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福沢諭吉「尊皇論」現代語訳 1

物語を物語る

福沢諭吉「尊皇論」現代語訳 1

わが大日本国の帝室は、尊厳にして神聖である。我々は臣民として帝室を仰ぎ、帝室を尊ばなければならない。ということは天下万民の知るところである。帝室を尊ぶのは、なにかの下心があるからではない。ほとんど日本国人の固有の性(さが)から生まれたように見える。古来から今日に至るまで、そのことに疑いを容れる者はないけれども、開国以来、徐々に文明が進んできて、様々な種類の議論も多い世の中となったことで、私は尊王の大義を単に日本人の性質とだけは言わず、さらに一歩を進めて、国家経営の必要においてもこの大義を無視すべきではないと信じるので、たとえ今日では無用の論のように思われようとも、天下と後世社会の安寧のために、尊王論の一編を記して、子孫に残すことにした。これは、無用な労ではないだろう。
今、その立論を三つに分ける。
第一、国家経営上における尊王の必要性はどのようなものか。
第二、帝室が尊厳・神聖である所以はどのようなものか。
第三、帝室の尊厳・神聖を維持する工夫はどのようなものか。

第一に、日本人の尊王の心はほとんど天然の性情から出てきたものである。試しに今、下層の男女に向かって、帝室はなぜ尊いのかと尋ねれば、ただ帝室であるがゆえに尊いと答えるだけであって、これを特段疑う者はいない。単に下層の男女だけでなく、上流の有識者や、あるいは平生から尊王の志が厚いと称する人間に質問しても、帝室は万世一系の至尊であると答えて、それ以上詳らかに説明する者ははなはだ少ないようである。今のところ、私も強いてその説明を求めるわけではない。実際においてもまたそれは無用である。
しかしながら、文明の開化や進展が際限なく、今日では論議がかまびしくなっていて、今後ますますはなはだしい状態に至る可能性がある。そんな世の流れにあって、こうした議論は時として人情を後回しにして道理に訴え、帝室のことに関しても単に道理の方面から言葉を発して、国家経営上における帝室の効用はどのようなものか、などという問題にぶつからないとも限らない。もしも、そんな場合には、私はかの下層の男女のように、あるいはまた世間のいわゆる尊王論者のように、単に帝室であるがゆえに帝室は尊厳・神聖であると答えるよりも、当方からさらに一歩進めて、質問者の質問に応じて、国家経営上における尊王の必要性を説明し、それによって他に満足させて、人情と道理の両方の点から、ますます尊王の心を養成したいと欲するのである。

人の性は善であるというけれども、一方から人間の俗世界の有り様を見れば、およそ人として勝つことを好み、多くのものを求めない者はいない。すなわち、これは人生に備わる名利の心であって、社会活動を起こす根本でもある。また人間の知力や工夫は際限のないものであり、好みの物や求める物を得るためには種々様々の方策を使って、ほとんど至らないところがない。しかして、その方策たるや性質の正しいものもあれば、正しくないもあり、あるいは、当事者自身は正当なことだと答えても、他人から見れば正しくないこともある。あるは昔の時代においては正しく理にかなった事柄も、今の風潮では理にかなわないものもある。そうした事情ははなはだ錯綜しており、容易に判断を下しがたい。そうした中で、徳義心の発達がなおまだ完全ではない浮世の俗物たちが名利を求めてやまない状態なので、心が険しくなるのを誠に当然の勢いである。心の中に隠れている間はまだ平和を装うこともできるが、それが外に現れてくると、小さな場合は個々人の不和争論となり、大きい場合は党派間の軋轢あるいは戦争に立ち至ることにもなるだろう。社会にとってこれほど大きな不利益はない。
畢竟、その大本を尋ねれば、その原因は勝つことを好み、多くのものを求める性情にある。これを調和させることはなかなか容易ではない。天下の人をことごとく全て勝たせようと思っても、勝敗とは相対立する言葉であり、負ける者がいなければ勝つ者はいない。天下の人をことごとくに多くの物を獲得させようとすれば、この多い少ないもまた相対立する言葉であるから、他人の中に「少ない」と言う人がいなければ、自分が「多い」という感覚は得られない。ということは、すなわち名利とするには、天下の名誉・利益をあげて一人の身に集めて初めて満足することができるだろうけれども、逆に言えば、その一人を除く他人の人々は全て不平をもたずにはいられない。これまでますます不都合であって、これを実際に行うことができないのは明らかである。
それゆえ、国家を経営する要諦は、社会の人々を不平や怨嗟の極みに追い込まず、また逆に満足・得意の極みにも上げずに、まさにその中間の地位を授け、苦楽喜憂が相半ばする状態で、両極端に逸脱しないように図ることこそ肝心である。これを名づけて、その分を得たものという。
政府や法律や、宗教・道徳の感化のようなものは人事の理非を明らかにし、人心の欲を制御してこの逸脱を禁じ、またこれを未然に防ぐ方便である。しかし、それだけでは、なお足りないものがあるように思われる。
ことに、わが日本国のごときは、古来、士族的な習慣を形成して政治に熱心になる者がはなはだ多く、その熱意の度合も非常に高くて、法律や道徳の教えの力も、時として効力がないような事例が無きにしもあらずである。これは歴史が明らかに証明しているところであり、日本固有の気風なので、こうした気風の中にいて政治社会の俗熱を緩解・調和するためには、おのずからまた日本に固有の一種の勢力(権威)がなければならない。すなわち、私がこの勢力(権威)のあるところを求めれば、それは帝室の尊厳・神聖であると明言するものである。

名利(名と利)の両者はともに人の欲するところであるが、いま名誉と利益とを分けて、そのどちらを重んじるかと尋ねれば、人の性情は名を先にして利を後にすうものだと答えざるを得ない。およそ人間にとって、衣食がすでに足りて肉体を保つに欠乏がない以上は、求めるものは全く名にあるということができるだろう。
大厦高楼(たいかこうろう)・錦衣玉食(きんいぎょくしょく)は際限のないことだが、本人の肉体や口腹に必要なものは限界があるので、それ以上はことごとく皆、外聞のためにするだけである。すなわち名のためにするものであるから、人生の利益を求めて多くのものを欲するというのも、その実は名を買いたいためであるということができるであろう。
世の中には守銭奴というものがいる。守銭奴のなすところを見ていると、どんなに外聞の悪いことでも忍んでただ銭金を求め、畢竟の目的は利益の外にないように見えるけれども、その本心を叩いて真の面目を正してみると、その人の心では人生に銭金がなければ安心できない、金が無く貧乏の淵に沈むと、どのような艱難辛苦をなめ、どのような恥辱を蒙るかも分からない。その用心のためには、金銭こそが第一に必要なものである。ましてや、平生においても金銭は権力の元であり、おのずから世間に我が身の重要さを示すことができるということで、結局帰するところは名のために他ならない。
そうであれば、人の性情はこのように名を好むものであり、その名を買うのに最も便利なものが金銭であるため、俗世に名利(名と利)の紛争がおきるのも怪しむに足りない。
さて、そのような紛争に際して、はっきりと勝敗がつく場合は、ちょうど相撲の勝負のようなものなので、特に心配には及ばないけれども、人事(人間の問題)はたいてい無形の状態で、錯綜するものが多いため、これを判断するのは容易ではない。場合によっては国の法律に訴えて、黒白をつける方法もあるけれども、法律は単に外面や有形の部分に力があるだけであって、無形の心情に深く関与することができないため、法律では満足することができない。ここに至れば、初めて仲裁の必要性があることが分かるであろう。そもそも、ここにいう仲裁という文字は、単に紛争の場合を司るだけの意味ではなく、平生の人事においてもその働きははなはだ広い。仲裁は常に人心の激昂を緩解・調和するものなので、その効用をたとえて言えば、病気の急性症状に対して緩和剤が必要になるようなものだとわかるだろう。
例えば、市中の血気盛んな少年たちが祭礼や火事場において、甲と乙とが衝突し、針小の行き違いから棒大の争いを引き起こし、東西二つの団体が睨み合い、お互いに後に引かれぬ意地の争いとなって、警察など恐るるに足らず、死ぬはもとより覚悟だと言って、まさに一大不祥事になろうかとするその瞬間に、群衆の中をかき分けて出てきた者は、かねて名を聞く何々組の親分で、単身素手で二つのグループを右と左に押し分け「この喧嘩はこっちがもらった!」と大声一喝すれば、双方の激昂もたちまち静まり、総勢が粛々としてその場を引き上げ、果ては仲直りの盃をもって穏便にことの始末がつけられる、というようなことは大きな町では珍しくない出来事である。
思うに、この少年たちが血気にはやってその行き着くところ、生命も惜しくないと言うまでに至ったとはいえ、もしその瞬間に本心を聞き出したとしたら、彼らは特に殺伐・残忍を好むわけではなく、先程はただ義侠と好男子という名(面目)のために引くに引けなかっただけである。今は親分の扱いとなったので、双方の面子も立つということになれば、たとえ少々の不平があったとしても、そこは親分に対する子分の義理として、勘弁しなければならない。すでに勘弁すると覚悟を決めた以上は、一言半句も苦情を言わないことが、かえって好男子であるとして、一切の進退を全て親分の処置に任せたのは、親分の名望がもとより高いからであるが、その内実は、子分の者たちも親分の仲裁の扱いを好機として、自らの面目も立つからである。こうして、親分一人の名望は数多の子分の無事を維持する機関の働きをしており、緩解・調和の絶妙な効果をもつものということができるだろう。
右のようなことは、社会の下流と言われる市中の少年たちの仲間でよく行われることであり、有識者がいつも等閑視するようなことだが、こうした俗塵の世界の事象を解剖して、その真相を見抜けば、紳士・上流の社会も、こうした市中の少年たちの仲間と、取り立てて異なるところはあるまい。
商人たちが利を争い、学者たちが名を争い、政治家たちが権を争うようなぉとは、外見だけを見れば、やや穏やかにして、美しいように見えるけれども、その争いの実質は上流も下流も同様で、別段違いがあるように見えない。
こうしたことを、これら当事者たちのなすがままの成り行きに任せてしまえば、争論は止まるところがなく、単に社会の騒擾を招くだけでなく、当事者自身も行きがかり上、後に引けない意地の争いになり、内心では大変に当惑することが多い。
あの利益獲得を目的にする商人の争いは、その活動がまだ金銭の領域に止まっていて、その金銭によって名を買うまでに達していないことが多いため、単に金銭の授受によって調停にいたることもあるけれども、争いが全く金銭を離れるか、または金銭を第二の問題として、もっぱら名誉・権利の問題で熱くなった場合にいたっては、その争いもまた一層の激昂を増すものである。ことに政治の論争のごときは最も激しいものであって、ときとしては由々しき大事に至る場合もないわけではない。
こうして、国家社会は、政治家の玩弄物となって予想外の災難を被る可能性もあるのだが、この一大事の時にあたって、これを上手に調和し、また平生より微妙不思議の勢力(権威)を輝かして、無形のうちに災いを未然に予防できるのは、ただ帝室の神聖があるだけである。
一杯の酒で志士の方向を改めさせ、一言やさしい言葉で反逆心を秘めた人間の野心を制するようなことは、決して他に求めることができない。
帝室は、もとより政治の世界外の高所に立ち、施政の得失にちうてはいささかも責任のないものであり、そうした政治の熱い世界から、離れることが遠ければ遠いほど、その尊厳・神聖の徳はいよいよ高くなり、その緩解・調和の力もまたいよいよ大きくなるだろう。帝室は単に社会経営に必要であるだけではない。いやしくも帝室の尊厳を欠き、神聖を損なうことがあれば、日本社会はたちまち暗黒になるであろうことは、古来の習俗・民情を考えれば疑いのないところである。

西洋諸国民は、多数・少数の数をもって人事の方向を決定する傾向があり、我々日本人は、一人の大人の支持に従って進退を決める習慣がある。これは古来、東西で趣を異にするところであり、その是非・得失は容易に判断することができない。多数主義であれ、大人主義であれ、数千年数百年の習俗を形成してそれが人民の情を安んずる時は、どちらでも社会の安寧を維持するに足るであろう。
ところが、わが日本は三十年前、にわかに国を開いて西洋人に接し、よくよくその事物を観察すれば、有形無形ともに西洋人に及ばないところがあることを見出し、これを名付けて西洋の文明開化と称した。そして、ひたすらこの文明開化を採用しようとして、これに熱中するなかで、人間社会のことを決めるのに多数主義を用いるのも開明のひとつであると聞いて、徐々にその多数主義的傾向に向かい、民間のことを処し、人を推薦するなどのことにおいても、ややもすれば投票の多数によって決め、また政治のある部分においても既にこのような方法を用いるものが少なくない。近代に至って、国会の開設などというものが天下の多数を議決するのに多数決を用いるという仕組みであり、これは日本開闢以来の一大変化と称することができるだろう。
そもそも今日、全世界において人間を支配しているのは西洋の文明開化であり、とてもそれに反対することはできない。それだけでなく、文明開化そのもの性質を吟味しても、その得失をならしてみれば、美点がはなはだ多く、わが日本国人も徐々にその方向に進む方が利益が大きいので、多数決の実施を決して非難すべきではない。ついには国中で公私・大小の人事の可否・進退を決めるのに、この多数決の方法を用いるに至るであろう。
これは私の最も賛成するところであるが、ただこのさい心配なのは、幾千年来、大人の支持に従うという習慣を形成してきた者が、多数の命ずるところに服することができるかどうかという一事である。たとえ約束としてはこれに余儀なく服するとしても、その多数なるものを尊敬し、あたかもこれに一種の神霊(精神)を付して、一も二もなく服従することが西洋国人のようになれるかどうかには疑問が残る。
趣はやや異なるが、ここに一例を示そう。
明治の初年来、維新政府の上層部において困難としてきたものは、人物の進退や政令の施行を一人の意のままにすることができないという事情がそれである。本来、今の政府の組織は、大人主義のようであるが、もしも実際に大人主義に基づくものであれば、情実や由緒などは問うに及ばず、政府の首座に立つ者が厳重にその職権をふるい、自分自身の心で施政の方向を定め、意見の違う者はこれを退け、その専権はあたかも徳川幕府の筆頭老中のようになるべきはずなのに、実際の事情は初めからそうではなかった。
上層部の人々はとりもなおさず同胞の兄弟同様であり、その出身の由来にさしたる優劣もなく、それに加えて衆議をもって事を決する、などという話も少なくなかった。なんとなく多数主義の趣があったために、大人専権ということを望むことができず、一方で、その多数主義が公然たる形をなして、これに頼るのであれば多数主義を根拠として、おのずからまた有力な専権を振るうことができるのだが、またそうでもなかった。大人主義に似て大人の存在を許さず、多数主義のようであってその多数が明らかでなく、こうしたことが政府の全体を悩ませていたようである。
こうした事情はひとり政府のみならず、民間にも行われていて、時として紛擾を醸し出すことが多い。これは今日わが国一般の時流であり、これを評して大人主義から多数主義へ変遷する過渡期の難渋ということもできるだろう。
そうはいっても、前に述べたように、西洋流の文明開化は無限の勢力があるものなので、結局、政治においても、またその他の人事においても、大人主義は廃れ、多数主義に勢力を占められることになるだろう。これは今後の多数に関して私が予言するところである。

右のことは、有形の人事政治上の問題について大人主義から多数主義へと移る難しさを述べたことであり、天下において誰もこれを易しいと言うものはいないだろう。有形の部分だけは多数をもって制しなければならない。民事または政治において事を決し人の進退を決定するに当たり、投票の数においてこうだと言えば、それを翻すことはできないけれども、日本の民情はなお、未だ多数を憤り、多数を愚弄する者もあり、またあるいは多数を争って失敗し、翻って大人主義を唱える者もあるだろう。これは人事変遷の波乱であり、この波乱に浮き沈みする熱い世界の俗物たちは、もはや数理の外に飛び出して、情感の内部で煩悶しているので、これを緩和する手段は法によることができない。また、理に頼ることもできない。法律や道理の外に、一種不思議の妙力を得て、初めて鎮静の効果を発揮することができるだろう。
譬えて言えば、人身の病において有形の肉体の思いは、学理上の医薬によって治すことができるだろうけれども、無形の精神病は往々にして理屈以外の療法を施して功を奏することが多いのと似ている。
されば、かの俗世界に浮沈して勝ち負けを争う連中も、一方から見ればしごく神妙にして国のために役立つこともあるかもしれないが、裏面からこれを見れば、功名症というべき一種の精神病にかかっている者が多いので、それを和らげてときどき軽快にしてやるためには、理外不思議の療法がなければならない。これすなわち、私が特に帝室の尊厳・神聖に頼る所以である。
例えば、甲乙同等の人がいる場合、どちらかを上とし、どちらかを下とすれば、それは不平の元となるだろう。そこで、甲に実を与えて乙に花を持たせ、あるいは表では甲を重んじて、裏では乙を敬い、昨日は酒を飲ませ、今日はお茶を飲ませるなど、無限の方便に無限の意味を持たせて人を満足させるのは、帝室の光明以外に求められないだろう。
また政治家が施政の得失を論じて、水と火のごとく相容れず、あるいは特定の人物を出世させたり左遷させたりして、失意と得意の境遇が分かれたりしたら、法律上はともかく、情実においては、もはや堪忍できないといって対立する双方が敵対し、その興奮が頂点に達して、それが多くの人々に波及していけば、時として腕力や凶器に訴えようとするような状況にも陥るだろう。しかしそのような時でも、政治の世界外で高所にまします帝室の深い思し召しは云々などと忠告すれば、彼らの興奮がたちまち冷めて、平常心を取り戻すという予想外の効果を顕すだろう。たしかに、こうした功名症の患者も、もともと残忍・酷薄なわけではなく、必ずしも他人を不幸に陥れて自分だけが良くなろうというような悪意があるわけではない。彼らは時として意外に淡泊なのだが、こうなっては外聞が悪いとか不名誉だとか言って、ただ世間に対する体面を保つ必要に迫られて、内心では不本意ながらも意地を張り、嫌なことも押し通そうとするものが多いというのが常なので、そういう場合に至尊(天皇陛下)の深い思し召し云々という言葉があれば、それが幸いして、自分の一身の栄誉と恥辱をこの一言に頼り、それまでの限りない煩悶から洗い流すように脱却して、体面を全うすることができるのである。
これは単に本人にとって幸いであるのみならず、実際には社会の安寧を獲得したのと同じであり、社会経営上の大きな利益ということができよう。西洋諸国の帝王などは、その由来をたどれば、もとより日本の帝室に遠く及ばないけれども、彼らは帝室の尊厳・神聖の威力によって人民の心を調和し、社会の波乱を静めるのである。それだけでなく、おのずと世の中の務めの方向性を示し、文学や技芸などを奨励して、民間の利益や国益の基(もとい)を開くものが少なくない。ましてや、わが至尊である帝室ならばなおさらのことである。国家経営上における尊室の功徳は、さらに一層大きなものがあるだろう。私は人々がこれを金科玉条として、汚すことがないように祈るものである。

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消えた二十二巻

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