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物語を物語る

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今日も部室でお茶を飲む。 「けいおん」は奥が深い!

物語を物語る

 最初に弁明。
「NO,Thank You!」を聴いて感動したという勢いに任せて、「けいおん」について書きます。
けいおん ED

今までのようにまとまった内容ではありませんが、とりあえず載せてみました。(思ったままを長々と綴っているので、何が書いてあるのか分からないかもしれませんし、純粋なファンは怒るかもしれない。その辺はご容赦ください。)
また、当ブログの最近の傾向とは少々違いますが、前に書いた「時をかける少女」をめぐる話と似たようなものになっています。

、切っ掛け(ここから書くのには訳がある)
このところ転勤等で仕事が忙がしく、帰宅するともう身も心もクタクタだ。そんな疲労困憊状態なので、やりたいこともなかなかできない。それじゃ、休日にまとめてやろうとすると、これも無理。いまは夏休み時期なので、町内会の納涼祭やら娘のラジオ体操の朝の準備やらだとか、とにかく次から次へとやることが増えていく。
会社に、地域社会に、家庭に、といろいろ大変なのだ。今となっては学生のころのように好きなことをして過ごした夏休みが懐かしい。
大人になるというのはこういうことなんだと、つくづく感じている。
で、そんな疲れた心身を癒すのは、娘の寝顔とネットの動画サイトで音楽を聴く(見る)ことだ。(酒の飲める人ならビールでも飲んでといったところでしょうが……。)
過去記事「深夜のロック三昧
最近はこんな感じ。
それにしても、青春時代に聴いていた「音楽」っていうのは、いつまでも忘れないもので、聞けば「あのころ」の時代まで自分を引き戻してくれる。「音楽」にはそんな不思議な力がある。(私の場合は80・90年代の洋楽ロックですが、人によってそれぞれ違いますよね)

いまの自分を癒すものが、過去の自分が熱狂していたものだったというところに気が付いて、少々奇妙な感じがする。

さて、私が好きなのは、素人さんがコピーする「ギターを弾いてみた」みたいな動画。
見続けていくと関連動画の中で、やけに「けいおん」をコピーする人が多いことに気づく。
「けいおん」って萌えキャラの女子高生の話かな位の知識しかなかった私だったが、レスポールを持つカッコいい姿のサムネにそそられて試しに幾つか見てみた。
「GO! GO! MANIAC」「Don't say lazy」「ギー太に首ったけ」などなど……。
お~こりゃなんだ、これはスゴイぞ!と感嘆することしきりで、ただもう驚愕するのみだった。
邦楽を聴いて鳥肌が立つというのも久しぶりのことだった。
私の中でのアニメソングとは、娘がよく見る「プリキュア」や「きらりんレボリューション」、「リルぷりっ」、「ジュエルペット」などで流れるような「アイドル」ぽいものだと思っていた。それがここでは全く違っていた。私が思っていたアニソンというものの範疇を軽く超えていたのだ。
だとしても、昔ギターを少々かじり、洋楽ロックを聞きまくっていた自分が「けいおん」の音楽を聴いて、すんなり受け入れてしまう要素がどこにあったのだろうか。
よくよく考えてみると、「Listen!!」のキーボードの音や「Don't say lazy」「NO,Thank You!」のギターのリフや、「Utauyo!!MIRACLE」のベースの入り方などなど、どこか「懐かしい音」なのだ。若い人には分からないかもしれないが、ロック全盛のあのころの懐かしい「雰囲気」がここに入っているのだ。(中年おじさんバンドがコピーするという話も納得できる。TBSラジオ「現場にアタック」)
だからこそ、昔のロックファンの私にも違和感もなく、これをすんなりと受け入れることが出来たのだろう。(コピーしたくなるような楽曲というのは良い曲だという証拠)

さて、そこから気になってアニメの「けいおん」の本編を見始めることになった。この物語に没入する切っ掛けは「音楽」だったのだ。(ここが重要)
K-on

それからというもの、一カ月ほどかけて1期の14話と2期の19話(現時点)までを立て続けに何度も何度も見た。
もういい歳したおじさんが、仕事から帰ると、夢中になって「けいおん」を見た。疲れた心身を癒すため、とにかく見るのが楽しみになるほどハマったのだ。
これは決して「キャラ萌え」しフィギュアを集めるなどというハマリ方でもなく、特定の声優ファンになるというものではない。(念のため)
では、どこに「はまった」かといえば、(もちろん学園もののギャクアニメとしてみても抜群に面白いが)この物語には何か「特別なものがある」と感じたからに他ならない。
他に、いくらでも面白いアニメや良くできたドラマはあるだろう。
しかし、短期間に通して見続けていくと、「けいおん」は「おもろい」ということ以上に「深い」ものがある、そう気が付いたのだ。
その深みとは、「けいおん」には、音楽性を含めて物語の中にすでに「郷愁」が含まれているということだ。(詳細は後述する)
むかし自分を熱狂させた「音楽」で癒されていた現在の私が、いま「けいおん」に癒されているのは、そこに「ノスタルジック」なもの感じ取って、そこに感応していることにあるのだ!

さて、ここからダラダラと書き継いでいきます。(無駄に長いだけかも……)
まずはここで、これから展開する話のポイントを整理しておきましょう。
1、私がこの物語を「父親の目線」で見ていること。この視点から彼女らを応援しているということ。(大人視点がある=「さわ子」先生の視点) 
2、唯の成長物語であること。
3、唯は何が大切かをすでに掴んでいるということ。
4、そしてこの物語は「卒業」と「大人になること」をテーマにしている。
結、この流れでいけば唯は継承者となる。
ということになる。
さて、唐突だがここで「物語の定義」を挙げておく。

多くの物語の基本構造は、主人公が数々の試練を乗り越えて成長していくことにあり、主人公の冒険の旅や人間が成長していく話が、我々ひとりひとりの「人生」そのものと微妙に重なることによって、共感や感動が生まれてくる。物語の本質は主人公の「学び」であり、成長の過程としての人間の人生そのものが、反映されているからこそ、多くの人が物語にひきつけられていくのだ。(『ショートムービー研究所』「物語をつくる」サイトを参考しました。
http://www.gselect.com/gauzine/46/index.html)

まさに私がこの物語に引きつけられた理由を書いていきます。

、主人公らを見守るような「大人」が入り込む視点が用意されている。

梓「何であんなに新歓ライブに感動したのか分からなくなりました……」
律「よし、演奏するか。その時の気持ちを思い出させるためにさ」
1期・9話から


律が梓に言うこのセリフは劇中の登場人物だけに向けられているものではない。このメッセージは観客にも向けられている。音楽には不思議な「力」があって、それは人と人を結びつける力もある。1期・1話で唯が軽音部に入部する切っ掛けとなったのも、律らの演奏を聞いたからだ。(演奏の巧拙は問題ではないということ)
「音を合わせるって楽しいよね」という唯らの言葉のように、彼女らを結び付けているのは「音楽」である。(お茶やケーキなど飲食もあるが、これは後述)
三島由紀夫は「金閣寺」の中で「音楽」についてこんな表現をしている。
「音楽は夢に似ている。と当時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒状態にも似ている。……音楽は、この反対のものを、時には逆転させるような力を備えていた。」
音楽は、夢のような思い出にもなり、覚醒させる力(つまり呼び起こす力)もにもなるといった意味でしょうか。
もし、彼女たちが大人になり、再び会うことがあるとすれば、あの時の「音楽」が思い出となって語られることになるはずです。(第2期・10話「先生!」のさわ子の逸話につながる。後述する)
一瞬にして青春時代に引き戻す魔力が「音楽」にあるのだ。
音楽や楽器はいつでもその人のその時代に引き戻してくれる。(私のように) 
特にロックにはその力が強烈に備わっている。

「けいおん」を見た私も「あの時代」に引き戻されたわけだが、どんなところだったかいくつか挙げてみると、
唯が床にベタリと座ってギターの練習をする様子とか、律が公園にあるタイヤをステックで叩く姿とか、澪が欲しい楽器の前で買おうか買うまいか逡巡するところなど、そういった何気ない描写が、私の昔の思い出と重なってくる。
人の思い出は人それぞれなので、どこに感応するかは人によって違うが、登場人物と観客との「共通体験」が多ければ、その物語に感情移入出来るということなので、まさにその通りだろう。

また、音楽的な「懐かしさ」も随所に現れる。
さわ子の回想シーン場面で流れるギターがジェフベック風だったり、時々ジミヘンやザ・フーといった名前が飛び出したり、さわ子のギターが白いフライングVだったりする。(私は思わずマイケル・シェンカーを思い出した。最初に練習したのが"Into the Arena" だったので……)、
また「渡り鳥でコージーパウエル(澪のセリフ)」って女子高生がそんなこと言うか、とか、フライングVもどうせなら水玉模様のランディ・ローズモデルにすればいいのに、とか私らの年代しか分からない突っ込みも入れながら見ている。

観客は物語を見ながら常にいろいろなことを考えている。物語の登場人物に感情移入をしていればいるほど、物語の中に没入していき、自分と登場人物を重ね合わせる。
つまりこの物語は、かつてのロックファンも懐かしんで見ることも出来るのだ。
そう、「けいおん」の根底に流れているものは「郷愁」である。
アニメ版では、「木造の校舎」や「教室や階段、校舎」「校歌を歌う学生」、「桜の花びら」「カメの置物」「カセットテープや古いラジカセ」、そして「青空」などなど、これらは郷愁を誘うように、ギャグとギャグの間に差し込まれてる。だから見ていて時折「切なさ」を感じたり、「大人になるという不安感や焦燥感」(特に2期)といったものを感じるのはそのためだ。

さて、もう一つ私が「けいおん」にハマったのは、この物語を「父親目線」で見ているということだ。

この物語でよく登場するセリフがある。それは、「小学生かっ」という突っ込み。
このアニメにおけるギャクに、女子高生が小学生のような言動をするようなところが多く使われている。
例えば、どこにでもシールを貼る、虫よけスプレーをシューとしたいとねだる、ショートケーキのイチゴへの執着心とか、食事前にアイスを食べたがる姿とか……。
小学校低学年の娘を持つ私にはよく分かるが、これは本当に、日常的によくある事ばかりである。
また澪のようにどこか恥ずかしがりで怖がりで、律のようにいたずら好きで、梓のように夏はすぐに日焼けしてしまうところなどなど、もうまるで自分の娘と重ね合わせている。
「お母さんにとっては、澪ちゃんいつまでも子供なんだね。」(2期・3話)という唯のセリフがある。
私は自分の娘の行末を案じるような目線で彼女たちを見守っているのだ。

この物語には唯たちを温かく見守る視線が確かに存在する。しかし、この物語には「親のような存在の大人」が全く登場しない。(先生の「さわ子」や唯に親切な「おばあさん」くらいか)
考えてみれば不思議な世界である。
しかし、彼女らを見守まもろうとする「大人」の視点がここにはある。
矛盾しているが、こういうことだ。
彼女らの親が登場すれば、その保護者である親の視点を通して、彼女らの成長物語を見ることになる。それは特定のキャラクターが設定され、その視点を通して彼女らを応援することになる。だが、そのキャラクターに感情移入できなければ、この物語についていくことができない。
要は、親を登場させないことによって、逆に主人公らを見守るような「大人」が入り込む視点が用意されている、ということだ。(この説明はなかなか難しい。)
私のようにすでに大人になった人間が、まだ大人になっていない(大人になろうとしている)娘を見守るという保護者的視点は、親が登場しないことによって、この物語に入り込む場所が存在していることになる。(またまたこの説明も難しい)
物語上主人公を導く者としての役目を負うキャラクターは必ず存在する。そして、物語上この「保護者的視点」を集約させて表しているのが、実は「さわ子」という存在なのだ。(これが明確に表れるのは2期・10話「先生!」である。過去記事でいえば、アニメ版「時をかける少女」の芳山和子にあたるだろう。)
「新歓ライブ」や「文化祭ライブ」では会場の端で常に彼女らを見守っている。
つまり私もこの視点に立って見ているのだ。
けいおん さわ子先生

何を見ているのか、それは彼女らの「成長」を見ている。
そして、さわ子を含め私のような大人はよく知っている、音楽(特にバンド)は若いうちに出来る一時の情熱であるということを。
だからこそ、そこに情熱を傾ける「今」が大事だということを身を持って体験している存在なのだ。

私のように音楽からこの物語に入った者は、ロックをやる部活「軽音部」などというものに熱中する少女たちに自分を重ねて応援したくなるのかもしれない。(ケーキばかり食べてあまり練習していないが……。だがそこが面白いところでもある)
また、私のように子供を持つ親には、青春を謳歌している彼女らにエールを送りたくなるのかもしれない。(ただそれを臭い青春ドラマにしていないところがいい。)

一見「けいおん」はゆる~い女子高生萌えアニメに見えるが、実は「青春ドラマの王道」がその根底にあるのだ。

、成長物語

この物語が、大きな流れにおいて「少女の成長物語」であることに異論を挟む者はいまい。
「少女の成長物語」という点において「時をかける少女」や「千と千尋の神隠し」と同じような系譜にあるといっても過言ではない。
過去記事で同じようなこと言っているので参照してください。

で、それを明確に表しているのが第1期の初回第1話と最終回12話の対比である。
1話の冒頭と12話の終りで成長の後が見られる。(詳細は他のサイトでも散々語られていますので、そちらを)

「そういえば入学式の時もこの道を走った。何かしなきゃと思いながら、何をすればいいんだろうと思いながら……。このまま大人になっちゃうのかなって思いながら……。
ねー、わたし、あのころのわたし。心配しなくていいよ。すぐに見つかるから、私にもできることが、夢中になれることが……、たいせつな、たいせつな、たいせつな、場所が……」(1期・12話)
と唯に独白させている。
もうすでに唯は何が大切かを掴んでいるのだ。
天然ボケのような愛すべきキャラクターで造形されている唯だが、確実に大人への成長をみせている。
ジェームズ・ボネット著「クリエイティブ脚本術」(フィルムアート社)から一節引いてみます。

①アーキータイプ(元型、典型) ヒーロー(エゴ)欲望
発生期のエゴ  今にも目覚めてヒーローに形を変えようとする時期。意識を確立するプロセスに入ろうとするのは意識自身が欲していることでもある。成長したいという望み、人生において何か意味のあることをしたいという望み、何かに貢献して、潜在能力をすべて使いという望みは意識が持っている。
問題を認識したり、責任を自覚したり、誘惑に耐えたり、幸福を分け合うといった発想は人の中から芽生えてくるものであり、それはエゴの利己的でない、ポジティブな側面であるということができる。
物語における発生期エゴは自分自身を証明する前の物語の序章の部分の主人公にあたる。「スターウォーズ」ではオビワンに出会う前のルーク、街でぶらついていたころの「ロッキー」、「羊たちの沈黙」ではレクターに会う前のJ・フォスター、「恋に落ちたシェークスピア」ではビィオラに会う前のシェークスピア。観客はヒーローを見極め、そのヒーローは観客を引き込んで、物語が推移(ヒーローの心理変化)しながら導いていく。 ヒーローがエゴの元型であればある程物語の受け手は強くヒーローに自分を重ねることになる。そしてヒーローが自分もそうなりたいと思えるような存在であったなら、その物語は受け手の人生に大きな影響を与える。

唯はまさしくこれに類する。そして、何が大切かを「けいおん部」(つまり日常)の中で掴んでいった。
「けんおん」を見ている者は、ギャグの面白さとキャラクターの造形によって笑いながらも物語に引き込きこまれ、彼女らと時間を「共有」することによって共に「共通体験」をしている。主人公らに感情移入した我々は、結果、彼女たちの「成長」を見守ることになる。
だから、高校の入学式で始まったこの物語は、彼女らが成長し高校を卒業すればそこで一定の終りを見せるはずである。彼女らが高校(つまり「けいおん部」)を卒業すれば、彼女たちと同じ様に感動もすれば、また同時に物語の終了という「悲しみ」を味わうことになる。

さて、女子高生のゆるーい日常アニメに心を動かされたのは、何よりもしっかりとした「少女たちの成長物語というテーマ」が根底にあるからに違いない。
これは別に「殺人事件が起きたり」「甲子園に行ったり」「モビルスーツを着て敵と戦う」なんて特別なストーリーなどなくとも十分に心を掴む物語が成り立つことを証明している。
それは、日本のアニメやマンガの幅の広さと物語性の高さを、こんな「萌えキャラアニメ」でも窺えることができるのだ。
それに引き換え、最近の日本のドラマや映画はどうであろうか。
誰が別れただのくっついたなどというどうでもいい恋愛話や、やはりこいつが犯人だったとか実は死んでいなかったとかいった観客を小馬鹿にしたのような推理ものドラマや、聞いたこともない難病にかかった主人公が余命数か月で出演者が泣きまくる(お涙頂戴を観客に要求する)ドラマや、正面切って「青春は素晴らしい」などとわめく青臭い説教臭いドラマや、金属バットを振り回して暴れまわり他人をボコボコにして「これも青春だ」などとのたまう作者自己満足映画……などなど、そんな話ばかりを見せられている。
だからこそ、過激な出来事も劇的な事件も起こらないこんな「ゆる~い日常アニメ」が逆に私には新鮮に映ったのかもしれない。
ただ人によってどこに感応するのかが違う。「ルーキーズ」のような臭いドラマにも感動する人がいるくらいだから「けいおん」を見てつまらないという人がいてもそれはそれでいい。人によって、感応するところは違うし、ましてそれを「特別」なものと感じるのは人それぞれだから。
(話がかなり横道にそれました。元の話に戻します。)
『ショートムービー研究所』「物語をつくる」サイトからの引用
http://www.gselect.com/gauzine/46/index.html

「英雄伝説の基本構造」によると、多くの物語は主人公が数々の試練を乗り越えて成長していく過程を描いたものであり、主人公の冒険の旅と観客の人生の旅が重なることによって共感や感動が生まる、という側面があることを書きました。
物語というのは、時間的経過によって起こるある種の「変化」を描く芸術でもあり、その変化は、主人公の「学び」や「成長」によって象徴的に表現されていきます。主人公のキャラクターを造形していく場合も、その「変化」を前提に考えていく必要があるようです。
主人公の変化を考えていく場合も、やはり「思考」と「感情」の変化が重要になってきます。何らかの出来事をきっかけにした主人公の内面的変化が「行動」という外面的変化に反映されるためには、「思考」や「感情」に何らかの変化が起こっていく必要があります。
キャラクターを作る場合にも、変化によって成長する前と、成長した後の対比やコントラストが明確になっているほうが、物語の展開もメリハリがつきます。ただ、その変化や成長に真実味があるかどうかは、その変化の過程における主人公の微妙な内面的変化がよりリアルに描かれているかどうかにもかかってきます。人間、そんなに急にはなかなか変化できないものなのですが、その変化に説得力があるかどうかは、物語の展開や出来事の内容が関係してきます。もちろん、すべての物語にリアルさを追求する必要もなく、荒唐無稽に唐突に変貌する主人公がいても、それはそれでおもしろいかと思います。

さて、この物語が全体を通じて「少女たちの成長物語」だというのは随所に表されています。
特に2期に登場する「カメ」は唯の成長を象徴している。
2期・11話「暑い!」
梓「水槽に合わせて大きくなるらしいので、成長させるには水槽を替えないといけないそうです。」
澪「そうか、脱皮しているということは……」
唯「トンちゃん(カメ)も成長したがっているんだよ」
といった分かりやすい会話でも分かるし、「そうだ、私たちも脱皮すればいいんだ!」唯の何気ない言葉にも表れます。(これもギャグで落としてますが)
このカメについての解説は他サイトにいいものがあったので、リンクしておきます。
http://ameblo.jp/cola-tea/entry-10555338382.html
2期9話「期末試験!」の回では、唯がいつも親切にしてもらっている「おばあさん」に頼まれ、町内会のお祭りの行事に参加するという地味な話がある。大きな展開を見せる回ではないが、唯はここで大きな経験を積むことになる。
それは社会とのつながりを持ち、地域のコミュニティーに自主的に参加したということだ。これは大人になるという意味において彼女のとって大きな進歩となっている。「大人になる」というと「性的経験」ばかりが強調されるが、実社会においてはそうではない。社会とつながりを持つというのは「大人」へのステップの一歩となる。
佐藤有耕編「高校生の心理」(大日本図書)

何かの委員や役員を経験したことのある人は、はじめてそれを経験したときのことを思い出してみるとよい。そのとき、緊張と不安とともにどれだけ晴れがましい気持ちだっただろうか。その役割をうまくこなすことができたときにどれだけ充実感があっただろうか。そのような「役割期待に沿おう」とする気持ちが、人を変化させるのである。

これは、マズローの欲求段階説にあたるだろうか。
そして、この回において おばあさんは「さわ子」と同様に、物語上、唯を見守る支援者であり、主人公を「大人になるという」物語の終着点へ導く役目の一人となっている。(唯の幼時からの回想シーンでも分かる)
つまり唯ら登場人物を応援する意味において、私もこのおばあさんの視点で見ていることになる。

さて、「けいおん」では「空」のシーンが異様に多い。
そして、「風船」というのも印象的に使われている。
2期10話「先生!」さわ子の卒業の回想シーンでは青い風船が上がるシーンがある。
けいおん さわ子卒業

1期・6話「学園祭」では、唯たちの演奏が始まる前に風船が上がる。初ライブであり、唯の成長一つとしての象徴のようだ。
けいおん 風船1
そして風船は「夏フェス」「最終回」でも描かれているので、成長の暗喩なのではないか、と思う。
風船は空に舞い上がるまでが「つぼみ」の状態であり、それが空に上がることによって、成長を表しているのかもしれない。
オープニング曲では、空に「虹」が出て指を指すシーンもある。
けいおん 虹

さて、「かきふらい」の原作も読んでみた。
けいおん 原作
これを読んで知ったことだが、こういった「成長物語」としての印象的シーンはアニメ版で味付けされたものだった。となれば、アニメ化にあたり付加された部分(音楽も含め)に私は感応しているともいえる。(「京都アニメーション」の思うつぼにハマったのか。……まあそれでもいいんですけど)

主人公らが成長して、いかに大人になるか、その過程を描くのが、「青春ドラマの王道」だ。
しかし安ぽっい青春ドラマはこれを「恋愛ドラマ」にして、性的経験に重点を求める。しかし、このドラマが他を圧しているのは、恋愛を排して、日常やギャグ、キャラクターの造形のみでそれを表現しようとしている点にあり、それで十分に成功していることにある。
性的体験が豊富であることが「大人になった」とは決していえない。むしろ精神年齢が低いほど、恋愛経験や性的経験が多ければ多いほど「大人になった」と考える向きがある。その傾向のもとに作られる恋愛至上主義ドラマがいかに多いことか。またこれらがいかに見るに堪えないほど程度が低いことか。
「モテたい」「いつも恋をしたい」といった恋愛欲望と「金もうけをしたい」「金持ちになりたい」といった金欲願望、そんな欲望を叶えることが「幸せ」だという世の中の風潮があって、またそれを一層煽るようなドラマやアニメが作られることが多い。
そんな中でありながら、「けいおん」という物語は「恋愛・性的経験を一切用いずに友情と自己実現だけで少女の成長物語を成立させたこと」ここに大きな成功のカギがある。(まあ多少の「百合」と「萌え」はありますが…)


、すでに掴んでいる唯
さて、この章が問題です。別にここはなくてもいいくらいなのですが、どうしても気になったところなので、まとまってはいませんがとりあえず載せてみました。

ポイントは「唯は、何が大事かということを掴んでいる。いやすでに悟っている」ということです。
唯の言葉を一々取り出して見ると、これが中々奥深い。時に彼女が発する名言にハッとすることさえある。
「ほ~げ~」と天然ボケを炸裂させている唯だが、直感的な天才型(「長嶋茂雄のようなタイプ」例えが古っ)で物事に囚われないという性格であり、ある意味これは「直観」に近いかもしれない。
(2期16話「先輩!」の中での「ピンクだね」「もう一回トイレ入ったね」といった感じに、見たままを直観的に捉えるタイプである。それは音楽にも表れていて、チューナーを使わずにチューニングができる絶対音感があるとか、楽譜や音楽記号が読めないが演奏は出来るとか、取扱説明書を読まないといった、物事を論理的に考えるのではなく感覚的天才型なのである)

いくつか例を挙げてみます。
2期・16話「先輩」
少し自信を持てなくなった梓に唯はこんなことを言います。
梓「このくらいでないと私ではないですよ。……」
唯「あ~あずにゃんはなかなか難しいこと考えるんだね。私はあんまり考えたことなかったな。う~んだってさ、あずにゃんはあずにゃんだもん。りっちゃんはりっちゃんで、みおちゃんはみおちゃんで、むぎちゃんはむぎちゃんだもん。だから、私そんなこと考えたことなかったや」

何か、これなんかまるで禅問答みたいですが、よくよく考えてみると結構深い。
唯は語彙が少ないので饒舌には語ることはないが、本人は何が大切なのかを既に悟っている。
ここでは、それは個人の個性を尊重するという「みんな違っていい」の金子みすずの境地まで達しているといえる。過去記事
これは、唯「あずにゃんは、バナナ(ケーキ)だと思う。だから取っておいて」(2期・1話)というセリフでは、いない人の分を取って置いてあげるというシーンがある。唯は「他人への思いやり」を十分に持っていて、自己を認め他人を認めるという意識も持っている。

2期・17話「部屋がない!」から
唯「大切な大事なもの いつもそばにいてくれる。 でもそれが当たり前になっていると気づかない」

これは、諦観した高僧のようだ。
境野勝悟著「道元・禅の言葉」(三笠書房)から引いてみる。

幸福を外に求めない(「大衆をして受用し、安楽ならしむべし」<典座教訓>) 
なぜ「おいしいもの」が人をしあわせにするのか?
うまいものを食べたときほど、楽しいことはない。「ああ、うまい。ああ、おいしい!」とありがたく思ったときは、どんな人でも、苦しみや悩みが、サッと消えてしまうだろう。
わたくしたちは、どんな修行をしても、安らかで楽しい気分を外に求めて、それをつかんだ人は一人もいない。極楽世界を、世の中に探しても、どこにも見つけることはできない。たとえ、探したとしても、二、三年もすれば飽きてしまう。 浦島太郎も竜宮に飽きてしまった。
「食事がうまくて嬉しい」「こんなにおいしくて幸せ」こう感じたとき、実は、幸福を外に求めないで、自分のままで、自身が安楽な仏様になっているのである。人は、食事をいただいて、心安らぐ仏になるのだ。

たしかに「けいおん」では食事のシーンは多く、みな食べているときは幸せそうな笑顔を浮かべている。そして上記記載の「思い悩む梓に諭すように言ったあと、こう言います「あ~、むぎちゃんのケーキが食べたい」と。もちろんギャグの形になっていますが、「食べる」という行為の中に真理があると諭しているようで、唯はまさしく「悟得者」のようです。
「けいおん」には食べる、飲むというシーンが異様に多いが、これは結構、「生きる」という意味において真理を突いているのではないかと思える。(私的には「弁当」のシーンが多いのはうれしい。過去記事「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」。「サマーウォーズ」と「エヴァ」と「コボちゃん」)

ほかにいくつか挙げてみます。
けいおん 「無心でお茶を飲む」

無心でお茶を飲む(「他人にしたがひてうるにあらず」<道得>)
趙州和尚の所へ、禅僧たちが教えを請うてやってきた。趙州さんは、玄関にやってきたある僧に、「あなたは、これまで、この寺へ来たことはありますか」といった。「ハイ、何度かあります」「ああ、そうか、じゃ、お茶を飲んでから帰りなさい」と……。次の僧にも、「あなたは、これまで、この寺へ来たことがありますか」「いえありません」「ああ、そうか。じゃ、お茶を飲んでいらっしゃい」……。すると、趙州和尚のわきでこの話を聞いていた院主さんが、「なぜいままで寺へ来なかった人にも、『お茶を飲め』というのですか」とたずねた。趙州和尚は院主さんにも「あなたもお茶を飲んでいらっしゃい」といった。
仏教の悟りを他人から教えてもらおうとしても得られない。どんな偉いお坊さんから言葉で説明されても、他人から得ることはできない。お茶をグッと飲む瞬間、理屈抜きで「ああ、うまい」と感ずる生命の尊い力を、自分で自分の体の中に発覚するのが仏教の悟りだ。寺へ来ようが来まいが、お茶の味は、だれでも同じではないか。

けいおん部で問題が起こったとき、行き詰まったときに、唯らはどうするか。そうまず「お茶」を飲むんですね。この達観した感じはなんであろうか。

「いま」力を出すことに専念する(「うを水ゆくに、ゆけども水のきはなし」<現成公案>)
「うを水ゆくに、ゆけども水のきはなし」とは、魚が川や海を泳ぐときに、けっして、あそこまで泳いで行こうというような目的は持っていない、ということである。道元の提唱する生き方は、「無目的」の生き方である。明日、あさって、一年後、二年後に目標を定めて、今日を生きることではない。今日自分がしようと思うこと、いま自分がしなくてはいけないことに没頭して、明るく元気に「いま」を生きることなのだ。その努力の結果については、一切、自然まかせだ。そこには、競争はない。みんなで、自分を自分らしく、信じ合って、仲良く生きていく。

1期9話「新入部員」での澪のセリフ「やっぱり私はこのメンバーとバンドするのが楽しいんだと思う。お茶を飲んだりダラダラすることもあるけど、それも必要な時間なんだ」メンバーみんな悟っているような感じです。

1期・8話「新歓!」での唯と憂、姉妹の会話。
憂「軽音部の一番いいところって何?」
唯「楽しいところかな」
憂「楽しいって?」
唯「楽しいは楽しいだよ

これも深いです。
今度は、ジェームズ・ボネット著「クリエイティブ脚本術」から引く。

人生の中で一つの勇気ある行動がいかに大きな違いを引き起こすかということだ。……ちょっとした勇気ある行動が人生の未来を大きく変えてしまうことだって少なくはない。その事実を知っておくことはとても意味のあることだ。
最後の例としてお伽話「アガ・ババ」を挙げてみよう。若き主人公のアガ・ババは大冒険の途中、魔女の家で休憩をとる。魔女は彼の冒険を遅らせようと難しい質問をぶつけてくる。「真実とはなんだ」とか「世界の終わりはやってくるだろうか」などといった類の質問だ。そこで賢い主人公は魔女に「黙ってさっさと食べる物をもって来なさい」と言う。
この物語が語っている英知はごくシンプルなもので、行動が必要なときには、実態のわからないものに気をとらわれるなということだろう。たとえば仕事をみつけなければならないときに、答えの出ない問題や無限性について家のなかでうだうだ考えていても何の解決にもなりはしない。これだけでもすでに三つの大切なアドバイスを得たことになる。自分自身を変えれば運命を変えることができる、ちよっとした今日の勇気が未来の人生に大きな影響を与える。そしてその行動が行動が必要なときには計測が不能なものにこだわるべきではない。これからもまた少しずつ蓄積されて導きだされたものであり、一つ一つの物語が、秘められた真実のほんの一部を会間見せてくれているにすぎない。こういった一つ一つの情報を蓄積して、自分に役立つ百幾つもの情報として受け止めることができれば、もう怖いものものなどない。自分が何をすべきなのか自分でしっかり理解できることだろう。

「楽しいは楽しい」という答えはスゴイ。これは「悟りを開いた人」の境地だ。

2期10話「先生!」の回では、こんな自問がある。
大人ってすごいよね。私も大人になったら大人になるのかな
これも深い。補足すれば「私も大人のような年齢になったら、大人のような行動ができるかな。私もちゃんとした大人になりたいな。」といった意味となろうか。
以下、佐藤有耕編「高校生の心理」から引いてみる。

高校時代に直面する問題は、自分の人生と向き合うきっかけになる問題である。自分と向き合い、自分の人生を賭けていくものに出会うことができ、それを精一杯生きるなら、高校時代はその人の人生の中でかけがえのない時期になる。もっと後で人生の目的を見出す人もいるのだが、15・6歳はそのはじめての機会に成り得る時期である。それまで親や社会一般がよいとしてきた価値観に疑問を感じ、自分の価値観を創ろうと模索している状態をモラトリアムという。そして、自分の人生の目的に向かって、自分の人生を賭けて生きている状態をアイデンティティの確立した状態という。高校時代にアイデンティティを確立するのは、現代の日本ではむずかしいかもしれない。でもときどき心を澄まして、自分自身に向かい合うと、自分が人生の目的を決めるという問題にぶつかっていることに気づく。モラトリアムの時期を生きていることを自覚し、迷いながらモタモタしている状態を生きていくことが、アイデンティティを確立には必要不可欠なのだと疑問をもち迷いながら歩んでいくその過程を楽しんでみてはどうだろうか。

これは、現役高校生に向けたメッセージとなっている。最後の問いかけ、「楽しんでみてはどうだろうか」というという問いに、唯らけいおん部のみんなは見事に青春を謳歌していると言えるのではないか。

2期・12話「夏フェス」から。
散々プロの演奏を聴いたあとで、唯「でも私たちの演奏のほうがスゴイよね」と言います。
そこにいたメンバー全員が唯は何言ってんだと突っ込みを入れますが、すぐにその真意を知って、
澪「そうだよな。放課後ティータイムの方がスゴイバンドだよ」
梓「そうです。私たちはプロにも負けません。」
唯「これからもずっとみんなでバンドできたらいいよね」
全員「うん」
澪「ずっと、ずっとな」


これは決して「演奏が上手い、下手」ということを問うているわけでありません。
唯「これからもずっとみんなでバンドできたらいいよね」というのはまさに反語的であり、バンドが永遠に続くなどとはみんな思っていないだろう。だから「いま」が大事、みんなとこうして過ごしていられるこの瞬間が大事だと、皆が感じているに違いない。(ここは十分大人になった「父親目線」で見ると余計に切ないのだ!)

「いま」に満足する (知足<八大人覚>)
知足とは、いままで得たことに、満足して、心安らかに生きることである。ああ、こうして六十歳まで生きられて、ありがたいことだ大好きな人と出会えて、まことに、幸せだ。どうにか三食無事に食べられ、みんな健康で、もう文句をいうことは一つもない……と。いままでの自分が得た生活を振り返って、文句をいわず、ああよかった、と満足して生きる。これを知足の生活という。人生、欲をいえば限りがない。ああ、これでよかったのだと「足る」を知れば、だれもが、簡単に苦痛から解放されるのだ。人生の悩みを消すのは、簡単なのだ。将来に欲を張らず、いままでの人生の何か一つにでも満足して感謝すれば、心はすぐに安らかになる。

大声を出して笑う  (「凡界の測度にあらざるなり」<夢中説夢>)
友だちとビールを飲んで、盛り上がってくる。と、ちょっとしたことでも妙に面白くなって、みんなケラケラ笑う。こんなに大声で笑っては、はずかしいと思っても、止まらないで、ギャーギャー笑ってしまう。
人間が、なぜ笑うのか。現代の先端を突っ走っている科学者たちがどうしても、解明できない。笑うと原動力は、学者の科学的な頭では、どうしてもその実態が捉えられないのだ。
人間は、頭でわからないものは、価値がないと思って無視する。それが、不幸のもととなる。それが傲慢のもととなる。実は、頭で捉えられないものが、わたしたち一人一人の人生を支えていたのである。
趙州和尚の所に、二人の僧がやってきて、「仏とは何か」と問うた。そのとき趙州は、「うわっははっ、うわっははっ!」と大声で笑った。趙州の「呵呵大笑」(かかたいしょう)という。自分の中に、笑ってくれる仏がいる、という考えだ。

「幸せ」に理屈はいらないのかもしれない。
オープニング曲「Utauyo!!MIRACLE」の歌詞
大好き 大好き 大好きをありがとう
歌うよ 歌うよ 心こめて今日も歌うよ

とあるように感謝と愛と笑顔にあふれている。
「対面すれば破顔」<仏向上事> 「破顔」とは、笑うことである。社会生活や家庭生活の中で、笑顔一つが、どんなに平和な幸福をもたらしているか。
「けいおん部」の彼女らは笑顔で満ちている。
けいおん 笑顔
そしてそれを見ている私も笑顔になる。
これだけで、この物語は私にとって「特別なもの」になっているのだ。

、この物語は「卒業」と「大人になること」をテーマにしている。

唯にとってギター(ギー太)は楽器であること以上に、友であり、恋人でもある。それは仲間とつながる道具でもあり、社会とのとながりをもつことのできるモノでもあり、自己実現をする道具でもある。
唯が高校に入学したてのころの「不安」を一気に打ち払ったものが「ギター」である。
けいおん 唯とギー太

ジェームズ・ボネット著「クリエイティブ脚本術」から。(以下、物語上のキャラクター説明はこの本からの引用)

主人公が成長し、物語が進んでいくためには、より大きな、高い次元からの力が必要となる。それは傑出した力(例えば、ソロモンの泉、魔法の力、最終兵器、タイムマシンなど)や潜在能力(本人の能力、知力体力、または愛、財力など)またはエデンの園、ユートピア、未来の国など場所として描かれることもある。これらを手に入れた主人公は新しい展開をする。
これがアンチヒーローの手に渡ることもある。これは魔法だったり、世界を滅ぼす最終兵器だったり、ドラキュラの牙だったりする。

唯とギターの関係はこのようになる。物語上では、唯が大人になるステップアップの道具として「ギター」が使われていることになる。
だが、唯のギターもプロにでもならない限り、それもいつかは卒業することになる。(または趣味という形として存続していくこともある。例えば、私やさわ子ように)
音楽(あるいは部活動)が、一時的情熱であることを「大人」は十分に知っている。さわ子や2期・10話に登場する友人がそれをよく表現している。
2期・10話「先生!」 
さわ子の同級生で軽音部だったクリスチィーナは唯のギターを手にして「久しぶりだな」と言う、このことからみてもギターに長い間触れていないことが分かる。つまり高校時代にあれほど熱中した「音楽」から離れてしまったことになる。
ギターを弾くクリスチィーナを見て、唯は「何かかっこいいな」とつぶやく。
これは、未来の自分を暗示しているのだ。
そして、「大人ってすごいよね。私も大人になったら大人になるのかな」という禅問答のようなセリフを言うシーンにつながるわけだ。(この後、唯は「お茶」を憂に頼む。象徴的に。)

また、クリスチィーナのセリフ(唯たちの妄想場面で)音楽は魂で奏でるものでしょ。魂があれば楽器なんかなくても音は聞こえるはず。というのも意味が深い。
音楽や楽器が過去のものとなり、今の自分を慰めてくれる「魂」のような存在になる、といった意味に取れる。(「序、「切っ掛け」で示したように現在の私)
そして唯は仲間にこんなことを言います。
1期13話「冬の日」、唯はみんなに「私をおいて大人にならないで」と。
佐藤有耕編「高校生の心理」(大日本図書)から。

みな15・16歳のときに、「自分はなぜ生まれ、どう生きたらよいのか」という人生の問題にぶつかり、自分の答えを見出そうとし始めている。「人生の問題にぶつかり、自分なりの答えを見出そうとし始める」
高校生が迷うことは無駄ではない。高校生の迷いやとまどいは、人生の問題につながっているのである。
自分の意志で自分の道を決定することを、周囲から要請される。それらの結果、これまでの安住の地から脱出しようと試みるのである。


高校3年生になった唯たちに、先生のさわ子は言う。
「あなたたち1年って短いわよ」2期1話
さわ子は「指針を与える存在」であり、唯たちを「卒業(大人への成長)に導く役目」が与えられている。

知識、知能、理解力、判断したり、クリエイティブな思考をしたりするキャラクターの感情タイプ同様、大きな欲望をもった存在として描かれない。すなわち主人公に示唆をする役割となる。ヒーローがそのゴールを成就するのに必要な知識をもっているということだ。「スターウォーズ」のヨーダ、「ゴースト」のw・ゴールドバーグ、「ライオンキング」のシャーマンヒヒのラフィキなど。<中略> これらのキャラクターは主人公を愛し、育み、守り、社会的な責任を教えてくれる存在である。またどのような職業についたらよいかアドバイスをしたり、他人や社会とのかかわり方について助言したり、感情的な問題の解決を手伝ったりする存在となる。これらのキャラクターはべつに両親である必要はなく、友人、同僚、親類、赤の他人でもよい。
ネガティブキャラとしては、魔術師、魔女、裏切り者、邪悪な天才などとして描かれる。彼らはホールドファスト(変化を嫌う衝動のこと)に残忍な陰謀を授けたり、暴君へ導いたりする

まだ成長しきっていない唯らを大人になる=卒業まで導くのが「さわ子」の役割となる。(無論、全編ギャグ満載なので、「さわ子」もユニークなキャラクターに造形されているが、全編通して見れば、それは良く分かる)
だから、軽音部出身のさわ子は、唯らと過去の自分を重ね合わせて、「青春時代の今が大切である」と彼女らをサポートしていることになる。ライブでは片隅で彼女らを見守り、ピンチの時は手助けをする。(唯の替わりにギターを弾く、1期12話など)

唯たちけいおん部の少女たちの成長物語として欠くことのできないエピソードが「進路」であり、「先生」であり、「お茶会」である。
2期7話「お茶会!」
唯「なんか大人の発言」
むぎ「女子大生だもんね」
りつ「卒業して大人になって澪ファンも卒業したってことか」
梓「そんなことはないですよ…(否定する)」
澪「私も卒業したら、そんな風になちゃうのかな……」
律が勝手にナレーションを入れる「そのとき澪の心には友人たちと過ごした日々が走馬灯のように……」
とギャグにしているが、彼女たちの卒業後の不安感を表している。
「お茶会」に登場する先輩がここに出席しなかったことが重要だ。すべては思い出として語られる。
だから、「青年よ 大志を抱け」のクラーク博士像の前にいるのは、ベタではあるが実に象徴的である。
けいおん 「大志を抱け」

この物語が「卒業」をテーマにしたものだから、そこに情熱を持っている今が大事ということをこの物語は全編を通じてテーマとしている。

この物語が始まる第一回目のファーストシーンは何かといえば、それは唯の「中学の卒業写真」である。
そこで聞こえてくるのが「カチカチ」と時間を刻む時計の音。
高校入学式の日から始まる物語は、卒業する日つまり終幕に向かってカウントダウンをすでに始めているのだ。

これは「カメ」が象徴していることで、ゆっくりであるが確実に進む時間を意味している。
カメは時間の象徴でもある。
それはカメのようにゆっくりとであるが、確実に時を刻んでいる。
けいおん かめ

この物語の特徴は「目的を達成して終わるのではなく、時をもって終了するということ」にある。
学生時代は本人たちが望もうが望むまいが、時がくれば否応なしに終わる。
それは、大人になることは、青年期の「情熱」も終わることを意味する。
つまり、楽しい高校時代を描いているが、それは「卒業」への道筋を描いていることにもなる。
したがってこの物語のクライマックスは「卒業」にあり、(その後の「女子大受験」は後日談に過ぎない)、ともに物語を通じて「共通体験」をしている観客もここで、大きな感動とともに、「卒業」=「終幕」という切なさに包まれることになる。


2期・12話「夏フェス!」から。
唯「でも私たちの演奏のほうがスゴイよね」
……
澪「そうだよな。放課後ティータイムの方がスゴイバンドだよ」
梓「そうです。私たちはプロにも負けません。」
唯「これからもずっとみんなでバンドできたらいいよね」
全員「うん」
澪「ずっと、ずっとな」

そう「放課後ティータイム」は永遠には続かない。それを彼女らは知っている。永遠に続かないということを主人公たちもしっかりと意識しているし、それを、観客にも意識させている。何か祭りの後の虚しさにも似ている。(それをよく知っているのが「さわ子」である。)

2期1話では唯が「桜の花」に見入って、その花を拾い集めるという心を掴まされるシーンがある。(「けいおん」が凡百のドラマや映画と一線を画すのは、こういう美しいシーンがさりげなく挿入されているところにある。)
けいおん 桜の花びらを拾う唯
唯はすでに何かを掴んでいるので、そこに「時の経過による無常感」を感覚的に得たのかもしれない。
良寛の俳句にこんな句がある。
「散るさくら 残るさくらも 散るさくら」
境野勝悟の解説では「毎年、同じように美しく咲き、しかし、あっという間に散る。そこに宇宙の法がある」楽しければ楽しい日々ほど、終わりが近づくさみしさが際立つ。この物語は「終わり」に向かって着実に進んでいるからこそ、「切なさ」を感じることができる。ここに私は郷愁を感じ、ある種の「仏教的真理」を見ることになる。
高校時代というのは、長い人生において異質な時間であり、特別な時間である。しかもそれはあまりにも短い。
その時期を無為に過ごすことも多く、青春がすばらしいという臭い言葉も、その時は気が付かない。それを知るのは大人になってからである。

この物語は、恋愛や家族の話を削除することによって、より明確に成長物語を際出させている。
各々の人が「特別なもの」を知る(得る)ということが大事である。
唯たちは日常の中でそれを掴んでいった。(紬は着実に「社会的経験」を積んでいくところでも分かる)
だからこそ、そこに気づこうとする物語りの登場人物たちを応援してしまうのだろう。
私は、これからこういった時期を迎えることになる自分の娘に重ねてしまうのだ。

倉田百三の名言「青春は短い。宝石の如くにしてそれを惜しめ。」がこの物語に合っている。

 この流れでいけば唯はさわ子の継承者となる。(だたしここは蛇足部分。)

では、卒業後の彼女たちはどうなるのだろうか。
原作では、女子大学を4人が一緒に受験するということなっているので、このまま継続して「けいおん 女子大編」が作られるだろう、と思っていたら、合格発表を持って原作も終了するという。
寂しくもあるだろうが、これを「少女の成長物語」とするなら、ここで終了というのが最もいい終わり方だろう。(むろん「女子大編」「後日談編」があってもいいが。)
ただ、この物語を「保護者的視点」で見ている私は、彼女らがどのような将来を迎えるのかがとても心配なのである。(ここまでアニメのキャラに引き込まれるというのも珍しい)
無粋ではあるが、どうなればこの物語がどのような終着点を向かえれば綺麗に収まるかを少々考えてみた。
結論からいえば、「さわ子の継承者は唯である」ということだ。
この物語の題名が「けいおん」つまり「軽音部」ということであり、これは「平沢唯とズッコケシスターズ」とか「にぎりこぶし」とか「放課後ティータイム」とかではないということである。
あくまでも「けいおん部」という場所が舞台であるということ。ここが重要。
けいおん 校舎(桜が丘女子高校の校舎、この「音楽準備室」が舞台となっている)
もし続編があるなら、「けいおん部」を舞台としなければならない。ここを踏まえればならない。

さて、多くの映画、ドラマで展開される物語の一つとして、「伝説の継承」というものがある。教授されていた者が成長し、今度は教授する側に回る。世代が変わって、新たな主人公たちを物語のゴールへ導くという流れだ。
代表的なものに、「スターウォーズ」のヨーダ→クワイ・ガンジン→オビワンケノービ→ルーク・スカイウォーカーといったものや、「ゴッドファーザー」の父から息子、黒沢明監督「赤ひげ」の老医師(三船敏郎)から若い医師(加山雄三)へ、ロン・ハワード監督の「バックドラフト」の兄から弟へ、「役割」や「権威」などが世代代わりとともに移行していくということ。
となれば、「けいおん」では唯がさわ子の後継者になるということだ。
2期10話「先生!」さわ子の卒業の回想シーンに上がる風船と1期6話「学園祭」で唯たちの演奏が始まる前に風船が上がるシーンの類似。(画像は上記)

担任に提出する進路希望を突き返されるシーンは後の唯の場面と同じ。
けいおん さわ子と先生(2期10話「先生!」さわ子の回想シーン)

けいおん さわ子と唯(2期8話「進路!」さわ子は唯と律の進路希望の用紙を突き返す)
だが、この後にさわ子の顔のシーンが入る。

けいおん 昔を思い出すさわ子
遠くを見つめる顔で、昔を懐かしむような表情だ。セリフがあるとすれば、「昔の私と同じだわ…」とつぶやくはずである。

原作では2巻にこんなシーンが、
けいおん さわ子の先生
けいおん部部室で寛いでいるさわ子先生を他の男の先生が怒っている場面。
そして、生徒の律に「お前らもこいつが顧問で大変だろうがちゃんと面倒を見てやってくれ」と男の先生が頼みます。この男の先生はさわ子の学生時代の先生だった。つまり上の画像にあるさわ子の担任教師である。

唯がさわ子の「継承者」となる伏線はあちこちで見られ、上記でも検証したとおりである。
唯が女子大を卒業し、桜が丘女子高校の先生となり、けいおん部の顧問となる。つまり「さわ子」の役目を負うことになるというのが、これがこの物語の自然な流れだと思う。
つまり「唯の先生編」だ。
(そして、私の妄想は広がり、資産家の娘の紬が桜が丘女子高校を買い取って「理事長」、澪は教えるのが上手いからやはりこの女子高の教師、律の弟と梓が恋人同士となる(この恋愛フラグは立っている)ので義理の姉妹……)
2期17話にこんな会話がある。(工事で使えなくなった部室に帰ってきた場面)
「帰ってきたよ! 帰ってきましたよ~ 生還したよ!」
律「何かいいな」
梓「ほっとします」
唯「ここで練習できるなんてありがたいよね」
澪「改めて実感するな」
紬「もう、あっちこっちうろうろしなくていいのね」
「いいんだよ、毎日ここに来ていいんだよ」

そう彼女たちには帰る場所がある。

それは、けいおん部の部室「音楽準備室」。
そして、唯は先生となって、この場所に帰ってきてこう叫ぶはずです。
「帰ってきたよ! 生還したよ!」と。
けいおん 「帰還したよ!」


ということで、長々と書いてきましたが、これでも書き足らない。
まあそれだけ魅力ある物語だということです。

追記
8月18日放送、第20話「またまた学園祭!」を見ました。
今回は学園祭ライブを中心にした内容。高校生活最後の唯らの学園祭なので総括的なものとなっていた。(まるで最終回のようだった)
この物語において「学園祭」は一つの節目となるものあり、「けいおん部」の彼女らにとっての成長や変化が毎回みられる。
そこで空に何かが上がると予想していて、そこに注視していたら、一つに上がっていたのはアドバルーンでした。
「けいおん!!」 空に上がるアドバルン

そして終盤、けいおん部全員が涙という後でのシーン。
「けいおん!!」 空を舞う鳥 象徴
空には鳥が舞い上がるシーンが挿入されていました。
その数5羽。つまり、けいおん部5人を象徴してます。

上記で示した通り「成長」と「卒業」(ここで言う「卒業」とは学校を卒業するという単純な意味ではない)のメタファーであることは間違いない。
「サマーウォーズ」「時をかける少女」の細田守監督はラジオのインタビューで「アニメでは描かれるものすべてに作者の意図や意味が込められている」(TBSラジオの「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」)と言っているくらいなので、象徴的に挿入されている「空」に、何かが付け加えられていれば、それには重大な意味があると考えられる。
となれば、「最終回」でも空に何かが描かれるのではないか、というのが私の予想です。

さて、もう一つ。
さわ子先生である。
「けいおん!!」 さわ子とその先生 師弟、継承
ここ数回のさわ子の描かれ方が興味深い。
上記であるように「さわ子」というキャラクターは「主人公らをゴールへ導く賢者(ここでいう賢者とは、人生の先輩といった意味である。上記参照)」であり、「保護者的視点でいう見守る人」である。
学園祭で「さわ子」は何をしていたかを見れば分かりやすい。
彼女は学園祭で衣装をひたすら作るという形で描かれている。これは「けいおん部」を含めこの女子高の生徒が「輝く」ためにしていることであり、完全なサポート役にあって、決して自分のためにやっていることではない。(目の下にクマをつくりながら)
この意味は、彼女の役割が「保護者的視点」「物語の終着に導く者」にあり、彼女の「グッドジョブ」とは自分の生徒たちが「輝く」ことにあり、完全な「見守る役」という設定がこれで明確であろう。(この物語で登場する唯一の大人。私の視点もここにある。)
そして唯ら(他の生徒も含む)が「輝ける」のが今だということをさわ子先生は十二分に知っている。
さわ子が「ネコ耳」や「メイド服」を生徒に見つけさせることに異様にこだわるのは、これがその年代にしか合ない特有のものであり、(「年がいったら出来ない格好」というのは唯や律らも良く知っていて、それを口にする。)「若さを味わえ」という意味があるのではないか。決してさわ子が自分自身で身につけるわけではないのだ。

そして添付した画像には、さわ子先生の先生が登場してました。
お~、見事なまでの「継承」表現でした。(これでは分からないでしょうが……。これは継承なのです。) 

あと一つ。
挿入歌で「ごはんはおかず」がありましたね。
私は、アニメに出てくる「ご飯」や「おにぎり」「弁当」に関心があるので、これについても興味が惹かれました。これはあとでまとめてみます。
関連記事「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」
最後に律のセリフ「日本人だったら、コメ食え、コメ!」(2期・16話「先輩!」)

追記の追記
第21話「卒業アルバム!」の中で、唯に「さわちゃん先生みたいになりたいな!」と語らせていました。

まさに私の予測通り?
この物語の着地点は「唯がさわ子の後継者になる」というものですが、その伏線が張られたということでしょうか?

これ実にいいラストだと思いますが……どうでしょうか。

何となく関連記事
「けいおん」で「アニメ・マンガで文化防衛論」を説いてもあまり分かってもらえなかったけど、めげません
「アニメは日本文化を救えるか」  第一回 アニメでカネ儲け主義に走れば、アニメ文化は衰退する。
資料編15回目 「継承の物語」その4 「けいおん」は「継承の物語」である。
クリスマスイブに娘と映画「けいおん」を見てきたよ!
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Comment

[240]
こっ、これはすごいですね。。。
唯の先生編は見てみたい。。。
[245]
こんにちは。
唯に関する考察を興味深く読ませて頂きました。

さわ子先生に関する考察を拝見して、さわ子先生がこの物語で「老賢者」の役割をしているということを確信しました。

私は、紬が「グレートマザー」、澪が「アニマ」、律が「アニムス」、梓が唯の「シャドウ」だというふうにこの物語を読み解いています。

梓は唯を語る上で非常に重要な人物だと思います。いつか梓について論考していただけるとありがたいです。

けいおんは、美しい映像に象徴的表現が豊かに盛り込まれていて、毎回感動しながら観ています。
[246]
けいおんについての考察読まして頂きました。
すごくおもしろかったです。
けいおんというアニメを色々な視点から
観られていて仏教の話が出てきたりして
とても新鮮でした。

最後に質問なんですが、
梓と律の弟の恋人フラグは何処に
立っていたんですか?
[248]
知恵袋を回っててたまたま来たものです

自分もけいおんが好きな人の一人ですが
ここまで深く考えたことはなかったです

でも、このブログを読んでさらにけいおんへの愛が強まりました!!
[249]
10代の頃の、いい思い出だけを喚起させるアニメですな。
まあ、私も主と同じでいい歳なので、今や昔の記憶は曖昧になってるし、
振り返ると楽しい思い出しか残ってない状態になってるからかも知れませんが…
[250]
最終回観ました。
このブログに出会ったおかげで、空に注目して観ていました。
そうしたら、最後の最後に、「同じ空見上げて」の言葉とともに、空に素敵なものが!
涙が止まりません。
[251]
失礼致します。
これほどの長文を仕上げるのは並大抵ではないでしょう。
くさい言葉になりますが、けいおん!!に対しての愛を感じます。
けいおんに対する感じ方は人種に関係なく、共通で有る様だ。
ここに海外の方が「けいおん!!」に感じた事をコメントしたのを翻訳されてますので紹介します。
http://honyakulespaul.blog134.fc2.com/blog-entry-108.html
[252]
白鵬が双葉山の記録を破った今書いてます。
声が枯れた唯のふざけた「稽古は本場所の如く、本場所は稽古の如く」って横綱双葉山の言葉だったんですね。
何にでもあてはまる素晴らしい言葉だと思います。
[284]
同感です。
映画化楽しみですね。
[320]
遅レスですが
>>b.r.f様
2期16話で梓がお手洗いに行こうとしたとき、聡と鉢合わせしましたね。多分そこを指しているのではないかと
後、この前に聡はそのお手洗いにいましたね
そこに向かうということは・・・
ちょっと深読み気味ですけどね
>>管理人様
考察、スゴイですね
教養の広さと深さに裏打ちされた、とても素晴らしいけいおん論です
この作品、世間で思われているよりははるかに深い様々な要素が詰め込まれていて
本当に一過性の消費物に終わらせるには惜しいアニメだと私も思います
映画と、もしかしたらあるかもしれないその後の展開を共に楽しみに待ちましょう
[333]
考察を読ませて頂きました
ここまで深く考察されている方はあまり見たことがなかったので驚きです
「郷愁」「成長物語」という点は同感です
私も唯達が楽しんでいるのを見て、自分の青春時代を思い出すことが多々あります
成長についても唯だけでなく軽音部の皆が1期の最初に比べてとても成長していますね
私が思いもしなかった事も書かれていて色々と考えが広がります
この考察を読むことだできて良かったです

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