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物語を物語る

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「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」

物語を物語る

平成22年2月6日の朝7時ごろ、車で出勤途中のこと。
映画館の前で黒山のような人だかりが。(MOVIX伊勢崎だった。) 40~50人はいたと思う。しかもすべて若い男子だった。
こんな群馬の片田舎で一体何が起こったのか?
朝っぱらから店の前に行列ができるなんて、ヤマダ電器の新店舗オープンじゃあるまし。
後で聞いたら、これが「涼宮ハルヒの消失」の公開日だったという。
涼宮ハルヒの消失
群馬ではここだけでしか上映してないようだった。そりゃ並ぶわ。

昔だったら、「オタクってなに?」って、横目で見ながら冷笑していたものだが、今は少々考えが変わった。
オタク文化もポップカルチャーもそれらすべてが内包されて「日本文化」だと思うようになったからだ。

これに関連した新聞記事を転載してみる。
読売新聞 平成22年2月6日付け文化面「展望2010」(文化部長 飯田政之)の記事から  

「ジャパンエキスポ」をご存じだろうか。日本の漫画、アニメ、ゲームなどポップカルチャーに魅せられたフランス人たちが、自発的にパリで開催している日本紹介のイベントのことである。
企画したのは、フランスで放映された日本のアニメや仏語版の漫画に親しんで大人になった世代だ。2000年には初開催した頃は数千人規模の催しだったが、忍者漫画「NARUTO」やポケモンなどの影響で爆発的に拡大、昨年7月の来場者は4日間で実に16万人5000人。ポップカルチャーのほか囲碁、将棋、武道、書道も体験できる欧州屈指の祭典になった。
東京で昨年11月に開かれた第7回国際文化フォーラム(文化庁など主催)のテーマの一つが、ジャパンエキスポ代表のジャンフランソワ・デュフール氏はこの10年を振り返り、「日本の漫画、アニメは今や世代を超えて溶け込んでいる。若者に日本文化が大きな影響を与えている」と高く評価した。
なぜかくも海外で受容されているのか。青木保・前文化庁長官はこう語った。「宗教的、民族的、地域中心的な偏ったメッセージがない。しかも人間的で楽しいから、どこでも入っていく。これは戦後日本の基盤に平和と自由があったからだ。アジア、欧米、日本の文化を自在に使いこなす混成文化が漫画、アニメに特徴的に表れていて、21世紀を先取りしている。」
日本文化の価値は、日本人自身が意外に気付かない。昨年、政府の「国立メディア芸術総合センター」構想を民主党が「国営マンガ喫茶」と批判し、一定の支持を得たのは、政府が従来通りの「箱モノ」的な提案しか出来なかったことが無論大きいが、漫画やアニメの価値が十分認知されていないこともあるだろう。
同センターは建設中止になったものの、日本が世界に誇る漫画、アニメを包括的に収集・保管し、人材育成にも役立てようという発想は悪くない。中国、韓国は、国を挙げて漫画、アニメの産業育成に力を入れている。日本政府の文化関係予算は、他国に比べて見劣りしてきたが、それでいいのか。文化の公共性について議論を深めるべきだ。(以下省略)

まさにこの通り。(いい記事です。後半の活字文化の衰退もいい) だが一つだけいただけない部分がある。日本文化が世界で受け入れられたのは「戦後日本の基盤に平和と自由があったから」という青木保・前文化庁長官の意見だ。それだけではないはずだろう。
ここには、日本の「歴史・文化・伝統」が抜け落ちている。 
つまり、今のアニメやマンガ、ゲームなどの「日本文化」は、過去の日本で培われてきた「伝統文化」が、基盤となっていると言えるからだ。
「文化」というものは、ある日突如としてポッと現れるものではない。「文化」という形になるまでには、過去から積み重ねられた蓄積があり、そこに様々なモノがくっ付いたり離れたり変化をしながらも、それが断絶なく続いたときに、初めて、一つの「文化」というものが成り立つのだ。
だがら、世界に受け入れられたアニメやオタク文化が、戦後の平和主義や平等主義のみによって作られた、といったような意見は少々偏狭な考えだろう。(戦後民主主義崇拝者か)

いま日本を代表するような伝統文化である歌舞伎も浮世絵も、江戸時代のポップカルチャーであり、戯作も俳句も連歌も庶民が支えた文化だ。江戸時代にもマニアがいて、根付マニア刀鍔マニアという細かいものまで蒐集家がいて、これに合わせて鑑定人もいた。これら何にでも好事家がいて、これを「文化」にしてしまった。いわばこれらの人々こそがオタク・マニアのはしりといえるだろう。(井沢元彦著「逆説の日本史16 第6章江戸文化の「江戸的」凝縮編」が面白かった。)
こういった現代において隆盛を誇るアニメ・オタク文化の下地は、すでに日本の歴史の中から作られてきたといえるのではないだろうか。
だから、「涼宮ハルヒの消失」の公開日に並ぶ熱狂的ファンやアニメキャラ絵馬を奉納するオタクも、「日本文化」の一つのだといえるのだ。

それでも「アニメやマンガが、日本文化と言えるのか」という人もいる。またサブカルチャーを相変わらず否定し、軽視する者も多い。(「アニメの殿堂」を潰した人々の頭には、この考えがこびりついている。)

では、ここで、三島由紀夫の考えを引こう。
新潮社「三島由紀夫全集35「栄誉の絆でつなげ菊と刀」から

文化というものは、目に見える、形になった結果から判断していいのではないかと思う。従って日本精神というものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものとは考えずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思えるものを並べてみろ、そしてそれを端から端まで目を通してみろ、そうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやって守ればいいかを考えろ、というのである。
歌舞伎、文楽なら守ってもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまっただ」などという頽廃的な文化は弾圧しなければならない―というのは政治家の考えることでことだ。私はそうは考えない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももっと頽廃的なものがたくさんある。それらを引っくるめたものが日本文化であり、日本人の特性がよく表われているのである。日本精神というものの基準はここにある。しかしこれから外れたものは違うんだという基準はない。良いも悪いも、あるいは古かろうが新しかろうが、そこに現れているものが日本精神なのである。従ってどんなに文化と関係ないと思っている人でも、文化と関係のない人間はいない。歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが頽廃的であっても、そこに日本人の魂が入っているのである。
私は文化というものをそのように考えるので、文化は形をとればいいと思う。形ということは行動することである。特攻隊の行動をみてわれわれは立派だと思う。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には「バカ・ボム」といわれるだろう。日本人のいろいろな行動を、日本人が考えることと、西洋人の評価とはかなり違っている。彼らから見ればいかにバカ気たことであろうとも、日本人が立派だと思い、美しいと思うことがたくさんある。
西洋人からみてバカらしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか―という文明開化主義である。西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はバカらしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、そういうものを全部否定していったら、日本に何が残るか―何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目からみて進んでいるか遅れているかとか判断できるものではないのである。従ってわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかったことを知らなければならない。西洋の後に追いつくことが文化だと思ってきた誤りが、もう分かってもいい頃だと思う。

つまり、新しい文化だからといって軽視してはいけない。そこに日本の魂が入っていればそれが日本文化だ、と唱えているのだ。
だから、三島由紀夫がいまでも生きていたとしたら、アニメやマンガ、オタクは無論否定せず、「日本文化」の一つとして認めていただろう。そしてJPOPや日本語ラップなども同様だ。
いや、「これこそ、冠たる誇るべき日本文化だ」といって、率先して「アニメの殿堂」を作ったかもしれない。
そこに、日本の魂があれば、「日本文化」なのだから。
もう少し引いてみよう。

つまり日本文化とは何を守るかということを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れということでは非常にわかりにくい。文化云々というの、おまえは文化に携わっているから文化文化という、それがおまえ自身の金儲けにつながっているからだろう―といわれるかもしれない。あるいは文化なんか守る必要のない、パチンコやって女を抱いていればいいんだという考え方の人もいるだろう。文化といっても、特殊な才能をもった人間が特殊な文化を作り出しているんだから、われわれには関係ない。必要がれば金で買えばいい、守る必要なんかない―と考える者もいるだろう。しかし文化とはそういうものではない。昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るということだ。太古以来純粋を保ってきた文化伝統、一言語伝統を守ってきた精神を守るということだ。しかし、その純粋な日本精神は、目に見えないものであり、形として示すことが出来ないので、これを守れといっても非常に難しい。またいわゆる日本精神というものを日本主義と解釈して危険視する者も多いが、それはあまりにも純粋化して考え、精神化し過ぎている。目に見えないものを守れということは、とかく人を追い詰めていくもので、追い詰められると腹でも切るよりほかなくなってくる。
だから私は、文化というものを、そのように考えない。文化というものは、目に見える、形になった結果から判断していいのではないかと思う。

実に明快な説明。分かりやすい。
三島由紀夫については、あの過激な行動と教条的信念があって、どうも拒否してしまうこともあった。だが、こうして読んでいくと、「文化論」「日本文化」について鋭い言及があって、ほとほと感服してしまう。
もし、三島由紀夫が生きていたら、もう少し後に生まれていたら、きっとオタク文化も日本文化だとして新たな「文化防衛論」を展開していたに違いない。
三島由紀夫(「文化防衛論」ですが、この本には上記で引用した「栄誉の絆でつなげ菊と刀」は収録されていません)

私が尊崇する明石散人は、「国家=文化」だと断言した。
「守るべきは文化」、右派の知識人の意見は、みんなここに集約されていく。
世の中に、アニメファン、マンガオタク、ゲームマニア、歴史好き、などなど新しい「文化」の担い手が多くいる。
これらすべてが「日本文化」という大枠の中に内包されている、最近そんな風に考えるようになった。
ならば彼らは、自分らが大切にしている「文化」を守るためには、一体どこを守っていけばいいのか、そこがなくなれば君らの大事な「文化」も無くなるんだよ、といったことを示唆していけばいいのではないか、と今そんなことを思っている。

「歴史・文化・伝統を守ることが、日本を守る」の本来の意味が、最近、おぼろげながら分かってきたような気がします。

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