「山本勘助」の実在を示す文書、群馬で発見!?
物語を物語る
信玄の書状 安中で発見
大河ドラマで有名 戦国時代の天才軍師「山本勘助」実在示す?
甲斐国(現山梨県)の戦国武将、武田信玄が家臣の「山本菅助」にあてた書状が安中市内の旧家から見つかった。一般的には「山本勘助」として大河ドラマなどで有名だが、実在したか定かではない。菅助の名が記された史料はこれまで、40年前に北海道で発見された「市河文書」だけだった。
今回の書状を調べた山梨県立博物館の海老沼真治学芸員は「細部に疑問も残るが、本物としての条件を備えている。信玄の家臣として山本菅助が実在した可能性が高まった。菅助の子孫、後継者の動向を追える史料もあり、非常に貴重」と話している。
山本勘助は江戸時代の軍学所「甲陽軍鑑」に兵法、築城にたけた軍師として登場する。しかし同書の内容はほかの古文書などの記載事実と違う点が多いことや、同書以外に勘助の名が見当たらず、実在を疑問視する意見も少なくない。
今回の書状は昨年5月、安中市教委が江戸時代から薬屋を営む同市原市の旧家で資料調査を行った際に発見。「信玄公御證文」と書かれた漆箱に、武田家関係の古文書五点が張られた一軸の巻物が入っていた。
うち二点は信玄が菅助にあてたもので、功績をたたえて恩賞を与える内容、重篤な状態の家臣「小山田」の見舞いを命じる内容が書かれている。
残り3点は武田家朱印状と徳川家康の二男結城秀康の書状。朱印状には菅助に不足していた武具の支度を指示した内容と、菅助の後継者とみられる「山本十左衛門尉」に軍役を命じた内容。書状には子孫と考えられる「山本平一」に関する記述がある。
海老沼学芸員は「5点は紙の質や書体の特徴などから16世紀後半から17世紀初頭のものとみられ、時代的な食い違いはない」と分析している。また、見舞いを命じる文書は信玄自筆の可能性も高いという。
市河文書には、信玄が東信濃の武将への伝令として菅助を送ったという内容が書かれている。
海老沼学芸員は「市河文書から菅助は東信濃や上野国の動静に詳しかったことがうかがえる。また高崎藩の家臣に代々『山本菅助』を名乗る家もある。今後、検討を重ねていきたい」と話している。
「信玄公御證文」は現在、安中市学習の森ふるさと学習館(同市上間仁田)に寄託され、一般公開されている。

検索すると、すでに5月1日に山梨日日新聞で報じられていた。(ほぼ同じ内容)
また、山本勘助関連記事で、山梨日日新聞 平成21年5月28日から
市河家文書、県教委が購入
山本「勘助」にまつわる書状など91点
重文指定めざし調査研究
県教委は27日、「架空の人物」説もあった武田信玄の軍師・山本勘助(菅助)とみられる人物が登場する書状をはじめ、北信濃を支配していた豪族「市河家」に伝えられていた古文書「市河家文書」計91点を購入すると発表した。市河家は戦国時代に武田、上杉両家に仕えており、県教委学術文化財課は「室町、戦国時代の甲信越地方の政治情勢や甲斐国出身の豪族の盛衰を知る上で貴重な史料」としている。
「市河家」は平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(昭和町、中央市、市川三郷町)を本拠地としたと考えられている。鎌倉時代に信濃に移り、越後との国境を中心に勢力を持っていた。
史料は北海道釧路市在住の個人から購入。価格については「個人からの購入のため非公表」(同課)だが、関係者によると約2000万円とみられるという。菅助の実在を証明する中世の文書のほか、小笠原、武田、上杉家から送られた古文書から成る。書状は信玄(晴信)が「市河藤若」にあてた内容で、信玄と上杉謙信が川中島合戦を繰り広げていた1557(弘治3)年に書かれたものとみられる。藤若の働きによって上杉勢が退散したという戦況を述べた後、山本菅助を使者として送り、詳細を伝えさせるという内容が明記されている。信玄の花押(署名)もある。
6月初旬の購入を予定しており、県立博物館のほか、武田家や上杉家にかかわる史料を収蔵する県外の博物館との共同企画展などで展示する方針。県教委は「県指定文化財への指定に向けて薫蒸や調査研究を行い、重要文化財への指定を目指したい」(同課)としている。
当ブログでも「山本勘助」のことを書いていたっけ、と思い出してみたら、「週刊 歴史のミステリー」のまとめのときに書いてました。
懐かしかったので、そのときのものをそのまま再録しておきます。
「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?
山本勘助不在論の検証です。
まず、「甲陽軍艦」は信憑性に乏しいということから、この書物にしか登場しない山本勘助は実在しないのではないか、という説を説明しています。これは週刊「歴史のミステリー」第3号の「川中島の戦いはフィクションだった」というのと同じこと。このとき私も山本勘助不在論を少し書いていました。
昭和44年に北海道で発見された「市川文書」に山本勘助(管助)の名があったというもので、これをもって山本勘助なる人物は存在していた、ということになっている。ただ、この人物が「甲陽軍鑑」に書かれているような活躍をしたのかとなると、かなり不審だということになる。
本文ではここまでだが、「不在論」がいれば、「実在論」があるということで、これ

「山本勘助のすべて」(上野晴朗・萩原三雄編、人物往来社)
ここで、かなり熱く「山本勘助実在論」を語っています。
要点は、①「甲陽軍鑑」批判は、江戸時代元禄期に肥前平戸藩主・松浦鎮信の「武功雑記」によって始まり、このとき山本勘助は創作、架空のものだとした。②これが明治時代になって、東京帝国大学教授の田中義成氏が「武功雑記」の内容をそのまま受けて「甲陽軍鑑」の価値を低めて、山本勘助は架空だといった論文を発表したことが、定説となり、今もこの評価を引きずっているというのだ。③本書によれば、有馬成甫氏、酒井憲二氏の研究により、「甲陽軍鑑」の評価は高いとしている。④また山本勘助は「軍師」というものではなく、「足軽隊将」であり、その真価は城作り・縄張り、築城にあったというのだ。⑤高坂弾正が「甲陽軍鑑」を記した真意は、武田家の衰退を嘆いて書いたものであって、軍記物、戦記物として書いたのではないから、その点を批判しても仕方ない、といったところか。
Comment
この真下家文書の「菅助」関係文書には、「山本勘助」が戦死していなければならない第四次川中島以降の年代に比定されてしまう文書もありまして、今後「勘助」との関係はいろいろ議論されるのではないかなぁと思います。
個人的には、これで山本勘助の存在が確実視された、のではなくむしろ「菅助」とは厳密に区別して考えなければならないような印象を持ちました。

