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福沢諭吉「帝室論」現代語訳 4

物語を物語る

福沢諭吉「帝室論」現代語訳 4

西洋の碩学の説にこういうものがある。「一国の人心を収攬して、その国風を立てる方法は、その国々の民情や旧習に従っていろいろあるとはいえ、各国共通に役立つものは、宗教、学問、音楽、謳歌などであるが、ことに立憲君主国においては、王室を人心収攬の中心にすべきである」という。わが日本のごときは古来宗教にこだわらないという民俗風習があるけれども、僧侶や大学者の一言をもって、今にも戦端が開かれようとする戦を和解させた例がないわけではない。また、敗軍の指揮者が高野山に登ったり、国事犯の罪人が鎌倉の尼寺に入ったり、あるいは旧諸藩において、士族の間に不和が生じたとき、あるいは藩法のためにやむを得ずその家来に割腹を命じたときなどにあたって、その主君の菩提寺の老僧が仲裁に入り、ときに命乞いをして犯罪者を寺に引き取ることがあった。これらはいずれもみな宗教によって政治社会の波風を緩和したものである。
また、江戸の市中にはトビ(鳶)の者と称する血気盛んな者たちが火事場などにおいて、ややもすれば喧嘩に及び、双方こじれて解決できないときに、親分と呼ばれる者が仲裁に入って、公の裁判を仰がずしてその喧嘩の是非を正し、悪いと認めた側を坊主にしたり、あるいは、その者が自ら剃髪して、仲直りの儀式を行うことがある。坊主頭になるということは、もとより寺に入るための坊主ではないけれども、その元は出家のための落飾の趣旨から出たものであろう。たかがトビの仲間においても法理だけによっては問題が解決せず、必ず一種の緩和力に頼ってその社会の安寧を維持する。いわんや政治の大社会においてはなおさらである。
その社会がいよいよ大きくなるにしたがって、その喧嘩や軋轢もまたいよいよ大きくなる。喧嘩・軋轢がいよいよ大きくなれば、緩和・仲裁の力を必要とすることもまた、いよいよ急となるであろう。
キリスト教に熱心な欧米諸国においては、その宗教をもって国事に役立てた例は少なくない。英国では一六〇〇年代、クロムウェルの乱において、国中の人心が激烈の極点に達して、当時議事院は左右両党に分かれ、相互に相手を恨み怒鳴りあって、その激論はやむことがなく、人々は皆、寒心・戦慄するほどの状況であったが、あるとき一人の老僧(司教)のすすめに従い、急に席を改めて神様を礼拝する儀式をおこない、しかるのちに席を定めて議事を再開したところ、満場自然に和睦の雰囲気が生じて、穏やかに議事が終わったことがある。それ以後、英国の議事院においては議事を開く前に必ず礼拝の儀式をおこなうようになり、今日もなお、その例に従っているという。

学問・学風の長短については日本にも支那(中国)にもその例が最も多く、人心に記憶されていることが最も深い。徳川幕府において、昌平館の学風を朱子学と定めてから各藩のほとんどがこれに倣い、二七〇年の太平の間に、碩学・大儒が現れ、なかには異風を唱える者がないわけではなかったけれども、天下一般の学者の多くは朱子学に従っており、それ以外の者はあまり力をあらわすことができなかった。ただ旧水戸藩において別の学風を起こしたとき、たちまちその水戸藩の藩士の気風を変えたことがある。単に学校の教科内容だけでなく時には一冊の著書によって、天下の人心を左右することは大変にたやすい。頼山陽の『日本外史』は王政維新の重要な要素となり、また維新の前後にわずかな著書・翻訳書によって一時に日本国全体を一変して、朝野を改革する端緒を開いたものあるのもその一例である。

音楽や謳歌は日本においてはさほど効力がないようだけれども、西洋諸国においては一節の歌をもって幾千万の人々の心をつなぎ、これを何百年も維持して国の治乱を制御することがあった。フランスの「リパブリック」という歌、英国の「ルールブリタニア」という歌などは、これである。
日本でこれに似ているのは、旧暦三月三日の桃の節句であろう。家々に雛人形を飾り、俗に言うお内裏様として雛壇の上段にまつるのは、思うに日本の至尊である歴代の天皇と皇后の御両体を表したものであろう。
また歌の文句にも「王は十善、神は九善」と言うことがある。これもまた同様の意味であろう。いずれも皆、尊王ということが人心を収攬するものだと言うことができる。
また旧暦の正月に、三河万歳といって古風な衣装を着けた者たちが鼓や太鼓を携えて、家ごとに来て祝詞を歌うのは、徳川家康公の万歳をお祝いする遺風だといわれている。また、元和元年、大阪の落城は五月六日であったため、それ以来、徳川の政府では端午の節句を最も重んじたせいか、それが全国でも同じ風俗を形成し、男児のある家では家の内外に軍旗のようなものを立てて、武者人形を飾るなどもっぱら尚武のふうを装う。
またある地方の習慣では、その旗と人形をしまうのは、武家の場合は五月五日の夕方まで、農家や商家の場合は五月六日まで飾るという風習がある。思うに大阪落城は五月六日であるから、武家はこの日に凱旋して兵器等はもはや不要になったために、その前日に五日にこれを片付けるという儀式をあらわしているけれども、町人や百姓は軍事に関係がないので、翌日まで飾っていてもかまわないという意味であろう。いずれも皆これは徳川の旧習を懐かしんで、尚武の士気を鼓舞するためには大いに効力のある風俗であろう。
尊王であれ尚武であれ、すでに全国の風俗・風習を形成している場合、これを容易に消滅させることはできない。こういうものによって乱を収めることができるし、場合によっては泰平を乱すこともできるであろう。俚俗(りぞく)・謳歌といっても決してこれを軽視してはならない。

福沢諭吉「帝室論」 現代語訳 5 に続く

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消えた二十二巻

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