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福沢諭吉「帝室論」 現代語訳 5

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福沢諭吉「帝室論」 現代語訳 5

王室の功徳によっては、共和国の国民には理解できないところであろうが、その風俗が人心に影響力を及ぼすことは、わざわざ言うまでもない。人によっては立憲君主制を批評して「これは君主が愚民を籠絡する一つの詐術だ」と笑う者がないわけではないけれども、このような説を述べる者は結局、政治的な艱難にあった経験がなく、民心が軋轢を起こす惨状を知らないのである。青年の書生連中が、二,三の書を読みかじり、まだその意味をよく消化せずに吐き出すような言葉がこれである。
考えてもみたまえ。わが日本においても、政治の党派が生じて相互に敵視し、積年の恨みがだんだん深くなり、解決できないという状況の最中に、外からの攻撃が生じて国の存亡にかかわる事態が到来したら、どうするのか。自由民権が非常に大切であるとはいっても、その自由民権を享受させてくれた国が、あげく侵略され、不自由で無権力の有り様に陥ったなら、どうするのか。守旧保守が大切であるといっても、古いものを保守するばかりで、そのまま他国から統制を受けたら、どうするか。小さい者どうしがお互いに争って勝敗が容易に決着せず、全身の力をすでに使い果たして残る力もない。こんな状態で他国のことを考えて、それに対処する余裕はあるだろうか。
去年発行した「時事小言」の諸言に、私は次のように述べた。

前略
筆者はもとより民権に反対する敵ではない。民権は大いに求めるものであるが、民権の伸張は、ただ国会開設をおこなえば足りるであろう。そして昨今の時勢をみれば国会を開くことも難しくはない。たとえ難しくても開かなくてはならない理由がある。しかしながら、国会開設をもって民権の伸張を希望し、ついに民権を伸ばすことができるに至ったとしても、では、この民権を伸張する国柄(国体)はどんなものとすれば満足できるだろうか。民権を伸張することができたと、はなはだ愉快に思い安堵したといっても、外から国権を圧迫するものであれば、これは非常に不愉快なことである。
寓話にこういう話がある。
サザエが殻のなかに収まり、愉快で安堵したと思っている。その安心している最中に殻の外で喧嘩や異常が起こったのを聞き、そっと頭を伸ばして四方をうかがってみたところ、なんと自分の身はすでにその殻とともに魚市場の俎板の上にあった、という話だ。
国は人民にとっては殻である。その維持と保護を忘れてよいものだろうか。最近の文明や、世界の喧嘩などは、まことに異常である。場合によってはサザエの災禍が生じることも忘れてはならない。憂うべき災禍が多いのに、それを憂うる人が少ないのを見れば、筆者は不平を洩らさざるを得ない。
ただどうにも今日、民権論一色の世の中になっているので、場合によっては筆者に対して不平を言う者があるだろうけれども、今後十年のことを考えれば、その論者が心を改めて今日の筆者と主義主張を同じくする日を待つのみである。

右の「時事小言」の所論も、その趣旨は本編に述べたものと変わらない。
こうした内政の艱難に際し、民心軋轢の惨状を呈するときにあたって、その党派論にはいささかも関係するところのない一種特別な大勢力があり、その力をもって、相争う双方を緩和し、無偏無党の立場から両者を綏撫(すいぶ)して、各々が度を過ぎないように導くことは、天下無上の美事であり、人民には無上の幸福といえるだろう。これこそ、私がひとえに帝室の独立を祈願する所以なのである。
現今、世の民権論者も帝室を尊崇すると言い、また事実、尊崇する気で言っているのだろうが、その語り口をみると、真実の至情から出たもののように思われない。ただ公然と口を開き、帝室が尊いがゆえにこれを尊ぶのだ、と言うのであって、帝室の功徳が社会に及ぶ理由を語っていないし、人民の安寧は帝室の緩和力にかかっているという理由を述べることもない。そのギスギスした様子はちょうど、家庭で子供らが継母に対して、いやしくも継母は我々の母親であるゆえに孝養を尽くすのは当然のことです、と公言するのを彷彿とさせるのである。
これに加えて、「主権」云々についても何か議論がましく喋々(ちょうちょう)と述べ立て、あるいはそんな論者の同志と称する者の中には、ずいぶんと過激な連中もいないわけではない。これは、おおよそ政党にはありがちなことだけれども、保守論者の陣営からこれを見れば、猜疑心が湧くのを否定できない。「彼ら民権論者は、口では甘い言葉を唱えても、内心ははなはだ危険な者たちだ。恐ろしいことだから彼らを放置しておいてはならない」と言って、とりたてて方策もないのに安易に帝室の名を用い、公に「帝室保護」などと唱えて活動するその有り様は、あたかも帝室という名義の中に籠城して満天下を敵にするかのようである。
もとより、この保守論者も、立憲政体や国会開設のことについては異論がなく、そのへんは民権家と一致しているようである。しかし、その「帝室」云々と口に唱え筆にする気風を察し、その主権論などの論鋒を見れば、明治維新以前の専制政治に唱えていた古い勤王の臭気を帯びているようだ。彼らの持論の要点には、常に神代のことなどが持ち出され、「わが帝室は開闢の初めにおいて、かくのごとくであったがゆえに、今日にあってかくのごとしである。今後もまた、かくのごとくなるであろう」といった調子で、たんに歴史上の旧事のみを称揚し、今の日本国民が帝室を奉戴するのは、あたかもただそうした旧恩に報いる義務であるかのように披瀝するだけなのである。帝室が現に今日においても人心収攬の中心となっており、またそのことによって社会の安寧を維持しているという理由に気づいていない。つまり、彼らが帝室に尽くすところは、たんに過去の報恩という一点にあるだけであって、現在の恩徳を認識するだけの明察がないのだ。これでは帝室に尽くすといっても、尽くし方が薄いと言うべきだろう。また今後、国会の開設、したがって政党間の軋轢という不幸も生じるであろうから、未来の恩徳はますます広く大きくなるだろうが、そのへんについても、まことに漠然とした見解としかうかがえない。こんなことでは、帝室に望むことが少なく、帝室を仰ぐことも高くない、と言うべきである。
畢竟、保守論者や皇学者流の諸士は、その心ばえは忠実であっても、社会経営の理に暗いために、忠を尽くそうと欲しても忠を尽くす方法を知らず、恩に報いようと欲してもその恩徳の所在を知らないのだ。だから彼らの持論は、常に過去の報恩が主体となっており、現在のことに触れない。それゆえ、彼らの所説は、往々にして教条的な宗旨論の風を帯びて、融通に乏しい。自説に固執して他人に敵対することが激烈であるだけでなく、その同志と称する者の中には、古い勤王論には不似合いの人物もおり、また少壮の輩にはすいぶんと学識に欠け、激しいだけの者もいないわけではない。こうした者たちを民権の自由論者から見れば、純然たる頑固者としか認められない。「彼らは口では立憲国会などと言っているが、元来の持論にはふさわしくない言葉だ。結局、我々自由民権論者を駆除して、その本音である専制政治に復古しょうと内心では思っているのだろう」と、大いに猜疑の念を抱かざるをえない。
これが現今の実情であり、こうした勢いは近日にいたってますます増強されているようである。
私はもとより、今のいわゆる自由改進の民権論に心酔するものではない。また、今のいわゆる守旧保守の肩をもつわけでもない。両陣営の人々が考え方で歩みよることなく政談を争うのは自由であり、気力のある限り勉強すべしと努力するのはよいとして、双方に望みたいのは、相手を攻撃するにも論駁するにも、ただ政治論だけにとどめてほしいこと、謹んで帝室には近づかないでほしいことである。これだけは双方の諸士に対して、あくまでも心から希望したい。もし、そうでないと、帝室の緩和の功徳が、逆に激烈な乱階(らんかい)に変じてしまう可能性がある。恐るべきことではないか。
なお、はなはだしいのは、近日、政府の内閣もこれらの党派に関係しているとの説があることだ。関係がどの程度深いのか、私は知らないが、たとえ内閣であっても、未だ政党の形を成さないのに、民間から党員を募るような痕跡がなければ、そんな噂はなくなるはずだ。いやしくも政党の形をなすことが真実であり、そうした痕跡があるとしたら、党派としては決して帝室の名を用いてはならない。わが帝室は、下界の政党に降りたまうものではないからである。もし万に一つでも、私の憂慮することが思いすごしではなく、後日これが原因で災いが生じたとしたら、私は、今の在野の諸政党だけでなく、政府の内閣に対しても、弁解を求めたいと思う。

福沢諭吉「帝室論」 現代語訳 6 に続く

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