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福沢諭吉「帝室論」現代語訳 8

物語を物語る

福沢諭吉「帝室論」現代語訳 8

学術や技芸の奨励もまた、もっぱら帝室に頼んで国に益することが多いだろう。
現在、全国の教育を司って学芸を奨励するのは文部省であるが、文部省直轄の学校はまことにわずかで、生徒の数は数百人に過ぎない。これでは全国の学士を養成するには足りない。
文部省も政府の中の一省だから、つねに政府と動きを共にすることになる。政府の変動があれば省にも変動が生じ、はなはだしい場合には文部卿(文部大臣)の更迭にしたがって省中の官吏が任免されるだけでなく、学校の教員に至るまで進退を問われる場合がないわけではない。教員を入れ替え、学制を改革し、すでに改革したものをまた修正し、三年ごと、四年ごとに変更するようなことは、教育において最も不利益なことと言うだろう。
これに加えて、国会開設の後は、国庫の金を国中のわずか二、三校の官立学校に支給することになるのだろうか。難しい問題だろう。国会開設以後は、たとえ文部省を廃止しないまでも、文部省の事務はただ国中の学事を監督するだけにとどめて直接学校を支配するという慣行はなくなるだろうと信じる。天下にすでに官立の学校はなくなるのである。たとえあったとしても、全国の学士を養成するには足りない。それならば、私立の学校を奨励して、これを盛り立てるほかに方法はないだろう。
ところが、今日各地にある私学校の現状は、じつに微々たるものであり、見るべきものがない。数百人以上の生徒を誤りなく教育して、これを十数年にわたって維持し、学校の名に恥じないものは、日本国中を見渡してもわずかで、指を屈するほどもない。小学や下級の教育は地方の協議にまかせて小学校として任命することもできようが、いやしくも小学以上かつ学術の部分については、これを微々たる私立学校に任命しようとするのは、もとよりやるべきことではない。
それだからこそ、私が大いに希望するのは、帝室が盛んに学校を興し、それを帝室の学校と言わずに私立の資格を付与し、全国の学士を選んでこれを担当させ、わが日本の学術をして政治の外に独立させるという、この一事である。
文化が徐々に進み、国民が皆、文化の重要性を知るようになれば、民間富豪の中には有志が学術のために義捐金を拠出するというような者も出てくるだろうが、今日の民情はまだその段階にまで進んでおらず、これはどうしようもないことなので、ただ帝室を頼みにして先例を示していただくという方法があるだけである。
このように、新たに高尚な学校を興し、また在来の私学校には保護を与え、あるいは時に応じて今の官立学校の中から特定校を選んで、いったん帝室ご在有の学校とし、さらにこの学校に私立の資格を付与して、従前の教官などに授与することもできるだろう。その細目は現実問題になるまでしばらく擱き、とにかく大まかに言えばこうした趣向で、わが国の学術を政治の世界外に独立させて、その進歩を促すことは、国内の利益・幸福のためだけでなく、遠く海外に対しても、日本の帝室は学術を重んじ学士を貴ぶという名声を発揚することができるだろう。これは国に一美事である。
現在、英国などにおいて隆盛している大学校は、ことごとく皆、独立・私立の資格だが、その元をたどれば、昔、王家の保護を受けていたところが多いという。また近年においては、英国の皇壻(こうせい・女王陛下の夫君)アルバート公は、在世の間、直接に政治に関わることはなかったが、好んで文学・技芸を奨励したため、国中の碩学や大家は無論のこと、およそ一技一芸に秀でた者まで、アルバート公みずからの優待を受けない者はなかった。たしかに数十年以来、英国の治安を維持し、今日の繁栄を極めたのも、間接にはアルバート公のお力が与って大きかったという。王家・帝室の名声をもって一国の学業を奨励すれば、その功徳が永遠にして広大であることは、このような例からも知れるであろう。

ある面から論ずれば、学者は静かなものであり、政治は動くものであるといえる。人にはおのおの長所があるので、だれもが皆、動くことを好むわけではない。政治家が公の場で衆人を感服させ、軍人が敵と対決して勝利を制することは、もとより愉快なことには違いない。しかし、学者が自然の法則を追究し、化学や工学などの細微な実験をおこなって、偶然の機会に大昔からの謎を解決したり、また薄明かりの窓辺にひとり座して、深妙なる学理を考察し、一冊の書物を著した結果としててんかの人心に深い影響を与えたりするようなことは、その愉快さたるや他人が推し量ることのできないものであり、何ものにも譬えようがない。たとえ豪華な宝玉を得ようとも、さらには天下を獲得しょうとも、そんなものは学者にとっては大いなるものとするには足りない。こと志がここに至れば、王や諸候や将軍や大臣などの地位は眼中にない。これを学者の愉快というのである。
人生の快楽は、人それぞれの性質と職業の習慣とによって異なるものだから、その人の性質に合う就職に就かせれば、世に学者がいないなどと憂える必要はない。続々と排出し、その職業に満足させればよいのだ。
近年の世の有り様を見て、政治論者の多さに驚く人がいる。日本の学者はある種の気風を帯びていて、だれもが皆、政治に熱中する者ばかりだと、いたずらに憶測し憂慮する人がいないわけではない。しかし、煎じ詰めれば、学者に特定の気風があるのではなく、世間にある種の気風が欠けているのだからこそ、このようなことになるのである。すなわち、世間には学術を貴ぶという気風がないのだ。世間が学術を尊敬しないからこそ、学者は学問で身を立てることが難しくなり、身に才能を持っていても、それで世に身を立てる道がない。だから、静かに研究しようと欲してもそれができないのである。今の学者が政治論に走るのも、理由のないことではない。学者が好んで戦争論に入り込むのではない。そうせざるを得ない事情があるからである。
ゆえに今、もし帝室が天下に率先して学術を重んじるという先例をお示しになり、学者がそれぞれの専門分野に就業できるようにすれば、全国もまたそれに靡き従ってそうした気風を形成し、やがて政治の世界外に純然たる学者社会を形成できるようになるだろう。こうして初めて、わが国の学問の独立が期待できよう。
また学者というものは、政治家に比べると生活の趣を異にしており、衣食住の外見を飾るものではない。飾る必要もないので、おのずから質素にしているが、他の点で異なるものがあるだろう。外の形体(かたち)は粗雑だが、内の精神は緻密である。その身の外見は賤しく見えるが、社会における栄誉はきわめて貴い。したがって、学者は人の標準として、世間のお手本の役目をも果たすだろう。偶然の利益と言うべきである。
今日の状況では後進の学生たちが日々増加しているけれども、学問をもって静かに終生をまっとうしようとする者は、はなはだ少ないようだ。思うに、彼らは静かな研究生活が嫌いなわけではないのだが、静かでかつ頼みとすべき中心が見いだせないのである。学に志す心が篤ければ篤いほど名利から遠ざかってしまうので、志を曲げて学問の世界から離れてしまう。私がひたすらわが帝室を仰ぎ、全国学術の中心となるよう願うのも、そのささやかな真意は実にここにあるのである。

福沢諭吉「帝室論」現代語訳 9 に続く

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