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新田肩衝は新田義貞愛用の品か?などなど

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平成22年2月24日 読売新聞 文化面「山田芳裕の茶道具愛 11」から

唐物茄子茶入 付藻茄子
茶の湯を「数奇」と呼ぶことがありますが、これは数奇ならぬ、数奇な運命をたどった茶入です。戦国の梟雄、松永久秀が織田信長へ献上し、さらに豊臣家へ渡りました。ところが1615年、大坂城陥落の際に他の茶入れとともに破損、徳川家康が漆職人の父子に修復を命じたと言います。
実はエックス線写真が撮影されていて、ほとんど粉々なんですね。それを漆で接着し、表面も焼き物風に直している。見た目には全然分かりません。とてつもないテクニックですよ。
破片でさえ大事にして、元通りにするのはいかにも日本的ですよね。精巧な義歯や漫画・アニメの人形をレンジ樹脂で作っている、その源流じゃないかと。
ただ、天然自然を尊ぶ湯の美意識からすると、人工の極み。修復された茶入を見た家康は「古今不思議の手涯(てぎわ)」と絶賛し、漆職人に下賜したそうですが、本音はどうだたのか。けっこう微妙な気分だったのかもしれませんね。(談)

山田芳裕は、漫画家で「モーニング」に「へうげうもの」を連載している方。
漫画には詳しくない私ですが、これは読んだことがある。(NHK「マンガ夜話」で「へうげうもの」を取り上げている回を見たがこれは面白かった。)

で、この短いコラムですが、これが実にいい。
「精巧な義歯や漫画・アニメの人形をレンジ樹脂で作っている、その源流じゃないかと。」とあるが、日本文化の源がそこにあると見抜いているようだ。これこそまさに「文化の連続性」であり、これをサラリと言ってしまうところがいい。
これは以前、当ブログで書いた「マンガ・アニメ文化で『文化防衛論』」に通じる話である。
また、「ほとんど粉々なんですね。それを漆で接着し、表面も焼き物風に直している。見た目には全然分かりません。」といったところは、三島由紀夫がいうところの「文化の再現性」ではないかと思う。(日本文化は連続し再現されているところに特長があるということ。例えば、天皇、伊勢神宮の式年遷宮など)
また「破片でさえ大事にして、元通りにするのはいかにも日本的ですよね。」というのは、明石散人の言う「オリジナルを大事にする日本人」という話にも通じる。
こういったことは、書いた本人はほとんど意識していないと思う。だが、識者が「日本文化」を語るとみな同じようなことを云う、これが不思議でもあり、面白いところだ。
どうもこういった点に「日本文化」の本質があるようだ。

さて、ここで少し話は飛んで、「新田肩衝」の話。
というのも、この「付藻茄子」(「九十九茄子」とも)が大坂城の焼け跡から掘り起こされたときに、一緒に出てきたのが、実は「新田肩衝」だった。
001_20071104234929.jpg

このとき、他にも多くの名品・名物が出てきた。修復後されたものを家康は一度は手にするが、「付藻茄子」のようにほとんどを他者にくれてしまった。
実のところ、家康が手元に残したのは「新田肩衝」だったのだ。
ということは手に入れたかったのは「新田肩衝」だけだったのか? と勘繰ってしまう。
(詳しくは過去記事で。)
何故かといえば、やはり、これが新田義貞の品だったという伝承を持っていたからではないのかと思う。
茶道、千利休の研究の大家だった歴史家の桑田忠親は、「新田肩衝は、新田義貞愛用の品」、「義貞伝来の茶入れ」とあちこちで明記している。(「戦国史疑」など) また多くの歴史家や作家が同じように推論しているが、こればっかりは確たる証拠がないので、「新田肩衝は新田義貞の愛用品だった」とは云い切れないようだ。
ただ「新田」の名を冠する物なので、やはりそこは「新田義貞」や「新田氏」と何らかの関係がなかったのではないかと思うだろうし、「新田」という言葉から「義貞」「新田一族」を連想してしまうのは当然のことだろう。
だからこそ家康が「新田肩衝」を手にしたかった理由が分かる。
何しろ、家康は「新田氏の末裔」を名乗っているのだから。
簡単にいえば、徳川家は新田源氏を名乗ることによって、家格を上げ、征夷大将軍の称号を得る資格を手に入れ、結果、幕府を開くことができた。
これについて、家康は系図を盗んだとか、勝手に源氏を名乗ったとか、いや、元は「願人坊主」だった、いやいや家康は二人いたとか、どんどんそういった方向に流れていく。
どうもその手の下世話な方に話がいって、何としても、家康は「出自詐称」の悪い奴だ、ということにしたいらしい。
ではなぜ「新田」だったのか? なぜ将軍就任の36年前から名乗っていたのか? なぜ祖父の代から新田氏(世良田氏)を名乗っているのか? なぜ「世良田」でも「新田」でもなく「徳川」なのか? なぜ朝廷はいままで前例のない「復姓申請」を許したのか? 近衛前久や吉田兼右はなぜ家康改姓運動に協力したの?などなど、
これまでそれほど重要視されることもなく、あまり深く研究されることもなかった。
学者も歴史家も作家も、みなその部分をスッポリと抜いてしまっている。
実はそこが問題なのに……。
私は、そこに戦国時代の謎を解くカギが隠されているように思えてならない。
だが、いまそれを説明するのは面倒なのでやめておきましょう。
詳しくは「東毛奇談」で。

さて、その新田肩衝も、家康から徳川水戸家へ手渡たされた。
その水戸家だが、尊皇を掲げて南朝志向を強めた「日本史」を編纂して、それが幕末に大きな影響を与えることになる。
そう考えれば「新田肩衝」も奇妙な変遷を辿ったといえるだろう。

日本を変える大きな時代の節目には、「新田」を名乗る者が現れ、「新田」に関連したものが登場して、時代の趨勢を変えていく。
しかもその基本姿勢は「尊皇」にある。

では現代はどうか。
これもまた長い話なので、いまやめておきましょう。(こればっかりですが…。)
取りあえずここでは、「正田家」は新田一族の末裔だということだけを付記しておきましょうか……。

それにしてもいつになったら「新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編」が始まるのだろうか、自分でも分からない。最近どうも忙しくって……。
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