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物語を物語る

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福沢諭吉「尊皇論」現代語訳 2

物語を物語る

福沢諭吉「尊皇論」現代語訳 2

第二の問題だが、世の人々は皆、帝室が尊いことを知っているのに、その尊さの所以を説く人がいない。それを説かなければ帝室の尊さの根拠が確固たるものにならない。そのために今、私が特にそういう説を述べるのも無益なことではなかろう。
そもそも私の立論の眼目は「尚古懐旧の情」に基づき、帝室の尊厳・神聖をそうした人情に訴えることにある。
およそ人間社会にある有形の物について、その価値とはどのようなものであるかということを考えると、一つは労働の多寡によって定まるものと、もう一つは感情の深浅に従って生じるものという、二様の区別があるように思われる。
金銭を宝として、衣装や什器を貴重なものとするような考えは、その金銀を鉱山から掘り出して、精製するに至るまで、非常に多くの人力を費やしているからであり、あるいは、絹糸や絨毛を織って衣装を仕立て、金属や材木などを使って有用な什器や贅沢品を作るために、人間の労働が多くを費やされているために、その価値はまさしくその労働の多寡に準ずると言えよう。これが売買市場の物価であり、道理に適ったことである。しかしそれだけではなく、実際の社会では、このような道理にそぐわないものもまた少なくない。
大家の書画や外国の奇物などは、前述のような道理以外に価値があるものだ。その書画が特別に巧みなわけではなく、その奇書が実用性の高いものではなくても、大家の人物が高尚で容易に筆を取らない人であったり、遠い外国への道が遠くてその物を入手することが困難であったりすると、そういう理由で価値が生まれるのである。これは、人々が稀有の品を悦ぶ心情から出たものであり、これは日本唯一にして国中に比類がないとか、世界第一の品であり第二の物がないとかいうことで、たとえそれが瓦の破片であろうと石の塊であろうと、生活上役に立たないものであろうと、これに巨万の金を投じて購入するということは古今の事実であり、常にそれを見ることができる。このようなものを名付けて情緒的価値(センチメンタル・バリュー)という。
思うに、古器珍品を愛玩するようなことは、単に富豪の人々だけが物好きでおこなっているように見えるけれども、決してそうではない。このような事実は、広く公共の世論に求めても見出すことができるのである。
例えば、地方の一寒村に樹齢千年の老松樹があるとしよう。世間の人々はこれを常に不思議な物として、神として重んじている。この大木を切り倒せば、稀有の良材が入手でき、これを金銭に替えることができるだけでなく、その木の陰にあった地面三反歩は良田となり、毎年の所得は米にして何俵にもなるだろう。
しかし、もしこれを伐るべきか、あるは保存すべきか、との議論が起こった場合には、村議は必ず保存という意見が多数を占めるだろう。なぜなら、その老松樹は近隣諸国に比類ない名木であり、おのずから村の飾りとなり、また一種の名誉だからである。これは、他の群村にない大木がわが村に存在して、日常会話の言葉にも老樹・名木といえば、あたかも当村の専有にして、誇らしいものであるために、村の人心は最終的には名を重んじて、利益を顧みないという世論を形成したのである。
このように在来の名木を伐り倒さないだけでなく、なにか昔から歴史上に名のある場所や人物のためには、千年百年の後に石碑や銅像などを建てて、記念にする場所がある。その他、古城跡、古戦場、神社仏閣、名所旧跡などは、すべて日常生活には直接役に立たないものであり、経済的な観点から殺風景に論じれば無用の長物ではあるが、天下の世論はそれを破壊することなく無用の長物の保存のためにかえって金銭を支出して惜しまないようである。
このように見てくれば、人間世界の万物について、その価値を評価する際に、労力の多寡を基準にするのは単に商売や工場上の話でしかなく、世界中の至宝と称してその価値の高い物は、必ず日常生活の実用に相応しくない品であり、実用から離れれば離れるほど、いよいよ人々が貴ぶのが常である。
某国の帝王は大変美しい遊覧船を所有しているといっても、それだけではまだ驚くに足りない。世界に無比のダイヤモンドを所有しているといって初めて人に誇ることができる。宝石と船のどちらかが実用に近いかといえば、もとよりそれは船である。しかしながら、船は人力で作ることができる。だから価値が高くないのである。それに反して、巨大なダイヤモンドはいかに人力を投入しても、それを得ることは困難である。このようなものには最終的には天与神授nものという名前がつけられ、世界のいかなる物は、経済的には直接実用の役立つものではなく、かえって無用の品に限るように見える。はなはだこれは奇妙なことであるが、人事の実相においてはこれが現実なので、いかなる理論家といえども、現在この世に生きる限りは、このような奇妙な現実に従わざるを得ない。
確かに、人類を指して理を論ずる生物といい、現代社会を称して道理の時代と名づけることがある。それは、人間問題の一局面に適用すべき言葉であり、世界無数の人々は心情(情緒)の海に漂っており、道理が作用するような事象は十のうちわずかに一か二あるだけであろう。

人間世界で、稀有の物品は実用性のあるなしにかかわらず、珍奇なものとして貴ばれるが、その中でも、とりわけ珍奇な物はたいてい年代の古さから生じる。さらにその上に、歴史上の人物がかかわっている場合は一層の声価が加わるようである。
古器や古銭は、その年代が古ければ古いほど世に珍重されるのが常である。三千年前の古鏡や二千年前の銅貨などは誠に珍奇であるが、その鏡が昔の何々皇后の御物であり、その銭が何々帝の手にした物であったといえば、珍品の中でもほとんど出色のものという位置づけを得るであろう。確かにこういうものは年月の経過とともにしだいに消滅してゆくものであり、しだいに忘却されるものであるが、そういう中でまれに存在するものがあり、かつ有名人の手に触れたとの由来があれば、これは珍奇中の珍奇であり、その品物に情緒的価値が生まれるのも偶然ではない。
さて、無生物である物品にこのような形で価値が生まれるのであれば、生物である人間に価値が生まれることもまた間違いない。その人間の価値とは何であろうか。それは歴史上の家名である。
人には皆、必ず祖先がある。人事(人間の事柄)は複雑で、その興廃・滅亡が激しいので、数百年または千年という家系が明らかな者ははなはだ稀である。なかには、家系が明らかな場合もあるだろうが、祖先の功名がさほど大きくなく、単に何世の血統を無難に引き継いで来たというだけではあまり芳しくない。
しかしながらここにある人がいて、その人の家系は何百年も前から歴史上明らかであり、その宗祖某は何々を創業して家を起こし、その第何世の主人は何々の偉功をもって家を中興し、その子々孫々、今に至るまで家が継続してきた、ということであれば、たとえ現在のその人の知徳が凡庸であっても、ひどく無知で不徳のないかぎりは、彼は社会において栄誉を維持することができるだろう。ましてや、その人の徳義や才知が平均より大きく抜きん出ている場合はなおさらである。他の何倍も世間から大きな尊敬を受けるに違いない。
そのようになる理由は何であろうか。それは、社会の人心が、今のその人を重んじているからではなく、その家の由来と祖先の功業に価値を見出しているからである。

前述の言葉は人情の違わぬものであり、それにぴたりとあてはまるものとして、わが日本国には、帝室というものがある。この帝室は日本国内の無数の家族の中で最も古く、その起源は国の開闢とともに始まり、帝室以前に日本に家族はなく、開闢以来今日に至るまで国中に生まれた国民は、ことごとく皆その支流に属するものであり、いかなる旧家といえども、帝室と新古の年代を争うことはできない。
国中の家族は各々固有の家名・族姓なるものを持ち、互いを区別しているけれども、ひとり帝室だけはその必要性がない。何姓とも言わず、何族とも唱えず、単に日本の帝室と称するほかはない。その由来が古いことは実に飛び抜けて際立っており、世界中に比類がないと言うことができよう。まして歴代に英明な天子も多く、その文徳・武威の余光が今日に至るまで消滅していないだけでなく、さらに、こと得失は別として、およそ古来、国史上の大事件で帝室に関係ないものはないほどなのだから、なおさらのことである。人々の心に最も深く刻まれていることは、あげつらうまでもなく明白なことである。
尚古懐旧ということが現代人にとって普通の情緒であるとすれば、日本国民なら、この帝室の古きを尚んで(たっとんで)、旧を懐う(したう)のは当然であろう。
瓦片石塊であっても古いものは尊重し、老樹古木のようにその由来を聞けばこれを伐るには忍びない。それ以上に人類に関しては、その血統が古いものは、祖先の功労が何であれ、おのずから世間に重んじられるだろう。これに加え、英雄豪傑の子孫ということになれば、その子孫が賢くても愚かでも、あたかも祖先を代表してこの世にいるように思われて、一層人望を集めることだろう。そうであれば、帝室はわが日本国において最古最旧であり、皇統連綿として久しいだけでなく、列聖の遺徳もまた今なお明らかで見るべきものが多い。これは天下万民がともに仰ぎ見るところであり、その神聖・尊厳は人情の世界において決して偶然なことではないということを知るべきである。
確かに世上に尊王は多く、その所説は大変優れているけれども、帝室の神聖を説明するにあたっては、ただ神聖であるがゆえに神聖である、と言うに過ぎない。古代において民心が素朴で簡単であった時代であれば、事を説く筆法も簡単な方がかえって有力であったろうが、人間文化がしだいに進歩して世事も繁多になるに従い、人の心もおのずから多端にして、見聞の領域が広くなっている。百般の事物に接しても、まずその理由を吟味して、しかる後に信疑を決するような時勢になると、帝室のことに関しても時として単なる妄信では安心できないという者もいるだろうから、私は尚古懐旧の人情に訴えて拙い言葉を重ね、天下後世のために述べてきたのである。
尊王の士人は、もとより私にとっては良好であり、その志は誠に嘉み(よみ)すべきことである。しかし、帝室の神聖さに関して、簡単な説法で他人に盲信や盲従を促すようなことは、もはや現代のやり方ではない。尊王の志はそのままにしていささかも曲げる必要はないが、さらに進んで、議論の上で私と同じ方法に進むことを祈るのみである。
私は、このような立論をするときは、天子の聖徳についてあれこれおしゃべりすることは好まない。ことに世の論者たちが聖徳云々を説くにあたって、ややもすれば直接政治に関係することが多いのは、私としては最も忌わしく思うところである。元来、政治・法律は道理の分野のことであり、その利害が分かれる部分も道理に基づくことなので、さまざまな利害が伴う社会にあって、億兆の人民に聖徳の問題と政治の問題とが直接関係があるような思想を抱かせるのは、時として施政のためには便利かもしれないが、時として聖徳に累を及ぼす恐れがなきにしもあらずである。
実際、政治はその時々の政府の政治であり、帝室は万世を貫く日本国の帝室なのである。帝室の神聖さは政治の世界外の高所にとどまって広く人情の世界に臨み、その余徳を道理の分野にも及ぼして全国の空気を緩和することが、私の持論として密かに希望するところなのである。

第三の問題、帝室の尊厳・神聖を維持する方法をどうするかという問題については、私は二つの手段を考えている。その一つはすでに前項において触れたが、尊厳・神聖の理由は、尚古懐旧の人情に基づくと述べたとおり、今これを維持するにも、まずそうした人情に依存しなければならない。これを第一の手段とする。
そもそも、文明が日々新たになる今日にあって、尚古懐旧とは字づらからして不都合に見え、老論囚循説などというそしりもあるかもしれないが、すこしく視野を広くして考えれば老ではなく、囚循はかえって活発さを生みだす手立てであることが判明するだろう。
本来私が帝室の神聖を守って、帝室を無窮に維持したいと考えるのは、日本社会の中央に無偏無党の一焦点を掲げて、人民が仰ぎ見る場所とするためである。帝室が政治の世界外の高所にあって、至尊の光明を放ち、これを仰ぎ見れば万年の春のようで、万人が和楽の方向を定めこうしてゆるぎない国体を作りたいと欲するためである。
こうして下界の民間を見れば、下界の紛擾の俗世界であり、なかには名誉に熱中する者がいれば、利益を争う者もしる。学者の理論、政治家の意見は、千差万別の利害に汲々として、優れた者が勝ち、劣った者が負ける。こうして、時に苦情が昂進して騒がしくなることもあるだろう。しかし、これらは民間の自由に任せて帝室の感知するところではない。競争は文明進歩の約束であるとしてこれを放置し、あたかも俗世界の万物を度外視するように見えるが、その実は俗世界を包含し、一種無限の勢力(威厳)をもって、間接的に民心を緩和されているので、紛擾も競争も常に極端にいたることなくとどまることができている。
およそ人間社会の安寧を害するものは極端論であり、極論よりはなはだしいものはない。完全で健全な主義を称するものであっても、それが極論に至れば、危険性が生まれる。ましてや現在の人類があえて文明の名目で行うと言っても、その言行はすべて小児の「戯れであって、頼りにならないことが多いからなおさらである。さらにまた古来より伝わってきた教育に従って、事物の両極端だけを知り、思想が浅慮で度量が狭隘で、これまで自尊自治がどういうものであるかを理解していない日本国民としてはなおさらであろう。これは多数のわがままな子供達と変わらない。
もしもこうした連中を放置して行き着くところまで走らせたりしたら、その極端の災害はどうなるであろうか。政治家の軋轢などは岩石が衝突するのと同じで、敵と味方が煩悶し争うなかで、自分から砕け散ってしまうことだろう。このようなことは、自由な活動をしているようでいてかえって自由から遠いというほかはない。私が帝室の尊厳・神聖を仰いで、民心緩和の功徳を享受したいと思うのは、それによって百般の競争が極端に流れるのを防ぎ、健全無害の範囲内で自由にさせようとする微意からである。だから、尚古懐旧によって帝室を守ることは、文明日新の活動に欠かすことのできない方法であると知るべきである。
尚古懐旧の人情は帝室を守るために大切なものだとしても、その人情を利用する手段については少々考えるところがある。
およそ天下の物は単独で高いとされることはなく、また単独で貴いとされることもない。その高貴は他の高貴に比較した後でよく現れてくるものである。そして、比較する範囲は広ければ広いほど最高のものであることを証明することが出来る。
例えば、昔の何某を称して「漢学の大先生」というときは、その時代に漢学が大いに流行して、学者先生が多くいる中でその何某が抜群であるために、先生上に大の字を冠して大先生と呼ぶわけである。
相撲に大関(当時の最高位)という名称があるのは、それ以下の者たちも力士として世に知られている中で、最大最強の実力があるためである。もし、他に比較するものがなければ大先生とか大関とかは、たとえどれほど学力・筋力があろうともその「大」をあらわす手だてはないであろう。
帝室の由来は非常に古くて、その古さは実にわが国では群を抜いているけれども、他の古い物に比較すれば、ますますその重さに感じることができるのは人情の自然の勢いである。だから、およそ国中の古代に属する者はこれを保存してその領域を広くし、国民が古きを尚び旧を懐うという気持ちを高め、こうしてますます帝室の古い光を明らかにすることは、大変緊要なことであろう。
八幡宮や天満宮は古くて貴い、高野山は山深く本願寺(p102、本文では「本願時」)は大きい、というようなわけで人民はこれらを仰ぐけれども、応神天皇は第何代の天子にして帝室の起源に比べれば古いとは言えない、菅原道真公はわずか千年前の王臣にすぎない。高野山は何々天皇が勧請したものである。本願寺は何々天皇の御代に開基し、以来、帝室に対して何々という由緒がある、などといえば、人民はそれを聞いて、同時に帝室の高さを知り、尚古懐旧の気風がいよいよ盛んになり、それによって帝室の基礎もいよいよ固くなる。それが人情の世界に必然的な勢いであると知るべきである。
近年、政府の方でも神社仏閣の保存に注意しているようだが、それはこの辺りの趣意に出たものであろうか。その趣意はともかく、私はこれに賛成せざるを得ない。なぜなら国中の寺社はたいてい皆、由来が古いから、国民がその古さを慕うことは帝室を慕う端緒となるからである。そのことは、帝室の由来に対する比較の領域を広くするからである。
この点から考えれば、出雲の国造、阿蘇の大宮司、あるは本願寺の門跡などは、その家の由来が古くて尊いだけでなく、国民があたかもその人を神や仏として崇めてきた稀有な名家である。それを愚民の迷信と言えばたしかに迷信であろうが、人知の不完全な現在の小児社会では、彼らが神仏視するものをそのままにして、懐古の記念に残すことは帝室の利益になることであり、またそのほうが知者のやり方であろう。
ところが今や、その神仏は下界に降って、人間世界の華族に変わってしまった。日本の戸籍簿の上に異様な半神仏・半人類を登録することは、気が引けるという意味もあるだろうが、これは思想の潔癖と申すもので、錯綜した人間社会の万事万物を一直線の縄墨にあてて、切り捨てようとするようなことをやるべきではない。その心の単純さは、小児の域を脱していないと言ってよいだろう。
文明開化の天地ははなはだ広大である。いやしくも国家経営上の利益とあれば、どんな異様なものでも、余裕をもって受け入れなければならない。ましてや帝室の神聖を守るという点から見れば、その異様さが異様であればあるほど効果があるだろうと思われる。私は国造、大宮司、門跡などの人々の運命がどうであるかについては関心がないけれども、彼らが人間界に降りてしまったことは、帝室のことを考えれば惜しいことであり、できれば今からでも旧態に復帰することを祈るものである。

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消えた二十二巻

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