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物語を物語る

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日本人はなぜ「神社」に行くのか!

物語を物語る

平成22年1月5日 朝日新聞から

願いは一つ、景気回復 神田明神、参拝者で大盛況
景気がよくなりますように――。多くの企業が仕事始めを迎えた4日、商売の神様として知られる東京・神田の神田明神はスーツ姿のサラリーマンらでごった返した。神社によると、この日は10万人を超える人出があったといい、例年より1、2割は多いという。参道と神殿前は通勤電車並みの混雑で、行列は夕方まで途切れなかった。
 大手町の金融機関に勤める30代の男性は、職場の同僚ら約30人で参拝に来た。手には福を呼ぶ縁起物の熊手。「去年はとにかく厳しかった。御利益を願う気持ちも今年はひとしおです」
 同神社では例年より多めに熊手を用意したが、5千円前後のものから飛ぶように売れ、午後には品切れになるものも。この日の企業の参拝予約は例年を上回る1千件超だった。(鈴木淑子)

とあった。
最近、こういった「神社」に関する話題が多くなったと、思う。
オタクも歴女も若い娘も神社に詣でる。近年、こんな記事を良く目にするようになった。関連記事1 関連記事2
ここには、「商売繁盛」とか「幸せスポットを求めて」とか「アニメキャラの絵を見せたい」とかいったそんな単純な動機だけではないように思う。彼らが、これらの目的を本当に叶えたいと考えたならば、なにもわざわざ旧態然とした社寺や、外国人から見れば明らかに宗教的場所である「神社」へ行く意味はないはずだ。まして、込み合う日に混雑する場所をわざわざ選んで、その行列に並び、作法にならってお辞儀をし、拝殿に向かって手を合わせるなんてことはあまり意味のないことになる。(そんな時間があるなら、サラリーマンは日経新聞でも東洋経済でもいいから穴が開くほど読んでろ、という話になるわけだ。)
しかし彼らは何のためらいもなく、また何の疑問を持つことなく、自然と「社寺」へと向かうのだ。
日本人は「無宗教者」「無神論者」だと大多数の人が思っているが、実のところ、心のよりどころを求めるように「神社」や「寺」に足を運んでいるのである。
不景気だから神頼み、などといっていたテレビコメンテーターがいたが、これは短絡的発想で、「日本」及び「日本人」が余りにも分かっていない。(こんな人たちが堂々と文化人とか知識人とか解説委員などと名乗っている。バカな話だ。)

また、皇室への好意的関心も近年高まっているように感じる。

新年恒例の一般参賀が2日、皇居・宮殿の東庭であり、天候にも恵まれ昨年より約3500人多い約7万9290人(皇宮警察本部調べ)が訪れ、即位20周年式典には3万人以上の人が集まった。

とある。
これは前回記事の宝島社全面広告のときの記事でも少し触れたが、現代日本人は、いま、大きな岐路に立たされ(政治的にも経済的にも国際情勢的にも)、将来への漠然たる不安を目の前にして、わたしたち日本人は何なのか、日本という国は何で成り立っているのかという原点に立ち帰って、自らを見つめ直そうとしている時期に差し掛かっているのではないだろうか。日本人としてのアイデンティティーは喪失しかけ、日本人が日本人であることの「矜持」も否定され、自分の国への帰属意識も薄れている、まさに国としての「危機的」状況を向かえている。まさしく日本人は混迷状態の中にあるのだ。
いま、この反動が起こっている。何かが違う、どこかがおかしいと、これまでの時代の風潮に疑問を持つ人々は戸惑いを感じ始めている。そんな不安感を拭うかのように、心のより所を求めて、日本の根本を成す場所へと、意識が向いているのではないだろか。
時代が混迷すればするほど、こうした意識は強くなっていくだろう。

これを見て「日本が右傾化している」などと言う知識人・文化人(?)がいるがこれはいささか的を外しているようだ。彼らの言うところの「戦後民主主義的の欧州型の過度な個人主義」は、この閉塞感から脱してはくれないのだ。
明らかに、ここ数年で、世の中の「空気」は変わり始めているのだ。(政界は左傾化したが…)

井沢元彦と猪瀬直樹の対談「誰が歴史を糺すのか」(祥伝社)から少し引く。

(悪しき平等主義、誰もが透明な存在にしてまった戦後民主主義)もともと個になるのが怖いんでしょう。それで皆でいられる共同幻想のようなものを戦後民主主義のイデオロギーに見出したといってよいかもしれません。個になるのはすべてリスクを引き受けすことで孤独な状態でしょ。日本人はそれを怖がる。西欧では孤独は神との対話ができることであり、それによって孤独は補償されます。ところが日本の場合は神が存在せず、孤独を担保する場所がないから横並びの人間関係の中で孤独を癒す以外にないわけです。
一つの和の求心力として日本人の心の安定をもたらしている。西欧の人々が孤独を神との対話で担保されるように、日本人は天皇を神のネガとして見ていて、心のバランスを保っているのかもしれない。

人間は弱い存在で、何か頼れるもの、心の支えになるものが欲しい。「戦後民主主義のイデオロギー」はこれを補うものであった。戦後教育はこの影響下をもとに進められたが、多くの人々が、ここに疑問を持ち始めた。「個人主義」「民主主義」賞賛の大合唱にはいささかうんざりさせられ、これまで否定されていた「歴史、伝統、文化」へと心の平穏を求めようとする人々は確実に増えていった。アニメおたくがなぜ神社に、歴史好きの若者はなぜ増えた(ゲームは切っ掛けに過ぎない)、皇室の式典参加者は増えている……、私は、これらの動きは「戦後の反日的雰囲気」の反動と強い関連性があると見ているのだ。
西欧は個人と神との対話で癒され、日本人は「和」による集団であることが心の平穏となる。となれば、初詣にあれだけの人が「神社」に詣でるのは、実に日本人らしい横並び精神(良く言えば「和」の精神)の表れだと言える。正月に初詣をするということ自体が一つの行事であり、同じ日に同じ行為同じ施設(各々ちがう場所でありながら、「社寺」という装置を通じ)神様に祈願するという行為を行うことによって、互いに「日本人」であることを確認しあっているといえるのではないか。

こう見ていくと、日本人は果たして「無宗教」「無神論者」の集まりと言えるのなのだろうか。
他の国の人は、キリスト教ならば教会へ、イスラム教徒ならモスクへと、それぞれ心の平穏を求め各々の信仰している場所へ向かう。では、日本人はそのようなときは、自身の帰属意識を求める場所として「神社」や「寺」や「皇室」へ向かうのではないか。そこが日本人にとっての根幹に関わる場所であると日本人は無意識のうちに感じているのではないか。(いや、そう考えないように洗脳・教育されているのかもしれないが…)
それにそもそも日本人はほんとうに無宗教なのだろうか?
なぜ万人がそう思ってしまうのか?
ということでここでイザヤ・ベンダサン(山本七平)著「日本人とユダヤ人」を少し引く。
この本では、日本人は「日本教の日本教徒」であると説く。
以下、引用。

(ユダヤ人のように祖国喪失した経験がない)日本人はそういう不幸に会っていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていない。日本教などという宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。

日本でキリスト教徒は少ない。韓国では全国民の30%がキリスト教徒といわれるが、日本は1%にも満たない。明治以降多くの宣教師が来て、教会を建て、キリスト教の学校も設立され、優れたキリスト教徒の日本人(新島襄、内村鑑三など)も生まれ、盛んに布教をしたが、それでも日本ではキリスト教は広まらなかった。この本では、こう説いている。

何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まこと宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々……」。何十年かたったら思いだしてください。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。


日本では結婚しようとする男女が次のような会話をしていても少しも不思議ではない。「式は何でやろうか。神式もいいけどキリスト教式もいいね」。なるほどこれで良いはずである。いずれにせよ日本教でなのだから。だがイスラエル共和国のような国ではそうはいかない。この国にはユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒(アラブ人)、ドルーズ教徒がいる。(それぞれの経典に従っていて、一つの国の中で各々の宗教的慣習による裁判がある)ところが日本で、日本には神道、仏教、キリスト教の3宗教があるから、その各々の宗教裁判所をつくれと主張するものがいたら、まず正気ではないだろう。私は今まで、日本において、こういった主張があるなどと考えた人すらいないのである。宗教が違えば生活のある面の規制が違ってくるのは当然なのだが、日本人の間にはそういった差はない。ミッションスクール出で洗礼を受けたはずの女性が神式で結婚し、仏式で葬式をしても、だれも別にあやしまい。これを宗教的に清潔でないと考えるなら考える方が誤りである。日本人は実に清潔なのだから。これは、少なくともその実生活においては、ということは本心では、日本人はみな同一の日本教徒であることを実際に示している。「何やかやと言ったってさ、所詮同じ日本人(日本教徒)じゃないか」。

(「ユダヤ人と日本人」は様々な批判も多い本だが、鋭い「日本人論」の記述もあるので一読の価値は十分にある)

また、昔読んだ本にこんな逸話があった。
ある地方都市で、キリスト教の教会を建てるのに、神主さんを呼んで地鎮祭をしたという話だ。その儀式には教会の人も参加して玉串まで捧げたというのだ。なんか、笑える話だが、良く考えると深い話だ。
その地鎮祭の当日はきっと吉日を選んで「大安」だったはずだし、「日本酒」とか「盛り塩」とか「祭壇」とか日本的なものも使っただろうし、もしかしたら、隣近所にタオルなんかをもって「挨拶回り」なんかしたかもしれない、などといろいろ想像してしまう。それに、地鎮祭をしなければ「大工さん」だって気持ちよく仕事ができないし、地鎮祭しないでもしも工事中に事故でもあったら、「ちゃんとお祓いしなかったからだ」といったことになるわけだ。
それにこんな日本的の儀式を許した教会の人たちもガチガチの排他的原理主義者でもなかったのだろう。もしかしたら、自分らの方で神主さんを呼んだかもしれない。そうなればまさに日本的人的宗教観を持っていたことになる。これはまさしく山本七平が言うところの「日本教キリスト派」だろうか。
実に「日本」らしい出来事であり、宗教的観点からいって外国ではまずあり得ない話だろう。
こうして見ていけば、日本人は世界でも他では見られない「日本教」という独自の宗教の信徒である。
何気なく、初詣に行った人も実は自分が「日本教徒」の信者であるということに気づいていない。
まずこの「日本教」「日本教徒」という理解がなければ、神田明神に並ぶサラリーマンも、幸せスポットを求めて神社に行く若い女性も、アニメ・歴史オタクが集まり交流を深める神社も、皇室の一般参賀に参加する人も、そこに「日本人の根本的もの」が宿っているというのが分からないだろう。
これまで、あまりにも、神社・皇室・歴史・文化・伝統こういったものが無視されてきた。
まずここを理解・思考せねば、この国の長所も短所も将来も語ることはできないのではないか。
原点に立ち返ってみよう。
潮は変わったのだ!
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Comment

[197]
ネットの普及で戦後の公職追放やら情報統制やら、大分知られるようになってきましたからね。
変化が起きて当然だと思います。

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消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


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