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物語を物語る

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新田義貞関連の記事 「太平記登場回数は2番目に多い」

物語を物語る

峰岸純夫著 歴史文化ライブラリー272「足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢」の中に書いてあった「太平記 人物名記述回数100回以上のベスト9

1、足利尊氏 464回
2、新田義貞 381回
3、後醍醐天皇 327回
4、高師直 241回
5、足利直義 231回
6、足利義詮 200回
7、楠木正成 173回
8、新田(脇屋)義助 118回
9、北条高時 112回


こういうものを見ると、「太平記」において、新田義貞及び新田一族の記述がいかに多かったのかというのが分かる。
新田義貞の初登場は巻7「新田義貞賜綸旨事」で、その死が巻20「義貞首懸獄門事付勾当内侍事」である。(ただし巻23「大森彦七事」では義貞は怨霊となって登場する) 太平記全40巻のうち3分の1しか実質的に活動していないが、その割合から見れば、義貞の登場回数はかなり多いことになる。
ちなみに足利尊氏は巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」から巻33「将軍御逝去事」まで登場するので、その活躍期間は義貞の2倍長いことになる。
つまり、義貞は太平記の中盤において集中的に登場していることになるのだ。
そう見ると「北国落ち」してからは、中央政局とはあまり影響がないのに、異常なほど、義貞周辺の記述が多いのが不思議なのだ。こうした点を見ても、太平記の中盤の作者は、義貞の周辺にいた人物ではないか、といえる。やはり児島高徳か?http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-405.html
そして、脇屋義助が8位というのが、意外だった。義助の死は巻22「義助朝臣病死事付鞆軍事」で、やはり活動期間は短い。しかし、兄・義貞と行動を共にした名参謀といった記述が多いようだ。また脇屋義助は、義貞死後の巻21、22にその名が集中するから、このころの南朝方の中心人物となっていた証拠だろう。(義助がもう少し長生きしていれば、状況は変わったはずなのに……、ほんと新田氏は不運な一族だ) またこのあたりの行動の記述が詳細な点からみて、「太平記」中盤の南朝方の作者は、新田一族と行動をともにしていた人物となる。となれば、児島高徳か、その周辺人物となるだろう。

さて、新田義貞及び一族の登場回数が多いのは、太平記・南北朝の時代が、新田対足利の武家の覇権争いという一面もあったから当然だといえるのだ。
ただ、「義貞と尊氏の実力を比較して、新田氏は足利氏のライバルではなかった」という人が結構いる。
これは明らかな間違いだ。
義貞死後の新田一族の戦いも凄まじく、足利氏打倒の執念はより一層激しくなっていく。太平記全体を眺めれば、これは「義貞vs尊氏」という単純な構図ではなく、「新田一族対足利家」で、新田一族の決死の総力戦のような形になっていくからだ。
たとえば、義貞の遺児である義興、義宗、義助の遺児である義治は「武蔵野合戦」(巻33)で足利尊氏を自刃させる直前まで追いつめている。
義貞の遺志を継いだ者が、足利方に戦いを挑むような様相を呈していく。だから義貞の遺児らを含めて「新田対足利」というライバル関係にあったといえるのだ。
ほかに、「新田幕府の可能性はあったのか?」
新田義貞ファンは「高柳光寿」の擁護論を読んで、立ち上がろう!あたりが関連記事。

また、義貞の死をもって新田一族が滅亡したかのように言う人もいる。
その人は、新田一族が「源義経」や「平家」のようにパッと消えてなくなったように思っているのだろう。
これも間違いだ。
新田一族は滅亡したわけではない。義貞死後も、新田一族は各地で足利方と戦っている。太平記の後半を読めば新田一族の名が多く出てくることを知らないのだろう。
地図を眺めて胸躍る。各地に新田一族の名前が!の記事から。
ここに一族の名は書いてあるが、その他にも新田一族の家臣というのも数多くいて、いまもその子孫だという家は多く存在しているのだ。
藤島神社・新田禰宜のつれづれ日記」には「聖飢魔IIのデーモン小暮閣下の祖先が新田義貞の家臣だった(デーモン小暮本人の弁)」といった話が載っていた。
全国各地にこういった話がゴロゴロ残っている。そう、新田一族や家臣らは消えてなくなってしまったわけではなく、地下に潜って生き残っていた者たちもいたのだ。(これが「東毛奇談」のテーマでもある。) 

最後に「新田義貞」情報。
平成21年8月29日付け 上毛新聞「ちょっといい話」から
新田義貞「和太鼓」

新田義貞を縁に交流
福島県白河市で今月上旬に開かれた「スポーツ和太鼓フェスティバル」。県内外から12団体が出演した熱気あふれる会場で、太田市の新田太鼓保存会(原田均会長)がひときわ勇壮な和太鼓の音を響かせた。
郷土ゆかりの武将・新田義貞をシンボルに掲げて和太鼓演奏に取り組んでいる同保存会と白河市の交流は676年前の縁が結んでくれた。
同市は、義貞とともに1333年の鎌倉攻めに参加した結城宗広の古里。今年1月、太田市へ視察に訪れた白河市議が、同保存会の歓待を受け、力強い演奏に感激。鎌倉攻めの縁もあって盛り上がり、フェスティバルへの参加が決まった。
本番では、メンバー15人が舞台に上がり、義貞の生涯を表現したオリジナル曲「新田義貞太鼓」を披露。新田氏の「大中黒」の旗を掲げながらの熱演に、大きな拍手が送られた。
滞在中も結城氏ゆかりの名所に案内されるなど、予想外の歓迎を受けた。白河市の鈴木和夫市長も「素晴らしい演奏で盛り上げてくらた」と感謝し、今秋に開かれる「食と職の市」への招待を約束。会長の原田さんは「一生懸命やっていると、いいことがあるな」と胸を熱くした。
1983年に結成。「新田太鼓の輪を広げ、後世に残るものに」という思いで続けてきた。四半世紀を過ぎ、夢に近づく一歩を、ほかでもない義貞が導いてくれた。「郷土芸能としては、まだまだ駆け出し。期待に応えられるよう、もっと腕を磨かないと。原田さんは気持ちを新たにしている。 (金田圭子)

この白河市の近く棚蔵町に新田義貞と勾当内侍の墓がある。
「新田義貞伝承を追う ①各地に残る勾当内侍の墓の謎」

何はともあれ、ここに熱い「新田魂」を感じます。
ということで、全国の新田義貞ファンともに立ち上がりましょう!

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