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福沢諭吉「帝室論」現代語訳 3

物語を物語る

福沢諭吉「帝室論」現代語訳 3

人によっては、わが国の帝室が政治世界の外にあるのを見て、これを「虚ろなる器」を擁するものであると疑問を呈する者があるだろうけれども、前にも言ったように、帝室は、直接に万機に当たらずして、万機を統べたまうものである。(帝室は直接にすべての政治的問題を個々に処理するものではなく、すべてを統一的・調和的に治めたまうものである。)
帝室は国民の形体(外形)に触れずしてその国民の精神を収攬したまうものである。専制独裁の政体においては支配者がみずから万機に当たって、じかに国民の形体(外形)の秩序を維持するだけであって、精神の集中力に欠けている。だからこそ、それを帝室に依存することが必要なのである。
人生において精神と形体(外形。身体)のどちらかが重いであろうか。精神は形体の統率者である。帝室はその統率者を制御するものであって、また同時にその形体をも統べたまうものなので、どうしてこれを「虚ろな地位」ということができるだろうか。
もしも、強いて帝室に「虚ろな地位」という名をつけようと欲する者がいるとしたら、ためしに一人沈黙して、今の日本の民情を推察し、その数百年・数千年の君臣の情誼のなかに生まれてきた由来を反芻してみよ。ここに急に国会を開いて、その国会のみをもって国民の心身をあわせて一緒にこれを制御しようとする工夫をこらしても、それだけでは大いに欠けているところがあるということを悟るであろう。その欠けているところとは何であろうか。それは民心を収攬する中心であって、この中心をもたない限り、とうてい今の日本の社会は暗黒の社会になるだろうとの感をいだくに違いない。そうであればこそ、帝室はわが日本人民にとって、この暗黒の災いから免れるところの中心なのである。これを虚ろな地位といおうと思っても無理であろう。読者もこのことを心の中で納得することであろう。
たとえば、人はつねに一長一短があって、それを免れることはできない。特定の者に権力が集中する寡頭政治のやり方を廃止して、人民一般の参政権を付与し、多数をもって公明正大な政治をおこなうということは、国会の開設によって実現できるだろうけれども、国会を開設して、やがて二、三の政党が対立するようになれば、その間の軋轢は大変に苦々しいことになるだろう。
政治的な問題に関して政敵を排撃するためには、本当は心に思っていないことでもいろいろと申し立てて、お互いに相手を傷つけることがあるだろう。その傷つけられた者が、相手を傷つけるのは卑劣であるなどと弁論しながらも、その弁論の中で復讐して、逆に傷つけることにもなるだろう。あるいは人の隠し事を摘発し、あるいはその個人的スキャンダルを公表し、賄賂や請託はあたりまえのことになる。甚だしい場合は、腕力をもって闘争し、石を投げ瓦を割るなどの暴動があることも予想される。西洋の諸国はたいてい皆そうである。わが国も同じようにそういうことになるかもしれない。
文政や天保の時代生まれの老いたる目からみれば、まことにこれは言語道断なことであって、国会などないほうがいいと思うけれども、国会開設は世界中の機運であって、こうした騒擾のなかに自ら社会の秩序をつくり、かえってそれが人を活発に導くこともあるので、必ずしも国会開設を恐れる必要はない。
しかし、恐れなければならないのは、一つの政党が軍事力に依存して、兵士たちがその政党に加担する場合である。
国会の政党に軍事力が加担するときはその危害はいうまでもない。たとえ全国人民の多数の賛成を得た政党であっても、その政党の議員が国会の議場にあるときに、一小隊の兵をもって議会を解散し、あるいは議員を捕縛することなどたやすいことである。
とくにわが国の軍人は、もともと旧藩の士族を流れをくんでいて、政治的な思想を抱く者が少なくないので、各政党のいずれかに自然に好き嫌いやら親疎の情を感じて、我はこの政党に与しようなどというところへ、政党の側もまたこれを利用して暗に兵士の協力を求めるようなことがあれば、国会は人民の議論の場ではなくなり、軍人の戦場となるであろう。
このようなことになるであれば、最初から国会など開かないほうが皆の利益になると言うことができよう。
このようなわけだから、今この軍人の心を収攬してその動きを抑制しようとするには、必ず帝室に依存しなければならない。帝室は、政治社会のはるか外にある。軍人はただこの帝室を目的にして運動するだけである。帝室は偏りなく党派性なく、どの政党を排斥するとか、どの政党を助けるとかいうこともない。軍人もまたこれと同じである。
もとより今の軍人であれば、陸海軍卿(陸海軍大臣)の命令に従って進退すべきであるというのは当然であるけれども、その卿(大臣)は、ただ軍人の形体(外形)を支配して、その外面の進退を司るだけである。軍人の内面的な精神を制して、その心を収攬する引力は、ひとり帝室の中心にだけあると知るべきである。
また軍事というものは、一般に利を軽んじて名を重んじるという気風があるために、その軍人の上位にある者は、たとえ文筆や財務などに明るくてもそれでは足らず、武勇、磊落の名望があって、かつその地位が高くなければ、その任に適さない。今の陸海軍の将校が、その給与の割合に比べて等級が高いのも、皆そういう趣旨によるものであろう。
またアメリカ合衆国においては宗教も自由であって、政府に仕える者に関してその宗旨を問わないけれども、武官に限っては、必ずその国教であるキリスト教の人を選ぶと言われている。思うに、他宗の人はとかく世間に侮られて、軍人たちの心を収めるには不足だからである。武門の名を重んじるという心はこういうものである。
しかし、今国会を開設して国の重要問題を議論し、その時の政府にある大臣は、国会から推薦された人物で、たまたま事変に際して和戦いずれかの結論は大臣が決定するものだとした場合、陸海軍人の向うべき道は国会によって決められたように見える。そうすると軍人の進退は、はなはだ難しいことになるだろう。たとえその大臣がどんな人物であっても、その人物は国会から選ばれた者であって、国会というものはもともと文をもってなるものであるから、名を重んじる軍人としては、そういう人物に心服しないということは明らかである。
ただ帝室の尊厳と神聖があってこそ、政府が和戦の二議を帝室に奏上し、その最上のご決断を親裁されるのを見て、軍人も初めて安心し、軍人それぞれの精神はあたかも帝室の直轄にして、帝室のために進退し、帝室のために生死するものであると覚悟を定めて、初めて戦陣に向かって一命を賭すこともできるであろう。
そう考えれば、帝室の徳は非常に大きく非常に重いと言うべきである。わずかに軍人の一事についても、かくのごときである。私は国会の開設を前にして、ますます帝室の重大性を感じるものである。

「帝室論」現代語訳 4 に続く。
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