、経済評論家、またはIT社長や成金経営者など、他にいくらでもいるだろう。だが、私の目には、勝間勝代はそれがあまりにも露骨で、その様は異様であり、それがまた細木のように滑稽にも見え、そんなものに踊らされる人々が多くいることが悲しく哀れに思える。
「自分さえ成功すればいい」「私に学べば成功できる」といった、そんな「怪しい教え」を書きまくって、多くの読者を洗脳し信奉者のごとくにしている点において、他の扇動者たちよりもかなり罪深い、ということだ。
そもそも、何をもって「成功」なのか?「金持ち」になること、「出世」することが、人生において「成功」なのか? いろいろ彼女に問うてみたい。(まあ、「金=幸せ・成功」思考が高いので、「年収数千万以上稼ぐ人」とか具体的に金額を言いそうだ。そこが恐ろしい。) また勝間和代の中にある「エリート意識」「選民思想」意識には恐怖さえ覚える。それは本やインタビュー記事、マスコミ出演等で、それが端々に滲み出ている。
あの引きつった微笑の奥に潜んでいる貪婪な金銭欲、願望達成欲に、私は恐ろしいものを感じる。

あるとき、平成21年3月13日放送、テレビ東京「世界を変える100人の日本人」というもの見た。
ここで、「浅野七之助」という人物を紹介していた。「焦土と化した戦後日本の飢餓をアメリカから救った男」ということらしいが、私は全くこの人のことを知らなかった。だがこれは中野孝次のいうところの「清貧の思想」に出てくる本阿弥妙秀の逸話に似ていた。このVTRはとても感動的だった。

盛岡に生まれ、平民宰相・原敬の書生としてその薫陶を受け、大正6年(1917)に渡米する。
農場での労働やホテルのボーイの経験をとおして、アメリカの底辺社会や日系人の実情を知り、のちに新聞記者となって日系人の権利獲得のため論陣を張った。戦後、焦土と化した母国の惨状を知った浅野は在米日系人らに呼びかけて食料品や衣類、薬品を集め、日本戦災救済運動を開始した。これがのちにLARA(Licensed Agency for Relief in Asia)へと発展し、ララ物資として日本に送られ多くの人々が救われた。LARAの活動は、1946(昭和21)年に開始され、アジアへ送られた支援物資の合計は、1952年の価格で、400億円(現在の9000億円相当)を超えた。このうち80億円が日本向けだった。そして1,400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われ、とくにミルクや衣服、医療品が多く贈られ、子供たちを飢餓から救った。浅野はその後も国際的なジャーナリストとして、また日米の窓口的な存在として両国の相互理解と親善に努め、在米日本人、日系人の権利擁護、拡張のための民権擁護協会、帰化権獲得同盟などに参加した。
昭和62年(1987)5月16日には、“日系人への貢献、ララ物資の送付、日米親善への尽力”などの功績が認められて、サンフランシスコ市長より表彰され、その日が“サンフランシスコ市における浅野七之助デー”と制定された。永住権は持ちながらも、最後まで米国国籍は取らず、日本を想い続けた望郷の国際人だった。

番組ホームページからhttp://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/backnumber/index.html
日本人が失いつつある精神がここにあるような気がした。
自分をカツマーなんて言っている人たちには、こんな逸話も馬鹿げた話に聞こえるかもしれない。だがいま学ぶべきは小手先だけの方法論を説く「カツマ本」からではないような気がする。
またこんな文章もあった。
西村雄一郎著「黒澤明を求めて」(キネ旬報社)から。<「侍」に関する部分は、当ブログのWBC・原監督の記事コメント欄でも一部引用しています。>
「(明治時代が明るかったという話から)黒澤監督と話している時の、あの押しても揺るがない自信、威厳、大きさ、怖さ………しかしなかに漂う何ともいえない少年のような抜けるような純粋さ、おおらかさ、ユーモア……私はそこに、明治の人間の気骨を見る。明治という時代の爽やかさを感じる。
そしてもう一歩ふみこんでいえば、その明治のロマンとは、侍のロマンであるとも換言できるのだ。最近NHKの「太郎の国の物語」という番組で、司馬遼太郎が語っていたが、明治という時代までは、侍の生き残りが生活し、その侍が明治国家を支えていたというのである。では侍の精神とは何か?といえば、それは個としての自律心である。一度イエスと言った以上は命がけでその言葉を守り、自分の培った美意識や名誉を徹底させ、敵に対しては情けを持つ、更に透き通った“公”の感覚と、道徳的緊張が明治人の意識の中に流れていたというのだ。そのことは大正、昭和初期に強調され続けた右翼的とか、愛国心とかいった狭量さとは質を異にするが、果たしてそれが、現代の政治家や、宗教家や、芸術家や、若者のなかに存在するだろうか?
私はそれが黒澤明のなかに存在すると思う。明治に生を受けた黒澤監督は、昭和の時代が終わり、二十世紀が終結しょうとするまさにその時に、日本人がかつて持っていたロマンや美意識がグラグラと崩れ去ろうとすることを本気で憂いている。」
これは、突き詰めれば「清貧の思想」と同様の内容となっている。金銭欲が増大すると反比例するように日本人の持っていた美しい精神が失われていくということで、共通した考えとなっている。
となれば、日本の偉大な先人たち黒澤明、司馬遼太郎、中野孝次、最近では藤原正彦らはみな同じようなことで国を憂いていることになる。
いまの日本に必要なのは、強欲な所有欲でも、金銭至上主義でもなく、それらを説く悪書ではない、と思う。
まして、それを必要以上に煽る本でもない。
そして、最後に、
これはだけは断言しておこう。
あと2,3年もしたら、「カツマー」「勝間和代」などと、その名前を言うのも恥ずかしいものになるだろう
彼女の著書「10年後あなたの本棚に残るビジネス書100」に引っ掛ければ、勝間本はその中に一冊も入るまい。いや数年後には、ブームに踊らされた人たちの本棚にも決して並ぶこともあるまい。そしてそれらの本は大量に古本屋の100円コーナーに並ぶことになるだろう。(あまりにも多いと引き取ってもくれない)
これだけは間違いない…。


2 「神田うの」と「清貧の思想」

まず「清貧の思想」に載っていた「外国で聞かれた日本人と日本の批判」を載せておく。
これが痛烈。

―曰く、日本は輸出大国だなどと誇って外国市場を荒らすだけで、自国の利益しか考えない。たしかに日本製品は、自動車、電気製品、エレクトロニクス、時計、カメラ、何でも優秀で安い。それは認めるが、いい物を安く売って何が悪いという態度が露骨で、少しもこちらの事情への配慮がない。これは共存できぬ。このままでは日本は世界中の嫌われ者になるだけだろう。
―曰く、日本人はビジネスマンも旅行者も会って話をすると金の話しかしない。一体かれらには金儲け以外に関心がないのか。政治、音楽、国際関係、哲学、民族問題、歴史などについてはかれらは話すことができないようだ。まるで金のあるなしだけが人間を決めると信じているかのようだ。
―曰く、若い女までが大金を持ってきてブランド品を買いまくる。土地の歴史とか文化への関心をほとんど示さない。自分たちの流儀でふるまい、騒々しく、みっともない。日本の若者はみなあんなふうに自分のことしか考えないエゴイストなのか。
―曰く、日本人で自分の哲学を持ち、自分のライフスタイルに自信を持って、何事についても一見識あるような人をめったに見たことがない。パーティーで土地の人間と対等にいろんな話のできる者も少ない。自国の歴史についても無知だ。
―曰く、貧しい国の人間に対して日本人はなんて傲慢なんだ。自分は富んでいるのだからどんなことをしても許されると思っているのか、等々。
不愉快だからこれくらいで止めるが、そういう意見を聞かされるたびにわたしは情けなくなり、かれらの言い分をある面では認めざるをえないのが口惜しく、いや現在はそういうタイプの日本人がいるかもしれないが、日本人は昔からそんな人間ばかりじゃないのだ、日本人にはまったくそれとは違う面があるのだ、話して来たのが「日本文化の一側面」だったのである。

とあった。

とこれを踏まえて、話は飛びます。
このサイトはなぜか「神田うの」で来る方が異様に多い。書いたのは1回だけで、それもただの噂話を載せただけだった。しかし、神田うのがこんなことを言っていたといってわざわざメールを送ってくる方もいる。まるで、「うのウォチャー」のようなサイトの扱いになっているのが恥ずかしいので、その記事を削除しようと思ったくらいなのですが……。
とそこに、知人がメールとともに、ある番組の映像まで送ってきた。そこで、これを「清貧の思想」と引っかけてネタにしてみることにした。
それは『久米宏のテレビってヤツは!?』という番組で、平成21年2月放送『 カネカネカネカネ…世の中は本当にお金がすべてかスペシャル 神田うの&ホリエモン』というものだった。
あんまりにも「ひどい」と言うので、我慢して見てみた。
確かに…、愕然とした。
そのメールで指摘された箇所は 、
床に大理石を敷き詰めるためにイタリアから職人を呼んだという「うののアトリエ」は、五億円かかったという自慢話はまだ序の口で、「うのが作ったバックが10万円なんて安すぎるぅ~」とか「(シャンパン専用冷蔵庫を自慢気に見せ、そこに20本くらいある)こんなのすぐなくなちゃう。うの1人で1本以上飲んじゃうからぁ~」とか「(月給10万位で暮らしている子持ち夫婦のVTRも放送される中) 5万円じゃ1回の食事代にもならない!」とかいろいろ叫んでました。
それに「うのはお金に興味ないの。(月の生活費に)いくら使っているかわかんな~い」といったところでは、もう「金の亡者」とか「金銭感覚のマヒ」とかいったレベルを遥かに突きぬけ、もう「お金」というが概念さえ失っているようでした。まあ、こんな分かりやすい人はいないでしょう。機会があったら見てください。かなり驚きます。
まあここでコネコネいっても仕方ないですが、一言でいえば、「何かが狂っている」というだけです。
ただ思うのは、そんな「うのブランド」のドレスやバッグを買う人、持っている人ってどんな見識をもっているのか、一度聞いてみたい。
「うのの作ったバック」を持っていて嬉しいですか? と。
(ここで、また情報がきた。週刊現代2009年4月4日号によれば、「飯島愛のお別れ会」で喪服のPRをした神田うのというワイド記事が載っているとのこと。読んでみた。「ブログで葬式ファッション解説、自分のブランドもちゃっかり宣伝」とあって、ここでも「金儲け主義」の神田うのはかなり叩かれていた。)

さて、ここで「清貧の思想」から引用。

「効率的な生産第一主義で物の清算ばかり偏ってしまったのはせいぜいこの半世紀くらいの現象で、それも元はといえば敗戦ですべてを失い、少しでもいい生活をと追求して来た結果である。実際われわれは廃墟の無一文から出発せざるをえなかったのだから、物質至上主義になったのはやむをえない面もあるのだ。が、それだけではいけないことにわれわれはいま気づきだしている。
日本は経済大国になったといっても、それで日本人の生活がゆたかになったわけではなかった。余裕ができたわけでもない。むしろワーカホリックといわれるくらい働きつづけなければならず、狭い家に住み、満員電車に乗って長距離通勤し、夜遅くまで働からねばならぬ現状は、あなた方も知っているだろう。過労死という言葉さえあるくらいだ。
たしかに物は豊かになった。EC圏のどの国にも劣らぬくらい市場に物は溢れている。しかし、物の生産がいくらかゆたかになっても、それは生活の幸福とは必ずしも結びつかない。幸福な生のためには物とはちがう原理が必要であることにわれわれはいまようやく気付きだしている。
いやむしろ物にとらわれる、購買、所有、消費、廃棄のサイクルにとらわれているかぎり、内面的な充実は得られないことに気づきだしている。限りのないものの生産と浪費が地球上での共存の上からも、環境と資源保護のためにも許されないことを知っている。真のゆたかさ、つまり内面の充実のためには、所有欲の限定、無所有の自由を見直す必要があると感じている。人が幸福に生きるためには一体何が必要で、何が必要でないかと、大原則に戻って考え直そうとしている人が大勢出てきている。
日本にはかつて清貧という美しい思想があった。所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させるという逆説的な考えがあった。」

とある。

さて、これと対極にあるような話。
ある時、テレビ番組でこんなのを見た。フジテレビの女子アナが「恋人を選ぶとき、最初に相手のどこを見るか」というアンケートで、「腕時計を見る」と答えた人がいた。時計を見れば「その人の経済状態が分かる」っていうことだ。きっとこの人は、ロレックスやらブルガリやらのブランドのランクで、人間のランクも決まるのだろう。人の所有物で恋人を選ぶ女子アナってどうなのだろうか、何とも悲しい恋愛観だと思うのだが……。
それで、ほんとに幸せなの?

ある時、テレビ番組「ごきげんよう」で現役東京大学学生・八田亜矢子が「東京大学に受かって、祖父からウン百万もらった」と堂々と(「せしめた」といった雰囲気で)自慢していた。身内からいくら金をせしめようが、私にはどうでもいいことだが、このタレント(東大生ということだけがウリ)の「品のなさ」は何なのだろう。「清貧の思想」にあった金の話しかしないサラリーマンが下品だという意味がよく分かった。悲しいかな、彼女はそれでも日本最高府で学ぶ学生だという。(留年2年だというが)

で、「清貧の思想」から一文。

「ひとたび所有欲にとりつかれると、人は所有の増大にのみ関心を奪われ、金銭の奴隷となって、それ以外の人間の大事には心が及ばない。家族の配慮とか愛とか慈悲とか、人間としての最も大事なことさえ気が向かわず、富貴な人間は必ず慳貪になる、と妙秀(本阿弥妙秀・江戸期の茶人、光悦の母。清貧の逸話を本文で紹介している)が考えていたことは先に言ったとおりです。そればかりでなく、かれらは物の取得や保全に心を奪われて、みずからの精神の自由さえ失っている、と光悦(本阿弥光悦)は考えていました。」


そんなときこんな新聞記事を読んだ。
平成21年3月9日 読売新聞 群馬版から

「赤ちゃんポスト」先駆け かけこみ寺閉鎖
2007年に熊本県内の病院が始めた「赤ちゃんポスト」の先例ともいえる取り組みで知られた前橋市堀越町の保護施設「かけこみ寺」が今月末で閉鎖されることになった。1980年ころ開設されて以来、家庭の事情などで生き場がない子どもたちを長年にわたって受け入れてきたが、近年、公的機関の受け入れ態勢が整ってきたことから、99年から園長を務める成相八千代さん(80)らが閉鎖を決めた。
成相さんによると、駆け込み寺を開いたのは、47年に開設され、NHKラジオ劇「鐘の丸丘」のモデルの一つになった児童養護施設「鐘の鳴る丘少年の家」創設者の品川博さん。70年~80年代に借金苦などによる親子心中が相次いだため、一人でも多くの子どもの命を守ろうと、少年の家の近くに開設。財団法人の運営で、役所を通さず、直接、行き場のない子どもたちを受け入れてきた。
また、86年から92年に設置され、生後間もない乳児を身元を明かさずに預けられるプレハブ小屋「天使の宿」では、これまでに約10人を引き取った。
成相さん自身は、都内で保育園に勤める傍ら、開設当初からかけこみ寺の運営に加わった。17歳で終戦を迎えた成相さんにとって、「命は国のもの」だったが、品川さんから「命はその人のもの」と教わり、品川さんが子どもの個性を尊重し、人を押しのけようとすることを厳しく注意する姿勢に触れ、その教えを守ってきた。ただ、思春期の子どもたちの扱いは一筋縄ではいかず、夜中にいなくなったりすることもしばしば。そのため睡眠時間が2時間という日も多かったというが、「子育てには家庭のぬくもりが大事」との強い信念のもと、子どもたちを育ててきた。
しかし、子ども一人一人に目を配りたいと思ったのと、資金繰りも苦しかったため、90年12月に天使の宿に預けられた子どもを最後に受け入れを控え、昨年11月に最後の入所者を社会人として送り出したあとは、事実上、運営をやめていた。
成相さんは「子どもたちと向き合っていると、毎日があっという間だった。逆に教えられることも多く、本当に幸せだった」と懐かしんだ。


借金苦で両親自殺、資金が集まらず閉鎖……。
いまの日本の社会は、これが現実なのかもしれない。
必要とするところに金銭は集まらず、金のあるところには集中して集まる。
そして、いつしか金や所有物が幸せを計る尺度となり、多く持っている人が「人生の成功者」だという。またそんな考えを一層広めて、焚きつけ、煽って、金儲けの種にしている人もいる。
ならば、人より多く金銭を持つ「神田うの」は人生における成功者なのか。金銭欲、所有欲の満たされた「神田うの」は幸福だということなのか。

この法則でいえば
「孤児を育てた人」は幸せではないのか?
戦後、自分が食うのにもさえ困っていた浅野七之助が、祖国に物資を送ったのは「愚かな行為」なのか?
いや、そんなことはないはずだ。

……そう信じたい。

では最後に「清貧の思想」から

しかし人間の向上心には限りがなく、一つの段階が実現されるとそれに満足していないでさらに上を望む。衣食住すべての点でもっと上等をと欲したばかりでなく、今度は新たにステレオを、ピアノを、クルマをと欲望の対象も増えていきました。街には商品が溢れだし、クルマでも電気器械でも住宅でも次から次へ新製品が作られ、魅力的な広告によってわれわれの欲望を刺戟しだしましたから、そのころからわれわれは絶えまざる欲望のとりこになって、新商品を追いつづけて来たような気がします。そしてわれわれはただの人間ではなく消費者という名で呼ばれるようになっていきました。

いつからこんな妙な言葉が使われだしたのか記憶は不確かですが、消費者というこの人間侮蔑的な言葉が1965年ころから、すなわち経済成長を一国の最大の目標としだしたころからの、われわれの状態を正しく言いあてているようです。大量生産=大量消費の時代が始まったのでした。そしてわれわれは、人間にとって一体何が必要で必要でないかを冷静に考えて選択する余裕もなく、ひたすらただ次から次へと市場に出現する魅力的で便利で機能的な商品の消費者とされてしまったのでした。

いま、「あなたは消費者だ」といわれて怒る人はいないだろう。
当時この本はベストセラーとなり、世間で支持された。17年前にはこの考えを受け入れるだけの心の余裕・豊かさが、まだ世の中の人々にはあったということだろう。2009年のいま、この内容で同じような本が出版されても決してベストセラーにならない気がする。 もしかしたら、現代社会に余りにもそぐわない内容だといって「鼻で笑われる」かもしれない。
現代日本では、この考えを受け入れないほど、一層、経済至上主義、金儲け主義は世間に浸透したのだ。

どう思われますか?
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Comment

[296] すみません~!
すみません!
私も「神田うの」検索で辿りついてしまった者です。
発言の真偽を確かめたくて…というか、確証をつかんでおきたくて。
彼女が今の日本を体現しているとは思いたくありませんが、生物学的バカは死ぬまで治らないと思いました。
発言の件で裁判を起こせば、明らかに不利なのに…。

アルバイトなのに「金融庁勤務」として、のさばっている女を思い出しました。

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by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


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