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福沢諭吉「帝室論」現代語訳 10

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福沢諭吉「帝室論」現代語訳 10

しかしこう反論する人もいる。
「前述されたような諸芸術を保護するために、帝室を頼みとするのはよいとしても、そうした芸術の中には、今日ではまったく無用のものがある。そんなものを、どうしようというのか。無用の芸術を保護するために有用な人の心を煩わせ、当然ながら、いくばくかの金も費やさねばならない。それこそ、まったく無用なことである」と。
このような説をなす人は、まことに今日だけの人であって、明日ということを知らない者である。
人間の文明は、時間的にも限りがなく、空間的にも広がりが大きい。文明の流れは、千年をもって一日とするようなものだ。今日ただ今の目で見て無用であるからといって、千年に生きる文明の材料を投げ捨ててよいものであろうか。今日、土の中から出土する勾玉・金環なども、その大昔の時代にあって経済理論に明るい書生がこれを評すれば、もしかしたら無用の物だと言われてしまうかも知れないが、数千年を経て、今日の我々が勾玉の細工と金環の鍍金を視察すれば、わが日本には数千年前から既に鍍金の技術があったことを知り、その文明レベルを推し量ることができる。したがって、今日は無用の物であっても明日には無用ではないことを知らなければならない。
ためしに現在の書画骨董を見よ。十数年前は、埃に埋もれて顧みる者がなかった。緋嚇の鎧一領の値段を二朱といっても買う者などいなかった。名家の筆になる金屏風も、その金箔の地金を取り出すために焼いてしまうような時勢であったが、今日はまったく正反対である。鎧も刀剣も骨董として珍重され、書画に至っては一片の紙帛が何百円もすることがある。わずか十年の時間が経過しただけでこの変わり様である。まして今後百年を過ぎ、千年を経たら、なおのことではないか。
人の好みや尊重心の変化は決して予測できないものであるから、保存できる物は保存し、伝えるべき術は伝えて、わが日本文明の富を損なわぬようにすることが緊要である。
諸芸諸術は、無用ではないばかりか、わが国固有の美術であって、西洋人にはまったく知られていないものがある。茶を喫むにも方法があり、これを茶の湯の道という。花を器に挿すにも方法があり、これを挿花立花の術という。香料を薫じてこれを嗅ぐにも方法があり、これを薫香の芸という。この類のものはすこぶる多く、西洋人に説明するにも容易にその意味を理解させることは難しいだろう。また、御家流の文字のように、基本は支那から伝わったものでも、支那流の外に一種の書法を確立したものもある。その方法の伝授はわが国固有のものであり、美術の中では大切なものであろう。これらはいずれも皆、わが文明の富であり、外人に誇るべきものである。
その他に、蒔絵、塗物、陶器、植木、割烹などの諸芸術については、逐一説明するのは私の手にあまるし、また本論の趣旨でもないので、それは省略する。ただ私が願うのは、これらの諸芸諸術を、たかだか政治革命のような小さな政変のために断絶させてはならない、という一点のみである。
昔、封建時代において三百諸侯の生活はすこぶる高尚なものであって、それを維持するために諸候みずから芸術を保護して、その進歩を助けたことは人の知るところである。諸候の領内には武具・馬具の職工は無論のこと、茶道の坊主がおり、御用の大工・左官がおり、蒔絵師・御庭方がおり、料理人・指物師など、皆たいてい譜代世禄の家来であった。彼らはその職業で利益を射止めるよりも、名を争うことに執念を燃やしていた。それが、いわゆる芸術家の功名心というもので、その功名心から往々にして尋常ならざる名人が生まれ、また名作も少なくなかったのである。実のところ、その名作の代価を見積もるために、名人の家系に数代にわたって宛がわれた扶持米を積算すれば、非常に高価なものについたことだろう。しかし、封建諸侯は会計が変則的であって、収入を考えずに支出をする人々だったから、高価な代償など気にしてはいなかったであろう。
今後は、世に富豪も出てくるだろうし、その富は昔の諸候に勝る場合もあるだろうが、彼らが収支バランスの常則にしたがうとなれば、芸術に対する功徳は簡単に望めそうにもない。
今日では、芸術家に世禄を支給するようなことは行われないが、なんらかの方法を設けて芸術家の功名心を奨励する必要性があることは明らかに分かるだろう。では、どんな方法があるのか。前節で、帝室は栄誉の源泉であると言った。ということは、芸術家の栄誉もこの源泉から湧き出る方法によるのが一番である。
その先例を挙げてみよう。徳川の時代に、陪臣や浪人のうち、儒者や医師などで高名な人物があれば、「御目見被仰付」として呼び出して将軍に拝謁を許し、時にはその人物に葵の紋服を賜った例もあった。ひとたび拝謁した者は、たとえ幕臣でなくとも、いわゆる「御目見以上」(旗本のこと。御家人は御目見以下)の格式となり、諸藩士より一段上に位した。これは幕府の旗本と同格になるので、儒者や医師の身としてはほとんど無上の栄誉であり、世間の名望もはなはだ高かった。
儒者や医師だけでなく、囲碁・将棋などに巧みな者の場合も、名人の誉れのある者には拝謁を許し、さらに碁所・将棋所といって、その芸の宗家にはたっぷりと扶持を与えた。毎年恒例の行事として、幕府の殿中で、上覧の囲碁将棋会を開いて屈指の者どもが芸を闘わせるときには、将軍も必ず親から(みずから)出座して観戦したのである。代々の将軍が皆、囲碁将棋をたしなんだわけではないだろうから、ずいぶんと迷惑に思った将軍もいたかもしれないが、俗世間ではそれを「御城碁」「御城将棋」と呼んでいた。これに出場する当人は、その日一局の勝敗で、生涯の栄辱を占ったりもした。はなはだしい場合は、勝敗の心労のために吐血して死んだ者もいたという。
その他、能楽者にも扶持を支給したり、刀鍛冶・彫刻師にも宛行(あてがい・扶持米や給与)を与えたりするなど、様々な工夫をこらしたて、徳川幕府十五代の間に芸術奨励の一事はじつによく行き届いたのである。
しかし今日では、もはや幕府はない。諸候(大名)もいない。ならば、全国の人心の中心であり栄誉の源泉たる帝室が、今の民情を視察し、これまでの例を斟酌して、あるいは勲章の法を設け、あるいは年金の恩賜を施し、あるいは当人に拝謁をお許しになり、あるいは新旧の名作物を蒐集なされるなどのことがあれば、天下の人心は翕然(きゅうぜん)として一中心に集まることだろう。そうすれば、栄誉の源泉に向かって功名の心が生まれ、まさに衰えようとしているわが芸術を挽回し、さらに発達の機を促すことにもなろう。それだけではない。帝室を慕う人々の心には一層の熱が加わり、ますます帝室の尊厳・神聖を仰ぐに至るであろう。

福沢諭吉「帝室論」11 に続く

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