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物語を物語る

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日米同盟は織田信長政権下の徳川家康に似ている。ならばそこから得られる教訓もあるはずだ。

物語を物語る

鳩山首相「日米の信頼関係が最大の抑止力」
鳩山由紀夫首相は28日夜の記者会見で、米軍普天間基地の移設問題で沖縄県民や連立与党との交渉より対米交渉を優先させたことについて「日米の信頼関係は最大の抑止力。(日米同盟は)東アジアの安全に大きな役割があり、米国との交渉を成立させるべきと考えた」と説明した。県外移設の断念については「基地機能の一部を外して県外に移すと、日本にとっても抑止効果が失われる」との認識を示した。(平成22年5月28日 日経新聞から)

こうなることは分かり切っていたはずだ。日本は自国の軍隊を持たず、アメリカの隷属的な軍事下におかれている以上、最終的にアメリカの意向に逆らえることなどできるはずもない。
そこが問題の根幹であるのに、一向にそういった議論はなされない。(社民党的なセンチメンタルな平和思想では何の解決策は出てこないのに、そこにばかりマスコミは目を向ける)
しかも鳩山首相は「対等な日米関係」などと言って混乱のもとを作ったが、そもそも「日米同盟」とは何なのか「自国を守る」とはなんなのか、「国防」「憲法改正」に関する根本的な話は結局はなかった。
……。
などなど、いくら文句を言っても言い足りないが、ここで、話は飛ぶ。
私はこういった昨今の沖縄基地問題や日米同盟問題の話を聞くと、どうも日本とアメリカの関係が、戦国時代の織田信長と徳川家康の同盟のような微妙な関係に似ているといつも思う。
(ここでは「日米同盟」については詳しく述べない。今回は信長と家康の同盟関係だけを書きます)
織田信長がアメリカであり、徳川家康は日本という構図である。
家康と信長の同盟関係というのは、名目上は両者が対等な同盟といいつつも、その実、軍事的面において、徳川家は織田政権内の制御下にあった。
この関係が似ているということ。
煎本増夫著「戦国時代の徳川氏」(人物往来社)では

「家忠日記」にみえる信長に対する呼び方の変化は、「信長」から「信長様」、そして武田滅亡のあとは「上様」と変わっている。もちろん家康もそのような呼び方をしていたであろう。このように、駿河は領国として信長から与えられる、家臣的な立場となったことは否定できない。
とはいえ家康は、武田旧領の知行割で甲斐・信濃の大名領主となった信長の直臣とは異なる地位にあった。〈中略〉いわゆる織田政権における一職支配のかたちである。結局、独立的に領国経営を任されるのではなく、臨戦体制下の信長政権の地方軍司令官の扱いである。
〈中略〉
信長政権は、大名領国を超越する公儀=国家であり、徳川氏はその「東方の藩鎮」として重要な柱となったのである。

また「長篠の戦いは、信長と家康の関係が決定的に対等(同盟)ではなくなった結果をもたらした。
徳川氏は織田政権の与力大名化し、信長と家康は同盟から主従の関係に移りつつあった。」という記述もある。
やはり織田政権にとって徳川氏は東の防波堤という役割を担っていた。織田側はそこにこの同盟関係の価値を見出し、徳川氏にとってみれば、周囲には強大な国々に呑みこまれないためにも強力な織田氏の勢力下にあったから自国の独立が保たれた(「核の傘の下」状態)ということになった。

この織田と徳川の関係について面白い表現が、司馬遼太郎の「覇王の家」にある。いくつか抜き出してみましょう。

家康は信長にとって織田圏の東方警備の番犬であるにすぎなかったのが、その番犬自身が多少意志的になり、自分の判断で行動し始めたのである。ただしこのことは、家康の世評の「律義」の範囲内であることを、家康は再三信長に言いつづけることをわすれなかった。

信長はその娘徳姫を家康の長男信康に嫁せしめた。織田・徳川の両家はこれで姻戚になり、その紐帯はいよいよつよくなったが、かといって家康がもっている国は、本国の三河と遠州だけしかない。日に日に巨大になっていく織田勢力にひきかえて、徳川氏は同盟国というにはあまりにも小さい。
「三河どのは、大切なるお人」
と信長はつねづね言っていたが、相変わらず家康とその兵力を便利づかいするばかりで、べつに大切にしている様子もない。が、家康はひたすらに尽くした。考えてみると桶狭間のあのあとの信長家との同盟締結のころならまだしも、いまとなれば離れようにも裏切ろうにも相手の織田勢力が強大すぎて、家康としてはただ犬のような忠実さでついてゆくしかない。

信長は若いころから信玄をおそれること虎のようであり、この時期、信長は信玄の西上を防止してなんとか自己勢力をまもるための権謀と外交の手を、人間に与えられた悪知恵のかぎりをつくしてつぎつぎに打っていた。まるで大津波がくるようであった。その大津波のために途中、同盟国である三河の家康がひとたまりもなく呑まれてしまうであろうことなど、信長にすれば顧慮している余裕もなかった。

などなど他にもある。
信長にとっての東からの敵は、武田、北条、上杉らであり、この矢面に立つのが徳川であった。
現代に例えてみれば、アメリカから見て東からの脅威というのは、かつての共産主義であるソ連、今では中国となろうか。この守りの要、東の抑えととなるのが日本であり、これが織田政権の徳川にあたる。
また、家康が信長に協力した兵力というのを、金銭・基地・土地の提供という言葉に変えれば現代の日本とアメリカの関係というものに通じる。(その協力があったからこそ自国の独立が保たれたともいえる)

家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長にひきずりまわされ、深い関係をむすんだが、その一方で、甲斐の武田や後北条氏と同盟して織田家と断交するという手もあったのだった。
形勢を鑑みて、今までの協力関係を断ち切り、より強力な方に付くというのは、戦国時代のつねで小国が生き残るための唯一最大の切り札である。(実際、信長は家康の寝返りを警戒していた。)
鳩山・小沢の民主党政権が突如としてアメリカを軽視し、中国寄りになったという方針転換を米国がみれば、日本は中国に寝返ったのかと思い、態度を硬化させるくるのは当然のことだろう。
その一方で日本側からみても、日米同盟を組んだからといって、日本が本当に攻撃を受けたらアメリカは助けてくれるのか、といった疑念を持つ人も多い。
歴史的にみても、実際に軍事同盟というのは実際にはあまり機能しないようだ。
「家康は三方ヶ原の戦いでは武田軍が迫りつつある時、信長に援軍を一万ほどの兵を要請した。しかし、信長が派兵したのは三千ほどで、しかもその兵には積極的に戦うなと厳命した。まさに同盟の義理をはたす程度であった。」
とあるように、やはり軍事的に強い方の思惑に優位に働くのだ。

ではアメリカ軍はなぜ日本に軍隊を置くのか?
「日本は独立国家ではない」「日本はいまだにアメリカの占領下・支配下にある」と言った話もよく聞く。
例えば高山正之のコラム「変見自在」(新潮社)にあったもの引いてみる。

「……なぜ羽田直前で回り道をするかというと羽田の西側は今もそうだが、米軍横田基地が航空管制権をもっていて日本の飛行機が勝手に立ち入れない。境は多摩川に沿って敷かれる「ブルー14」だ。
平たく言えば羽田の向こう側に壁が立っている。そういう状態で離着陸するから、こういう大回りを強いられる。
ちなみになぜ東京のすぐ後ろに米軍基地があって空を占領しているからというと、白人国家にとって世界で一番怖い国が依然として日本にあって、その首根っこを押さえておく必要がある。空を握っているのは日本が制御できなくなった瞬間、東京を制圧する海兵隊を沖縄から空輸するためだ。……」


戦国時代はいつ裏切られるか分からない状況下にある。同盟を結んだからといって安心はできない。そのために、同盟国から派遣される軍は援助という名目と、同盟国の監視という役目をも負っていた。織田方が徳川方に兵を派遣するのも決して協力・援助だけではないのだ。軍監という名目は、本国から隷属している同盟国の監視役であり、信長はつねに徳川軍の後方を支援するという名で家康を監視していたことになる。

そう見ると、あのアメリカ軍というのは東アジアの安全のためだけではないというのもよくわかる。
だからアメリカ軍の沖縄の負担軽減のために日本各地に分散にして米国の基地を置くというは自国を売り渡しているのと同じ行為であり、まして、アメリカ海兵隊を東京近郊に移せなどという意見もあるようだが、これなどは平和ボケのアホと云うほかない。

さて、それでも、日本は戦国時代の家康と同じ様に、強力な国の後ろ盾を得なければ、他国に侵食されてしまうだろう。
取るべき選択肢は実に少ないのだ。
「日米同盟」の強化、これしか今の日本には生きる道はない。
では、このまま隷属的な関係でいいのか。いいはずがない。だが他の選択肢はない。ではどうすれば……。
ここで戦国時代の徳川家康と同じ状況下にある現代の日本は学ぶところがあるはずだ。
忍従を続けた徳川家康はどうなったか。決して他国に併呑されることなく、戦に勝ったり負けたりしながらも自国を守った。最終的には生き残った。(秀吉の時代も忍従の時代だったが、最後は天下を取るところまでいった!)
それは何故だろうか。
徳川が生き延びった理由はどこにあったかといえば、
三河衆の強い結束力で家康を支えたこと。
その三河国人が頑固なまでに三河魂を捨てず、(司馬風の表現では)信長と同盟を組みながらも、その派手好み、モダニズムに染まることなく、実に保守的であったことだろう。(この「三河」の部分を「日本」に置き換えてみるといい)
他国に侵食されないことは自国の独自性を守ることにある。

自国の文化を守ることが国を守るというは、三島由紀夫が唱えるところである。(関連記事)
そして家康や三河衆は、ただ単に自分等の殻に閉じこもり自分らの考えに固執したわけではない。
自国に合うもの、自国に有利なものはどんどん吸収した。(家康は、武田遺臣や敵側であったもので有能な者らを召抱え、信玄の民政のやり方や兵法を取り入れた。)
この考え方や行動が自国を守った。
今の日本が過去の歴史に学ぶとすれば、こういった三河人の忍従の時であろう。
日本は、決して友好国ばかりではない国(中国や朝鮮半島の国々)に囲まれた小さな島国であることを自覚し、自国を守る兵力を持たず(持てず)、それでいて地勢的には戦国時代の三河がそうであったように、現代の日本が東アジアにおける軍事的重要な所であるということを考えなければならない。
司馬遼太郎の「覇王の家」にこんな一文がある。
信長の天下がきてその下につく家康が考えたことは「辺境を守り、兵を強くし、民を富ましめ、堂々たる地方国家を作りあげていこう」ということだった。

その時代その時代で生き残るための最良の選択すればいい。
(自国を自力で守ることのできない国を自立した国と呼べないと、福沢諭吉が今の日本を見たらきっと嘆いたに違いないが…。)
だから、今は、忍従のときなのだろう。
となれば、どう考えても、誰が首相になったとしても今の状況では「日米合意」という選択しかないのである。

だがここで忘れてはならないのは、戦国時代の徳川家康の置かれた状況と生き残るためにした方針だ。三河国人が周辺諸国に呑みこまれないために何を考え、何をしたかだ。

究極的には、日本人が日本国を失わないようにするには、自分等の「文化(=魂)」を守るしかないのである。
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