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二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!

物語を物語る

最初のきっかけは、文藝別冊「総特集 三島由紀夫」(河出書房新社)の中の一文だった。

松本健一、安彦良和の対談の部分から。

松本健一「……(三島由紀夫)が戦争中に学徒動員で私の育った中島飛行機の飛行場に行ったというのは意外でしたね。というのは中島飛行機というのは群馬県の太田市に本社と工場があったんだけど、そのほかにも三鷹とか宇都宮とかいろいろなところにあるから、学徒動員で必ずしもそこに行くとは限らないんです。」
安彦良和「結構レアな遭遇なわけですね。」
松本健一「そうなんです。(笑)。彼がちょうどそこに来た直後に私が生まれたという形になるわけで、あんなところにいたのかという感じはあるんですが、そこは戦後体制の一種のエアポケットみたいな場所で、中島飛行場があった場所に米軍司令部が置かれたために、私が大学に入った昭和三十九年の東京オリンピックの年まで町の真ん中に星条旗が翻っていたんです。……」

何と、三島由紀夫は、終戦の年に学徒動員で群馬県太田市(新田)にいたというのだ。

「三島由紀夫全集 巻42」の年譜によると以下のようにある。

昭和20年1月10日 
学徒動員として中島飛行機小泉製作所に行く。原稿用紙に書かれたメモには「○交通 浅草雷門より東武電車、伊勢崎行又ハ大間々行、普通二時間、急行なら一時間半にして館林着。ここで西小泉線に乗り換え(この乗り換え頗る面倒)約廿分にして終点西小泉着。この間最短三時間、最長五時間 切符の入手頗る困難」とある。勤労動員の正式名称は「東京帝国大学勤労報国隊」。群馬県新田郡太田町小泉製作所東矢島寮11寮35号室が住所。

確かに住所が群馬県新田郡太田町とある。(余談、やはり大泉町を含めこの周辺は「新田市」がふさわしい。)

さてさて、この事実を知ってからが大変だった。
というのも、三島由紀夫こと平岡公威が、群馬県太田市(大泉町)にいたということになれば、新田氏に関連する神社仏閣や場所を訪れたことはないか、新田義貞や児島高徳に新田一族に関した記述はないか、太平記や南北朝時代に関して記したものはないかと、全集を読み、書簡を読んで、三島由紀夫関連本を渉猟していくことなった。
そんな話が一つでもあればいい。そこから付会して、斎藤佑樹と関係させたり(富士重工・スバルの前身が中島飛行機製作所)、児島高徳の薫陶を受けた(大泉町に高徳関連の社寺がある)とかいった話にして、いつものように膨らまして無理やりにでも三島由紀夫も「新田一族」の一員にしようとした。
だが残念なことに、そういった記述は何一つ出てこない。

しかし、三島由紀夫の書簡や小説・評論をいろいろと読んでいくと、思った以上に中島飛行場の話は出てくることが分かった。
そしてこの時期が、三島由紀夫の人生にとって大きな転機になっていて、短い「中島飛行場の時代」が一つの分岐点になっていのではないか、と思えてしかたならなくなった。

と話を進める前に、とりあえず「中島飛行製作所」の説明。
 群馬県百科事典(上毛新聞社)から。

中島飛行製作所
1917年(大正6年)末から1945年(昭和20年)8月までの29年間、新田郡太田町(太田市)を本拠に発展した民間軍需航空機制作会社。戦前、本県最大の軍需工業で、重工業発展の先駆け。1917年12月、中島知久平が設立。大光院東側の旧博物館を借り、10人足らずの同志が知久平とともに「飛行機研究所」の看板をかけ、飛行機の設計や製図、試作業務を始めたのが最初。〈中略〉
1931年12月に、株式会社「中島飛行機製作所」となる。
1920年、太田町東端に工場(現富士重工)を新築、主力工場とし本社を置き、1923年、日中戦争勃発後は国の指定管理工場となり、軍事景気の波に乗り増資を重ね、前橋、小泉(大泉)、尾島、桐生、堤ヶ岡、本庄、大宮、田沼、足利、宇都宮、武蔵野、田無、多摩、半田、浜松、三島、黒沢尻など各地に工場を建て、研究所や飛行場を建設した。1941年以降は太田は陸軍機専用工場(海軍機は小泉)となり、全国から徴用工・動員学徒・女子挺身隊などが集まり、終戦時5万人が働く一大軍需産業に発展した。生産機数は陸・海軍・民間機を合わせて126機種、約3万機を数え、我が国総生産機の約3割を占め、太田工場だけでその半数1万5000機に達した。
隼・鍾馗・呑龍・疾風・月光・零戦など陸海軍の重爆撃機・艦載機・戦闘機と寿・光・栄・護・誉などの発動機は有名。
戦局が重大化した1945年4月、中島飛行機は国家管理下に置かれ「第一軍需工廠」と名称を変え、工場疎開や地下工場の建設までして生産に努めたが、資材不足や激しい空襲のため生産はマヒし、8月17日、軍需工廠機能は停止した。紆余曲折の後、1946年7月、財閥解体指令によって12の会社に分割。1953年、5社合併し現在の富士重工業株式会社が設立された。

他に「富士重工、スバル、中島飛行場」で検索すればいくらでも説明があります。
ついでに大泉町の説明は、「1941年に中島飛行製作所が作られ、太田・尾島と合わせて一大軍需工業地帯となる。 第二次大戦後、工場は米軍に管理され、1959年に返還された。1961年旧中島工場跡に東京三洋電機を誘致した。」とあり、三島由紀夫がいた工場は、今は三洋電機になっている。

大きな地図で見る
これを見れば周辺に「新田氏史跡」が多いというのが分かる。(ちなみに大泉町は「ブラジル人」の街として全国的に有名。サッカーワールドカップ時期になると、テレビでよくここが中継される。)

さて、「中島飛行場」時代の三島がどのようであったか、今回は自伝的小説「仮面の告白」から引いてみます。
(M市近傍のM市というのは、前橋市のこと。N飛行機工場が中島飛行場のこと。二十一歳とあるが、当時は数え年なので、満二十歳ということになる。)

戦争の最後の年が来て私は二十一歳になった。新年早々われわれの大学はM市近傍のN飛行機工場へ動員された。八割の学生は工員になり、あと二割、虚弱な学生は事務に携わった。私は後者であった。それでいて去年の検査で第二乙種合格を申し渡されていた私には今日明日にも令状の来る心配があった。
黄塵の湧き立つ荒涼としたこの地方に、横切るだけで三十分もかかる巨大な工場が、数千人の工員を動かして活動していた。私もその一人、四四〇九番、仮従業員九五三号であった。この大工場は資金の回収を考えない神秘的な生産費の上にたうちたてられ、巨大な虚無へ捧げられていた。毎朝に神秘な宣誓がとなえられているのも故あることだった。私はこんなふしぎな工場を見たことがない。近代的な経営法、多くのすぐれた頭脳の精密な合理的な思惟、それらが挙げて一つのもの、すなわち「死」へささげられているのであった。
〈中略〉
(空襲サイレンが鳴って)……事務員たちは重要書類の箱を抱えて、地下の金庫へいそぐのだった。それらをしまいおわると我がちに地上へ駆け出し、広場を横切って駈けてゆく鉄兜や防空頭巾の群衆に加わった。群衆は正面をめざして奔流していた。正面の外は荒涼とした黄いろい裸の平野であった。七八百米へだたった緩丘の松林に無数の待避壕が穿たれていた。それへ向かって砂塵のなかを、二筋の道にわかれた無言の・苛立たしい・盲目的な群衆が、ともかくも「死」でないもの、よしそれが崩れやすい赤土の小穴であっても、ともかくも「死」でないほうへ駆けるのであった。
〈中略〉
(召集令状を受け取り、即日帰郷を命ぜられて) ……営門をあとにすると私は駆け出した。荒涼とした冬の坂が村のほうへ降りていた。あの飛行機工場でのように、ともかくも「死」でないもの、何かまれ「死」でないものほうへと、私は足が駈けた。

つまり、三島由紀夫の歴史の中でも重要で、よく話題になる「召集令状」を受けて兵庫県に行くエピソードの直前、そのときに「中島飛行場」にいたのだ。
ユーチューブにこの時代のものがあったので載せておきます。

中島飛行機製作所での学徒動員の生活の印象がよほど強かったのか、「仮面の告白」でも何度かその名は登場する。
「……肺病やみの大学生ばかりが抵抗感のない表情で固まり合っているあの飛行機工場の寮」とか「まだ二十一歳で、学生で、飛行機工場へ行っていて、その上また、戦争の連続のなかで育ったなかでも……」といった表現で、「中島飛行場」が、「死」としてメタファー、「生と死を分けるもの」を印象付けさせるものとして比喩的に使われているようだ。
肉体的な生死のみならず、「精神的な生と死」としての分岐点として「中島飛行場」時代があると思われるのだ。

終戦の年である昭和20年、三島由紀夫の二十歳の年は、彼にとって激動の年であった。
その年の初頭、昭和二十年の冬に、群馬県太田市(当時は新田市)で過ごした日々は何であったのか。
その後、三島由紀夫こと平岡公威はどう変わったのか……。

これを解くカギは「ホット・ケーキ」です。

これを次回から続けていくことにします。



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Comment

[243] 初めまして
初めまして。私は群馬県太田市出身の長島というものです。


今年の三月にデビューし、物書きをやっています。


郷土愛に駆られ、現在は中島飛行機について重点的に調べています。




その取材の中で年配の方から「三島由紀夫は中島飛行機に勤めていた」と話を聞きました。しかし裏付けとなるものが提示されなかったので、「本当だろうか?」と疑っていました。どれを調べればいいか見当が付きませんでした。



しかしこのブログで裏付けが提示されていたので、大変うれしく思います(※恥ずかしながら、『仮面の告白』を読んだことがあるのですが、思いっきり読み落としをしていました)。


新田義貞を主役にした作品も世に出したいと考えているので、このブログは解釈の一つとして勉強になっています(まだ全部読んでませんが……)。


消えた二十二巻さん(こうお呼びしていいのかな?)。共に群馬を愛する者としてこれから世話になるかもしれません。



ありがとうございました。

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消えた二十二巻

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