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美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている! その4 シリーズ第24回

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新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第24回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その4

前回からの続き
前回は、「尾島町誌」と新井白石の「新田三家考」から、正田氏に関する記述を抜き出しました。
今回は「新田一門史」から引いてみます。

新田一門史
まず「徳川と太田の正田氏」の部分から。

新田郡尾島町徳川・正田秀二氏と太田市八幡町・正田政次郎氏からの史料「正田史」と「新田氏古記録」を参考にして編集した。
新田義重の五男経義が、新田庄の北方を守るために「額戸」に住んでその地名を姓とした。(今は強戸という) ―当時、義重は、義範に山名郷、義俊に竹林郷(のちに里見郷へ)、義季に得川郷(徳川郷)というように新田庄の東西南北に所領を与えて分族させた。
1、額戸経義の長男氏綱は額戸氏を継いだ。
2、次男経氏は、西長岡を与えて長岡氏の祖となった。この孫長岡源瑜は鎌倉攻めの功績で大蔵卿となったが、中先代の乱で武州女影で戦死した。
3、三男の孫三郎時綱に金山の西方にある鶴生田を与えてその地名を姓名として、鶴生田氏の祖となった。 この時綱の曽孫・松田与一政重は新田義興と従軍して矢口渡しで戦死した。
鶴生田孫三郎時綱の子は「庄田姓」で庄田彦三郎政綱である。舎弟は「勝田姓」で勝田彦五郎頼持で、その子頼政の3名は、義貞鎌倉攻めの旗頭として従軍した。
庄田政綱、勝田頼持、政綱の三名の子孫は世良田政義に属し、上州寺尾城、信州浪合の戦いに従軍した。
「波合記」とは、1385年(元中二年)世良田政義は上州から尹良親王を報じて、信州下伊那郡浪合で賊軍と合戦をした。当時越後から新田義宗の子新田貞方が従軍したが、賊軍の勢力があって遂に敗北戦となった。世良田政義は、得川四郎義季の子孫で世良田に屋敷があった。その世良田に属した庄田氏・勝田氏が当時得川に住居したと(古記録)に記載している。

ここから、正田氏一族の遠い祖先は、庄田―勝田―松田と称したというのが分かる。
また、強戸、鶴生田の地名は今も太田市に残っている。
(この鶴生田氏、額戸氏が鳥山氏と関係があるのだが、これはまた別の時に。関連記事「新田一族の話題3つ」となぜか「鳥山明」)

またさらに詳しく説明を加えている。

現在、館林市に正田氏が大多数在住しているが、正田貞次郎の系図に「延享から寛政年間に世良田より館林宿に移住す」の記録がある。館林在住の正田氏の旧墓地は世良田にあるが、宝暦・延享・寛政年代の石塔は全部「庄田」である。太田の正田政次郎氏は尾島町出身であるが、尾島町の墓地に石塔が二十余基あるが「勝田」である。この双方の石塔が庄田・勝田であったことは、正田氏の祖先が庄田・勝田姓であったと証明する。
苗字は、いつ頃から称しただろうか。その歴史を記しておく。
天文七年(1538年)に新田氏十五代(岩松)昌純の忠臣、正田対馬助義繁がいた。新田(岩松)昌純は逆臣横瀬に殺されて事件があった。(註・横瀬氏による下剋上。実権は岩松氏から横瀬氏に移る。横瀬氏はこの後に、新田義貞の孫・貞方を祖として由良氏を名乗る。) この時、長楽寺の住職真西堂が仲裁に入って昌純の舎弟氏純を「館様」と称し横瀬成繁が金山城主となった。城主となった横瀬氏は、勢力が益々盛んになって天正元年頃は、佐野宗綱を殺した。更に桐生城を攻め取ろうとした。正田対馬介が、新田家は無理な戦いはしない氏である、と忠告したが、横瀬氏は怒って正田対馬介を殺した。(この時代に正田氏系は、勝田氏、庄田氏、正田氏の三家があったようだ。)
天正十二年、新田金山城籠城の頃(北条氏の攻撃)は、庄田寅之介、勝田刑部介が仕えていたが、正田家は横瀬氏の勘気を受けていたので、このときは隠れ住んでいたという。
この七年後の天正十八年八月には金山城は取り壊しとなって家臣らは浪人した。当時関東八州は徳川家康の支配となって、家康は関八州を調べて自分の住む城をどこへ定めようようかと、川越へやってきたときに、重臣の本多佐渡守正信が家康の命令で新田(岩松)守純を迎えに来たので、守純は息子の豊純と家臣数名と川越城で家康に会ったが、家康は、新田氏の古事を尋問し、徳川氏の系図を参考にするから新田岩松系図を一夜だけ借用したいといったが、守純は(家純の遺言)があるので貸せないといった。家康は貸せば新田荘は守純に与える心でいたが、貸さないので怒って市野井の荒れ地を20石だけ与えた。
本多佐渡守正信は守純らを新田荘に送って来たが、無駄足はしなかった。彼は得川(徳川)郷へやってきた。当時得川村に正田隼人が住んでいた。隼人の父対馬介義繁が殺されたときは子供で、一事家族とともに潜んでいたが、天正十八年に横瀬由良氏は牛久へ蟄居したので、得川村に住んでも平気であった。隼人は青年となっていた。(註 徳川の正田秀二氏の伝承を参考とする)
本多正信は隼人に正田系図を聞き糺した。隼人は「庄田」「勝田」「正田」の三氏に分かれている。また鶴生田の子孫なぞと遠い系図は当てにならぬ、人間は正しく生きることが大事だ勝田、庄田は今後使わずに正田の苗字とせよ。今日から苗字帯刀を許し、得川を徳川村と称せ、徳川村の年貢は、今後無税とする。さらに江戸城へ年賀に登城を許可する。
正田隼人は本多正信に、丸めこまれた訳ではないが関東八州を支配する徳川家康に反対すれば殺されるだけである。
それに徳川村の百姓らが年貢を納めなくてもいいのなら、勝田、庄田の苗字を止めても、正田という苗字で結構だと思って以後、正田とした。
この話を聞いた勝田、庄田の人々も正田としたが、それは表向きだけで、石塔には勝田、庄田を刻んで供養をした。徳川家康も尾島や世良田の墓地まで調べる暇はない。それより天下を取るために日夜懸命だった。当時の歴史が示すように関ヶ原の合戦の後、慶長八年(1603)には、系図はどう繕ったのか一応、(新田殿)で征夷大将軍となった。

家康と正田隼人の会見が「尾島町誌」よりもさらに詳しくなっていて、本多正信がまとめ役となった、としている。多少、創作風にはなっているが、実際にはこういった流れではなかったかと思われる。
また、尾島にあるという正田氏の祖先の墓がどこにあるのかの細かい記述がないので、実際に見ることができなかった。これはもう少し調査してみたいと思う。
それにもうひとつ重要なのは、正田隼人とともに家康に呼び出された新田(岩松)守純であるが、この末裔が幕末・明治のときの岩松満次郎こと新田俊純であり、この娘が井上馨の妻となる。

次は「新田一門史」の「館林の正田家」の部分。

群馬県館林市に正田氏が多数存在している。徳川の正田氏の項を参考にして正田貞次郎翁の祖先の歴史を書いたが、貞次郎翁の祖先は、得川村から世良田へ移住して「庄田」を名乗った。今世良田の墓地にある石塔を調べると、延享、宝暦、明和、安永、天明まで「庄田」と刻んである。寛政年間に館林へ移住して大商人になった。以上で昔は庄田姓であったことを確証する。
太田市に住んでいる正田政次郎氏の祖先の墓は尾島町にあるが「勝田」と刻んである。この確証で正田氏の遠い祖先であった庄田彦三郎政綱とその弟・勝田彦五郎頼持が、元弘三年五月八日に、新田義貞軍の一方の大将として鎌倉攻めに従軍した歴史は創作ではなく、古記録にある史料と「庄田」「勝田」の両家の石塔を調べて、正しい歴史を記載した。
正田文右衛門は代々世襲で旧家である。旧屋号は「米屋」と称した。現在栄町で亀甲正醤油の醸造元である。この旧家、正田文右衛門の弟・貞一郎が分家して現在の日清製粉KKの創立者である。現当主は東京に在住している。
〈中略〉
徳川の正田家が保存している系図がある。ここでは旧家と書くが、「本家」と書かない。本家と称するのは、今から642年前に鎌倉攻めに従軍した遠い祖先を「本家」とした。各地に在住する正田一族は、鎌倉攻めに従軍した総本家から流れた分家である。

まさに正田氏の祖先は新田義貞の鎌倉攻めに参加したと書いてある。ただもっと詳しく書いてあればいいのだが、ここももう少し調べます。
ただ、「正田氏」の系譜をさかのぼっていけば、必ず「新田一族」に行く着く。これは間違いない。
新田義貞と桜「新田義貞と満開の桜」(世良田町)、鎌倉攻め・稲村ケ崎投刀の場面。このとき「正田氏」は新田義貞に付き従っていた。

次が「新田一門史」の「高島・中瀬の正田氏」です。

埼玉県深谷市大字中瀬、高島の正田氏
正田姓は徳川初期ころから同族が書くようになったが、遠い祖先が鎌倉攻めに従軍した時は“庄田”“勝田”であった。それが“正田”となったのは徳川郷の正田氏と同じ事情であった。
中瀬正田史料天正十九年に屋敷縄入の時(内匠正田)記名がある古文書があるが、その図面は正田家の本村徳川郷と利根川を中に境として中瀬村となっている。(中瀬という地名)遠い昔は徳川と地続きだったが利根川の流れが変わって利根川南となった土地である。
今の中瀬と隣村の新戒は遠い昔利根川であったこの古利根の堆積地なので(しんがい牛蒡)の産地である。
正田喜一郎氏(深谷在住の郷土史家、史料提供者)の祖父が、大正十年十二月五日に宮内大臣牧野伸顕氏を通じて牛蒡五貫目桐の箱に納めて天皇・皇后両陛下に献納された。
<中略>
天正十九年に縄入れした内匠正田と称する祖先は(法名・一窓善棟居士)で文禄三年(1594年)に没している。この祖先は天正十八年に金山城に仕官していたが、豊臣秀吉命令で金山城取り壊し後浪人した。翌年に中瀬へ移住して屋敷の縄入れをした。当時金山城に庄田新四郎、勝田刑部介、庄田寅之介、正田平左衛門の四名が仕官していた。平左衛門は高島へ定着したから、他の三名もそれぞれ定着したが、当時庄田・勝田姓があった。また正田姓もあった。
高島の正田氏の家紋は「蔦」で、中瀬の正田氏は「丸に蔦」。徳川の祖先も「丸に蔦」である。

新田一族・一門が埼玉の深谷や妻沼など北埼玉地方まで進出していたことということだ。
関連記事渋沢栄一と「上州遷都論」  「新田義貞伝承を追うシリーズ」10回目。
渋沢栄一 生家画像は「渋沢栄一 生家」
この一帯はかつては「新田荘」であったのだ。
また、渋沢栄一記念館の展示物を見ても「正田姓」のものを多く見るし、実際このあたりに「正田姓」はかなり多い。
実際に地図を見れば、利根川を挟んで両隣りだ。

大きな地図で見る

「正田氏」を新田氏の視点で見て行くと面白いことなる。
徳川家康がからんでいるというのは前にも書いたが、ここに井上馨と渋沢栄一も出てくるのだ。
みな「新田一族」と関係がある。

「上州遷都論」のとき井上馨と渋沢栄一が新田の地に帝都を作ろうとしたが、まさかその土地の名家であり、新田一門の「正田家」から皇后を出すとは、このときは思いもしなかったであろう。

さて、次回はこれらを踏まえて「美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!」大まとめをします。

追記 「新田一門史」には、「正田氏」はこの他は、世良田、出塚、尾島、堀口、押切、高林、花香塚、東矢島などが紹介されている。各家の写真、経歴、家族の名前なども掲載されているので、「正田姓」の方はを一度見てみるとよい。祖父・祖母・親戚が載っているかもしませんよ。
ほかに「新田氏」に関連した家臣・一族の末裔の方々が詳しく載っています。新田氏伝承を持つ家の方は一読することをお勧めします。意外なルーツを探れます。(とはいっても群馬の図書館くらいにしかありませんが……)

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