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物語を物語る

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守るべきは日本文化! サブカル好きもポップカルチャー好きも、神社に集う歴女もアニオタも、みんな三島由紀夫が命に代えて主張したことを聴け!

物語を物語る

文藝春秋 2010年 08月号「的中した予言」の中から、「三島由紀夫」の部分から。

日本はなくなり、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、抜目がない経済的大国が残るであろう。
持丸博
昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫は市ヶ谷台で衝撃的な自刃を遂げました。その四ヶ月余り前の七月七日、産経新聞夕刊に
「私の中の二十五年」と題して、予言的な一文を寄せています。
その中で、これからの日本には大して希望を持てないとした上で、このまま行ったら日本はなくなってしまうと嘆き、「……その代りに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。……」と悲観的な予言を残しました。
三島由紀夫は戦後の日本に強烈な異議を唱えて自決しましたが、三島が提起した戦後体制の虚妄とは一体何であったのか。
それは外的な面から見れば、日本国憲法と日米安保条約が一セットの枠となり、その縛りによって身動きがとれなくなっている閉塞状況を指し、内的には戦後の平和主義によってもたらされた偽善と自虐史観の呪縛によって、限りない精神の荒廃と欺瞞をまねいてきた戦後的風土であると思われます。
アメリカから与えられた憲法を内発性と擬制し、これを後生大事に守りながら、自らの国を守る気概と機能を棚上げにして来た戦後日本の怠慢。現実には安保によって国の安全が担保されながら、一方でアメリカは日本から出てゆけと主張する甘ったれた意識構造がいまもこの国に続いています。
三島はこの根源を、日本国憲法に起因するとして、昭和四十年代初頭から活動の軸足を大きく政治に移しました。三島と私はこの頃から付き合いを始め、あの盾の会は、私が学生を組織して三島と共に自衛隊に体験入隊したことがはじまりでした。自決当時、私はすでに盾の会を辞めていましたが、その後の日本は、三島の予測通りひたすら破滅に向かって走ってきたように思われます。
世の中がますます「カネ」と「ゲーム」と「利己主義」に落ちて行く様子を見るにつけ、三島の問いかけはいま一層深い意味をもつようになりました。
しかし、三島の時代、日本はまだ幸福でした。混乱はしていたが若者には明日を切り開こうとする意志があり、希望がありました。それが今はどうでしょう。三島が生きていて、あの無気力・無表情な若者の姿を見たら腰をぬかすでしょう。いや、三島はこれも見通していました。三島の目は、現代文明の落ち行く先をしっかりと見据えていたようです。
あの事件から四十年がたった今年、三島と奇しくも同じ名を持つ鳩山由紀夫が首相の座にありました。どこか自信なさげで、キョトキョトした無機的な目、からっぽで内容のない言葉、そして富裕な出のお坊ちゃま首相の出現は、まさに三島の予言通りでした。
彼は沖縄県民とアメリカ、そして連立仲間に対してそれぞれにお愛想をふりまき、相矛盾する約束を交わして、それゆえ政権は行き詰まりました。
「トラスト、ミー」といえば相手は信じてくれる、「友愛」を掲げれば近隣の人たちは皆仲良くしてくれる、と思い込んでいた彼の信条は、日本国憲法前文の「……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。……」という無責任な他人依存心理と生き写しです。
だが鳩山に見るこの論理と心理こそ、笑えぬ戦後日本人の姿です。
鳩山由紀夫は正に戦後体制――矛盾と欺瞞の象徴でした。
さて、この六月になって、今度は、抜き目のない、ニュートラルな、中間色の衣を身にまとった新しい首相が誕生しました。その名は菅直人。彼は平成十一年成立の国旗国歌法案に反対票を投じました。国歌嫌いでも有名です。彼の本質は前首相と同様に日本という視点が欠落したコスモポリタンです。
さても三島が命に代えて訴えた憲法改正はますます遠のきました。
国民の生活が第一などという甘い声にだまされて、いいとこ取りのポピュリストにこの国を任せていたら、それこそ日本は解体されてしまうでしょう。
四十年前、三島由紀夫の放った予言の矢は、的を射抜いてはるか彼方に飛んで行ったようです。

まさにこの通りでしょう。

最近、三島由紀夫の対談集や書簡、評論集ばかりを繰り返して読んでいる。どうも三島の代表的小説群よりも、「文化防衛論」などの評論集のほうが私にはしっくりとくる。(お気に入りの論文や対談はパソコンに打ち込んで読み返すほどです。)

40代前半の私には、昭和30年40年代の全共闘、安保闘争などの実体験がない。しかし三島由紀夫の評論を読むと、あの時代の雰囲気をよくつかむことができ、しかも沖縄問題や憲法改正、日米同盟、自衛隊などなど、あの時代から全く進展がないというもよく分かった。これらの緒問題を戦後からずっと棚上げにしてきた歪みが、現代の混乱を招いているのだと再認識させてくれるのだ。
将来の日本に深い禍根の残す問題だというのを、40年も前から三島由紀夫はすでに分かっていたのかと知って、驚愕もした。小説家としての三島は評価が高いが、こうした三島由紀夫が命を懸けて訴えた意味、思想面からの再評価がもっと必要なのではないか、と思う。
それに「文化概念としての天皇」「日本文化を守ることが日本を守る」という保守的考え方こそが、いまの日本にこそ求めらることなのではないか、そう思えてならない。

ということで、私の好きな「栄誉の絆でつなげ菊と刀」を書き起こしてみました。

この論説のいいところは、
1、「文化防衛論」などよりも平明で理解しやすいこと。
2、日本を守るとは、領土や国民を守るということではなく「日本文化」を守るということ。
3、「日本文化」とは伝統芸能のみならず、歌謡曲などでもいいということ。(これが現代ではアニメ・マンガ・Jポップなどサブカルやポップカルチャーでもいいということになる。過去記事「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」)
4、その日本文化の総体として「皇室・天皇」があり、そこを守らねばならないということ。
などこれらが分かりやすく書かれているところにある。(創価学会のくだりなども面白い)

と、その前に「菊と刀」について説明すると、「菊は天皇であり、刀は武士」を意味する。
まず、ルース・ベネディクト著「菊と刀」から少し引用。

……西欧の学問に熱中する国民について述べる時、同時にまた彼らの熱烈な保守主義についてくわしく記することない。美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によってそれを補わなければならないというようなことは、普通はないこである。
ところがこれらすべての矛盾が、日本に関する書物のたて糸と横糸になるのである。それらはいづれも事実である。刀も菊も共に一つの絵の部分である。日本人は最高度に、喧嘩好きであると共におとなしく、軍国主義であると共に耽美的であり、不遜であると共に礼儀正しく、頑固であると共に順応性に富み、従順であると共にうるさくこづき回されることを憤り、忠実であると共に不忠実であり、勇敢であると共に臆病であり、保守的である共に新しいものを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑に負かされる。彼らの兵士は徹底的に訓練されるが、しかしまた反抗的である。



それでは、以下「栄誉の絆でつなげ菊と刀」です。


家、国土、国民は守る対象にならぬ

日本の防衛ということは非常に重要な問題であり、従ってあらゆるマスコミで防衛問題が取り上げられていることは当然である。しかしその根本にあるもの「われら何を守るべきか」ということについては甚だ漠然としている。私はこの点について自衛隊の一士、二士の若い連中とも話合ったが、自衛隊で隊員に教えられていることは、ごくわかりやすい表現でいえば、「お前たちのお父さん、お母さん、兄弟のいるあたたかい家庭を、お前たちの力で守ってやるという気持ちでやれ」ということである。この教え方は確かにいいが、しかし、家というものを壊したのは新憲法であり、その新憲法下における軍隊が自衛隊である。
しかも、兄弟の一人が、全学連で棒を振り上げているとすれば、もし治安出動が命令された場合、自衛隊たるものの態度はいかん――というふうに、家庭を守るといっても、その家族の中に思想的対立もある。古い家が崩壊した現代、もちろんその中にはいい家庭も残っているだろうが、そういうものだけを守る対象にすればいいというわけにもいかない、もっとももつと苛烈な時代がきているのである。
しからば何を守るか――。たとえば国を守るということだが、その国とは一体何だ――と質せば国土という返事がくる。しかし、家庭を守り、家庭の延長としての村を守り、町を守り、府県を守り、それから国を守るという、一連の地域共同体へのつながりがあり、それがさらに天皇陛下につながって、一つ引っ張ると芋蔓式に自分と社会、国家というものが一本の網のようになっていた昔と違って、こういう網が現代は断たれてしまっている。これは日本が敗戦したからというだけでなく、世界的な傾向としての都市化現象、近代化現象の結果そうなっているのであり、工業化の勢いが前資本主義的地域共同体をばらばらにしてしまったためである。
このように地域共同体が崩壊してしまった中で、いったい国とは何かと問われると、仕様がないから国土といい、その国土を外敵から守るのが防衛だ、と答える。しかし、その国土というのは単なる地面であって、これは日本がたとえ共産政権になったとしても、何の変わりもない。共産主義国が国土をとるかどうかはっきりしないが――、仮に共産主義国の衛星国にでもなれば、九州、北海道をそのまま日本の国として温存させるのみならず、ハバマイ、シコタンまで返還するかもしれず、国土がかえって増えるということになろう。そうすれば国土防衛という言葉はどうなるか。
また国民を守ることが日本の防衛だという答えもある。しかし国民を守るということは、人を守ることであるが、人間にもいろいろあり、日本のような国はなくなってもいいんだ、という人もいる。日本ほどいやな国はないと思っている人もいる。国境をなくして、世界国家にしたらどうだといっている人もある。そういう人間を全部ひとからげにして守ってやろうといっても、いや、お前なんかに守って欲しくないと言われたらどうするか。またデモ隊が自衛隊に押し入って、棍棒を振り上げたらどうするか。その連中に対して自衛隊員は「おれたちは君たちを守るためにいるんだ」とはっきり言えるだろうか。国民を守るといっても単なる抽象論でしかない――こういう話を私は自衛隊員と話合ったことがある。
従って、まず地面を守るという防衛は意味がない。人間を守るのは意味がない。家族を守るのは意味がない。自衛隊が会社を守ったところで意味がない。――ということになる。
それでは何を守るか――日本の防衛とひと口に言っているが、具体的にわかりやい言葉で表現することは非常に難しい。こういうことになってしまったのは、やはり現世界がイデオロギーの終焉時代にあるからだという人もいるが、それは間違いで、相変わらずイデオロギー病が全世界に広がっており、お互いにイデオロギーで人間がいがみ合うように、政治勢力が操っているとしか考えられないのである。
その情勢の中で、何とかしてわれわれは国民的統一体としての核心をもたなければ国はバラバラになってしまう。
ちょっと話はそれますが、日本の自民党がだらしがない、何をやっているんだという声が一方にある。自衛隊の中でも、非常事態法の一つなくてどうする、昔は戒厳令があったじゃないか――という声である。
しかし私が見まわしたところでは、非常事態法、あるいはそれに近いものができつつある国は、第二次大戦の戦勝国と、敗戦国では分断国家だけである。それはなぜかといえば戦勝国はどんなに思想的対立があっても国家的な連続性が保たれてきたし、あるいは中国のように、革命があった後だから反革命的非常事態から守ろうという法律が布かれている。しかしすぐ隣が同国人でありながら共産国家になってしまっているので、危機感が非常に強く、非常事態法も可決されるのは当然だ。従って非常事態法のごとき法律によって規制することは、決して好ましくないという結論になる。
さて、話を戻そう。われわれは何を守るか、ということだが、日本は太古以来一民族であり、一文化伝統をもってきている。従って、守るべきものは日本というものの特質で、それを失えば、日本が日本でなくなるというものを守るという以外にないと思う。
左翼の人たちは非常に日本人ぶる。日本人としてこういうものを我慢していられるか、日本人として米軍基地を撤退させなければならないんだという。そういう限りにおいて“日本人”という言葉を持ち出すのだが、それでいて彼らは一民族、一文化伝統、一言語という世界でも稀な国家的特色を、彼らの思想といかに調和させていくかという説明が少しもできていない。むしろそれを断ち切ることが彼らの政治的目的なのである。

文化を守るとは伝統の精神を守ることだ

何を守るかということを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れということでは非常にわかりにくい。文化云々というの、おまえは文化に携わっているから文化文化という、それがおまえ自身の金儲けにつながっているからだろう―といわれるかもしれない。あるいは文化なんか守る必要のない、パチンコやって女を抱いていればいいんだという考え方の人もいるだろう。文化といっても、特殊な才能をもった人間が特殊な文化を作り出しているんだから、われわれには関係ない。必要があれば金で買えばいい、守る必要なんかない―と考える者もいるだろう。しかし文化とはそういうものではない。昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るということだ。太古以来純粋を保ってきた文化伝統、一言語伝統を守ってきた精神を守るということだ。しかし、その純粋な日本精神は、目に見えないものであり、形として示すことが出来ないので、これを守れといっても非常に難しい。またいわゆる日本精神というものを日本主義と解釈して危険視する者も多いが、それはあまりにも純粋化して考え、精神化し過ぎている。目に見えないものを守れということは、とかく人を追い詰めていくもので、追い詰められると腹でも切るよりほかなくなってくる。
だから私は、文化というものを、そのように考えない。文化というものは、目に見える、形になった結果から判断していいのではないかと思う。従って日本精神というものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものとは考えずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思えるものを並べてみろ、そしてそれを端から端まで目を通してみろ、そうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやって守ればいいかを考えろ、というのである。
歌舞伎、文楽なら守ってもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまっただ」などという頽廃的な文化は弾圧しなければならない―というのは政治家の考えることでことだ。私はそうは考えない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももっと頽廃的なものがたくさんある。それらを引っくるめたものが日本文化であり、日本人の特性がよく表われているのである。日本精神というものの基準はここにある。しかしこれから外れたものは違うんだという基準はない。良いも悪いも、あるいは古かろうが新しかろうが、そこに現れているものが日本精神なのである。従ってどんなに文化と関係ないと思っている人でも、文化と関係のない人間はいない。歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが頽廃的であっても、そこに日本人の魂が入っているのである。
私は文化というものをそのように考えるので、文化は形をとればいいと思う。形ということは行動することである。特攻隊の行動をみてわれわれは立派だと思う。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には「バカ・ボム」といわれるだろう。日本人のいろいろな行動を、日本人が考えることと、西洋人の評価とはかなり違っている。彼らから見ればいかにバカ気たことであろうとも、日本人が立派だと思い、美しいと思うことがたくさんある。
西洋人からみてバカらしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか―という文明開化主義である。西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はバカらしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、そういうものを全部否定していったら、日本に何が残るか―何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目からみて進んでいるか遅れているかとか判断できるものではないのである。従ってわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかったことを知らなければならない。西洋の後に追いつくことが文化だと思ってきた誤りが、もう分かってもいい頃だと思う。

天皇は日本文化の象徴体現者である。
再び防衛問題に戻るが、この防衛論から出発して“何を守るか”ということを考えなければならない。私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考える。天皇陛下のことを考えるとすぐ右翼だという人は多いが、憲法第一条に掲げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。天皇陛下を政治権力とくっ付けたところに弊害があったのであるが、それも形として政治権力としてくっ付けたことは過去の歴史の中で何度かあった。しかし、天皇陛下が独裁者であったことは一度もないのである。それをどうして、われわれは陛下を守ってはいけないのか、陛下に忠誠を誓ってはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもっている国家を裏切るという左翼的な考えの人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきている文化の象徴である。そういうものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考えている。なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見に惑わされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには言論の自由を保障する政体が必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。
このように守るべき絶対的主体を、現実の場で具体的に守るにはいかにあるべきかを、幾つか例証をあげて明らかにしたい。

最後の防衛力は魂である。
まず核の問題について考えると、過去において私が話してきたことはみな精神問題というか、心構えというもので、武器についてはまだ話したことがないのだが、核については私はいろいろな点で疑問をもっている。まず核の欠点は何かと考えると、国内に使えないという点がある。
たとえばパリの騒ぎにしても、あれはドゴールが政治的手腕で解決したが、もし、内戦にまで発展したとしても、内戦に核兵器は使えない。アメリカでいくら黒人暴動が起こっても、黒人暴動で核は使えない。ベトナムでは使えたかもしれないが使わなかった、ということを考えると、日本にこれから危機が起こるとすれば間接侵略形態においてだろう。中共もソ連も海を越えて攻めてくるかどうかわからないが、そうすると国内戦の様相を考えた場合、一方の政治権力をもっている側も核を使うことができない。その間に反対側の政治勢力に完全に押しいられてしまうということも、十分あり得るのがいまの情勢だと思う。防衛問題も、こと陸上自衛隊については、間接侵略にどう対処するかということに一番重要な使命をもっていると思う。
先日衛藤瀋吉氏が書いた評論に「間接侵略に対処し得るのは最後は魂の問題である、武器の問題ではない」と書いてあるのをおもしろく読んだ。衛藤氏は社会党と政権交替してもいいというようなことを発表する人だから、私は氏の意見を全面的に是とするものではないが、この評論には一面間接侵略というものの本質をよくみられていると感心した。私はそういう場合に立ち至ったら、魂がしっかりしていなければ、いくら武器を持っていても何もならないと思う。国民一人一人が断固としてこれを守るという気持ちがなければ何もならない。武器より先に魂の問題であって、極端にいうならば、武器は日本刀でもいい。
間接侵略において日本人一人一人の魂がしっかりしていたら、日本刀で立ち向かっても負けることはないと思う。もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通の近代兵器は自衛隊に装備されていても、私はやはり市民武装という形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思う。勿論、ほんとうに日本を守ろうと思っていない者には持たせられないことはいうまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱われていることに対して、甚だ残念に思っている。日本刀を美術品とか文化財として珍重するのはおかしなことで、これは人斬り包丁だ―と私は刀屋に冗談話をするのだが、日本刀のように魂であると同時に殺人道具であるというのは、世界でも稀なものであろう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊に武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに向けるべきか、ということこそ問題だと思う。日本文化を守るためには、場合によれば親兄弟でも撃たなければならない。そのくらいの決意をもって、現在自衛隊は武器を磨き、操作しているということに、私は非常な疑問を抱いている。
これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざというときには上官の命令で弾を撃たない、池田さんのおっしゃった方に向けて撃つ」といったという。こんな軍隊は珍しい軍隊で、このように、いざというときにどっちへ弾が行くのかわからいというのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対して偽善や綺麗事であってはならない。自衛隊は、平和主義の軍隊であり、平和を守るための軍隊に違いはないが、もっと現実に目覚めて、一人一人高度の思想教育を行わなければならない。そうでなければ毛沢東の行っているあの思想教育に勝てないと思う。そうでなければ、日本の隣にある、このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことは不可能なことを、私は痛感するのである。

民族主義の強調には危険伴う
またこのごろ自主防衛議論になかで民族主義の涵養というような言葉が使われているが、民族主義というものはどっちにも利用される武器で、本来日本で民族主義云々というのはおかしい。日本には民族主義は不必要なのである。われわれは日本人であり、日本に住んで日本語を話している以上、民族主義をことさらに云々する必要はない。民族主義運動とは、自分の国を取られたり、親子兄弟が会いたくても会えない状態にあって、自分の国に返す運動をいうのである。あるいは自国の文化を自国に呼び戻す運動であり、無理やり引き離された国民を再び一緒にさせようというのが民族主義運動で、日本に民族主義運動というのはあり得ないと思う。もしそれがあるとすれば、日本は外国の捕虜になっている。いまのままで行くとアメリカの完全な奴隷にされてしまい、アメリカの前線に立って他国に対して黒人と同様に銃弾の的にされてしまう―という考え方だ。われわれが民族主義を唱えないと外国にしてやられるという危機に立ったときにしか、日本の民族主義運動はあり得ないと思う。
私は日本の民族運動とか、民族を守るために、ということは、どっちの側からも利用できるために非常に危険な言葉だと思う。ナチスがはじめのうちに民族主義をうまく利用していたことでもそれは証明される。民族主義というのはこのように利用されやすいものなので、この陥穽に陥らないように気をつけなければならないが、日本人はものごとの判断においてその危険性が非常に多い。

死を高く評価する日本人

ドナルド・キーンというアメリカ人がおもしろいことをいっている。幕末に来日した外国人旅行記を読むと「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。それは臆病だ」と書いている。ところがそれから五、六十年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを世界中に知らせたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻ってしまっている――というのである。
しかし鯖田豊之氏にいわせると、日本人は死を恐れる国民だといっている。これは面白い考え方だと思う。確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出している。日本人だったら大変な騒ぎだと思うが、羽田空港などで戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見ていても、けろりとしているが、日本人だったらそんな具合に淡々として戦場に行けるものではない。まず千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、涙と歌がついて、悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入ってくる。それらが死のジャンプ台にならなければ、どうにも死ねない国民なのだ。
私はインドへ行って死の問題を考えさせられたのだが、ベナレスという所はヒンズー教の聖地だが、そこでは人間が植物のように死んでいく。死骸がそこらにごろごろあって、そばでそれを焼いているのに平気である。これは死ねば生まれ変わると信じているためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会えるといって、病気になるとお経を読んで死を待っている。このインド人のような植物的な死に方は、日本人にとても真似できないだろう。日本において死は穢れだとされていることもあるが、日本人というものは非常に死の価値を高く評価している。だから、たやすく死んでたまるかということで、従って切腹で責任を果たすということにもなるわけだ。
私たちは、そういう死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければならないと思う。繰り返すようだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。

ついでに「日本文化の総体」としての「皇室」、国家=文化を守ることが必要なのだから、その下に軍隊をつけよ、と主張したのは福沢諭吉である。(私が主張する福沢諭吉と三島由紀夫と新井白石の「皇室観」が似ているというのはこういうところにある。これはいつか後述する。関連記事)

私がここのところ、アニメ・マンガ・米・弁当・神社に集う歴女やアニオタ・パワースポットなどを取り上げてこだわるのは、そこに「日本文化」があると考えているからだ。
守るべきは「日本文化」ならば、サブカル好きやアニオタも婚活の神社巡りの人も、何が今の「日本」に大事なのか、「日本」が失われればあなた方の好きなものも欲しているものも失われてしまう、ということに気付かせることが必要となってくるのだ。(中国語でしゃべるアニメが見たいのかい? 初詣も神社巡りもなくなって「韓国キリスト教会」に通うのかい?過去記事日本人にとっての神社)
みんなにこの危機感を感じてほしい、その一念で書き続けている。

三島の晩年の対談や論文を読むとの悲愴なまでの「危機感」を感じる。(実は二十歳のときにも同じ主張をしているのだが、これは後述する。関連記事)
この危機感はなんだろうか。
失われゆく「日本文化」……。
「文化=国家」、文化を失えば、その国家、民族も消えていくことになる。
過去記事
三島は40年前にそれを悟り、いまに予言したことになる。

いまの日本は実は「危急存亡の秋」なのではないか、そう痛切に感じている。
でもこれを感じているのは私だけではないはず……。
いまの世の中(特に政局)を見ていると……そう、思うでしょう?
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Comment

[259]
こんにちは。 一般人です。 三島の予言を文藝春秋で読み、
いずれ言及しようとしています。

当方は、破壊的カルトの告発者なのですが、ある時に中国共産党の虐殺と侵略に触れ、中国共産党と民主党の親睦が明らかになった経緯で、そこから共謀組織である日教組などの告発にまで至っています。
天皇には特に興味はありませんが、国を按ずるのは当たり前ですし、それが無ければ国民失格なわけです。
無知であり、ネット上で勉強させていただいている状況であり、その結果をWEB上にまとめています。

調べるにつれ、結論としては、日本は骨抜きとなっており、その根源はGHQの自虐洗脳であり、日本は米国の罠に嵌ったという歴史があるがそれが隠され、大和民族は他国に良いように利用され貶められているということです。
そして民主は売国を目的としているが故に、そろそろ日本は目を醒まさなければならないわけです。 三島や 全共闘、安保闘争などに関して、現時点で全く解析できていない状況ですので、これから進んでいきます。

可能であれば お時間がある際に我がブログにメッセージをいただきたいと思っております(私信の場合は公開致しません)。

参考: 去勢された大和民族 http://blog.goo.ne.jp/deception_2010/e/d6fcea0b74c4c321f887102a7b7a6429

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