スポンサーサイト

物語を物語る

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「上州遷都論」と井上馨  新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続編。シリーズ9回目

物語を物語る

久々の「新田義貞伝承を追う」シリーズ。9回目。
前回が児島高徳で、今回は時代が飛んで明治時代です。(でも最後につながります。)
前回の記事

その前に駄話。
この前のGW中に、家族を連れて「東京見物」をしてきました。
祖母もいたので、お台場や六本木など若者の人気スポットは避けて、下町を中心に上野・浅草、東京タワーと回っていった。
それでも、どこへ行っても、人、人、人の波。その人の多さに辟易としてしまった。
娘や祖母は、都会慣れしていない群馬の田舎者なので、どうも人ごみやゴテゴテとした建物は苦手のようで、それだけで疲れてしまったようだ。
ただ、世界貿易センタービル の展望台は静かで最高の眺めだった。
世界貿易センターからの眺め
その眺望を見ながら祖母は、「昔は遠くからでも皇居が見られたのに…」とつぶやいた。なぜかその言葉が心に残った。
確かに東京は進化し(?)、繁栄し続けている。溜息のでるほどの景色も、そういった目で見ると、「この東京の繁栄は異常だ」とも感じる。
そして眼下に広がる素晴らしい光景も、日本の「富と人と権力」を独り占めしているかのようだった。
日本の人口は減っているのに、東京の人口は増えているという話も聞いた。そして東京の人口、経済、政治の一極集中が、国が傾く悪因の一つに成りかねない、という記事もいくつか読んだ。
東京栄え、地方枯れる。首都機能移転と道州制」(まとまっていて、分かりやすい)を読むと、やはり首都機能は移転した方がいいような気がする。

さてここからが本題。
かつて、「上州遷都論」というものがありました。
検索すれば、これを基にした記事もいくつかあり、稀にですが歴史雑学の本に載っていたりします。
当ブログでも「東毛奇談」の中で触れています。
概要は以下の通り。
明治19年に東京市の大都市計画が立案された。この中に、「上州へ遷都」という案が出されていた。既成の東京の町並みを莫大な費用を掛けて作り直すよりも、北海道の例に倣って新天地を求めて、新首都を開発しようという計画だった。候補地は東京から80キロ~100キロの地として、群馬を中心とした赤城山南麓から埼玉県北部の間とした。発案者は、当時外相兼臨時建設局総裁の井上馨と警視総監兼建設局副総裁の三島通庸であった。
だが、これは実現することはなかった。
この「上州遷都論」がどういったものだったのかは、「上州及び上州人」の昭和12年237号に詳しい。上州遷都の建議書の全文と、法学博士・尾佐竹猛による解説が載っている。(この記事を見つけるのに、当時どれだけ図書館に通ったことか…)
上州遷都論
要約してみる。
東京近傍に於いて便宜の地を選び本都を遷都する理由として、5つ挙げている。
1、東京がすでに商業都市と発展して、都としての機能を果たすには不便な地となっている。
2、外国と戦争になれば皇居を守りずらい。
3、東京は、土地が低く湿気があり、
4、地震も多く、
5、水質が不良で衛生設備が不十分で疫病が多い。
となっている。
東京は江戸のころから、町は「犬の糞と虱」だらけであったというから、かなり不衛生であった。
また、関東大震災はこれよりもかなり後のことになるが、東京がこの災害によって大打撃を受けたことを考えれば、大都市は災害に弱いので、首都を移すべきという理由も十分に分かる。
また戦争になれば海に面しているので防御しにくい、というのは黒船来航のころから言われていることである。
よって、新首都を計画せよ、という案だった。
皇居や政務機関を新都に移し、東京はそのまま繁栄をさせようといった意味のようだ。アメリカでいう、ニューヨークとワシントンDCの関係、オーストラリアのキャンベラのような考えで、首都を新地にしようという構想だったようだ。
この建議書では、5つの案件が挙がっていて、1場所の選定 2、都の区域は四方を三里して、土地の買収を進めること 3、本都の建築予定 4、資金供給の継続 5、閣議を進めること といったことが書かれている。
ちなみにここには細かい試算が書かれていて、合計金額が520万6200円となっている。

さて「新田義貞伝承を追うシリーズ」で問題なのは、井上馨が新しい都にしようとした場所です。
その場所こそが新田の地だった。
「上州地方即赤城山南面
新田佐位那波ノ諸郡ヨリ中間利根川ノ一帯ヲ挟み武州幡羅樺澤児玉等ノ間ニ求メテ可ナリ夫然リ先ヅ本都ヲ新造シ次ニ東京ノ改正ニ及ブトキハ獨リ地利其宜ニ適シ以テ帝都ヲ鞏メ本邦萬世ノ臺基ヲ得ン」とある。
井上馨が帝都を作り、皇居を作ろうとした場所は、まさに「新田」だった。
単純に「上州遷都論」と書けば、それは前橋や高崎を思い浮かべるだろうが、これは大きな間違いだ。
案として指定された場所は、新田荘があった地点とまさに一致する。(北埼玉が新田荘だったことは次回書く)だから、「上州遷都論」ではなく、「新田遷都論」というべきなのだ。
また、井上馨と新田の関係はこれまでにも何度も書いてきたとおりで、井上馨の夫人・武子が新田岩松氏の末裔であるというのもこれまで見てきたとおり。
また、歴史読本・昭和58年8月増刊号によれば、「井上馨がこの地に帝都を築こうとしたが、妻の実家に帝都を移そうなんて、けしからんという意見もあった」という反対意見も出たらしいことが書いてある。
井上馨と新田一族の関係は、当ブログでは、

尾島周辺には、内侍の墓や山吹姫の伝承が数多く残っている。その辺りの地主であった宮下家は、室町時代末期には在郷武士的な待遇であり、江戸時代には代々名主であったという。この宮下家には、内侍や新田に関する古文書や遺品が伝わっていた。浅田晃彦著『児島高徳と新田一族』を引用すれば『宮下家は『宮下氏過去帳』によると、宗良(親王)とも、内侍とも高徳とも血のつながりがある。足利・徳川幕府にとって煙たい存在だったと思われる。明治になって南北朝史見直しの気運が起り、宮下家の古文書や遺品が注目された。参議井上馨が調査に来て幾つかの品を持ち去ったという……』井上馨は、新田・南朝に並々ならぬ関心があった。

と以前触れている。(また現在その辺りは調査中)
また稲村ケ崎の碑は井上馨が建てた、という話がWikipediaに出ていた。
これは本当のことかと、調べてみた。
「六百年祭記念 新田公墳墓録」(石橋重吉 昭和13年編)によれば
稲村ケ崎碑 所在地 鎌倉郡鎌倉町極楽寺字金山
稲村ケ崎は新田義貞公が鎌倉幕府討入りの遺蹟で有名である。昭和9年3月13日、文部大臣から「新田義貞徒渉傳説地」として指定された。碑は明治27年3月建立、従四位男爵新田俊純。
ここに稲村ケ崎の碑の由来が載っている。
「(新田義貞の功績を)……、後の世のかがみとし、かつはわが国の大みちを示して、今の世人をいざなはんことを、はやくよりおもひおこして、いかでこの三崎に、石ふみをたてんと、いそしまれけるが、このころ伯爵井上馨がの君のもとにとひ來て、かたらふこともねんごろなりければ、君のたまひけらく、こはいとよきこゝろつきなり、さてもこのことは、朝臣のはつ子なる新田俊純は、おのがゆかりなれば、よくかたらひてんとて、やがておのれにものがたられね。……<後略>」とあり、やはり稲村ケ崎の碑に、井上馨と義父の新田俊純が係わっていたことになる。
このように、井上馨は新田伝承を受け継いでいる。
井上馨が「新田荘に帝都を作ろう」と考えたものも、実際に「新田」の地に足を踏み入れているからに違いない。
建議書として本格的に国会に提出していることからも、かなり真剣に考えていたことに間違いない。
何も地図を広げてこの辺りにしようと思い付きで言ったわけではないのだ。

では、この建議書を上げたもう一人の人物、三島通庸とはどういった人物なのか。
経歴はWikipediaで。これらを見ても「新田」等とは何の関連もなさそうだ。
ただ興味深い逸話がある。
史話 日本の歴史 27」(作品社)の中の「鹿鳴館時代」 高須芳次郎著から

明治24年4月20日、首相官邸で仮装舞踏会が開かれた。時の首相は伊藤博文。
「こうして四月二十日夜九時に開かれた首相官邸の仮装舞踏会には内外の紳士淑女四百余名が集まった。大抵夫人、令嬢同伴で、仮装の上にとりどりの工夫を凝らし、猛将、勇卒となったものもあれば、山伏、僧正に扮したものもある。貴公子、舞妓になりすましたものもあれば、曾我兄弟の勇ましい姿に仮装したものある。一見したところ誰が誰やらわからないほどだった。
先ず官邸に到着した一紳士は「天莫空勾践時非無范蠡」の十大字を書いた旗を背負い、鎧姿に蓑笠をつけて、備後三郎(児島高徳)を気取っていた。その伴うところの二令嬢は、腰蓑に汐汲桶を荷うて、謡曲中の松風、村雨になりすました。この備後三郎に扮した人なぞ当時、鬼総監といわれた三島通庸である

何と三島通庸が児島高徳に扮している。こういうのは何かの思い入れがなければできないことだと思う。三島の真意は分からないが、周りの人がこの姿を見て「あっ、あの人は児島高徳が好きなんだ」とか思う人もいるはずで、またなんらかの児島高徳の事跡を想起する人もいるはずだ。そこが重要なのだ。
その、児島高徳が新田一族と深い関係にあることは前回書いたこと。
一つ逸話を付け足す。
児島高徳は新田義貞弟・脇屋義助の遺髪を上野国新田郡脇屋村聖宝寺に送り届け、義助の臨終の有様を詳しく語り、伊予の国分寺の住持智承の諡った、法名「正法寺傑山宗栄大居士」も伝えた。この時より聖宝寺なる寺名を改め、真言宗脇屋山正法寺と号し今日に至った。
脇屋義助遺髪塚
脇屋義助遺髪塚は現在も正法寺にある。
正法寺 山門正法寺 山門
明治維新の志士にたちにとって南朝方の武将は英雄だった。そして、児島高徳もまた尊敬された歴史上の人物だった。その児島高徳が新田一族と深い関係にあった、というのはあの年代の一般常識だったといってもいい。こういったことを思い起こす人も少なくないはずだ。

また、首相官邸の仮装舞踏会で井上馨が扮したのは、「三河万歳」だった。
この三河万歳とは、http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei074.htmによれば、

「万歳」は,正月にその年が良い年になるように,願いを新春のお祝いの言葉に込めて舞う祝福の芸であり,万歳師の訪れは,歓迎されるものであった。「万歳」の起源については不明な点が多いが,戦国時代には三河武将と陰陽師(おんみょうじ)とのかかわりが知られている。
  徳川家康が関東移封以後も,三河地方と強い関係を維持していたことは,江戸時代の三河万歳の隆盛に大きく関係している。元旦の朝,御門開きの栄誉を担ったのをはじめとして,江戸の町や関東一円を巡回していた。 祝福して廻った万歳師の主なものには,別所(べっしょ,安城市),森下(西尾市),吉田・小山田(吉良町),戸金(とかね,蒲郡市),宿(しゅく,小坂井町)などがある。
  明治時代以降,神道の国教化政策の中で,仏教色の濃い陰陽道の影響下にあった万歳は衰退した。現在,安城や西尾,幸田では保存会が結成され,芸能としての万歳が伝承されている。 平成7年には,国指定重要形民俗文化財に指定されている。

とあり、「ともに徳川家康と同郷国の縁で、江戸時代には苗字(みょうじ)帯刀の待遇を受けた」という説明文もある。

三島通庸が児島高徳に扮し、新田伝承を受け継いだ井上馨は、徳川家康・三河地方と関連のある「三河万歳」に扮する。
徳川家康、三河地方、児島高徳そして新田一族……すべてがつながる。(この辺りは「東毛奇談」で)
この三島と井上が、新田の地に帝都を築こうとした。
その舞踏会にいた者の中に歴史的背景を知っているものが見れば、ピンと来た人もいたのはないだろうか。

さて、
新田一族の宿望は何であったのだろうか。
児島高徳の宿願は何であったろうか。

もし、新田一族の本拠地に、帝都(都)が築かれ、そこに皇居が遷都され、この地に帝が住まわれたなら、祖先から連なる新田一族にとってこれほど大願が叶われることはないだろう。
太平記巻十七、新田義貞が日吉大社を詣でたときに奉った願文をもう一度。
『願ワクバ往路万里ノ末マデモ擁護ノ御眦ヲ巡ラサレ、再度大軍ヲ起コシテ朝敵ヲ滅ボス力ヲ加エ給エ、我レ、タトエ不幸ニシテ命ノウチニ此ノ望ミヲ達セズトユウトモ、子孫ノ中ニ必ズ大軍ヲ起ス者アッテ、父祖ノ屍ヲ清メン事ヲ請ウ』
自分が滅んだとしても、子孫のうちで祖先からの宿願を果たすことできる者が現われることを祈願した。
そう考えれば、
新田一族の伝承を受け継いだ井上馨は、まさにこれを実行しようとしたのではないか。

さて今回もう一度この「上州遷都論」を読んで、重大な見落としがあったことに気が付いた。
10年前に「東毛奇談」を書いたときに気が付かなかった。
それは選定地だ。上州のほかに武州の樺澤、幡羅、児玉とある。
なに!
前書いたときは気付かなかった。
これは、今の深谷市周辺に相当する。
あ~そうかここには、深谷も含まれていたのだった!

大きな地図で見る

これはまさに、渋沢栄一の出身地ではないか。
そうかこの計画に渋沢栄一も噛んでいたのか!

ということで、次回に続く。
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

«  | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ --年--月 --日 (--)
  ├ カテゴリー
  |  └ スポンサー広告
  └ スポンサーサイト
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ 2009年05月 28日 (木)
  ├ カテゴリー
  |  └ 新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編
  └ 「上州遷都論」と井上馨  新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続編。シリーズ9回目
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。