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福沢諭吉「帝室論」現代語訳 9

物語を物語る

福沢諭吉「帝室論」現代語訳 9

前述の論旨において、帝室を仰いで学術の中心として奉じたいと述べたのは、わが日本の学問を独立させたいからである。たとえその学問内容は近年の西洋文明から受容するとしても、やがては日本独自のものとして独立させることが私の趣意であり、それがちょうど今の漢字が、その源泉は支那(中国)から受容したものであっても遂にわが国のものとして独立したようなものである。そのようにしたいとの趣意から、学問のやや高尚な分野について説を立てたのだが、そのほか以下に述べる芸術についても、帝室を頼みとしなければならないことがすこぶる多い。
そもそも一国の文明の要素は限りなく繁多なものであり、人間社会の一事一物にいたるまで文明の材料とならぬものはない。日本内地の人民と北海道のアイヌとを比較すれば、内地は文明であり、北の地は非文明だと言えるだろう。なぜなら、内地は人事(人間に関する事柄)が繁多であり、北の地は簡約だからである。内地の人民は三度の食事をするにしても、一人一人にお膳やお椀や箸を準備するが、北海道のアイヌでは往々にしてそれがない場合がある。このように人間社会では、わずかに箸一膳の有無によっても文明の高低をうかがうことができる。箸は文明の産物である。箸を使うことも文明の事象である。箸を作り、箸を売買することもまた、文明の事象である。ましてや箸以上の事物はなおさらのことだ。そうした事物が多ければ多いほど文明の高さを証明することができる。要するに、人事の繁多こそが文明開化だと言ってもよいだろう。
ゆえに、一国の文明を進めるためには、人事の繁多を厭わしく思ってはならない。むしろ、それを勧奨してますます繁多にすることが必要である。
今から二十年前(江戸時代)には、二汁五菜といえば大変なご馳走とされたものだが、今ではそのほかに西洋風の料理まで食べる。わが人民は、洋食が旨いかまずいかを味わおうという知見を増やすことで文明を進めたのである。
二十年前までは、ただの漢籍を読んでいれば学者といって恥ずかしくなかったのだが、今では漢籍の他に洋書をも知らなければ、学者の世界で暮らしてゆくことはできない。わが人民は横文字を理解するという知見を増やして文明を進めたのである。人事繁多の世の中になってこそ、文明進歩の秋(とき)と言うことができる。
しかしながら、これらは旧文明に新文明を加えたという話なので、これについての議論は他日に譲ることにする。私がここで改めて論及したいのは、旧来わが国に固有の文明の事物を、保存したいという問題である。これについても、重ねて帝室を頼みとせざるを得ないのである。
そもそも政治革命は、人心にはなはだしい激震を及ぼすものである。政府がここに一新すれば、人心もそれに従って一変し、人々の嗜好の趣も以前とは変わることが多い。ことに、わが日本の近時の革命(明治維新)は、たんに内国政治が変換されただけでなく、ちょうど外国との交際(外交)の新時代にも際会したため、外の新奇なものが流入してきて、内の旧套(昔の古い形式)が侵蝕された例が少なくない。
実際問題、旧時代の事物だといえば、それが役に立とうが立つまいが利害得失を弁別することもない、旧い(ふるい)ものに対して何にでも「旧」の字に「弊」の字を加えて「旧弊」なものだと決めつけてしまう。この「旧弊」という熟語は下層社会にまで浸透し、これも旧弊だ、それも旧弊だ、とばかりに旧時代の事物を破壊する者は、世間から「識者」であるかのように見られる有り様だ。そんな勢いで、内と外の両方の力で人心をひっくり返したため、その有り様はあたかも秋の枯れ野に火を放ったかのようで、際限なく燃え広がり、ほとんど旧来の文明を一掃してしまったと言ってよい。
太陽暦を採用して五節句を廃止し、三百藩を廃して城郭を破壊し、神仏混淆を禁止して寺院の景観を傷つけたようなことは、今さら回復するのも難しかろう。また今となっては実際、利害関係に鑑みて回復できないケースもあるだろうから、これの問題はしばらく不問に付することにする。
ここで私が特に注目するのは、日本固有の技芸である。今日それを保存したいと寛げれば難しいことではなく、逆に放置閑却すれば、根絶する恐れのあるもの、これである。
日本の技芸には、書画があり、彫刻があり、剣槍術、馬術、柔道、相撲、水泳、諸礼式、音楽、能楽、囲碁将棋、挿花、茶の湯、薫香など、その他大工左官術、盆栽植木屋術、料理割烹の術、蒔絵塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀剣鍛冶の術など、私はこれらすべて逐一記することはできないけれども、その項目はおびただしい数にのぼることだろう。
これら諸芸術は日本固有の文明であり、今日その勢いは、すでに激震に襲われて次第に衰えようとしているため、それが消滅しないように救出することは、実に焦眉の急であると言わねばならない。
なぜなら芸術は、数学・工学・化学などと違って数値と時間で計量できるものではなく、規則・法則の解説書で伝えてゆくことができないからである。ことに日本古来の風習として伝承されてきたものの中には、規則にのっとったものであっても、人から人へ、家系から家系へと秘法が伝えられてきたものが多く、その秘伝は個人の内部に保持されているため、その人が亡くなればその芸術も滅んでしまうのは当然の運命である。今日そういう人は細々と生き残っているが、その人もまさに余生残り少なくなっているのである。
今、こうした火急の事態を救出するには、どのような方策をとるべきだろうか。こうしたものを今日の文部省に託すことはできない。実際、託そうにも、省の資格では実行しがたいことが多いだろう。ましてや国会開設後の政府では無理というものだ。国会の政府となれば、ただ冷やかな法律と規則に依存し、道理の中に局促して(束縛して)、かろうじて国民の外形を管理するだけのことだから、そうした政府の高官が、眼前の法的な人間社会問題に不要な芸術を、管理支配して、特にこれを保護奨励するというようなことは、まったく想像もできないことである。このような場合に唯一、頼みとして望みをつなげるのは、ただ帝室あるのみである。
帝室は政治社会の外に立って、高尚な学問の中心となり、同時にまた、諸芸術を保存して衰頽から救いたまうことがおできになるのである。

福沢諭吉「帝室論」現代語訳 10 に続く。


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