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物語を物語る

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シリーズ 新井白石編その2 新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。

物語を物語る

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その2
2、新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。
前回は、新井白石が新田源氏を名乗った経緯を見ていきました。そこで重要なのが、最後の「まとめ」部分で引用した、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」の記述で、太字の大文字にしたところです。
またしつこく引用すれば、「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」、「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」とある。(これからも何度もここは引用します。)
新井白石は新田氏を名乗ったゆえに、何を意識し、何をしたか、ということです。
結論からいえば、今回の「皇室の皇統を守った」ということと、次回の「日本という国を中国から守ろうとした」ことになる。

ではまず、本題にはいる前に、「平成皇位継承問題」について。
近年、マスコミでは「皇太子、雅子さまのこと」とともに、「女性・女系天皇」「皇統断絶の危機」など皇室を取り巻く問題をネタにした記事が、文芸誌、一般誌、女性週刊誌を問わずデカデカと載るようになった。
特に、これから大きな議論を呼ぶことが予想される「皇位継承問題」は、注目されるところである。
Wikipediaでは、

1965年の秋篠宮文仁親王誕生以降、長く皇室に男子が誕生しなかったため、将来的に皇室典範に定める皇位継承資格者が存在しなくなる恐れが生じた、2000年代に入って表面化した問題。皇位継承資格者の不足という問題を解決するために、史上前例のない女系天皇を容認すべきか否か、あるいは皇位継承について定める「皇室典範」を改正すべきか否か、皇位継承順位をどのように定めるべきかという問題でもあるため、女系天皇問題や皇室典範問題などともいわれる。
2004年末に当時の内閣総理大臣・小泉純一郎の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が設置されたことにより関心が高まった。2006年に41年ぶりの皇族男子として悠仁親王が誕生したものの、依然として皇位継承資格者の不足という問題は残ったままである。

とある。
いまこの問題は百家争鳴の状態で、簡単に答えの出る問題ではない。まして時間が解決してくれる事案でもない。ただ、畏れ多くて触れてはいけない事とされ、いつまでも棚上げされてしまう状態こそ憂慮されることであり、何よりもあまり時間があるようには思えない。(究極的には男性天皇か女性天皇か、に尽きる)

この問題について、最近読んだ本では笠原英彦著「象徴天皇制と皇位継承」(ちくま新書)が衝撃的だった。帯では、「現在の皇室の危機はマッカーサーが仕掛けた時限爆弾」とあり、本書ではここにある大きな問題点を指摘している。
笠原英彦「象徴天皇制と皇位継承」
まえがきには、

戦後、GHQの占領統治下に入ると、一夫一婦制を規範として側室制度は廃止された。これにより、皇位継承権をもつ庶子の存在に終止符が打たれた。GHQはこれに追い討ちをかけるが如く、多くの宮家に皇籍離脱を求めた。それでもなお、皇室典範では旧皇室典範を踏襲して皇位継承資格を「男系の男子」に限定した。国会ではかなり踏み込んだ議論が展開されたが、政府関係者の現状認識と将来展望は極めて甘かったといわねばならない。
現行の皇室典範のままでは憲法第二条の「世襲」(血のつながり)をまもることすら難しい。天皇制の短期的存続、長期的廃絶をねらう米国国務省やGHQの意向は、マッカーサーにより「皇統断絶という時限爆弾」として周到に仕掛けられた。
サンフランシスコ講和の直後に政府が皇籍離脱した旧皇族の復帰を進めなかったのは、天皇制の存続、昭和天皇の免責に満足し、将来における皇位継承の危機を何ら予見できなかったからである。今上天皇に二人の親王が誕生したことも、結果として構造的欠陥を抱える皇室典範の改正を先送りすることになった。

とある。結果「女性天皇容認すべき」という論が展開されている。ただし「男子天皇派」も必読の書。

また八木秀次著「本当に女帝を認めてもいいのか」(洋泉社)
にこんな一節がある。
八木秀次 

出でよ!平成の新井白石
百二十五代の今上天皇はこの閑院宮家出身の光格天皇の直系に当たります。つまり今上天皇のほんの数代前にもそういう男系皇統が途絶えかねない危機があったのですが、見事に乗り越えられたわけです。したがって、私としてはこの事蹟に倣って「平成の新井白石」のような政治家なり官僚なりが今こそ出てきて、宮家を復活、創設するなり、養子を認めるように皇室典範を改正するといったリーダーシップを発揮してほしい。

とある。皇室関連の本では、この問題を解決する糸口の一つとして、新井白石の「閑院宮家創設の建議」を取り上げることも多い。
やはり、強力なリーダーシップの取れる人物が必要だ、ということだろう。(それがいないのが大問題だが…)
また八木秀次の本に以下の解説もある。

光格天皇は閑院宮家の出身である。閑院宮家は新井白石の建議により1710年(宝永七年)に創設された新たな宮家である。白石は徳川将軍家の世継ぎ問題が深刻であり、徳川家でさえ、世継ぎ確保のために大奥を設けたのみならず御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)などの分家を用意している。朝廷・皇室も世継ぎ確保のために備えをすべきであるとして宮家の増設を提言した。その結果、伏見宮、桂宮、有栖川宮を加えて新たに閑院宮家が創設され、実にその約七〇年後の1779年(安永八年)に光格天皇を出したのである。
もしその時、新井白石が宮家の増設を提言しなければ、光格天皇の誕生はなく、したがって明治天皇も大正天皇も昭和天皇も、今上天皇もない。それどころか皇統は断絶していたかもしれない。
幕府の専横によって貶められていた天皇の権威を回復させたのが光格天皇である。光格天皇は傍流であった閑院宮家出身のためか、逆に天皇であるとの意識が強く、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。朝廷の権威の復権に務め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。
光格天皇は後桃園天皇の急逝に伴って、わずか九歳で即位した。やがて光格天皇は「日本国の君主としての天皇」という意識を強烈に持つに至る。


やはり、現代にも求められるのは「新井白石」のような「先見性のある人物」であろう。
この点において、作家の山本七平は新井白石を高く評価している。
「天皇制を正確に分析し、正しく評価した最初の日本人は白石であろう。
彼は、天皇制をはっきりと二期に分けており、この考え方は、「読史余論」でも「折りたく柴の記」でも一貫している。」とある。
山本七平の日本の歴史
(画像は、「山本七平の日本の歴史 上・下巻」(ビジネス社) 南北朝時代を中心にして「天皇制」を鋭くついている。山本七平が生きていたら、現在の皇室問題をどう見るのか、聞いてみたいところ)

では、新井白石の閑院宮家創設の経緯を見てみましょう。
折りたく柴の記 中央公論社「日本の名著」責任編集・桑原武夫訳

 親王・皇女のお取り扱いについての意見書 
二十七日に参上した際、また意見書を奉った。その大要は次のとおりである。
「わが神祖(家康)は、天から勇気と知恵を授かり、天下を統一なされたが、これは御先祖代々が徳を積まれたためであり、これによって子孫万世の事業をお始めになることができたのである。だから、男女の御子たちが多く、そのうち早世された方もあったけれども、大藩に封ぜられて、いまもその子孫が栄えておられる方が四人まである。(紀伊・尾張・水戸・越前)。二代(秀忠)の御子で、大名となられたのは、駿府殿の事件(忠長の改易・自殺)があったあとは、いまはただ会津殿(保科正之)の子孫のみがおられる。三代(家光)の御子で、大名になられる方も二人おられた(館林の綱吉、甲府の綱重)。四代将軍(家綱)になって、お世継ぎの御子がなかった。なくなられたときには、御兄弟も御先代綱吉公だけであったので、御養子となられてから、お世継ぎとなられた。御先代の治世のはじめには、若君(徳松)がおられたけれども、まもなくなくなり、そのあとは御子がおできにならなかったので、御当代(家宣)を御養子とされたのである。だから、三代以降、将軍家のお血筋の絶えることがすでに二度までもあった。
神祖ほどの徳をもっておられてさえ、まだ百年たらずのうちに将軍家のお血筋がこのようになったということは、その理由がないわけではない。ましてただいまは、御先代の御養子となられたのであるから、私としては、ひそかに深く憂いている。このときにあたって、天が下した禍いを悔い改めて、徳川家に新たな天命がおりるようになるには神祖の徳を継承する以外にはない。もっともそれらのことは、私が二十年ほどのあいだ進講したところだから、いままた詳しく申す必要はない。
その中で申し上げておきたい一つの意見がある。元亨・建武のあいだ(後醍醐天皇の治世)、皇統がすでに南と北に分かれ、南朝はまもなく絶えてしまわれた。北朝はもともと武家のために立てられたものであるから、武家の治世と盛衰をともにされるべきであるが、応仁の乱のあと乱世がつづき、武家がすでに衰えた以上、皇室が衰えたことは言うまでもない。当家の神祖が天下統一されるに及んで、皇室でも絶えたしきたりを継承し、すたれた諸行事を再興されたのである。
しかしながら、皇室では、皇太子のほかは、皇子・皇女がみな御出家されることは、いまでもなお御衰退の時代と変わっていない。すべて身分の低い男女といっても、子を産めば、必ず家をもちたいと思うのは、世の中のむかしからの人情である。また、いまでは、農・工・商のたぐいの者でも、男にはその財産を分けてやり、女には嫁入り先を求める。まして侍以上の者では、そうでない者は一人もいない。こういう世のなかの慣習として長く続いているので、皇室でも、いま改めて申されることはないにせよ、こうした皇族御出家の慣習を希望しておられるとは思われない。たとえ、また皇室からお申し出がないにしても、これらのことについて改善の処置がなされないことは、朝廷にお仕えする義務を果たしたとは言えない。いまは、公家の人々は領地をもっているのだから、皇子が親王にお立ちになっても、どれほどの土地を差し上げるわけでもない。皇女が御降嫁なさっても、どれほどの国の財産を費やされるわけでもない。この国をひらかれた天照大神の御子孫がこんなようでいらっしゃるのに、徳川家康公の御子孫が常しなえに繁栄されることを望むというのは、いかがなことであろうか。
しかし、私が言うようにしたならば、これからのち代々の皇子・皇女が多数おられるようになっては、天下の富もそれぞれお受けになるところが足りなくなるのではないかと言うこともあるかもしれない。むかしから、皇子・皇女が数十人おられた御代も少なくないけれども、それらの御子孫がいまにまで続いておられるのは、いくらもいらっしゃらない。『天地のあいだには、自然の定数というものがある』とむかしの人は言った。これらのことは、人間の知力ではおしはかることはできない。ただ道理が合っているかどうかだけを論ずるべきである。
また、皇子の御子孫が多くなっては、けっきょくは武家のために不利なこともでてくるのではないかということもあるかもしれない。高倉宮(後白河天皇の第二皇子以仁王)の令旨によって、諸国の源氏が蜂起したけれども、これは平清盛に非道なことが多くて、家が滅亡すべき時期にきていたのである。もしこれらのことを教訓とするなら、北条高時が滅んだときに令旨を出されたのは、梨本の御坊(大塔宮護良親王)ではなかったか。だから、たとえ出家された御身分であっても、武家に不利なことがないとは言えない。これらは、ただ武家政治の良否のみに関係することである。すべてこれらのことをよくよくお考えになっていただきたい」
この意見書をご覧になったあとで、二、三回仰せがあったのち、「おまえの意見は道理にかなっている。しかし、これは国家の大計である。十分に考えてみよう」と仰せがあったが、やがて、いまの法皇の皇子秀の宮(直仁親王)と申す方に、親王になられる宣下を下されるようにと仰せだされた。その後また御先代(七代、家継)に皇女(霊元天皇の皇女八十宮吉子内親王)が御降嫁されることも決められた。
これらのことは、私がこの国に生まれて、天皇の御恩に報いたことの一つである。しかし、私がひそかに憂いていたように、御先代がお亡くなりになって、とうとう将軍家のお血筋が絶えたことは、人力のとてもおよぶところではない。しかし、また私がこれらのことを申し上げておいたこともあるので、将来のことも深く考慮しておかれた通りに、御当代(八代、吉宗)があとをお継ぎになられたことは、これまた天下にとって幸いと言うべきであろう。

秀の宮のこと、ある高貴な方が昔から親王家を立てることは困難なことだという理由でとめられたが、その意見を用いることなく、朝廷に申し出されたと聞いた。まことにありがたいことである。しかし、このことは私が直接お聞きしたことではないので、本文にはかかなかった。

この意見書は、朝廷から将軍任命の宣旨をうける儀式に関係したことがあったので、そのときに提出したものである。

とある。
ついでに、新井白石が尊王家であったと思わせる記事を、「折りたく柴の記」から拾っていくつか載せておく。

「天皇元服の儀式拝観、琉球使節に伏見で会見「宝永八年(1711年)正月元旦、天皇御元服の儀式を拝観した。この日、まぢかに天皇の拝見したのはありがたいことである。」

「法皇の姫宮お輿入れの相談 「この年の冬、霊元法皇の姫君が上様にお輿入れなさることが決まり、来年の春には、阿倍豊後守正喬殿がそのことのお使いを承ると噂された。これは武家始まって以来はじめての例である。いまは見果てぬ夢となったけれども、このうえなくありがたいことである。」

とある。
幕府の中核にあって、皇室に目を向けていたという人物はそれほどいないであろう。

また、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」では、こう解説している。
人物叢書 新井白石

朝幕関係の融和増進
まず朝幕関係であるが、初代家康の時、禁中並公家諸法度が作られて以来、表面は恭順を装いながら実際には幕府は朝廷抑圧の方針を採り、二代秀忠の時には早くも紫衣事件を引き起こして、三代家光までは両者の間には緊張関係が続いた。それをある程度緩和したのが四代家綱の時で、五代綱吉に至って御料地の増献や天皇御陵の修理など種々の朝廷尊崇の態度を示したことにより、ようやく感情の融和がもたらされたのである。これをさらに促進したのが家宣の時で、それには家宣の正夫人を代表的公卿、近衛家から迎えたという婚姻政策も多分にあずかっているが、白石の進言、皇子皇女の出家廃止案が採用されたことが、朝幕関係を格段に親密化し朝廷の幕府信頼を確定的なものとしたと認められる。この白石の進言の根底をなした理念が、皇室と徳川家の共栄であった点において、従来の幕府側の対朝廷策とは異質なものであり、次元を異にするものだった。
この進言は家宣の将軍就任早々のことであるが、その要旨は、神祖(家康)の功徳にもかかわらず、どういうわけか当家の世継ぎは順調に進まず、三代以後嫡流の絶えること、すでに両度に及ぶという憂うべき状態にある(四代家綱に後嗣なく五代綱吉の嗣子も夭折した。)こういう不祥事を取り除くためには、将軍自らにおいて神祖の徳をつがれることが必要であるが、他方では朝家の御栄えをはかることも考慮されなくてはならない。ところが朝家の現状を拝見すると、皇太子以外は皇子皇女ともに皆々出家される状況は中世の衰時と変わるところがない。これは人情の自然にもそむくことであるが、長い間の習慣のため朝家でもこれについては何も申されない(現状を黙認)のであろう。朝家がこういう状態に陥っておられるのに、当家のみが永久に栄えんことを望むのは不合理というべきであろう。皇子皇女が多数になられれば朝家の費用がかさみ、財用に事欠くに至るだろうとの意見も出てくるであろうが、天地の間には大算数(人智では測りがたい循環の理法)というものがあるから、案ずるには及ばない、要は理の当否をこそ問題とすべきである、というものだった。
この進言を道理にかなうものとして家宣が一応受理したが、「国家の大計」に属する事柄であるから熟慮した上で、岳父の近衛基凞を通じて朝廷側の意向を聞き、中御門天皇がこの提案を嘉納されたとの通報に接し決断を下した。結果は白石の進言通り事が運び、宝永七年(1710)八月に至って東山天皇の第七皇子秀宮(直仁親王、中御門天皇の御弟)に親王の宣下があり、いわゆる閑院宮家の創立となった。(宮号はのち享保三年<1718>にあたえられる)
自らの進言が現実を見たことについて白石は、「これらの事ども、我、此の国に生まれて、皇恩に報ひまゐらせし所の一事也」と述懐している。
この閑院宮家の創立の意義の大きさが立証されるのは約七十年後のことで、後桃園天皇には皇子がなかったため秀宮の孫宮・兼仁親王が天皇の猶子(養子)となって皇位を継がれることになり(光格天皇)、皇位継承に支障がきたすことがなかったのである。
こういう事態は白石の予想しなかったことであるが、その朝幕共栄の理念と願望、これを朝廷側に即していえば、白石の皇運長久の念願と遠い慮りとは皇位の断絶を救うことになったわけで、明治になってから(40年)白石に対し正四位が追贈された主な理由は、右の功績にあったようである。
他方皇女の場合について見ると、秋子内親王の伏見宮家への婚嫁があった。これは次の七代将軍家継関係のことであるが、正徳五年(1715)に霊元法皇の姫君、八十の宮(やそのみや)の家継の降嫁決定という慶事があった。幕府の降嫁奏請は同年九月上旬のことであるが、同月二十五日に勅許がくだった。時に将軍家継は七歳、八十の宮はわずかに2才という幼少の両人の婚約であるが、これも朝幕融和策から出た案として注目されるもの、不幸にして家継が翌六年四月末に死去したため結実しなかった。しかし八十の宮はこれ以後、この婚約を尊重され四十二年の長きにわたって独身生活を続けられたのである。宮の貞節は見事であるけれども、痛ましい限りと申すべきであろう。
白石は「これ武家の代はじまれる此のかたの初例なるべし。今は見果てぬ夢なりけれど、誠にありがたき事にこそ」(折りたく柴の記)と述べ、自らの理想の実現しなかったことを嘆いている。この文面からしても、幕府の八十の宮は降嫁奏請は白石の献策に基づくものだったことが推測される。
白石はとくに朝鮮との外交に際し、将軍の書簡に「日本国王」号を用いたことで当時以来強く非難批判を受けてきたし、幕府中心の政治観においても同じく批判にさらされてきたが、師順庵の影響もあって、「天子一姓」のわが国の姿を是認し、また自負していたのであって、上記「朝幕共栄」案が生まれたのも自然のことで怪しむに足りないであろう。



まとめ
山本七平は、新井白石の天皇観を以下のようにまとめている。
「天皇家が栄えることは武家が栄えることなのだから、天皇家を大切にするのは当然の義務だ、という考えが基になっているのである。と同時に白石は、公家と武家は、はっきり別のものと考え、この二つを一種の『教権』『帝権(政権)』の分立というような形で捕え、両者は相互に干渉してはならないとも考えている」
まさしく「朝幕共栄」「「朝幕併存体制」である。
これについては、井沢元彦の「井沢式、日本史入門講座5 朝幕併存と天皇教」(徳間書店)が詳しく、分かりやすい。「日本では、鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで、「朝廷」と「幕府」がともに存在し、両立している、これは中国史にもヨーロッパ史にもない世界でも珍しい体制なのだ。」というのだ。
井沢元彦「日本史入門」(読みやすく、理解しやすい。)
これは、ある意味、福沢諭吉の「帝室論」と同じ考えだといえるかも。(「帝室論」は後日)

さて、「天皇制」「「皇位継承問題」については、多くの人が発言し、様々な意見が出ている。ただ、サヨク的思想の持ち主の「男女平等の観点から女性天皇がいい云々」「皇室の人々には自由がない、基本的人権の観点から云々」といった偽善的妄説や、「我々の税金が皇室に無駄に使われている云々」「愛子さまが可哀相だから云々」といった浅慮な妄言などを聞くと、本当に嘆かわしくなる。元々、「皇室」「国としての日本」「伝統や文化、歴史」などを深く考えたことのない人々である。意見を述べるのは自由だが、この的外れな言説にマスコミをはじめ一般人も、右往左往され、惑わされ過ぎているように思える。
「皇室を守る」「日本を守る」というものを考えるときに必要なのは、日本を憂慮した先人たちが残した意見あり、そこに耳を傾けるべきなのではないのか。
本居宣長、平田篤胤らが今の日本を見たらどう思うか。福沢諭吉、安岡正篤が今の「皇室問題」を見たら、何を提言するのか。
そういった先人の偉大な国士たちが、今現在生きていたら、何を発言し、どう行動したのだろうかを考えるべきなのだ。こういった視点を持つことが、現代の皇室を取り巻く問題を解くカギになるかもしれない、と思う。
そして、新井白石は皇統が絶えるのを危惧し、宮家創設を進言したのだ。(中川八洋の「旧皇族の皇籍復帰による、男系男子(男性天皇)主義の絶対維持」に近いだろう)
中川八洋

まあこれくらいにしておかないと、今回の本題からどんどん外れてしまうので、これら「皇位継承問題」は後日ということで。
何はともあれ、「新田源氏を名乗った新井白石が、皇室を守ったということは動かしようもない事実なのである」、この一点だけはお忘れなきように!
(そして、正田家は新田一門だ!ということも……。)

次回に続く。
3回目は「対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ」です。
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