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物語を物語る

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シリーズ 新井白石編3回目 対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ。

物語を物語る

新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その3
今回は「対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ」です。
新井白石
前回までの要点
1、新井白石は新田源氏を名乗った。
2、その白石が、皇室を守った。
で、今回の要点は、
1、対中国、対朝鮮外交で見せた強硬な姿勢
2、沖縄・琉球対策
の2点。

彼は、江戸中期にあって、中国(清)の脅威からどうやって日本の独立を守ればいいのか、また日本の国防にはまず南の琉球・沖縄、北のアイヌのことを知る必要があるとも考えていたのだ。これらは、今回いろいろな関連本を読んで知ったことだった。
そんな偉人の足跡を知ったあとで、思い出したのが現代の政治家の「あの不甲斐ない件」のことだった。
「胡錦濤皇帝」に拝謁を賜った小沢一郎(週刊新潮 07/12/20号)
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1224508018/から。

「先例のないサービスをいただき感謝しております」。椅子に浅くちょこんと座り、背筋を伸ばした小沢一郎氏は、胡錦濤主席に声を震わせてこう言った。
人権侵害やら他国への干渉では他の追随を許さない〝中国の皇帝〝に、卑屈な態度で拝謁した小沢氏。が、開会中の国会を無視して強行した訪中に「見るに耐えない」と党内からも批判が噴出。
あれは、なんだ? あいつは本当に日本人か
 12月7日金曜日夜。北京、訪問中の小沢一郎・民主党代表が中国の胡錦濤・国家主席と会見したニュースが流れた時から、永田町は、その小沢代表の卑屈な態度に話題がもちきりとなった。
ふてぶてしさと横柄な言動が売り物で、これまで″政界の壊し屋″と恐れられてきた小沢氏。参院選大勝後の8月、アメリカのシーファー駐日大使を党本部に呼び出し、45分間も待たせて報道陣に″晒し者″にした上で、テロ特措法反対を表明するという非礼を働いたことも記憶に新しい。
 しかし、その小沢氏も中国の皇帝の前では、まるで借りてきたネコ。ちょこんと椅子に座った小沢氏は媚たような笑いを浮かべ、「ただいま主席閣下自らですね、今回の参加者の団員のものと写真を撮っていただきまして…‥・そしてまた、みんなと握手までしていただきまして……、先例のないサービスをしていただいて、本当に感謝しております」 と、小さな、そして震える声で、そう言ったのだ。
 小沢氏の上ずった声とは対照的に、余裕綽々でにっこり笑う胡主席。それはまるで、謁見に来た臣下を皇帝が日を細めて迎え入れる風情だった。

もし新井白石が、現代に生まれていたら、こんな中国に媚びた外交をする日本の(裏)トップの政治家の姿を見て「何たることだ」と嘆いたに違いない。

また、現代の沖縄については、「沖縄ビジョン」「沖縄独立運動」「沖縄の左翼化」「中国の沖縄に領事館要求」などなど、気になる点も多い。こんなのを聞くと「20年後沖縄は中国領になる」なんて説もあながち嘘話ではないかも、という気がしてくる。
今の沖縄を評して、勝谷誠彦が「本土と沖縄を分断しているのは、右の利権と左のイデオロギーだ」といったが、これまさしく的を射た意見だった。
また、小林よしのりの「沖縄論」「ゴーマニズム宣言NEO 2 日本のタブー」にこの問題が詳しく載っている。

この中で「沖縄」と「アイヌ」の関して憂慮すべき問題が多く出てくるが、ここに「日本を脅かす争点」があると気づいて、いち早く手を付けたのも「新井白石」だったのだ。

ということで、これらのことを踏まえて、いつものように長文引用。
重要なところ(あくまでも私視線で)は太字にしてあります。

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
対朝鮮外交の刷新の章から。

これは、歴史的背景が複雑である上に、この時、国書書式と朝鮮使節の待遇方法とに変更を加えたことが加わったため、予想外の波瀾を生じることになった。歴史的背景とは、室町時代前期(元中九年・1392年)に建国してより朝鮮は、わが国と通交を続けてきたのが、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵によって大被害を被ったため、秀吉の没後直ちに家康が修交を企てたにもかかわらず、朝鮮側は容易にその和平提案に応じようとしなかった。慶長十二年(1607)に至ってようやく国交回復が成り、彼の国から使節が送られることとなり、それ以来家光の時を例外として(この代には三度)、将軍の代初めには就任祝賀のため必ず派遣されるのが例となった。
秀吉出兵の際、朝鮮を危難から救った明王朝を敬慕する態度は少しも変わらず、日本に対しては依然として猜疑の念を抱き続け警戒的態度を棄てることができなかった。だから、この正徳の時、国書と迎接に変更を加えたことは、彼には一大衝撃だったわけである。なにぶん政治的軍事的には劣等感を抱いていたのだから、それは無理もないが、しかし、他方では自国を中華文明の正統の系統者であるとの自負をもち、日本に対し文化的優越感を抱いていたことも、両国外交を考える時顧みなくてはならない。もう一つ、両国の緊張関係を一層強める働きをしたのは、当時両国ともに朱子学の影響を強く受けて、国家の体面を重んじる心理が高まっていた状況である。
この正徳の新しい外交体例の立案企画者であり応接上での実質的な中心人物だった白石が、若き日に、天和元年(1681)朝鮮使節の来日の時、九月一日宿舎に使節を訪ねて詩を唱和し、「陶情詩集」のための序を請うたことはすでに述べた。こういう態度は独り白石だけに限らず、対馬出発以後、江戸に到るまでの使節の宿泊地ではどこにおいても、文人墨客そのほか知識人が客館を訪問して、新知識を得ようとし書画の揮毫を求めるのが当時の風習だったのである。そういう態度が朝鮮人の優越感をさらに高めた点も見逃せないところである。
この正徳元年においては白石はすでに五十六歳、詩人としては第一人者と認められ、学識においても比肩し得る者が少なかったことに加え、朝鮮国の日本観および外交姿勢にも、これまでの朝鮮使節らの日本文化人蔑視にも不満や不快感をも抱いていたから、それらを矯正した使節たちに徳川将軍の威厳と日本文化の優秀性を認識させようとの強固な意図が白石にはあったのである。これには思い過ごしとすべき点もあったが、白石には次のような朝鮮観と先入主とがあった。
①朝鮮は文事を以って復讐を意図している。
②朝鮮は家康より国家再造の恩をこうむった。
③朝鮮が清国の属国になりきらないのは、背後に日本が存在するからである。

①は、文禄・慶長の役に対する復讐を、武力では敵わないから文化の力で果たそうとしている。②は秀吉没後の和平提案により日本軍撤退後に、明国駐屯軍の横暴に苦しむ朝鮮を救ったこと(再造の恩)を感謝すべきだ、というものである。③は白石が朝鮮側の「秘事」清の康煕帝が皇子の一人を朝鮮国王の養子にしようとした時、日本の異議を理由に謝絶したという話を聞知していたことによる。それはともかく、朝鮮が完全には清の属国とならず、自国の風習や伝統文化を保持し得ているのは、日本が背後にあって清国を牽制しているためだという判断である。

当時の日中朝の関係が実に興味深い。朝鮮が中国側にすり寄って日本に対して優位に立とうとしている。しかし、実のところ、朝鮮の中国からの独立は、その背後に日本という存在があるからだ、という事実もあるのだ。これは、現代にもそのまま当てはまる。(まあ、日本というよりアメリカだけど…)

他方、朝鮮使節の側にも不吉な先例があったため、始めから不安と警戒の心理が強く働いていた。すなわち、①自国の体面を傷つけられない。②通信使の任務はきわめて重大。③今回の将軍称号変更の理不尽な通告から推しても、新たに不法な要求がなされるおそれがある、などである。
①は文化的先進国をもって自負していただけに用心も大きかった。②はもし使命を全うし得ない場合には、帰国後に処罰される心配があった。(慶長十二年に先例)。③は使節一行がすでに京城を出発した後に、将軍称号変更の通告があったため、朝鮮宮廷では大議論を呼び起こしたが、結局は日本の武力を恐れ通告に従った事実がある。将軍から朝鮮国王への返書中の文字(現国王粛宗より七代前、第十一代中宗の呼び名・懌(えき))使用問題で激烈な対立が生まれたのも、使節迎接で不満が表面化したのには上記のような心理的背景があったのである。
国書書式の変更は、徳川将軍と朝鮮国王との間の往復書簡に三代将軍の時以来の「日本国大君」をやめて、「日本国王」の称号を用いることにしたことである。白石の考えでは、この称号は家康の時の先例にかえるものだったから、「復号」と称した。これは明らかに白石の誤解であるが(先例は足利三代将軍義満の時)、国際政治上の用法としては当時雨森芳洲・松浦霞沼ら同門の人々から非難されたように、不当でも僭越でもない。朝鮮側で当初からそれを望んだから、三代家光の時の対馬藩での文字改変事件が発生し(日本国主を日本国王に改めた)、これが原因となって寛永十三年(1636)以後「日本国大君」が新たに使用されることとなった。
しかし「大君」の称は、白石に言わせれば、「異朝」=中国では天子の異称であるから(「周易」に見える)わが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越のそしりを免れないし、朝鮮の場合は「大君」は王子の嫡子をさすから臣下の称号を用いることになり、彼の国から軽薄される結果となってしまう。白石の構想した将軍と朝鮮国王の位置付け、
天皇=清国天子が対等、その臣下で、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王

というものだった。ただ朝鮮側が反撥したのはその内容ではなくて、その変更が事前の連絡もない一方的な通告だった点にあるのである。そして使節一行の江戸到着に大問題となったのは、むしろ先述の国王中宗の呼び名使用であり、これをめぐって白石と正使趙泰億との間に激しい抗争があったわけであるが(国諱論争)、相互の文字修正で最終的には妥結した。

ここでは白石が、天皇を将軍より上においている。この天皇=清国天子、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王という図式にした新井白石はまさしく「尊皇家」だ。
私が学校の先生なら、この図式は試験に出します。

他方、使節待遇はやはり朝鮮側の誤解を招き、抗議を受ける場面もあったが、けっして冷遇したわけではなく、後に使節たちも認めたように礼遇の側面もあったのである。そもそも白石の対朝鮮外交の基本方針は、1・和平、2・簡素、3・対等、の3つにあった。1の和平は家康以来の和親外交であり、2の簡素は財政的見地と名分論から出てきた方針である。3の対等は外交上において均衡をはかるという考え方に由来している。白石の解釈では、家康の時には朝鮮使節の応待は琉球使節と同様に簡素なものであり、朝鮮側のわが使節の応接は簡略に過ぎるくらいだったとする。実際、この応待のため幕府はもちろん、大名一般国民の負担は大きく、種々の煩わしさをも伴ったから、何も江戸まで来させる必要もなく対馬で応接すればよい、というのが白石の本心だった。(この意見は使節の帰国後に将軍に上程された)そこで白石は使節たちの対馬・江戸間の道中での応接および江戸城での接待を簡素化したのであるが、これには使節の方でも格別不満はなかったようである。ともかくこの簡素化によって、応接費用が従来のほぼ100万両から60万両に減じた点は、評価されてよい。
その不満とは反対に、冷遇と感じたものは、信使辞見の儀式の際、朝鮮国王への返書を将軍自らが手渡したこと、また信使賜饗の儀に付随した江戸城内での舞楽上演(遠来の客は慰労すべきとの白石の考えに基づく)など、使節たちを満足させた。
白石のそういう心遣いにもかかわらず、国諱論争のような激しい対立を巻き起こしたわけであるが、その際将軍家宣が、最後まで白石を庇護したことは特筆に値いする。その時の波紋は、反対派が白石を非難して、ことさらに新儀をたて平地に波乱を巻き起こす者、今に両国の間に戦争が起こるかもしれぬ、などと言い触らしたことで、白石の辞職の提出にまで発展したのであるが、家宣の全面的な白石指示により事なきを得た。家宣の口から、自分と白石とは「一体分身」であるとの言葉が吐かれたのは、この時のことである。そればかりか、このたびの白石の努力と成果を認め、五百石を加増してその労に報いたのである。(合わせて千石となる)
白石はこの朝鮮使節応接のことが世間一般に自分の存在を知らせる契機となった、と告白しているが、さらに名声は朝鮮にまで及び、一流の詩人・すぐれた学者と認められるきっかけを作ったのである。まさに文化外交の名に値する快挙だったといえよう。しかし白石その人は、その成果を以って己の功とはせず、「すべて此度の事、君(家宣)び霊に頼れり」と言い、さらに「すべては、これ我国の霊による所也」と述べている。

面白いのは、強硬な対朝鮮外交を行う白石に対して、日本国内でも反対派が騒いだこと。それに対して、将軍家宣が全面的に白石を擁護したこと。強硬でありながら簡素に平等に外交をした白石、こんな政治家が現代の日本にもいれば、とふと思う。またそれを擁護できる人々も必要になってくるだろう。
対中国外交については、次回「その4」に続く。

で、次が「沖縄・琉球対策」
琉球

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
「琉球使節と対談・『白石余稿』」の章から。

琉球と白石との縁は、きわめて深い。というのは、現在使用されている県名「沖縄」の、その呼称「オキナワ」にこの字を宛てたのが、白石である。沖縄研究の「南島志」は先駆的名著といわれる。<中略>
「白石先生琉人問対」には、言語風俗・生活様式・宗教など文化関係記事が大量に含まれるが、白石は琉球を以って「南倭」とみなしたのであるから、基本的には同一人種であり同言語であり、習俗や生活面でも同種類似のものと考えたと認めてよい。すなわちそれは白石の質問、たとえば「別啓」(正徳四年)の中に見えるものであるが、言葉について、「琉球国中の言葉、其の国の郷談多かるべく候。日本のことばにちかく候か。唐に近く候か」と尋ね、次いで風俗についても「次ら(次郎、身分の軽い者)は、又其の風俗も日本に近き方に候か」と問うている。また文字についても、「世のつねの取り扱い、又は下賤の者の類は、日本の文字つかひに候か」と質問している。
以上は薩摩藩士への質問であるが、琉球使節への質問、「問目」を見ても同様で、白石の問い「日本に対しては日本の文法を用い、異朝(中国)に対しては異朝の文法を用いているように見えるが、国内で下賤の民までも用いる文字、ことに女性の用いる文字はどんなものか」に対して、「国中の卑賤、日本の伊呂波(いろは)を学ぶ、以て俗言通用となす。女人はいにしえより筆をとることなし」と答えている。また言語関係では、詩歌についても質問には、「唐詩を学び和歌を習ひて情を慰さむ、また詩歌を以て性情を慰むる者に琉歌(琉球の歌)有り」と答え、舞楽(雅楽)についての質問には、古にあったが今はなく、「世俗の舞をなすのみ」と答えている。そのほか生活面では住居について、民家は大概は茅屋(茅ぶきの家)で「頗る日本の民屋に似たり」といい、食物については、「日本一般、乾醤(かんしょう)を用う」と説明している。なお宗教面では、寺院について「天界寺・円覚寺の僧、皆禅僧なり」と述べている。
上記の日琉関係観につき補足説明を加えると、日琉同一人種であることを白石が明言したのは近衛家の進藤刑部大輔に対してで、「琉球人と申し候とも、日本人と申候とも、そのえらひ(選)もなく候」と述べている。近代になって日琉同祖論を唱えたのは、イギリス人の日本学者バジル=ホール=チャムブレン(1850~1935)であるが、日本人としては白石の方がはるかに早い。

なるほど、新井白石は琉球人を日本人と同人種と考えていた。これは当時としては特筆すべき識見であった、というのだ。

次は対琉球外交の強化の章から

この対策の背景には、琉球が朝鮮とは違っていながらも、清朝が同じく宗主権を持ち、朝鮮同様に朝貢を要求したこと、現実問題としては日本の銀が琉球を媒介として清国へ流出したということがある。したがって、白石の琉球の関心には深いものがあった。
もう一つには、国防的見地からのもので、既述の通り康煕帝とは同年の生まれだとの認識から、彼にライバル意識を持っていたことがある。康煕帝は清国の版図の拡大に務めたから、白石がその活動に神経をとがらせたのも無理はない。
ともかく北の蝦夷地と並んで南の琉球は、白石が非常に関心を寄せた土地で、両地域についての研究の結晶が「蝦夷志」であり、「南島志」だった。この二書は実は、初名が「蝦夷考」「琉球考」であり、そしてまた両者をあわせたもの、「南北倭志」でもあった。白石の意識では北は韃靼(タタール)の侵略に備え、南は清帝国のそれに備えることが国防上必要だったのである


「白石先生琉人問対」を見ると、琉球王家をはじめとして政治・経済・社会・地理物産・言語習俗・生活様式・宗教関係の記事が大部分を占めるが、ほかに明朝・朝鮮関係事項が少なからず含まれており、とくに清朝関係の記事の多いことが注目を引く。
この事実は、先述の康煕帝の対外経路に対する白石の関心と警戒心との深さを裏書するものであろう。これに対して使節側は、朝鮮が魁梧(かいご・壮大)で「威風凛々たる者、更に多し」などと答えて、自国の背後に大帝国清の存在を誇示し、白石を牽制した。


江戸中期においてすでに、日本の国防を考えていたとはすごい。しかも中国(清)を仮想敵国ととらえていた。しかもその争点となるのが「沖縄・琉球」だと想定していたのだ。
やはり東アジアにおいては今も昔も、地政学上、「沖縄」は重要な軍事地点になっているようだ。
これは現代においても、アメリカ軍基地が沖縄に集中して、中国や東アジアを牽制していることからも分かるし、中国が沖縄に領事館を作らせろなんて要求を出し、何かと沖縄に口を出してくるというのでも分かる。

また「折りたく柴の記」から、「琉球の国書の問題」。

「十一月(正徳四年・1714)には、琉球の使来て、御代をつがれし事をも賀しまゐらせ、其王(十六代琉球国王・尚敬)の代をつぎし事をも謝し奉る。lこれよりさき琉球より奉れる書法は、我国にて往来する所のごとくなりしを、其王尚益(先代)が代より其書漢語を用ひ、書函(国書を入れる箱)の式等も改れり」と。
しかしその書式・表記等に白石は不適当と思われる点を認め「ありし御代のごとくならむ事は、国体においてもしかるべし」と考える。白石がこの点非常に神経質に見えるのは、もちろん琉球の背後に中国を見ていることと、漢字の「意味・用法」が日本と中国では違うという点なのである。従って、何か問題が生じ、琉球王国が先例となった場合、日本の「書法」で日本の「書函」なら、これは「日本の用法はこれこれの意味だ」と主張できても、中国の形式をとる以上、それは主張しても通らないことを彼は知っているからである。たとえば「……台の字の事、我国にてこそ、大臣の事に限りて、称ずる事なれ……

ここでは、白石が国書の文字や用法について、細かく口を出し、いちいち書き改めてさせている、というのが出てくる。それもこれも中国(清)対策からだ。
これを読んで思ったのは、これ、現在の中国と韓国の日本に対する外交姿勢に似てないか?ということ。
靖国問題でも教科書問題でも、なぜそんな細かいことまで言うのか?と些細なことまで、日本に要求してくる。
そういった細かい要求を出し、それを行わせる、これを繰り返すことによって優位に立つことを目的としているのではないのか。
新井白石の執拗なまでの要求、細々としたところまで修正を求める態度、これによって「日本」の存在感を示し、上位に立とうとしているのだ。(琉球に対する要求だが、あくまでもその背後にある清国を念頭に置いている)
こういった芸当ができる政治家・官僚が、今の日本にはいないようだ。
「友愛」という名の「土下座外交、謝罪外交」になっているのでは、と思うのは薄々感じているところだろう。
では、新井白石の外交とはどういうものであったのだろうか。
仲尾宏著「朝鮮通信使」(岩波新書)から、

「江関筆談」(白石と朝鮮側の正使との会見は、通訳なしの筆談で行われた)には、正徳元年・1711年11月5・6日の両日にわたって江戸城中で繰り広げられたこの筆談は双方の体面を賭けた適度の緊張と東アジアの故事来歴の知識をおりまぜた文化・学術交流の場の記録である。席には途中から通信使の他の随員や雨森芳洲らも加わった。
皮切りは海外知識の交換から始まった。この点では白石がイタリアの宣教師シドッチを尋問した実績にものを言わせて朝鮮側を圧倒した。その結果、必要なら世界地図を進呈してもよい、とさえ言う。次に中国文明の伝承について、朝鮮側はわれこそ中華文明の正しき伝承を伝えている、と言えば、白石は、そうはいってもせいぜい明代のものである。日本には古代の夏・殷・周の風を伝えているものがある、という。そして宴席では雅楽の一つ、高麗楽の演奏を聴かせて、通信使を瞠目させた。そして朝鮮が清国の風儀を強制されないで済んでいるのは、南方の日本の存在があるからではないか、とさえ言う。そして最後に両者は室町時代後半に日本へ通信使の書状官として来た『海東諸国紀』の著者・申叔舟の国王・成宗に宛てた遺書「請う、日本と和を失うことなかれ」という有名な一言に言及して、両国の平和をお互いに望みあった。

白石の強気な姿勢は、「朝鮮の知識人には朝鮮こそ朱子学を中心とした『東方小中華』の国である、とする自己中心の文化意識をもつ」(日本を一段下にして卑下していた)彼らの鼻っ柱をまず砕くことにあった。だが、白石は決して朝鮮と戦争をしようと思っていたわけではない。最後には両国の和平を望んでいたのだ。「新井白石が、国家戦略的立場に立って、対等で簡素な外交の原則をより完全にしようとした試みも注目すべきである。」(鉤カッコの部分は上記の本の引用)とあるように、相手国に媚びることなく、対等な外交をするにはどうすればいいのか、考えた人だったのだ。

世界を見て、日本の外交・防衛を考えた、そいういう大局的な視点を持っていたとなれば、これは勝海舟に似ているかもしれない。
白石がイタリア人宣教師・シドッチから西洋の知識を貪欲に求めたように、勝海舟も西欧の知識を求めた。
また経済にも明るく、口も文章も達者。(しかも晩年は自分の事蹟を多少ひけらかす点もどこか似ている。)

こういう人物こそ、現代の日本には必要ではないのか、そんな気がします。

ということで、次回に続く。
さらに詳しく「山本七平が見た新井白石」です。
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