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物語を物語る

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英語が世界共通語になったとき、逆に世界の人々の民族意識は強まる……そんな気がする。

物語を物語る

平成22年7月2日、こんなニュースがあった。

楽天の三木谷浩史社長が「社内の公用語を英語にする」と発表した。
同社はグローバル化に向けた第一歩として社内の公用語を英語にするとしていることから、記者会見も英語での開催となった。英語を公用語として採用する理由について、三木谷社長は「日本企業をやめて、世界企業になるための一歩と考えている」と強調した。

別に、一企業がどんな方策を取ろうとも、ワンマン社長がどんな妙案を打ち出そうとも、それは各々の会社の経営方針だから部外者があれこれ言うのは筋違いかもしれない。しかし三木谷社長のインタビュー記事を読んでどうも気になる部分があった。

まじめな話、英語化というのは、日本にとって歴史を覆すぐらいの大きな挑戦。でも、それぐらいのことをしないと、日本は終わりだと思っている。日本の文化や伝統を重んじるのはいいと思う。でも、ガラパゴス状態から脱して、多様化しないとサバイバルはできない。

伝統や文化を守り続けると、いつしか世界から孤立してガラパゴズ状態なると、彼は考えているようだ。
これは違う。
強大な影響力を持つ大国(日本にとってはアメリカや中国のような大国)に呑みこまれないためには、独自の文化・文明が、特異性が、必要なのである。なぜ何の変哲もない南洋の小さな島々であるガラパゴス諸島の名が世界中に広まっているのか、なぜ世界の人々に注目され、観光客や研究者がこぞって訪れるのか。イグアナやカメが見たいなら他のところにでも構わないはずだ。それはガラパゴス諸島には決して他には見られない独自の発展をした生物がいるからに他ならない。
これを文化・文明に例えればいい。
極論すれば、文化・文明を興すにあたっては、ガラパゴス化こそが必要なのである。(日本のような辺境の小国は特に)
他と違う秀でた特異性があるからこそ注目され、尊重もされる。
日本の「アニメ・マンガ」「弁当」が外国から注目されるのは、他の国々には替え難い特殊性があるからだ。
まあこの点は横道にそれてしまうので、過去記事等、また別の機会にするが、重要なのは、その独自の文化を有するには独自の言語が必要だということだ。
日本人が日本語を捨てれば、日本文化は保たれず日本という国も成り立たず、日本民族というものもいなくなることになる。(三島由紀夫「文化防衛論」)
文化=国家!
これは当ブログで再三言っているところだ。

そして、こういうことが全く分かっていない人がいる。
日本憲政史上最低の首相・鳩山由紀夫だ。退陣表明演説にこんな一節があった。

東アジアの共同体の話もそうです。今すぐという話ではありません。でも、必ずこの時代が来るんです。おかげさまで3日ほど前、済州島に行って、韓国 の李明博大統領、中国の温家宝総理と、かなりとことん話し合ってまいりました。東アジア、われわれは1つだ。壁に「We are the one」、われわれは1つである。その標語が掲げられていました。そういう時代を作ろうじゃありませんか。
 国境を越えて、お互いに国境というものを感じなくなるような、そんな世の中を作り上げていく。そこに初めて、新たな日本というものを取り戻すことができる。

まさに最悪。こういう思考がどれだけ中国を喜ばすのか分からないのか。こんな首相を、民主党を、日本人は選んでしまったところに今の不幸がある。(管首相も似たような思想の持ち主)
中国が近隣諸国を中国化する同化力は120%ある、といったのは山本七平だが、まさしくその通りである。(かつての朝鮮は中国以上に中華思想に染まっていた)
そして、今回の「英語」と云う点においては、アジアが一つになろうというスローガンが「We are the one」だという英語を使っているというのはどういうことなのだろうか。
一国のリーダーがこれに何の疑問も持たないといったところまで「英語の侵食」が進んでいるということだろうか。
他の過去記事鳩山由紀夫首相の施政方針演説の「文化融合」は、最も危険な言葉だ。

さて、何度も言うが、グローバル化していく上で、英語を自分の会社の公用語にするという三木谷社長に対してどうのこうの言うつもりはない。商売道具として金儲けとして「英語」を必要とするならばどんどん取り入れるがよい。しかし、国の文化や歴史、言語を否定するような発言だけは許せないだ。自分の拝金主義を持ってして日本の将来を語り、文化歴史を否定するような態度が、私には不愉快なのである。(私のような低所得者の庶民が、こんな飛ぶ鳥を落とすような大社長に対して失礼なことだとは思うが、言いたいことは言わせてもらう。)

またこのような大経営者の発言を奇貨として、「英語第一主義」「英語教育編重」を叫ぶ声が一層広がるのを危惧するのだ。
過去記事 など

自国の言葉を捨て、便利な世界共通語の英語を使おう!というこの軽率な考えが、広まることを恐れる。これを良しする風潮が広がることも恐れる。そして、ひいてはこれが結果的に自国の「文化」を失うということになると全く国民が気づいていないということも恐ろしい。

そんなことが書かれているのが、水村美苗「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」だ。
日本語が亡びるとき
英語が世界の普遍語となり、結果、英語文化が他の文化を圧倒し駆逐していくということが書かれている。
一節引いてみよう。

……より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提――すなわち、先ほども言ったように、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、英語の世紀に入った今、「もっと英語を、もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。しかも、そうすることによってのみしか、<国語>としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念として掲げることはできない。
人間を人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い<書き言葉>の伝統をもった日本語なのである。


この本はいい。
三島由紀夫の一連の「文化防衛」論や藤原正彦の論理と同じである。(主義・思想は違うだろうが、日本文化を守ることが肝要である点では同意だ。)

そして、
藤原正彦著「古風堂々数学者」の中の一篇から長いが引いてみる。

真の国際人
ここ二十年のあいだ、毎年のように海外の土を踏んでいる。欧米、アジアを問わず、英語の便利さは年々高まっている。ついに世界語になった、との感を禁じ得ない。中世ヨーロッパにおけるラテン語のように、学会では二十年以上前からすでに英語を支配となっていた。それが今ではほとんどすべての分野でそうなっている。ASEAN(東南アジア諸国連合)においてさえ、年間三百近い会議はすべて英語で行われている。
学術交流や外交ばかりでなく、留学や民間組織の国際交流はますます盛んとなり、ビジネスの世界では中小企業までが海外に出る時代となった。このグローバル化した世界で、貧弱な英語ではみすみすチャンスを逃したり競争に負けてしまう。国の将来は国民の英語能力により左右されるということで、アジアでは小学校で英語を教える国も増えてきている。わが国でもこれにならい、また国際人養成ということで、2002年より小学校に英語教育を導入する予定となっている。
しかし、英語の重要性の増大がそのまま母国語や母国文化の危機につながることは、案外忘れられているようである。
言語は文化と不可分である。英語が世界語として長年君臨すると、必然的に英語圏文化が世界に君臨することになる。例えば日本文学は主に日本人だけ、仏文学は主にフランス人だけに読まれるのに対し、英米文学は世界中の人々に読まれることになる。文学だけではない。時間を競うような情報は、すでにインターネットがそうであるが、完全に英語に牛耳られるだろう。
そうなると英語はさらに重要となり、必ずや母国語を圧迫するようになる。母国語の圧迫は母国文化の圧迫である。母国語の確立が最優先であるはずの小学校で英語を教えるというのは、その第一歩を踏み出すということになろう。
その結果として各国の文化がどうなるかは、アイヌや琉球のたどった運命を見ればおよそ見当がつく。言語の導入は西暦、アラビア数字、メートル法などの導入とは本質的に異なるものなのである。
無論、英語か文化かの二者択一ではない。文化的植民地とならぬための「節度ある」英語教育が望まれるのである。ここで注意したいのは、英語が経済的繁栄に結び付く、と考えるのは早計だということである。英語を最も得意とする英国が一世紀近くも斜陽経済を引きずり、英語の最も不得意な日本がここ半世紀間、世界史上でも有数の繁栄を謳歌したのである。また、英語が国際人につながるわけでもない。アメリカ人やイギリス人の中にも、国際人と呼べる人は数少ない。国際人かどうかの判断は、いかに語るかでなく何を語るかによりなされるからである。
わが国では、英語教育に多大な時間を費やしているが、使いこなせなるようになる者はわずかにすぎない。私も中学高校を通じ、他のすべての教科を合わせたくらいの時間を英語に費やした。にもかかわらず渡米した当初は英語に大いに苦しんだ。その後滞在が長くなり、どうにか通ずるようになったが、彼らとの交流の中で痛切に感じたのは、ぎこちないままの英語の不便より、日本の文化や歴史への理解不足である。あの莫大なエネルギーの半分でも、古典や漢籍などに向けていたらと悔悟の念にかられる。
小学校では何をおいても国語をたたき込み、それを基に母国の文化、伝統、情緒などを培い、その国の人間としての根っこを形成すべきである。これがぐらついていては、英語がいくら流暢でも、真の国際人にはなりえない。この意味で小学校の国語は、一国の生命線といって過言ではない。わが国は伝統国家として、英語への思慮ある距離感覚を持つことが肝要ではなかろうか。



最近こんなコメント記事を読んだ。
「Youtubeを見ていると、若い人ほど国境を越えて友人を作っているようだ。 そんな時代に、「日の丸バンザイ」ってやっても、付いて行くのは中高年世代が大部分だろう。 これからますます、その傾向は強まっていくだろう。 通信技術の発達と、民主主義の拡大が、国家至上主義を滑稽なものにしてしまうだろう。なぜなら、外国に多くの友人を持つ者にとって、国境はもはや障害にしかならないから。」
世の中に、こんな「平和主義的、世界市民的」発想の持ち主は多い。
私にはとてもこんな思想は持てないが、確かに将来的に国境という意識は薄まっていくかもしれない。
だが、国の境という意識がなくなればなくなるほど、逆に民族意識は高まるのではないかと私は思っている。
俺は日本人だ、私は中国民族だ、朝鮮民族だ。いや、俺はブラジル人だ、フランス人だ……、そんな風に人々は国の境が薄まったときに「民族意識」を強く持つようになるのではないのか。
そのときに必要なのはその民族の文化であり、独自の言語であろう。
それを失ったときに、その民族も消滅するのだ。

日本人がいま必要なのはこの危機感であり、自分の文化を失わないようにこの意識を高めるところにあるのではないか。
最近、強くそう思う。
だから楽天の社長が自分の会社を「英語化」するといったどうでもいいような話にも強く反応してしまうのだ。




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