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物語を物語る

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「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回

物語を物語る

新田義貞伝承を追う! 第11回目
前回からの続き「上州遷都論」こと「新田遷都論」の総まとめです。

まず新田荘のシンボル的存在「金山」の紹介から。
「新田金山(にったかなやま)は群馬県太田市金山町にある標高235.8mの独立峰である。山頂には「新田神社」や「金山城(国の史跡)」があり、南側下に太田市街地、北側下に北関東自動車道と同自動車道の太田桐生IC、東側下にイオンモール太田、西側下にはぐんまこどもの国が見え、さらには桐生市、邑楽郡大泉町、埼玉県熊谷市、栃木県足利市まで見渡すことができる。麓には「子育て呑龍」で親しまれている大光院がある。」(Wikipediaより)
金山城跡案内板

詳しい「金山」の説明は太田市ホームページにあります。金山城の説明は、
「標高235.8mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。 主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山の砦の4箇所ですが、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。」とある。

kanayama8.jpg
この金山の城の本丸があった部分には、新田義貞を祭神とした「新田神社」が建てられている。
明治8年創建。
金山・新田神社
神社の由来は
「公の裔孫新田俊純・地方有志と謀り、明治六年神社創立の許可を得て、同八年社殿を建築し、新田神社の社號を賜る。同九年縣社に列せられ、同十八年十月廿五日と翌十九年十月廿九日に 皇后(昭憲皇太后)陛下御参拝幣帛料御奉納あらせられ、同二十一年十月二十二日 皇太后(英照皇太后)陛下には使御差遣幣帛料御奉納御代拝仰付けられ、同二十五年十月十七日皇太子殿下(大正天皇)御参拝幣帛料御奉納あらせられたり。同四十二年十一月七日 皇孫殿下(今上天皇陛下)には学習院生徒の御資格にて御参拝幣帛料御奉納あらせられ、度々皇族方の御参拝辱ふせり。
 又昭和八年五月新田公義挙六百年祭執行の趣天聴に達し祭粢料を御下賜あらせられ、同九年十一月十三日今上天皇陛下には御使永積侍従御差遣幣帛料御奉納あらせられ御代拝仰付けられたり。同年十二月神社境内付近一帯は金山城址として文部大臣より指定せらる、同十三年五月二十二日御祭神殉節満六百年祭を奉行せり。 」とある。
http://kaguraden.blog11.fc2.com/blog-entry-419.html「プチ神楽殿」サイトより。(関東の神社についての詳細な記述があり、重宝しているサイト)
注目は、皇室の御参拝が何度もあったという点。
また、ここに、新田俊純の名が登場しますが、新田氏関連の史跡には必ずといっていいほど関わってきます。
そして、井上馨もこの「新田神社」と深い関係にあります。
国立国会図書館近代デジタルライブラリーにある 「金山 / 今泉訓太郎編,太田中学校校友会, 明治44年」には「明治四十三年六月三日井上卿参拝、新田神社の社格に就いて尽力せらるヽ……」とあり、また、「上州及び上州人」の大正6年 13号には、
「願うに新田神社を現在の懸社より別格官幣社に昇格せんと企望し、その請願したるは明治四十四年の事にして、もとより新田郡民倡首となり縣当局者之を翼賛し、中央に在りては侯爵井上馨氏又は男爵新田俊純氏の之を声援するありといえども、未だ之が貫徹を見るに至ざるに先だち井上候の薨去に会いたるは甚だ遺憾とする所なりき。<中略>  井上候無しといえどもまた決して憂ふべきに非ずと信ずる也……」とある。
ここにある「社格を上げる」とはどういうことなのかという説明の前に、まず別格官幣社の解説、
「1871年(明治4)神社の社格制度が「神社は国家の宗祀(そうし)」という理念の下に整備され、その一つとして官幣社が定められたが、翌72年に創建された湊川(みなとがわ)神社は別格官幣社とされ、以降逐次増加し、計28社あった。官幣小社に準じて待遇された。祭神は、国家的見地からみて功労があり、広く国民からの崇敬を受けている人臣であることが特徴であった。靖国(やすくに)神社もその一つであった。 」(小学館・日本大百科全書から)とある。
こうして南朝方の忠臣たちは、明治に入ると次々と別格官幣社に祀られることになる。
ただ、一人に一社という暗黙のルールがあった、と言われている。
新田義貞は、死地となった福井に藤島神社が建てられ、そこが別格官幣社となった。これに対して義貞の生れ故郷であり、新田氏の本拠地でもあった場所に建てられた「新田神社」も別格官幣社に昇格できないか、という運動が地元で沸き起こった。これはかなり盛んに行われたようで、戦前までかなり熱心に続いた。(「上毛及び上毛人」には度々この問題に関す記事が載っている。またこれに関連して児島高徳を祀る「児島神社」も別格官幣社承認を目指す運動があった。児島高徳の神社創建には、群馬県令・楫取素彦や高徳の末裔である子爵・三宅康保も協力したが、ともに実現されなかった)
金山・新田神社本殿新田神社本殿
これらの記事や前回に書いたところでもわかるように、井上馨が生前「新田氏遺跡」に対して大きく力を尽くしていたのが分かる。井上馨の死によって「新田氏関係者」ががっくりし、それでも俺たちが頑張っていこうというのが、この文面から読み取れる。新田氏関連史跡を作るにあたっては、まず新田俊純がその窓口となり、中央で大きな力を持つ井上馨が動くことによって実現されるという形になっていたようだ。「新田氏に関連することは井上卿に頼め」といった具合で、これだけでも十分に井上馨が「新田伝承」を引き継いでいた、といえるのだ。このあたりはシリーズ9回目で触れた。

そして、「上州及び上州人」大正7年・22号には、山崎衡による「洗冤史論 附貞媛紀事」という題名の記事が載っているが、その内容は、新田義貞の首塚や勾当内侍にまつわる伝承、その娘・山吹姫またその子・国良王についてのものだった。
その追記部分にこんな一文がある。
「本編は去る明治十七年、稿僅かに成りし、当時偶々参議井上馨、内閣大書記官金井之恭の両氏、前橋を過ぎられ、縣令楫取素彦氏の橋居楽水園に於いて邀讌を開かれし際、著述家山崎氏も亦之に陪し、談、史論に及びし時に、其稿本を清矚に供し、後亦命に応じ騰写して井上参議に呈したるもの、遂に二夜の覧に入るに至れりと云う。」
つまり、新田義貞や勾当内侍、新田荘にまつわる伝承などをまとめた資料を提出させ、それを二晩もかけて貪るように読んだということだ。
明治16年に井上が尽力した「鹿鳴館」ができたころなので、超多忙なころだったはずだ。(ちなみに明治16年に岩松満次郎こと新田俊純は男爵となっている)

この出来事が明治17年のこと。そして井上が唱えた「上州遷都論」は明治19年となる。
井上馨はこのとき何を知ったのか。
それがこの数年後「新田の地に帝都を作ろうと思い至ったのか」
その原因と思われるものを、これから、長々と引用していく。(あまり脈絡を考えずに載せているので、分かりずらいと思います。面倒だったら、「まとめ」まで飛んでください)
以下、伝説、伝承の類を羅列していくが、いまここで問題となるのは、それが事実であったのか、事実でなかったということではない。
井上馨がこういったことを知ったということだ。

では、まず浅田晃彦著「児島高徳と新田一族」 (群馬出版センター)から。
長いがその部分をそのまま引用しています。(本書ではさらに詳しく書かれている)
「群馬には、内侍は義貞の忘れがたみ山吹姫とともに新田郡へ来て余生を過ごした、という伝説がある。郷土史家は問題にしていないが、私はかなり信憑性があると思う。新田郡には五庵あるいは、御庵という地名が数か所あり、内侍の庵室のあったところとされている。また内侍の墓と称されるものが、五ヶ所もある。
内侍の墓 案内板内侍の墓 案内板
一つは新田郡尾島町武蔵島の柊塚である。ここには新田一族の墓と言われる五輪塔が並んでおり。明治の頃まで柊の大木があったが枯死したので、その跡に「古木柊之蹟」と彫った石碑が建ててある。内侍は髪を下ろして儀源尼となり、この柊の下に庵を結んで隠棲し、貞治四年(1365)二月一日に五十五歳で世を去ったという。以前は内侍の墓標と称する板碑があったそうだ。ここに儀源尼と山吹姫が住んでいたということは、地主である宮下家に伝わる古文書や遺品によって確かなことと思われる。
古文書は内侍が書き残した「儀源尼秘記」と山吹姫の「覚心尼秘記」である。前者には後醍醐天皇の即位から長慶天皇の即位まで、後者には興国元年(1340)から永享十二年(1440)末までの事項が書かれている。後者の表紙には「この書は正平九年より五百年間禁書なり」と添え書きがある。足利幕府の眼に触れることを恐れたのであろう。
遺品には義貞が護良親王から賜った綸旨を始め、義貞の木像(高さ七寸八分、具足を脱いで寛いだ姿。内侍が刻ませて仏壇に飾った)、釣舟花器、千島の香炉、鏡、松影の硯、檜扇、五ッ衣、宗良親王の色紙、銘天陣の槍、銘友成の太刀などがあったが、寛永年間に徳川家から提出を命じられたり、宝暦年中の火災によって失われたりしたという。
この辺りはその昔花見塚と呼ばれ、ツツジが一面植えられていた。義貞はここに壮麗な御殿を築き、帰国した際内侍を住まわせるつもりだったらしい。だがその夢は実現せず、内侍が来たときは御殿は破壊されており、ツツジだけが無心に咲いていた。そのツツジも江戸時代に館林に移植されて、ただの原野になってしまった。その中に花見塚神社という小祠がある。現在のものは宮下家で再建したもので、最初は宗良親王が正平元年八月十六日に後醍醐と神武天皇を合祀して創建したものだった。「花見塚神社」の額は宗良の親筆だったが、宝暦の火災で焼失したという。」
花見塚神社花見塚神社
(このツツジの伝承は、峰岸純夫「人物叢書 新田義貞」にも紹介されている。)
「宗良親王が上野へ下って内侍母子との関わりを持ち、新田の遺族や児島高徳と南朝の復興に尽力したことは後に述べる。内侍はその遺品から推察すると、朝廷に復活する望みを捨てていなかったようである。
宮下家は「宮下氏過去帳」によると、宗良とも、内侍とも、高徳とも血のつながりがある。足利・徳川幕府にとって煙たい存在だったと思われる。
明治になって南北朝史見直しの気運が起こり、宮下家の古文書や遺品が注目された。参議井上馨が調査に来て幾つかの品を持ち去ったという。初代群馬県令楫取素彦は歴史研究に熱心で、山崎衡に内侍の伝説を検討させ、根拠があるものと判定した。昭和3年花見塚に高さ2メートルに余る「勾当内侍遺墳碑」が建てられた。碑文によると内侍の墓としてここが最も信ずるべきものとしており、内侍を貞淑にして内助ありと賞賛している。」
勾当内侍の碑 花見塚神社勾当内侍遺墳碑

「宗良は以前にも上野には幾度か来ており「上野の宮」と呼ばれていた。宮下家の伝承によると、正平元年に武蔵島に後醍醐天皇を祀る花見塚神社を創建している。ここは勾当内侍(儀源尼)が隠棲した、柊庵に近い。正平七年のとき内侍は義貞の遺子で十七歳に成長した山吹姫(覚心尼)を夜伽に出した。姫は宗良の子を宿し、国良王が生まれた。足利打倒が成功すれば国良が宮廷に迎えられる日があったであろう。」
「(児島高徳の)末子の徳子(房子と書いた系図もある)も異腹である。これは高徳を看取ったあと、新田郡横瀬郷の豪族宮下野守入道南順の息子正治に嫁した。南順は備前で高徳と共に戦った間柄である。その死後正治は上野へ来て土着し、宮下を称したのである。その後も正治は南朝の後ろ盾となり、宮下家に「儀源尼秘記」「覚心尼秘記」が伝えられた。」

などまず勾当内侍、山吹姫の逸話を中心に引用してみた。このあたりは「東毛奇談」「新田義貞伝承を追う!シリーズ」で書いてあるところ。

次は、宮家史朗著「児島高徳実在論」から、
「児島高徳の没した年月日を記したものは、三宅家の青銅霊碑、正伝記並びに高徳寺の霊碑であるが、これ以外に宮下家が蔵する「南北朝新田覚心尼秘記」「宮下氏過去帳」がある。
これらの原本は豊臣秀吉の時代、代官の伊奈半左衛門によって没収された。しかし当時の宮下氏の人たちが没収されることを予知し、後世に残さんがため、書写し今日に至っている。 
「義源秘記」は興国元年国良親王が遊行上人の弟子になる時より、永享十三年将軍足利義教が赤松満祐に殺されるまでが書かれている。」
「元中二年(1385)、遠江井伊谷で崩ぜられた宗良親王が御記念として井伊谷より国良親王の御母へ贈られた槍、銘「天陣」と刀、銘「友成」は、寛永年間、徳川幕府からの提出の命により献じられたという。」
などといったものがある。これらから分かるのは、時の権力者が関心を寄せ史料や遺品を提出させていること。それらが今は失われているため、確証が取れないということだ。

次が入内島一崇著「南朝 児島高徳」で、これが1000ページに近い大作。(読むだけでも大変だった。) ここからいろいろ抜き出してみた。
まず、新田氏没落後、新田荘を支配していた岩松家が何故、勾当内侍や義貞の子・山吹姫、その子国良王を黙認していたのか、という理由らしきものを引用。
「新田・足利両氏と濃い血縁関係にある岩松氏は、北条時行による中先代の乱以後、足利方に組した恩賞として、新田荘の支配権を幕府から認められていたが、同荘を円満に統治する為、宮方新田庶流が庇護する南朝後胤や大覚寺統公家、及び他国より流れて来た南党武士が、不穏な働きさえ示さなければ荘内に居住する事を黙認して来た。
今、もし、長慶天皇の皇子である上野宮尊良親王が江田に居るのを知っていた事が将軍義満の耳に入ったならば、如何なる科が岩松氏に加えられるか想像に難くない。さりとて、容赦なく摘発すれば、新田一門並びに領民の猛反撃を食い、良くて相打ち、ややもすれば返り討ちにあう危険もある。」

「岩松氏は新田義兼の娘と足利義純の間に生まれた岩松時兼を祖とする家系で、新田と足利双方に近親を持つ特異な武士である。元弘三年の新田義旗上げの時には、当主経家は新田宗家に従ったが、中先代の乱で経家が武蔵国女影において討死するや、後を嗣いだ弟の直国は、足利氏に走った。この功により、足利尊氏は新田荘の支配権を岩松直国に与えた。しかし観応の擾乱では岩松は直義派に組し、直義誅殺後は上杉憲顕とともに南朝に属したこともある。相伝の地を保つ為に転々と主を換えながら一生懸命努力した直国は、いつしか複雑な性格の持ち主となった。
「鎌倉大草紙」に「至徳二年乙丑三月新田相州陰謀の回文、上州武州の兵を催さるゝ、梶原美作守代官2里召捕、新田の安養院の別当并寺僧一人をば岩松治部少輔入道法道(直国の事)搦進す」と記されている様に、足利氏被官として新田氏の残党狩を積極的に実行しているかと思うと新田義貞の孫を自分の孫として育て上げ満純の名前を冠したり、自領である岩松領の青蓮寺を仲介にして宗良親王の皇子である国良王を時宗遊行寺へ疎開させるなど、南朝方貴人を公然と庇護しているのである。たぶん、直国は新田荘の中では南朝に理解ある態度を示し、鎌倉府にあっては情け容赦の無い武断派として振舞っていたのだろう。
直国の性質を知り抜いている管領上杉憲方は岩松直国を宗良親王の監視役に据え、もし宗良親王が新田荘で兵を募って荘外に出たならば、岩松も南朝方に与力したと見なして厳重に処断すると通告した。」
江田館跡(南朝方が居たとされる「江田館跡」)

その岩松家は、義貞と勾当内侍の子である山吹姫と、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の間に生まれた子、国良親王を積極的に匿っていた。
以下の引用。(本書ではかなり詳しく書かれている。ここでは一部のみ引用)
「時宗第二世他阿真教上人により開山したのが新田荘岩松の青蓮寺である。岩松氏をはじめとする新田諸氏が熱心な時宗の檀家となり、総本山である遊行寺に対しても鎌倉時代を通して永らく寄進を続けていたので、国良王と新田貞氏(義貞の孫)が得度して時宗の僧となり、総本山に修行の為に来る事に関して異論をはさむ者は寺内には一人もいなかった。遊行寺は又、北朝や幕府にも尊崇されていた為、その境内は治外法権が認められ、鎌倉府たりともその法域を犯す事は許されなかった。
正平四年三月、藤沢遊行寺より新田荘へ戻り、還俗後、姓を宮下と改めて南順の娘と結婚した国良王は、母や祖母の願いもあって、横瀬郷で人目をさけながら平穏な生活を営んで居たのに、同年十二月、上野国おける足利方退潮の気運に乗じて父祖の地にある新田荘寺尾城奪回の為、上州帰還を果たした新田義治が、上野、下野、武蔵の国の南党糾合の象徴として南朝征東将軍宗良親王の嫡男である国良王を推戴する事を決めた。」
国良親王御陵塔国良親王御陵塔は新田累代の墓がある円福寺にある。
国良親王についてはまだ伝承があるが、このあたりだけに今は止めておく。

さて、新田氏残党と戦った宗良親王はどこに本拠を置いたのかといえば、それが「金山」なのだ。
以下引用。
「金山を實城寺(じつじょうじ)と号したのは、吉野内裏の奥に實城寺にならってのこと。
正平4年(1349年)正月楠木正行四条畷に師直に敗れ、師直勝に乗じて吉野行宮などを焼き払ったがこのころより南朝の皇子各宮並びに楠木一族など南朝一味の人達の数多くが上野国新田郡に吉野方面より移住し、正平から弘和年間に至る四十余年の間は金山実城は恰も南朝軍の謀略拠点の観を呈していたに違いない。吉野の実城寺は蔵王堂の西側にあって延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野に潜幸された時に皇居として入られた処である。
今日でも、太田市(群馬県)の古老の人達は同市の中央にある金山を「実城」と呼んでおり、同市の円福寺には「新田実城応永記」が蔵されている。」

そして、高徳が何故この邑楽郡古海村を選んだのかという地理的立地条件からの記述を引く。
「邑楽郡古海村は坂東太郎利根川の右岸の平野部にあり甲武の連山を遠くに眺め、西南には遥に富獄の雲表に峠(そばた)つを望む処に在り、昔醍醐、朱雀両天皇の時代より、下野大掾長門守藤原村雄公及びその子田原藤太秀郷の誕生地である青柳庄赤岩村とは東西に隣接し、利根川の北側にあり、村雄並びに秀郷朝臣の領地であった。藤姓の一族である佐貫、赤岩両氏は交互にこの古海村に住み、秀郷以後は古海太郎の領地となり、利根川の南側(武蔵国、今の埼玉県)方面よりの敵を防ぐ最適の要害地であり、且つ古海村は古い時代から明治初期に至るまで渡船場として物資の往来も盛んで経済的にも栄えた処だった。
高徳は北朝勢をこの地に防ぎ、背後の新田金山実城と新田地方の防衛には絶好の要害の地であった。
在郷の藤氏や近隣の新田流庶家の救援を計算に入れ、高徳は独自の判断でも動員できる軍事力を上州、武州にまたがる強大な本山派修験道勢力を身近に保有していたのである。「上野国本山山伏名所記」によると、中世、上州にあった本山派修験は333院を数え、その内、古海が属する邑楽郡だけで総数57院を占めていたという。これは武蔵国でも同様で、埼玉県の場合は本山派が圧倒的に勢力をもっていた。」
児島神社や、高徳寺などは、「新田義貞伝承を追う!シリーズ8回目」で確認してください。

また南朝第三代・長慶天皇も「金山」に伝承を残している
「第九十九代後亀山天皇に譲位し、長慶天皇は落飾して覚理法皇と名乗った。
八板千尋「大楠公秘史」、三浦義煕「長慶天皇記略」などを参考にして推量するに、伊勢大湊を出航した長慶天皇は、三河国望王里に寄港した後、駿河国吉原浜に着き、そこから陸行して甲斐国富士谷を経由し、六月頃上野国新田荘に着いたものと見られる。
正平二十四年の沼田合戦において総帥義宗が討死し、副将脇屋義治も出羽へ落去したまま行方知れずとなった新田荘では、人々は息を殺しての日々を送っていたが、長慶天皇の出現によって、驚きと喜びの混じり合った興奮状態が生じた。
荘内に残る一族長老達は長慶天皇を取りあえず金山城へ案内した。ここは東毛地方屈指の堅城であると同時に新田荘の中央部に位置していた為、長慶天皇の御座所には最適の場所であった。長慶天皇は、ここを後醍醐天皇が吉野に潜幸された折に皇居と定めた吉野の実城寺になぞられて「金山実城」と改名した。
長慶天皇の上州潜幸が各地に雌伏している新田諸将へ伝えられるや、彼らは拝謁の為、続々と新田荘へ集まって来た。中でも長慶天皇を喜ばせたのは、新田義宗の遺児・貞方と脇屋義治の嫡男・義則が姿を現した事である。
<中略>
長慶天皇は児島高徳を通じて新田諸将並びに上信越武に点在する宗良親王恩顧の武将を金山実城に呼び寄せ、軍議を催した。」
太田市ホームページの説明にもあるように、現在も「実城」の名が残っている。
kanayama.jpg
また「新田覚心秘記」建徳2年(1371年)の条に、
「長慶法皇出羽国羽黒山ニ籠居ス。児島志純後村上天皇ノ遺詔ヲ奉シ、三種神器ヲ江田帝ニテ上野親王ノ御許ニ渡シ奉、児島志純古海郷ニ軍中守護ノ尊像ヲ安置ス、後神器ハ征西将軍懐良親王御許ヘ返シ玉フ。」
高徳が後村上天皇の勅を拝して三種の神器を上野国に持参した、それが一時的に金山実城に移されたというのだ。
さて、ここに登場する神器とは「燼余八咫鏡」(じんよやたのかがみ)のことである。
入内島一祟によればこれは「延元元年十月十日、足利尊氏ととの戦いに敗れ、比叡山を降りて京都還幸を決定した後醍醐天皇が、前夜、恒良親王に譲位し北陸へ落ち延びて新朝廷を樹立する様に命じた折、護持役の児島高徳と共に恒良親王に授けられたが、恒良親王・新田義貞の非業の死によって北陸南朝の夢が破れ、脇屋義助・児島高徳が越前での苦闘の数年後、皇国三年に吉野南朝へ帰参した際、後村上天皇に戻された曰くつきの神器であった。そしてこの鏡の存在は後醍醐天皇存命中より極秘にされたので、文中二年八月の事件当時、(楠木正儀が南朝御座所・天野金剛寺を攻め、長慶天皇に譲位を迫った事件) 南朝内で真の神鏡を知っているものは、長慶天皇、四条隆資の子である隆俊、そして児島高徳のみであった。 金剛寺より長慶天皇を守って脱出し、安全地帯である吉野に辿り着いた児島高徳は、当然のことながら真の神鏡を携帯していた。」
とある。
この謎の神器は、新田義貞の北国落ちのときに、児島高徳が持っていたことになる。しかも、脇屋義助とともに越前を離れるときも持参していたことになる。
義貞死後から越前の弔い合戦、吉野へ向かうまで時期が本来の「太平記巻二十二」にあたるわけだが、これが存在していない。
その辺りの記事
実は、そこに書かれていたのはこの神器のことではないか、と私はにらんでいるんですが、まあこれは別の話なので、後日。(私のハンドルネーム「消えた二十二巻」はここから取ってます。)

またもう一つ「長慶寺」という重要な寺がある。
長慶寺・標識
「児島高徳実在論」の説明では、
「新田郡新田町大字綿打字六句に長慶寺(新儀真言宗)がある。同寺寺伝によると、昔四条天皇の御代、延応元年(1239年)慶弁和尚によって創建された。元弘年間、新田義重の四男四郎義俊に帰依して祖先新田又太郎政氏入道関了の霊を本小字六句の地に祭り関明神と号す。<中略>慶弁和尚開山当時の寺名は「田中山宝光寺」(放光寺の説あり)と号していたが、長慶天皇の御座所になってから御名を取って「長慶寺」とした」とある。
長慶寺・本堂
また寺の案内版には
「田中山長慶寺由来記
茶聖千利休の由来書によると千家はもと田中姓を名乗り新田義重の男里見太郎義俊の五男田中五郎義清が末孫なりと伝えられている。
群馬県古城塁址の研究(山崎一著)によると田中義清は本村に居住し長慶寺はその義清の館跡であるとしている。(新田町史二巻より)
かつては七堂伽藍荘厳にして大いなる山門ありしも新田氏滅亡の後は廃頽し遂に取り崩し往時の面影は宝篋印塔を残すのみになった。
長慶寺の名の由来は南朝第三代長慶天皇を新田一族が奉じて戦ったため長慶寺はその伝承の御陵塚を祭る祭主なるを以て放(宝)光寺を長慶寺と改号せりと伝えられている。
元久二年(1205年)新田義重の男新田義兼は新田庄十二郷の地頭になっているが、その中に田中の地がある。この田中・岩松・下今居の地を相続したのが義兼の後家新田尼であると健保三年(1215年)の鎌倉幕府所下文に記録されている。(正木文書)
その十一年後の嘉禄二年(1226年)に岩松郷は新田尼の孫岩松太郎時兼が地頭職を譲り受けているが田中郷は記されていない。 従って田中郷は変化なく里見系田中に続いたと思われる。故に長慶寺は里見系田中五郎義清の館跡と裏付けられる。」とある。
長慶寺 案内図長慶寺 案内図
伝・長慶天皇の墓伝・長慶天皇の墓
これは当ブログでは「千利休は新田一族か」の記事で書いている。
新田系田中氏は、越後に多くいたことから、「天地人」にからめて少し書いている。http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-453.html

また「児島高徳実在論」の本文に、
「明治4年郷土史家藤生竹松氏「新田勤王士」のなかの「長慶寺旧跡現在記」によれば「長慶寺に朱雀、玄武、青龍、白虎の四方門構えがあった。<中略>この四神相応の地相のところは、絶対の理想地で最も貴いものヽある所として、その中に葬られた墓の主は最高の貴人であることヽ受け止められていた。この四神思想に基づいて、長慶寺に昔、四つの門があった事は、こヽには最高の貴人の居住したか或は墓にあった事を物語っている.。」とある。
やはり何らかのものがあったのだろう。

また一説には普門寺(旧尾島町世良田)境内にある「落歯塚」が、長慶天皇の墓だという伝説もある。

それに、「群馬縣庁文書」による「新田郡に於ける両皇子の墳墓」の記事もあった。これは次回に書き起こしてみる。

さて「まとめ」です。
1、、義貞と勾当内侍の子である山吹姫と、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の間に生まれた子、国良親王が新田荘にいたという伝説がある。
2、宗良親王や長慶天皇が新田残党と隠れていたとき、一時「金山」を本拠にしていたという伝説がある。(また長慶寺の伝承もある)
3、それらを先導していたのが児島高徳であったということ。
4、そこに「燼余八咫鏡」という神器の伝説もあるということ。
5、足利方である岩松家もそれらのことを黙認、また積極的に関わっていたということ。

無論、これは伝説に過ぎない。
しかし、これらの伝承を井上馨は知ったことになる。
私は、岩松家はもし万が一のことがあれば、「国良王を推戴して」という野望をもっていたかもしれないし、または何らかの切り札のつもりで懐に匿っていたと、考えている。
岩松氏はそんな伝承を秘めた一族なのだ。
そして重要なのは、井上馨はそんな岩松家の末裔を妻としたのだ。
明治時代は、南朝を正統とした政策を取っていて、南朝の天皇に非常に関心が高まっていた。しかもこれは政治問題だった。

そう、考えていけば、井上馨は、南朝方の伝説が残る場所に帝都を築こうとしていたのではないか、と思われる。
でなければ、わざわざ新田荘を中心とした帝都計画を考えるだろうか。
となれば、皇居はどこになるのだろうが、当然のように「金山」しかないだろう。
関東七名城、日本100名城にも数えられ、上杉謙信の攻撃にも落城することがなかった堅城のあった場所。(東京は海に面し、平地であるので皇居を守りずらいというのが、遷都の理由の一つでもある。)
また、関東平野に浮かぶ低山は、何よりも見晴らしがいい。(関東平野の北限で、関東を一望することができ、東京を見下ろす位置にある。) 
関東の地図 南北逆転(関東の地図 南北逆転した図、見づらいですが感じだけでも)
「天子南面す」といわれるから、絶好の位置といえる。

もし井上の「新田遷都案」が実現されたら、
現在の金山からの景色も
金山からの眺め
もしこの地に帝都が築かれていたなら、
東京タワー

こうなっていたかもしれない。

そして、しみじみ関東の地図を見て、はたと気付いた。
そうか、金山は「四神相応」になっているのか~。
北が山、南が湖(大きな水源)、西が大道、東が川。
鬼門があれで、裏鬼門があれか……。
なるほど。

というわけで、次回に続く。
これでやっと「天海」に戻れる。
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