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物語を物語る

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渋沢栄一と「上州遷都論」  「新田義貞伝承を追うシリーズ」10回目。

物語を物語る

前回の続き。(必ず前回分を読んでから入ってください)

仕事の関係でよく埼玉方面へ行く。
太田市(旧新田町)から埼玉へ行くには、旧尾島町と深谷市を結ぶ上武大橋を渡るのが近い。
このとき世良田東照宮・長楽寺を通るが、ここから深谷にある渋沢栄一の生家までは約4キロ、自動車で10分ほどだ。
利根川を挟み、県境でもあるため遠いように感じるが、深谷の渋沢家が「新田氏関連地」に近い所にあるということを実感する。
さて、この渋沢栄一であるが、経歴については、Wikipedia深谷市ホームページを参照してください。
それを踏まえて、渋沢家の出自を、渋沢華子著「徳川慶喜最後の寵臣・渋沢栄一 そしてその一族の人びと」(国書刊行会)から引いてみる。

「また、渋沢家の菩提寺は、隣村の横瀬村の華蔵寺である。この寺の親寺は、対岸の群馬県世良田にある。この寺は、新田氏の菩提寺だから、新田一党が血洗島付近まで来て住み、横瀬の分寺を菩提寺にしたのではないだろうか。渋沢一族が新田の一党から出たのではないかという説もあるが、華蔵寺の過去帳に六百年前の物はなく、定かではない。」

華蔵寺は、「真言宗豊山派の古刹で、建久五年(1194年)新田義重の三男、新田義兼の開基 弘道上人の開山と言われています。南北朝時代に祐遍和尚が中興し、新田家代々の武運長久祈願の道場として知られています。」と寺内の掲示板に書かれている。
奥富敬之著「上州 新田一族」にも新田義兼の説明の一文として「法名は信義ともいい、華蔵院金山良醇とも伝えられるが、義兼は建久五年に建立したという新田荘横瀬郷の華蔵寺(現深谷市)の位牌には、華蔵寺殿本源大禅定門とある。……」とあった。
その華蔵寺の画像。
華蔵寺 大日堂
華蔵寺大日堂
華蔵寺 大中黒紋
屋根には新田氏の紋「大中黒」
華蔵寺 本堂前
本堂前の香炉にも「大中黒」 まさしく新田氏寺だ。
華蔵寺 案内図
案内図に「新田義兼の墓」「渋沢栄一お手植えの松」とある。新田氏寺であるとともに渋沢家の菩提寺でもある。
華蔵寺 新田義兼墓
新田義兼の墓
華蔵寺 渋沢栄一
「子爵澁澤榮一翁御手植の松 昭和二年十一月二十二日」 とある。
子爵・渋沢栄一 石碑
華蔵寺の横にある横瀬神社にあった渋沢栄一の石碑

渋沢家は新田一族とは血でつながっていない、と思う。(つながっていたらもっと喧伝したはずだ)
だた、新田氏寺と自家の菩提寺が同じであり、かつてはその周辺が新田荘であったことからも、「新田一族」の遺風が十分に残っていたとみて間違いない。
また世良田東照宮の案内板には「江戸時代になると、世良田、徳川郷の農民は、世良田東照宮の火の番助郷を仰せ付けられた。これにより道中助郷を免除されるなど優遇された。そしてこの火の番助郷は、川向こうの村、血洗島や横瀬村などもこの役目を負い、同じように優遇された」という説明書きがあるように、この周辺が「新田荘」と認識されていた。
(世良田東照宮については、新田一族と天海の接点・第4回目で)
また、角川日本地名大辞典にも深谷市の項目に「中世 南北朝期には利根川付近に上野国新田小角郷が成立しており、康正(1455~57年)頃に、新田岩松氏の所領となっている。横瀬郷、高嶋郷も新田庄に含まれていた。」とある。
つまり、血洗島、横瀬周辺地域は、新田氏の遺薫に染まった土地柄だったといえる。

またこういう話もある。江戸幕末期に「深谷の吉田松陰」と称された桃井可堂という人物がいた。渋沢華子著の同本にこうある。

「桃井可堂は、新田義貞の義挙を理想として、密かに水戸藩士と結び、赤城山に義兵を挙げようとしたが、密告され自首して牢中で自ら絶食死した。」「桃井は学が優秀で、水戸学の思想に影響され、江戸に出て、東条一堂に入門し勉強した。数年後に帰郷し、中瀬村に塾を開き、志士を育てた。その塾中に大字村の金井国之丞、常泉村の小田熊太郎がいた。後に天狗党に入り、若い命を散らした。中略 この塾に栄一や栄一の従兄弟、尾高新五郎たちも訪ねている。」

渋沢栄一らが桃井に薫陶を受け、尊王攘夷にかぶれる切っ掛けとなっまた。
これに関連した上州に攘夷の動きとしては、中島明著「上州の明治維新」 (みやま文庫)には以下のようにある。

桃井可堂は沼田焼き討ち計画を立てた。岩松満次郎を攘夷運動の盟主にしようとし、天朝組を組織し、桃井は越後の魚沼地方に入ると、新田ゆかりの人々に同志を募る。このとき300人の賛成者が署名し、可堂は200両を軍資金として渡し、攘夷計画をした。まさに、倒幕運動に「新田一族」を担ごうとした。

(越後の魚沼地方に新田一族の一大拠点があったというのはかつて書いたところ。http://pcscd431.blog103.fc2.com/?q=%C5%B7%C3%CF%BF%CD「天地人」の関連で)
また、

水戸藩の藤田小四郎が、尊王攘夷の同志を募るために東上州に入った。彼が東上州に姿を現したのは、そこが鎌倉幕府を倒した新田氏発祥の地であり、いまなお尊王の志の熱い人々が多く活躍したいたからである。
岩松満次郎が攘夷決起の盟主となれば、彼の祖先・新田義貞が生品神社で旗揚げによって鎌倉幕府を倒し、天皇親政を確立した歴史的事件「建武新政」が人々の脳裏によみがえり、上州・武州・信州、三国に住む多くの同志が立ち上がると予想された。それと同時に浪士蜂起の正当性が裏付けらる。天狗党はこれにならった。
この計画の同時期、桃井可堂の志を受けて渋沢栄一らが、高崎城乗っ取り計画を立てた。

「岩松家が新田の正統であるという古例をもって義兵を挙げたと天下に宣言し、広く同志を求める。」ともある。
江戸末期にあっても「新田義貞及び新田一族」の事跡がこの周辺の人々の心中に強くに刻み込まれていて、何らかの切っ掛けを与えれば、反応し、呼応すると、他の地域の人も思っていた。
ここが重要。
そんな土地柄で生まれ育った渋沢栄一が、「新田氏の遺訓」を受けないはずがない。それが後に響いてくるのだ。
また、ここに出てくる岩松満次郎が、のちの新田俊純である。この娘・武子がのちの井上馨の妻となるわけだ。
(岩松満次郎が「新田官軍」を率いて官軍方に協力する経緯等は「東毛奇談 徳川埋蔵金」で触れています。)
そして明治維新後、井上馨と渋沢栄一とは公私ともに親しい間柄となる。
2人の関係の面白い逸話が、渋沢華子の同本にある。
「井上馨が大蔵大輔に就任し、栄一は大蔵権大丞になり通商司の整理も命じられた。大蔵大輔、長州出身の井上馨という人物は、短気で怒りっぽいが陽性で栄一とはウマが合っていた。井上の財政上の意見には栄一は敬服していた。<中略> 井上は癇癪持ちで「雷オヤジ」と呼ばれていた。しかし、その雷は、不思議なことに同じ直情型の栄一には落とさなかった。それで、栄一には「避雷柱」というニックネームがついていた。
明治の初期には「避雷針」という言葉がまだなく「避雷柱」とか「雷よけ柱」と呼んでいたのだのだ。五つ年下の避雷柱の栄一は、雷おやじに気に入られていたのだ」(Wikipediaに同様の話が出ているが、少し違うようだ)
とにかくこの2人の関係は深く、共に長寿だったこともあり付き合いは長い。
井上の死後、井上馨侯伝記編纂会顧問に渋沢が務めたり、井上馨が渋沢栄一に『帝国ホテル』の建設を依頼したり、同志社大学の寄付金の取りまとめを依頼したりするなどといった話や、井上馨が総理大臣の要請があったときも、渋沢栄一が大蔵大臣就任を要請したが拒否されたことにより総理大臣にならなかったといった逸話まで残っている。2人の親密な関係を示す事柄はいくらでも出てくる。
しかし、この2人を結びつけた切っ掛けは、共に「新田伝承」を持っていたからだと思う。
井上と渋沢栄一が本格的に関係するのは、明治4年。
井上馨が武子と出会うのもこのころなのだ。
つまりこういうこと、自分の嫁さんは「新田岩松氏の末裔」、その故郷と同郷で、しかも「新田氏」に関連している、そんな人物が自分の部下になる。親しい知人となる切っ掛けとして十分なものであろう。(人が互いに結びつく切っ掛けは、単純だ。同郷であったり、出身校が同じであったり、血筋が同じであったりと、こういった血脈、人脈、地脈は今でも重要な結びつきになる。)

その井上が、「新田の地」に帝都を作ろうとしたとき、渋沢の出身地である深谷も含まれていたことを見ても、ここに何らか相談や思惑があったと見て違いないのだ。(逆に何もなければおかしい)

では、「上州遷都案」で指定されてた地域をもう一度見てみましょう。
「新田佐位那波ノ諸郡ヨリ中間利根川ノ一帯ヲ挟み武州幡羅樺澤児玉等ノ間樺澤郡」とある。
上州の新田郡はそのまま今の太田市全域、佐位郡は伊勢崎市、境町周辺、那波郡は伊勢崎市、玉村町周辺となっている。
玉村町では小泉郷、藤心郷、飯塚郷などが新田荘に含まれ、境町では木島郷、今井郷、三木郷、平塚郷などに新田庶家が住み着き、新田荘を広げている。
こうして見れば、遷都案に指定された地域と「新田荘」が奇妙なまでに合致していることになる。
また武州は、樺澤郡が現在の深谷市や寄居町、幡羅郡が深谷市、熊谷市の一部、旧妻沼町周辺、児玉郡が本庄市周辺となっている。
これら地域と新田氏との関係を見てみれば、まず深谷市は上記の通り。 
妻沼町は、小島村が正木文書1215年の文書によると、岩松時兼は新田庄内に郷の地頭職に補任され、そのなかに「小島郷」の名がみえるとある。岩松氏支配は室町時代まで続いた、と角川大日本地名辞典にある。また千歳郷は、現在の妻沼町善ヶ島とみられ、新田荘に含まれる、ともある。
また、妻沼町が聖天宮門前町として、上州新田道の利根川渡船場という立地条件によって賑わいをみせ、新田荘に関係が深い。利根川を挟んで邑楽郡古戸に接しているというのも重要で、この近くに児島高徳の墓がある高徳寺や児島神社がある。
(やはり川沿いだ。)

また「続・新田一門史」によれば、一門の中に深谷市、妻沼町の出の方は多いとある。新田一族やその配下の武将、義貞部下の武将などといった伝承を持つ方々が掲載されているが、少し拾ってみただけでも、井田氏、栗田氏、横瀬氏、鶴田氏、田嶋氏などが出てくる。

新田公墳墓録(昭和13年編)の「畑時能公墓碑」の項目には
児玉郡地方は西武蔵の西北端で、利根川を隔てゝ上野に隣接し、新田氏の勢力圏内に属していた。義貞公が鎌倉攻めには、利根川を渡り、上武の国境烏川の南岸金窪城付近に屯集して軍議を凝らしたといふ陣開の森がある。其際は時能公も帷幄に在つて献策をされた。義貞軍を援助した武蔵武士中には、武蔵七党(児玉、丹、猪俣、横山、村上、野輿、西)、八平氏(千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の八氏、また一説には、千葉、上総、畠山、三浦、河越、江戸、鎌倉、大庭の八氏)があった。児玉郡は児玉、丹、猪俣三党の本拠地で、畑時能公は姓丹治即ち丹党として尤も活躍した一人であった。
埼玉縣史によると「新田義貞の鎌倉攻めには、上野に於ける勤王の傷U士と共に、江戸、豊島、葛西、河越等の幾多の武蔵武士が参加して居り、特に義貞四天王と称せられた者の内、畑六郎左衛門時能、篠塚伊賀守は共に武蔵の人にして、畑時能は秩父郡に生まれ、篠塚伊賀守は畠山重忠六代の孫と伝はれる。また此の戦に驍勇を示した長濱六郎左衛門(金ヶ崎城で戦死)並びにこの戦役に討死せし庄三郎爲久は、何れも丹、児玉の党に属する武士で、長濱氏は児玉郡長幡村長濱に、庄氏は同郡北泉村に根據を有して居た。その外、義貞軍に参加した将士には武蔵七党の武士が頗る多い。」とある。
また武蔵国粕壁郡を領した春日部重行は、義貞に従い足利軍と戦った。名和長年討死のときに、戦死した、という話も載っている。

長々と引用したが、こうして見ても北埼玉周辺には新田氏と関係の深い武将が多くいたが分かる。
こういった文献を読むと「私の祖先は新田義貞に従い、鎌倉攻めに参加した」とか「祖先は新田一族に従い、足利方と戦った」といった話が山のように出てくる。
今では考えられないが、幕末、明治、戦前までは新田一族、義貞は大変人気があったのだ。
吉川英治の「随筆 私本太平記」には「足利出身の子が東京へ従弟にでも出ると、逆賊の土地ッ子かなんて、よくいじめられた」という話が出てくる。また太平洋戦争中は、同じように足利出身だという理由だけで、上官に殴られたといった話を聞いたことがある。
ということは、逆のことも言える。「新田の出」というだけで尊敬されたり、株が上がったということがあったのだ。「上州及び上州人」(明治から戦前まで発行された地方月刊紙)には、しきりに「新田一族」や「高山彦九郎」を取り上げ、上州が生んだ勤皇の偉人として、御国自慢をしている。
だから、明治維新以後は、競うように、先祖は南朝方だった、とか新田一門だったという話が出てくるのだ。(南朝方=勤王家であり、皇国史観の戦前では何よりも尊敬された。よって、自家の尊王精神を喧伝するために、南朝方の武将と自身の祖先を結びつけた。それ自体は悪い話ではない。ただそういう時代だった。)

まとめれば、群馬の新田荘に接する北埼玉には「新田一族」に関連する者が多くいて、決して、新田氏とは無関係ではないということになる。
その地域も含むように、井上馨は「帝都」を作ろうとしていたのだ。
問題は、都を移すとなれば、皇居も移すのか、ということだ。
これは大問題だ。
となれば、新田荘に都を作ろうとした井上馨は何を考えていたのか。
その点が次回の続き。

さて、前回で出てきた「首相官邸で開かれた舞踏会」では、三島通庸は児島高徳に扮し、井上馨は三河万歳に扮した。
では、渋沢栄一は何に扮装したかといえば……。
渋沢栄一は山伏に扮したそうだ。
何と、山伏!!
山伏とはあまりにも意味深だ。(そう感じるのは私だけだろうが…)
山伏といえば、児島高徳は五流尊瀧院という修験道本山の出で、高徳自体が山伏である。
特に児島山伏は、天皇の熊野行幸には先達を務めるほど、帝との関係は深い。大伴茂著「天皇と山伏」によれば、「日本の歴史において国家存亡の由々しき事局と事態に立ち至った時に、決まったように心ある山伏が蹶起し、そして「天下太平」を悲願し、「万民豊楽」祈祷せられる天皇の心につゞいていることである」とある。山伏の精神と天皇のお心がつながっている、というのである。
だから、山伏が終始、南朝方・宮方に味方する理由もよく分かる。
そして山伏と新田氏、南朝方の関係は今までも何度か書いてきた。

そんな山伏に渋沢栄一は扮したのだ。

ここで、「続・新田一門史」に面白い記事があったので転載しておく。
「新潟県南魚沼郡湯沢町下熊野に在住する樋口宗淳師の通信に、当家の遠い祖先は樋口五郎赤堀左衛門と末子の六郎太郎親子が新田義貞公に従い、鎌倉攻めに従軍しました。父樋口五郎は三井責で討死にした。息六郎太郎は義貞公に従い越前へ従軍したが、義貞公が戦死した後に、六郎太郎は数年、越前に潜んでいたが、山伏姿になって越後国に移り住んだ。その子孫は、ある時代、湯沢の地に定着して現在の私は14代目の大岳寺権僧正、樋口宗淳です。……」(お~越前魚沼で樋口氏とれば、直江兼続を思い起こしますが、「天地人」原作の火坂雅志も言うように、越後では樋口姓は多いとのこと。ただ、やはりこの地域には新田氏、また関連した者は多いようだ)
時代の趨勢で足利方・北朝方に寝返った新田一族も多くいたが、従わなかった新田一門のものも多かった。こうした者たちは、山伏となったり、遊行僧となったりして、地下に潜ったのだ。こうした者たちが伝承となり、伝えられていった。そこに突如として現れたのが、新田氏の末裔を名乗った松平・徳川家だった。
この時代の合間を埋めたのが、児島高徳やその子孫ではなかったのかというのが「東毛奇談」のテーマであった。
まあ、これは別の話。

では最後に、
深谷市にある「渋沢栄一記念館」を訪ねたときに気になったことがあった。
渋沢栄一記念館 入口
普通、入口正面に銅像が立っているものだが、ここは、建物の裏手に渋沢栄一像が建てられている。
(建物の正面入口は南向き、銅像はわざわざ建物の裏側で、北を向いている。)
渋沢栄一像はなぜそんな方角を向いて立っているのか、職員の方に聞いてみた。
「渋沢栄一は、上州の山々が好きで、その風景をよく眺めていた、という話があって、それにちなんで、北を向いている」ということだった。
そうか、赤城山を向いている。
ということは、その目線の先に広がるのは、新田一族が盤居した新田庄が広がっているのだ。
新田義貞ら新田一族と同じように、上州の山々を見ていたことになるわけだ。

となれば、そう、それは、作られようとしていた「帝都」を見ていることになるのではないか。

やはり何かある!

渋沢栄一像

この「新田義貞伝承を追う! 上州遷都論編」は、まだ次回に続きます。


追記
「上毛遷都案」は近代デジタルライブラリーの中の「三島通庸 / 平田元吉著」 明治31.12で見ることができます。


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