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物語を物語る

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7月2日は、新田義貞公の命日。 義貞、及び新田一族に関する逸話等。

物語を物語る

本日、7月2日は、新田義貞公の命日であります。(新暦では8月17日)

毎年この日には、新田義貞に関する何かしらの記事を書いています。
去年は、「7月2日は新田義貞討ち死にした日。そして、世良田東照宮の向き。」 で、
おととしが「7月2日は新田義貞の命日。」で勾当内侍のことを書いてました。
ということで今年は、義貞、及び新田一族に関することをいくつか記しておきます。

明治天皇が詠まれた新田義貞の短歌
「投げ入れし 剣の光あらわれて 千尋の海も くがとなりぬる」
(明治七年 宮中月次御歌会、「上毛及び上毛人」194号から)
「くがとなりぬる」の「くが」とは「陸(くが)」のことです。
つまり、稲村ケ崎の投刀の場面を唄った歌です。
昔は皇室でもよく南朝方の武将の歌が詠まれたといわれます。

江戸時代後期の戯作者「十返舎一九」による新田義貞評
「義貞は資性勇猛強健にして智謀敏く、弓剣の軽捷自ら絶妙なり、<中略>後醍醐の帝重祚を得たまふは偏に義貞の武功によるところなり <中略> 元より義貞は堅を破り利を摧く(くだく)こと項王の臣樊噌の勇あり……」文政六年
(「上州及び上毛」259号から)
少々褒めすぎの感もありますが、江戸時代を代表する物語作家=戯作者の評価なのでそのまま有り難く受け取りましょう。

ここに出てくる「項王」とは劉邦(前漢初代皇帝・高祖)のことで、「樊噌」はその家臣です。
ちなみに「樊噌」(はんかい)とは、
(?―前189)
中国、前漢の高祖劉邦(りゅうほう)の功臣。呂后(りょこう)の妹を妻とし、武勇をもってもっとも信頼の厚かった臣下。沛(はい)(江蘇(こうそ))の人。もともと犬のと畜を生業(なりわい)としていたが、高祖の子飼いの臣として反秦(しん)の挙兵の当初から武人として活躍した。『史記』樊伝が熱情を込めて語るのは「鴻門(こうもん)の会」事件の場面である。劉邦の将来を恐れた項羽(こうう)は酒宴に招いたその席で殺そうとした。宴の外で待機していたは、主君の危うきを察知するや剣と盾(たて)を帯びて衛兵を押しのけ闖入(ちんにゅう)、自ら項羽に直面して劉邦の二心なきを説く。その間に劉邦は厠(かわや)に行くと称して脱出できた。描写の最後に著者司馬遷(しばせん)は「樊噌が飛び込まなかったら劉邦は死んでいたろう」と記す。漢の天下統一後も、左丞相(さじょうしょう)・相国(しょうこく)として諸王の反乱鎮定に功があり、舞陽(ぶよう)侯に封ぜられた。
「日本大百科全書(小学館)」から。
なるほど、忠臣という点が同じということで、引喩したのでしょう。

③江戸中期の学者・新井白石は「新田庶家」の流れを組む者。
「上毛及び上毛人」56号(大正10年)によると、新井白石が書いたとされる書物が発見されたとある。
それは「義家朝臣古園考」「左中将源公没年考」「新田世良田徳川三家合考」「岩松家系附録序説」「長楽寺古文書」で、発見者は戸田氏之とある。
すべて、「新田一族」に関するものだった。
なぜかと言えば、第一に、徳川家が新田一族の末裔を称しているからその調査という目的もあっただろう、また第二に、新井白石自身の祖先も新田一族に連なる者だと云われていたので、これを調査し著述したのだろうと思われる。
ここ「上毛及び上毛人」本文には、「白石の父正済は新太郎と称し新田郡新井村の出身であることは口碑にも伝えられ、正済の伝は上毛偉人伝にも出ているが、白石全集には「新井家系」も出ているので読んでみると「我則上野人也」と明白に書いてあった」とある。
また、橋本幸雄著「上野国世良田 長楽寺改宗と天海」(岩田書院)の中にもこの件に関して詳しく書かれてあり、新井白石が新田一族の中から自分の祖先につながるものを発見したとき、狂喜乱舞しそうなほど喜んだとある。
というのも、新井白石の身分はもともと「浪人の小せがれ」であり、名門を誇る老中からみれば「町人学者、浪人学者」と疎まれる存在だった。それが、将軍家と同じ「新田氏」系の流れを組む家系であったとなれば、まわりの目も違うだろうし、本人の自尊心も満たされることになっただろう。
実際に新田氏の末裔であったかは分からない。しかし、新井白石が自分は「新田氏の末裔」だと信じ、「新田伝承」を受け継いだということが重要で、その自覚が本人にがあったという点が肝心なのだ。
さて、この新井白石は実は「尊王主義」だったという、これはよく覚えていてください。のちに「新田義貞伝承を追う!シリーズ」の根幹になるからです。(「新田伝承」を持つ者は「尊王思想」があるということ)

で、最後は、④大慶寺
大慶寺は、「新田氏の始祖新田義重の娘が源義平の妻となり、その後、綿打郷に移り義平の冥福を祈ると共に出家して妙満尼となり創建されました。50世の法灯を継ぐ歴史があり、新田の変遷をみつめ続けてきた名刹です。3千株をこえるぼたんは見応え充分で、ゴールデンウィークの頃には訪れる人が絶えません。」(太田新田商工会から)
大慶寺 山門
ここには、 「泣き不動」と呼ばれる不動明王が祀られている。鎌倉時代には新田氏の守り不動として信仰を集め、「新田義貞」が戦死するとその死を惜しんで泣いたという。平安末期の作。開基である妙満尼が父「新田義重」の像を彫ると、一夜にして不動明王の姿になったとも伝えられる。
大慶寺 本堂
このお堂にその不動明王がいます。

ということで、私も「義貞最期の場面」を読み返して、泣きます。
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