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新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ 新井白石編 1、新井白石は「新田源氏」だったのか?

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新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ 新井白石編その2
前回の続き

では、1、新井白石は「新田源氏」だったのか? を見ていきましょう。

新井白石の事蹟については、省略。Wikipediaで確認を。
ここにもあるように氏族は「上野源氏新田氏庶家」とあり、脚注では「 『姓氏家系大辞典』(太田亮、1934年)などでは白石の遠祖は新田義房の子荒井覚義の子孫とする。加えて『系図纂要』では白石の祖父の代に新井姓に改めたと伝える。」とある。
まあ、通常の知識としてはこれくらいでいいのですが、当ブログでは新井白石が新田源氏を名乗ったことが重要であり、このシリーズの根幹となるところなので、詳しく見ていくことにします。
(あとは長文の引用が続きます。要点は「まとめ」のところで)

まずは、新井白石著折りたく柴の記(中央公論社「日本の名著」責任編集・桑原武夫訳) から。

祖父母のこと
「私の祖父は勘解由様と言い、祖母であられた方は、染屋某の娘である。お二人とも、常陸の国の下妻庄でなくなられた。新井というのは、もともと上野国の源氏で、染屋はもともと相模の国の藤原氏であるのに、……」

とある。
また世良田長楽寺所蔵の新田氏系図 のところでは、

上野国新田郡世良田庄の長楽寺の住職・広海住職は、私が年来親しかった人である。その寺の宝蔵に鎌倉時代の代々の古文書と古い新田氏の系図が一巻あった。
世間で知られている系図と同じものではない。私の家の姓などのことも書かれているので希望したところ、写しを取って下さった。それはものを調べてみると「世間で知られている徳川家の御系図というものには合点がいかぬところがある」と思っていたが、家宣公がお世継ぎになられたのち、御系図のことに言及されたので世上に通用している御系図には十の疑問点があることを記して差し上げた。
その後、また近衛の竜山公(近衛前久)がその子三貘院(さんみゃくいん・近衛信尹)へ差し出された手紙があるわけであって、いまの太閤(近衛基熙)から上様にご覧入れたところが、私が申し上げたところと合致するところがあったので感心されたとの仰せがあった。
こんど若君が御誕生になって世良田とお呼びしたことによって、あの広海僧正がやがて日光の准后(輪王寺宮公弁法親王)を通じてその系図をしたいと言われたので同月二十九日、准后がその旨を伝えられ、僧正のおられる寺から結局(八月二日)御系図を献上された。

私の家にある新田系図一巻は、その僧正のおられた寺の斎藤という者に模写させて送られたものである。また竜山公の書と題して小さな奉書紙を二つに切ってつないだものに書いたのは、あの太閤がご覧に入れたものを私に写させられたときに、お許しを得て、「私も一本写しとうございます」とお願いしたところ、「好きなようにせよ」と仰せられて写し取ったものである。

とある。
新井白石 新田三家考(画像は「上州及び上州人」大正11年 57号~64号まで、新井白石「新田三家考」が掲載されている。)


次に橋本幸雄著「長楽寺改宗と天海」(岩田書院)
から。 

「寛永寺と増上寺の確執の要因と新井白石の主張」の章
新井白石の随筆「折りたく柴の記」によると、正徳四年(1714年)十一月、増上寺の住職、三十七世大僧正詮察が幕府に、「来年は家康公の百年忌に当たるので、唐山の安国殿(家康公の廟所)の修復を兼ねて法要を行いたい」と幕府に願状を差し出した。
それを要約すると、「安国殿の神像は自分の姿を鏡に写して作らせ詰めと髪を中に込められたもので、三代家光公までは御尊敬の念は特別のものであったが、四代家綱が幼少であったので、参詣も途絶え、家康公の神殿も草むらの中に朽ち果てて仕舞いました。家康公の神殿は奥行き六間、間口十五間、内部は畳六十六畳を敷き、社殿の前に鳥居が立っており、これは全国六十六州を鎮護される為のものです。御先祖大光院殿(新田義重)以来、浄土宗に帰依されていたので、家康公がわが宗の奥儀を伝えられた時、戒名を「安国院徳蓮社祟誉道和大居士」とお付けました。
そして三年忌の法要まで当寺で行われましたが、日光山に家康公の遺体が改葬されて後はわが寺で法要などが行われなくなりました。御先代(六代将軍家宣)の時、家康・秀忠公の御志を継がれ、わが宗が御再興下され、わが寺で家康公の百年忌を行う事は、御先代の家宣の御意思を継がれる事となります。近くでは五代将軍綱吉(常憲院殿)の御法要も我が寺で行われた例がございます」と、願い出たのである。
これに対して幕府老中は如何したものか御用人の間部詮房に相談した。詮房はその事を新井白石に一任した。
新井白石は上野国世良田長楽寺の文書を引用して、御先祖が代々浄土宗に帰依していたということは無い事、又和泉入道殿(家康の六代の祖・松平信光)の時から浄土宗に帰依されていたが、本光国師(崇伝)の日記によると、家康公の御中陰の御法事は増上寺で行われているが、内々の事だったので上皇から送られた御香奠も受け取っていない、又、その後の一周忌・三周忌の法要は増上寺で行われた訳ではない。そして当時の東照宮の法要の日記を差し出すよう求めた。又安国殿の参詣が無くなったのは浄土宗の改旨を改められたからであろうか、それらの事を書面に書いて返答するように要求した。
それに対して増上寺側は、当時の日記は度々の火災で失い証拠となる物がない事、始めは安国院などの号でお呼びしていたのだが、元和三年(1617年)二月以来東照宮大権現の勅諡号だけを唱えるようになり、この度の家康公の百年忌の催しが許されるなら、わが宗にとって、これ以上の興隆の機会はありません、と答えた。それに平岩主計頭親吉の著作「三河後風土記」を例に出して、そのことが詳しく記されていますと、答えた。
新井白石はそれに対して、親吉は家康公の亡くなる以前に他界しており、家康公の亡くなった時の事が書けるわけがなく、それは増上寺のまったくの妄想だと一蹴している。そしてこうした事柄を明らかにあいた上で、浄土宗は徳川家が代々御尊崇された宗旨であり、増上寺は徳川家康の菩提寺である。それなのに、そのような根拠の無い事を言うと、他の寺院等に聞こえた場合不味いことになると書いて、願い状を下げ渡した。やがて増上寺側から始末書が出され何も言わなくなり、この事は一件落着したのである。
これを見るに、白石が増上寺側に詭弁を呈して無理やり屈伏させた感がある。白石は先に述べた、長楽寺文書を例に上げ真っ先に増上寺側に反論している。長楽寺は寛永寺との関わりの深い天台宗の寺院で、この寺の調査をやった白石は、長楽寺系図に新井(荒井)姓があるのを発見し、自分は新田氏の一族で徳川氏と同系の清和源氏の家柄であることを非常に喜んで、その系図の写しを長楽寺の住持の広海僧正から貰っている。つまりこの時の調査を基に白石は「新田三家考」を著している。要するに新井白石は天台贔屓だったのである。すでにこの時から幕府内部でも政治的に浄土宗と天台宗の確執は始まっていたと考えられる。

とある。
新井白石 長楽寺古文書目録(画像は「上州及び上州人」に掲載されていた「新井白石 長楽寺古文書目録」)

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
では、

新井家系であるが、いま、白石自筆の「新井系図」(「新井氏族志」所収)によって、系図中最も確実と認められる部分、白石までの三代と、それの前書の文を掲げると次の通りである。
「新井は上野の国新田の邑の名、旧(も)と荒居に作る、今用いる字の如し。家先、新田大炊助源義重の曽孫、蔵人義兼の孫、蔵人太郎義房第二子、荒居禅師覚義の後より出づ。家紋は花菱或いは竹に雀を用ふ。兼ねて田字草を用ゆるはすなわち君美(白石)より始る。
<中略>
「新井系図」には、遠祖源経基以降の系図がある。
<中略>
これらを補うものとして、「折りたく柴の記」はもちろんのこと、同族岩松義元のために白石が書いた「岩松家系付録序説」があり、安積澹泊・佐久間洞巌宛の書簡などもある。

とあり、また、

「なお挙げれば、荒居と新井の繋がりの問題もあるが、これについても澹泊宛書簡(享保九年<1724>八月九日)において、私の家号はもとは荒居とも荒井ともしるし、上野国の由である、それが何時ごろからか新井と書き改め、上野国の地名も今は新井になっている、といい、「新田の支流に候へばそれらの事故も候歟」と述べているだけにとどまる。この件については、水戸の系図の専門家丸山可澄に調査を頼んだが回答は得られなかったようである。
要するに新井家を「新田の支族」とする白石の考案は、確証とすべき文献史料を欠くだけに、一見精密のようではあるが、そのままに信受するわけにはいかないというほかはない。ただし、白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」

勝田勝年氏は、「新井家系」が祖父を武家の棟梁である清和源氏の子孫とし、祖母を公家の棟梁である藤原氏の子孫とするのは、文武再興の門閥を組み合わせて新井家の門地を高めようとの意図から出たものである、と解釈されている。(「新井家系の研究」)。これは大変うがった評論であるが、白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。
それと同時に、「新井家系」においても「読史余論」や書簡においても、新田義貞及びその子孫の南朝への忠義忠節を特筆大書し、思慕の情を披瀝していることの理由がよく理解されるのである。

とある。
重要なのは、太字の部分。実際に新田源氏の血を引いているのかは疑わしい。しかし白石自身は自分が「新田一族の末裔」だと信じ、その「新田義貞及び一族のイデオロギー」を受け継いだという事実だ。


では、「新田一門史」の新井氏はどうかと言えば、太田市、伊勢崎市、藪塚本町、利根郡、黒保根村の新井氏についての記述がある。

そして、新井白石については、小暮氏のところに記述がある。

太田市新井に在住する小暮 氏~小暮一氏~小暮徳弥氏~小暮行雄氏
新井覚義禅師の末裔であるが、改姓した理由は、年貢の取り立てが厳しく「小さく暮す」と小暮氏とした。江戸時代寛永中期、新井九兵衛のときだった。代々名主をして苗字帯刀を許された。この新井覚義の子孫に享保の改革者、新井白石がいた。新井白石は徳川六代将軍家宣に登用された学者で彼はドッチと会談して「西洋記聞」を出版した。将軍家宣が没して、家綱―吉宗と三代に仕えた。当時、貝原益軒、稲生若水ら学者と交友した。白石は良貨を発行し、銀の海外流出を防ぐため長崎貿易を制限した。つぎに幕府の威容を張るために学殖を傾けて礼式、服制を整え、皇室を尊び、更に朝鮮の待遇を改めた。これらの政治を「正徳の治」という白石は歴史、言語、宗教なぞ多方面に当時としては驚くほど清新な、しかも考証をもとにした学問的な功績を基にした学問的な業績を成し遂げた。
彼がこのような学者だから、八代将軍吉宗は、徳川家康の地は新田荘であると称し、世良田の長楽寺や徳川邑を優遇した。これらの歴史を白石に聞いたので、吉宗は代官に命じて新田荘や寺尾にある新田義重の墓地なぞ調査した。
これら吉宗の調査書、新井白石考、松陰私語、その他沢山の記録を調べて、陸奥守源義家三男式部大輔義国長男大炊助従五位下源朝臣新田義重二十五世新田俊純が「第七十五号」華族に編入された。
(新井白石が新田氏の分族であったので新田氏の歴史や、系図書が役立ったのである。新田一門史に白石考あり)
小暮氏に本居宣長の書軸が蔵しているが、宣長は国学を前進させた学者で新井白石が活躍した享保年間、八代将軍吉宗の時代の人物である。それで小暮家に本居宣長の書軸がある、また、新井文右ヱ門照房は……以下省略


また尾島町の新井氏の項目では、

新井氏の記録は、新田氏六代基氏の次男で、新田荘六合村新井に住み、新井覚義が祖なり。基氏二男は、義貞の叔父だから、大館氏、堀口氏よりも、近親である。
大館氏や堀口氏は鎌倉攻めの大将だった。新井覚義も当然大将のはずであるが、旗頭にも出ていない。最も義貞の旗本だったと考えればいいが。新井覚義は義貞、義助に従い軍功あり。その子義基は興国元年、懐良親王に従い九州の菊池氏と豊前馬ヶ岳城に拠い義を唱えた。その子義氏、孫義高、曽孫義通らは時至らず自殺す、という記録あり。江戸時代の学者、新井白石は覚義の末裔と称す。

とあった。
それに、上州及び上州人 昭和12年・242号では、

豊國生「世良田の長楽寺と新井白石先生に就いて」
世良田の長楽寺の古文書はすべて新井白石先生が徳川家の命を受けて鑑定、整理、且つ編集したものであるが、本誌は新田男爵家の承認を得、また東京帝大史料編纂所の許可を得て、正木古文書(又は新田岩松文書)を掲出しつつあることになるが、更に同文書を姉妹関係を有する世良田長楽寺をも本誌に掲載するにつき同寺当局の快諾を得たので、これにも少しく白石と長楽寺との関係についても記しておく必要を感じるのである。
徳川家と長楽寺との関係は、徳川氏祖先以来のことであるが、専らこれが楔となったのは先に、天海僧正であり、後に新井白石ありと云うことができよう。
新井氏の祖先は新田郡新井村を出で、徳川氏と同じく新田族であると宝永の頃、長楽寺の住職広海僧正とは……以下省略

とあった。
新井白石が書いた「新田三家考」により、岩松満純は実は新田義宗の子であり、それによって新田岩松家が家系血統とともに純然たる「新田の血統」を継いだことの証明となった。これが明治維新の新田俊純の男爵叙勲につながったとも言われる。(これは井上馨・渋沢栄一編につながっています。)

そして、現在でも群馬県太田市には、「新井」という地名は残っている。
太田市新井町1

太田市新井町2
太田市地図で確認してみてください。ほぼ中央にあります。

まとめ、
新井白石が新田源氏であるかどうかは大したことではないと思われるだろう。
しかし、それが「新田一族、新田一門」あるいは、その家臣、または一緒に行動を共にした「児島高徳」の末裔だと知った瞬間から、たちまち彼らは「尊皇家」になるようだ。
新井白石もそうだった。

上記、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」にあるように、「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」
「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」

とあるように、新井白石は、新田源氏として何を自覚し、何を意識したのか

ということで、次回の2、皇室の系統を守った新井白石は、新田源氏の使命だったから?へ続きます。
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