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シリーズ 新井白石編4回目 山本七平が絶賛する新井白石の対中国、対朝鮮外交

物語を物語る

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その4

第一回目が、白石は新田源氏を名乗ったことから、その自覚を持って何を考え、何をしたかということ。
第二回目が、その白石が皇室を守ったこと。
第三回目が、中国、朝鮮への強硬外交を取ったこと。
そして今回は新井白石編の大まとめです。

 「日本」が中国に呑み込まれないよう独立国家として存在するためには、「天皇」を中国皇帝に見立てた「象徴」とし、これをもって政治を行うことが必要であった、と白石は考えていた。
あくまでも、実質的な政治は「幕府」が執り行い、「文化、伝統、日本の象徴」として「皇室」を尊重していくことが、「日本を守る」という考え方で、より「朝幕併存体制」を実践させようとしたのである。
これは考えてみれば、現代の象徴天皇制に近い考えだ、と思う。
現代でも「保守」を掲げる人は、同じ考えも持っていると言って差し支えないだろう。(特に政治家の平沼赳夫さんが唱える「天皇制を中心とした保守政治」とは、まさにこれに通ずることではないか、と思う。)

また皇室問題、中国・朝鮮外交問題、琉球沖縄問題……など、白石は日本を揺るがすような問題点がそこにある、といち早く気づいていた。
実際、同じような問題は現代においても再燃している。(「日本」が国として存在する上では、これらの問題は切っても切れない恒常的事案だともいえるが……。) 
ただ「新井白石」が何を考え、どういった行動をしたかなど、ここに関心がある現代人にさえ、全くといっていいほど注目されていなかった。それだけに、今こそ、彼の言動を知ることが、問題解決への一つの手掛かりになるのではないか、とも感じたのである。

まさに、この点について、詳しく書いていたのが山本七平の「日本人と中国人」だった。
山本七平「日本人と中国人」日本人と中国人 イザヤ・ベンダサン山本七平(祥伝社)。
この本では新井白石について一章割いて説明している。歴史上の偉人についても容赦なく辛辣なことを書き連ねる山本七平だが、「新井白石」については異様なほど高く評価している。これが意外であり、驚きであった。
面白いのは、「人物叢書 新井白石」の宮崎道生と同じような視点で、白石の功績を賞賛していることだ。対朝鮮・対中国の強硬外交(琉球も含む)と皇室・幕府の共栄の考えは実は密接に繋がっていて、これが結果的に「日本を守る」ことなるというのが、白石の考えだった。広い意味での「国を守る」つまり「国防」を考えたということだ。
やはり、こういう点から見ても新井白石と勝海舟は似ていると思う。山本七平は、勝海舟を「その時代の第一級(もちろん全地球上での)の人物であった。これほどの人物は確かに全世界を通じて一世紀に一人も出まい」と評している。白石と同様、世界を見て日本を見れる大局観を持つ人物が山本七平好みだということだろう。

さて、ではいつものようにその部分の長文引用。重要点は太字にしてあります。

朝鮮の後には中国がいた。新井白石が朝鮮来聘使に見せた傑出した外交感覚、中国を絶対視しなかった白石
……17世紀から18世紀にかけては「中国化時代」であり、中国が絶対の権威であった。確かにこれに反発はあったが、しかしそれは「中朝事実」型反発、いわば「日本こそ真の中国」という考え方で、「理念としての中国」を絶対の権威としている点では、別に変りはなかった。また秀吉も、前章で述べたように、中国から見れば、自らを中国の属国と自己規定しているに等しいのである。
そして、白石の態度は、これらのいずれとも違っていて、中国文化に深い敬意を払い、それの日本への影響をはっきりと認めつつも、中国は中国、日本は日本という態度をとっていた。そして従属でもなく、劣等感から生じた反発でもなく、真の意味で「対等」という意識を持ち、両者はそれぞれ独立した国であるからお互いに違う、そこですべてにおいて対等にねばり強く「交渉」し、先方の主張を聞き、当方の意見も述べる、そして合意に達するべきだ、という態度を終始とっている。 こういう態度は実に白石が最初にして最後かもしれぬ。白石はまた天皇・公家に対しても、ほぼ同じ態度をとっている、と私は見る。
もちろん白石が交渉したのは朝鮮であって中国ではない。しかし、当時の日本と中国は「政経分離方式」で貿易をしており、修交は日本から申し込んで返事がないという状態なのだから、いつ「日中国交回復」が議題にのぼるということになるかもしれない。白石の朝鮮との交渉、見方によっては、何の理由でこんな細かいことまで一つ一つ修正を求めるのか不思議にすら思われる交渉(将軍の呼称問題や朝鮮使節応対についての変更など)の背後には、「対中国交渉の先例」という意識が、つねにあったと私は思う。
確かに中国は、朝鮮と比べると超大国である。従ってその交渉における彼我の比重は、朝鮮の場合よりはるかに日本が軽くなることはやむ得ない。従ってその交渉の結果が、朝鮮にこうしたのに、なぜわが国にそれを拒否するのだ」と。この言葉への反論は、当時の東アジアにはない。そして朝鮮との状態をそのままにしてこの言葉を受け入れれば、それは単に屈従だけでなく、国内的に大きな問題を引き起こす。
このことを念頭におかないで白石の対朝鮮交渉を見ると、彼がただただ細かい点をあげつらって、徒に朝鮮を困惑させたとしか見えないであろう。そういう見方は当時もあり、その人々の批判のため、彼は辞職すら決意している。そして同じ批判は今もある。
だが白石が「対中国交渉の先例」という点で、譲りうるぎりぎりの線でもちこたえ、執拗なまでにねばり強く交渉したのは、もちろん、理由のないことではない。そして外交交渉とは元来そういったもののはずである。

前回書いたように、細かい点までの追及が外交交渉で優位に立つ、ということに白石は気づいていた。現代はまさに中国、韓国がこれを行っている。

白石こそ「日中両国」を、比較文化的な目で見得た最初の日本人ではないかと思う。室鳩巣の「和漢の事引合候て、能弁じ申候」は、その一端を示していよう。彼は、「読史余論」では中国を基準にして日本を批判してはいない。もちろん理念として中国を基準に日本史を再構築し、それで同時代を批判したり、また逆にそれで現実の中国を基準に日本史を再構築し、それで同時代を批判したり、また逆にそれで現実の中国を批判したりするようなことは全く、やっていない。だがこの問題はまた別の機会に譲るとして、ここではただ、彼は、もし交渉がはじまるなら、「日本は日本」「中国は中国」という立場で交渉を開始できるよう細心の注意を払ったのであろう、というにとどめよう。
もちろん白石の態度の背後には、正貨流出という経済問題も作用した。また白石に強硬に反対した対馬の宗家にも経済問題があった。「経済録拾遺」(太宰春台)の「当代にも、昔より買売にて国用を足し、録食に代ふる国あり。対馬候……<中略>。
彼の態度を朝鮮への蔑視と見るべきでないであろう。中国・朝鮮への蔑視は明治以降のことで、徳川時代には庶民に至るまで中国・朝鮮尊崇であった。これはただ中国を絶対の権威とした学者にだけ見られる傾向でなく、広く一般的民衆的な、ごく自然な感情であった。徳川時代の日本は「中国」などという失礼な言葉は使わなかった。「中華」(セントラル・グローリアス)の「中」は中国では中央に位置するの意味であろうが、日本語ではミドルの意味である。従って「中国」は「ミドル・クラスの国」という意味になるから、彼らは中国といわず「上国」といった。この「上国」思想は、非常に根強く日本に残っている。日本人は常にどこかに「上国」を求める。今の日本ではおそらく北ベトナムは上国、南ベトナムは下国、北朝鮮は上国、南朝鮮は下国ということであろうが、こういう分類と平生の日本人の主張―たとえば非武装、言論の自由、表現の自由、出国の自由、等々―とが、全然無関係なのは興味深い。徳川時代の日本人は、この「上国」すなわち絶対的権威のある聖人の国には、泥棒も乞食もいないと信じていた。そして明治になって、実際にその地を旅行して驚くのである。しかしそれでも「上国」への信仰は消えず、徳川時代の考え方を引きついで、こうなったのは満州族が悪いので、これは真の中国の姿ではないと考える。従って日清戦争が侵略どころか「滅満興漢」の義戦と想定していたことは「愛弟通信」(国木田独歩)にも表れている。この方の「上国」思想もまた、今なお残っているであろう。これはやはり、日本国始まって以来の伝統だから、日本人の平生の「借りもの」の主張との矛盾などでは、消えないであろう。これから見れば、こういう矛盾すら何ら感じなかった徳川時代の「上国」思想がどれほど徹底的であったかは、想像にかたくない。従って白石の態度を、蔑視の結果などとみるべきではあるまい。

この本が書かれたのは昭和47年~49年。進歩的文化人が共産主義・社会主義賛美していたが、そんな時代背景もよく分かります。

日本の基準で日本を見よ
白石が対朝鮮交渉とその背景に想定していた対中国問題の処理において、何故あのように一種の強硬な態度を保持しつづけたか。理由は両国自体にもあるが、またそれ以上に、日本国内にあった。そういう意味では、白石の目は国内に向いており、その態度は「外交」であると同時に「内交」であった。日本には「内交」はあっても「外交」はないなどといわれるが、これは「内なる中国」を建国以来保持しつづけた国の歴史的宿命であろう。
当時、中国を基準にして日本の歴史を断罪し、天皇は中国型皇帝の位置にあるべきで、従って幕府は非合法政権であるとする見方・考え方は、すでにはじまっていた。では一体幕府は、いかなる位置において対外交渉をするべきであろう。確かに白石のように「公家権」「武家権」という考え方に立ち、天皇は武家が創り出したものだから大切にすべきで、両者は別々の権限をもって併存するものと規定し、それが「日本」なるもので「中国」とは基本的に違うという事実をそのまま事実として、これを根底においていた者には何の問題もないかもしれない。
しかしたとえ白石が、そういう立場をとったにしても、対外的では、特に対中国という点では外交交渉が即座に「幕府とは何ぞや」という難問に転化せざるを得ない実情は無視できない。当時の日本人にとっては、どう形を変えようと、考え方の基準は中国しかない。しかし「幕府」というものは、中国人の概念には存在しないものなのである。たとえばここに「封柵」という問題が起こったらどうなるか。もちろん「中朝事実」的な「日本こそ中国」論者は黙っていない。真の中国である天皇を差し置いて、中国でもない満州族国の封柵をうけるなどということは、彼らには絶対に許容できない。では、対等の立場で中国と交渉したらどうなるか。これは第一に中国はうけつけまいし、第二に、天皇は中国型皇帝であるべきだと考えている者も受けつけまい。将軍は中国皇帝と対等であるという立場は、「自分は天皇である。ないしは天皇より上である」とう宣言に等しいからである。
「外なる中国」と対等なものは、百歩譲っても「内なる中国」しか存在しないはずであるし、第一、「中国」とは絶対的な権威だから、「中国」という概念自体が、対等という概念と両立しないのである。これは一転すれば、幕府存在の基礎にかかわってくる問題である。白石が来聘使問題で一歩もひかなかったという態度を示した原因は、ここにあったと私は考える。

前回の「天皇=清国天子、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王」という図式のより分かりやすい説明だろう。

当時の日本人が、日本を基準に中国を見ることができなかった。基準はすべて中国で、中国を基準に、あるいは中国の基準と考えたものを基準に日本を見、中国を見た。一見これに反発したように見える者も、結局は、中国の基準で再構成した過去の日本を基準に、日本と中国を見た。これがいわば、尊中・尊皇思想である。これはちょうど、明治以降の日本人が、西欧から輸入した思想を基準にして日本を見たのとよく似ている。だがこの二つの見方は必ずしも同じでない。というのは当時の日本は「幕府国」であり、この存立の基礎は借物の体制や思想でなく、日本人が自ら生み出したものであった。日本は、その意味で独立国といえ、独自の国といえた。白石ははっきりと「武家」の伝統に立ち、これを肯定し、これを「日本」なるものの中枢におき、武家の基準を基準として歴史を見ていることは、「読史余論」を見れば明らかであろう。
彼は中国をよく知っていたが、それなるが故に、中国を基準で日本を見、中国の基準で自国の歴史を再構成するようなことはしなかった。そういう人であって、はじめて「日本の基準で日本を見、中国の基準で中国を見る」ことが出来たわけである。簡単に言えば彼は、モンテスキューの基準を持っていたわけである。現代の日本人に白石と同じことが出来るかといえば甚だ疑問である。いずれにしても、この「日本の基準で日本を見、中国の基準で中国を見」て、はじめて「交渉が生まれるはずである。白石の交渉の仕方、字句の一言一句まで取りあげ、その意味内容を一つ一つ検討して、訂正を求むべきものは徹底的に訂正を求めるという行き方は、「西欧的」な感じさえするが、これは、何も西欧とは関係なく、二つの基準を認め、同時にその間に共通点を求めようとするなら、だれでも必然的に行わざるを得ないことのはずである。
もちろんこれは、彼が問題にした字句の、彼の解釈そのものが正しかったと言う意味ではない。この点では確かに問題はあろうし、あるいは彼が「なま学匠」と罵った人々の解釈が正しかったかもしれない。だが、それで、この問題に対する彼の基本的態度が正しくなかったということはできない。そして彼のこの態度は、当時の日本では理解されず、またおそらく今の日本でも理解されていないようである。そして、この問題に対する当時の白石の反対論と現代の日本人のこのことへの見方が示している。

白石の考え方に対して批判的な意見も多かった、というのが分かる。

外交と内交の間の秘密
白石がいかなる面から見ても偏執狂的な信者ではない。また理由なき頑愚と言った面は皆無である。特にこの場合、そういう見方は全くあたらない。確かに彼は国内問題でも異常に細かく先例を調べ、儀礼を調査し、「経邦典例」を著わして、すべてを細かく制度化しようとした。しかしこれは、武家を基準に一つの「社会秩序」を制度として打ち立てるべく律法化しようとしてその典拠を先例に求めたのであり、その制度自体は今の基準からすれば無意味に見えるからといって、当時もそのこと自体が無意味だったとはいえない。彼は無意味な議論を実に嫌った人であった。たとえば正徳二年(1712)に林信篤が……<中略>。
白石と彼を批判する学者の差は、一方は朝鮮の背後に絶えず中国問題を想定しているのに、他方は、朝鮮との間に問題を起こしたくない、としか考えていないことである。……白石の念頭にあったのは、これによって起こる非常にうるさい国内の問題と、それの対中国関係への跳ね返りであっただろう。
以上が大体、白石の生涯における最大問題の一つであった「朝鮮来聘使問題」の概要である。この問題に対する彼の態度は、一貫して、的確に「外交」というものの本質を把握していたことを示している。もちろん彼は職業的外交官ではない。その点では対馬の「なま学者」の方が優れていたであろう。
白石はただ当時の世界すなわち東アジアにおける日本の位置をはっきりと把握していたにすぎない。そして自国を本当に知り、外国を知っていた。室鳩巣のいった「和漢の事引合候て、能弁じ申候」であり、それを基にはじめて両者に対する実に、先の先まで考慮した深い洞察と、それに基づく準備とが出来たわけである。彼の行き方と昨今の日本の対中国外交を比較議論しようとは思わない。余りにも違いすぎて、到底、対比などはできそうもないから。

江戸中期も昭和40年代も、平成の世も、東アジア外交は同じような問題を抱えているということだろう。
以上が「日本人と中国人」からの引用。

では、本文中の気になる「日本の中国」「天皇の中国化」とはどういうことかといえば、「天皇・天皇制をよむ」(歴史科学協議会編 東京大学出版会)の「天皇と皇帝 その違いは何か」の部分から引用。

日本の天皇と中国の皇帝の違いというのはきわめて重要であるが難しい課題でもある。
易姓革命説とは、天皇と皇帝を比較した場合、その最大の違いは貴族や民衆が君主と入れ替わること、すなわち王朝交替の有無にある。中国では秦以降清まで王朝交替を経ながら皇帝制度は二千年以上に及んだ。一方、日本では基本的には王朝交替が生じなかった。
中略
それではなぜ日本では王朝交替が起こらなかったのであろうか。中国思想では有徳の者が天から天下を統治するという天命を受けて天子として即位し、その王朝が天に代わり天下を支配することになる。天命の正統性は王朝の開基である受命者にとどまるものであり、その子孫の皇帝はそれを継承するものと考えられていた。「天下は高祖・太宗の二聖の天下にして陛下(高宗)の天下に非ず」(「旧唐書」)といわれていることからもそれは窺える。これは即位儀礼にも反映しており、受命者の即位は皇帝・天子の二段階であるのに対してその子孫の宮中の即位は皇帝のみである。そして受命を維持できない不徳の皇帝が現れや場合、天命は他の者に移り、新たな王朝が建てられることになる。これを易姓革命という。「易姓」とは皇帝の姓が易わる(かわる)ということである。革命には平和的な王朝交替である禅譲と軍事的に前王朝を打倒する放伐(ほうばつ)の二つの形態がある。統治すべき天下は天が生み出したものであり、天下を恣意的に扱う天子は天によって否定されるという天・天子・天下の相互関係から成り立つのである。「天下を公と為す」として出自に関わらず有徳の人物が天下を治めるという天下大同論はこれに基づく。

天皇と王朝交替
日本にも天命・天下思想は受容されたものの、革命の論理は否定された。中国においては君主である皇帝の存在を正当化する権威として天があり、天と天子は一貫して区別され続けてきた。これに対して日本では先述の共通認識に加えて、六世紀にウヂ・カバネの秩序を構築しながらも大王及び王族はそれを賜与する主体としてその枠組みに組み込まれないという超越的な立場を獲得しており、政治構造的にも王朝交替が発生しにくくなっていた。そして、律令国家の成立において明神御宇日本天皇と称するように天皇自身が神格化を果たしており、さらに八世紀前半に完成した記・紀の神話において天孫である天皇のみが君臨し得るという認識が確立した。これによって中国では区別され続けた君主の地位とそれを正当化する権威の二者の関係が日本では同一化することになり、天皇を否定し得る存在ではなくなることになる。ここにおいて不徳の天皇を理念的に否定する根拠も喪失し、革命の論理も成立する余地がなくなったといえる。
日本には王朝交替がないということは中国にも伝えられた。平安時代に日本僧然(ちょうねん)が宋に赴いた時、宗の太宗にそのことを説明して驚嘆させた。ひとつの王統が代代引き継いで世を治めるというのは天下思想においては小康と呼ばれ大同に次ぐものであった。ところが太宗は日本の皇位継承を理想としており、中国における天下思想の変化が見て取れる。


こうしてみると中国思想を受け継いでいるのは実は「日本」であり、中華理想の「皇帝」という存在は、実は「天皇」がもっとも近いものだと言うのが分かる。
また、この考えについては、山本七平の「日本人と中国人」において、全編通じて書かれている。これが非常に面白かった。
(最近、山本七平にはまっています。)
また、文藝春秋の全集「山本七平ライブラリー」では13巻目に収録されている。一冊に「日本人とユダヤ人」「日本人とアメリカ人」「日本人と中国人」が収録されていて、一冊通して読めば「日本人論」「日本国論」として読むことができます。もうこの3篇、見事という他ない。全く古びていないのが驚き。
祥伝社版は細かい意訳、解説が併記されているのでこちらは理解しやすくなっています。
山本七平「日本人とユダヤ人」

これで、新井白石編 終わり。
このシリーズ、次回は順番を変えて「正田家は新田一門の末裔であったから、美智子皇后陛下は皇室を守った編」に入ります。
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