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美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3  シリーズ第23回

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新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第23回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3

前回の続き  

館林の正田家が、世良田郷(徳川郷)から分家したものであるというのが、前回までの説明。
今回は世良田・徳川郷の「正田氏」。
旧尾島町・徳川氏発祥の地

旧尾島町・徳川氏発祥の地「徳川氏発祥の地・太田市」とありますが、元は「尾島町」。合併したために案内板の尾島町の部分に無理やり「太田市」と上から張り付けてあります。
この案内板を見ると、世良田東照宮、長楽寺、満徳寺、総持寺、明王院……まさにここは「新田氏関連遺跡の宝庫」だと分かる。そして、私的には新田氏と徳川家と天海が結び付く場所だ。
東毛奇談

美智子皇后の祖先である「正田氏」はここにいたのだ。

まずは、「上州及び上州人」 大正11年・64号にあった新井白石の「新田三家考」から「正田(庄田)氏」の記述を拾ってみる。
「…又新田家の老臣に庄田隼人と云う者あり、御入国(徳川家康の関東入国のこと)の時分御尋有りけども、隼人は死去いたし其子百姓になりて有りしを刀御免被成、二百石被下、庄屋の上に立てられるが是も毎年正月、今に於て出府すとなり…」
新井白石が「新田源氏の末裔」を名乗っていたことは、以前書いた。
徳川家が新田源氏の末裔を称していたことにより、新井白石はその調査のため世良田郷・徳川郷に赴いていた。
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また「尾島町誌」では更にその状況が詳しく書いてある。

江戸幕府と尾島町
……こうして徳川氏は清和源氏系統である新田氏の後裔であるとの系図を作り、ここに徳川郷は徳川家発祥の地になるわけである。
ところで、親氏は徳川郷を出立するに際し、その領地を残らず正田隼人に預け、以後は正田家が支配したという。天正十八年(1590)徳川家康の関東入国にあたって、正田隼人は召されて川越まで祝のため罷り出るが、家康から直々に徳川郷の由来を尋ねられて、委細を申し上げ、このとき親氏の旧例にしたがって、祝儀として小判壱両を進物したという。そのとき、家康は新田徳川の旧臣は正田隼人だけであり、正田が子々孫々に継承され、めでたいことであるといい、その上で「新田徳川家之系図」を差し出すように命ずる。この上意によって、正田隼人義豊は急ぎ写しを出したが、正田の苗字はいずれの文字を用いるかとの下問があったので、「生田」あるいは「庄田」としたためている旨、言上したところ、紛らわしいので、「正」の文字に改めるようにとの上意があり、これより以後「正田」と改めて用いるようになったという。さらに家康は、この系図は他見致さざるように大切に保管すること、また御館跡で子孫末代まで居屋敷として所持してよいとの仰せであったと伝えられている。こうして、その翌年に徳川郷は直筆の御書判で三〇〇石の御朱印地とされ、諸事格別な厚遇を得たのである。以後正田家は代々正田隼人を称し、実名には「義」の一文字を襲用している。
これらの記録は、いずれも満徳寺および正田家側に残存したものであり、「徳川実紀」では、「正田」の文字はかなりのちまで「庄田」を用いていることなど、事実と相違するところもある。しかし、徳川家康が正田隼人に先祖新田氏の廟所と徳川郷を管理させることにしたことの理由は、徳川氏が新田義季の孫教氏の末裔であり、また正田氏も新田義季のもう一人の孫満氏の末で、ともに義季(の孫)を祖とする同族意識に由来する。そして徳川郷三〇〇石を家康直筆の朱印状で与えたこともまた、徳川家が新田氏の末裔であるという系図に付会したものといえよう。
したがって、江戸時代を通じて、正田家は徳川家から特別な待遇をうけることになるのである。すなわち、享和三年(1803)正月の「徳川郷明細帳」(満徳寺文書)によれば、御朱印地徳川郷三〇〇石は正田隼人支配とし、そのうち六三石は世良田長楽寺寄附料、六〇石余を正田隼人が、一七〇石は惣百姓配当地とある。さらに郷内の満徳寺は一〇〇石、「義季公御祈願寺 天台宗永徳寺」は五〇石の朱印地とされた。正田隼人は徳川家の先祖の地である御朱印地徳川郷を支配する御役人で、徳川家との特別な関係から年頭御礼などで江戸城に赴き、時服拝領を許されるほどの人物であった。


「庄田」から「正田」に変わった経緯がよく分かる。

その徳川郷にあるのが「徳川義季館跡」「徳川東照宮」である。
徳川義季館跡
徳川義季館跡徳川義季館跡
徳川東照宮
徳川東照宮徳川東照宮
徳川東照宮は満徳寺のすぐ近くにある。

縁切寺である満徳寺は今は縁切寺満徳寺遺跡公園となっている。
縁切寺満徳寺遺跡公園案内図
縁切寺満徳寺遺跡公園案内図
満徳寺
満徳寺
寺の中は博物館となっていて、展示物の一つとして「正田家」が使用した「駕籠」がある。

そしてこの周辺の石碑や墓地を覗くと「正田」姓が多いことが分かる。
庚申塔・正田氏
満徳寺向かいにある永徳寺にあった庚申塔には、「正田」の銘がある。
墓地 正田家
墓碑銘はほとんどが「正田」姓だった。

正田氏が新田一族と関係が深かったというは、ここだけを見ても疑いようがない。

さて、次回は「新田一門史」から「正田氏」の記述を引いていきます。
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