スポンサーサイト

物語を物語る

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アニメは日本文化を救えるか  第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。

物語を物語る

アニメは日本文化を救えるか 
第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。

前回記事からの続き(少し追記しました。)

ここ近年やたらと「日本はガラパゴス化している」と必要以上に唱える人々が多い。
ただ、吉川尚宏「ガラパゴス化日本」(講談社現代新書)などを読むと、私はどうもこういった説に違和感を覚える。
とりあえず、本書の要点は3つで、挙げてみる。
1、日本製品のガラパゴス化「日本企業が作り出すモノやサービスが海外で通用しないこと」
2、日本という国のガラパゴス化「日本という国が孤立し、鎖国状態になること。地方だけではなく、東京を含め日本全体が鎖国状態となるリスクをはらんでいること」
3、日本人のガラパゴス化「最近の若い人のように、外に出たがらなくておとなしい性向のこと」
まあ、1は改善しなければならないし、こんなことはガラパゴス化なんて言葉を用いなくても、普通に経済・市場を考えれば、需要にあったものを供給しなければ経済的発展など望めないのだから、すぐに分かることだろう。(だから世界市場・世界規格に合ったものを日本が作るといったことに対しては、反対の余地はない。)
ただ、問題なのは2と3だ。
なぜか日本の問題を語るとときに必ず展開される「日本は閉鎖的」「内向き」という考え方、これにはもううんざりする。過去記事
そして本書を読むと、シリコンバレーで働く渡辺千賀の本を引用してました。(そんなにシリコンバレーで働いていることがエライのかね?)
過去記事でも書いたように日本を悪ざまに言いまくるこの人の記事を引くくらいだから、この本の傾向はよく分かるというものだろう。
また、日本人の若者が海外に出ることが減っているといったことで論を進めているが、これについても過去記事で書いたように、全くそんなことはない。それに無理にでも若者が海外に出ていくことを推奨しているが、なにか「外国に出ることがいいことで、日本にいることは悪い」といった思想を振りまくことに、何か意図的なものを感じてしまう。
そして、この本では「柔道をJUDOとして脱ガラパゴス化をしたから、グローバル化に成功した」などといったことが一章にわたって書かれている。
あまりにもバカらしいので、ここでは細かく検証しないが、まったくこの人には「日本の歴史・文化・伝統」の重要性が分かっていないのである。
まあ、気になった人は読んでみるといいでしょう。(この論説が正しいと思う人がいても、それはそれでいいですが……)

さて、では、「日本のガラパゴス化」を声高かに唱え、「日本の閉鎖性」を説く人たちのこの根底には何があるのでしょうか。
どうもその考えの根本には「日本の社会を解体しよう」「日本の国柄を変えてしまおう」といったものが透けて見えるのだ。(本人にその自覚はなくとも、その言説、その論陣は、「日本解体」そのもの。)
だから、いま日本にある問題、「格差がある」「景気が悪い」といったことをすべて「社会が悪い」「国が悪い、政府が悪い、役人が悪い」として、ならば「国のシステムを変えればいい」「今の日本の社会は悪弊そのものなので、すべて壊してしまおう」という思想が根底にある。
そして「日本人は悪だ」「皇室があるから政治が悪い」といったことを無意識のうちに国民に刷り込もうとしている。
だから「日本はガラパゴス化している」といって「改革」を訴える人々に私は警戒心を抱いている。

さてさて、そんな中で、この「ガラパゴス化」はすべていけないのではなく、逆に「ガラパゴス化」こそ日本再生のカギだと唱える本を読んだ。
芦辺洋司著 「超ガラパゴス戦略」(WAVE出版)
超ガラパゴス戦略
この本は良書。
私がこの本に感じた良い点は、「日本文化」の存在価値を大いに認めて、それを経済に、また日本再生に生かせ、と論じているところにある。本文にこうあった。

これまで、日本のビジネスについて各方面から「ガラパゴス化」が論じられてきた。そして、ガラパゴス化により日本の産業が衰退することを危惧するといった論旨のものがその多くを占めてきた。
しかし、本書はそれとは正面から立ち向かう、まったく異なる論を展開している。そして、現状から出発し、いま、国内およびグローバル市場で実際に展開している進化の法則を探りつつ、戦略的フレームワークの設定、戦略的ベクトルを提示した。日本のビジネスが絶滅しないための、さまざまな方法論も提案した。それをもって、戦略的ガラパゴスが目指した…

まさに「日本文化」を否定して「日本は閉鎖的」だと論陣を張る人々とは180度違うのだ。(第2回の「日本語とアニメ」でも触れたように)
それでは、「日本文化」「アニメ」に関する部分もあったので抜き出してみる。

日本人は弱点を補強することから物事を始めようとするクセがある。……弱点を議論する前に「強み」は何だろうかと考える。弱点を克服して戦うのではなくて、強みを生かして戦いに臨むのが戦略の常套手段だからだ。
ここまで、経済環境を取り巻く変化、改革に向けた外貨獲得と投資先国家への転換を述べてきた。この二つのアプローチを実施するにあたって、戦いに勝つ「強み」は日本にはないだろうか。
この問いに答えるためには、現状を客観的よく見据えて分析する知力、歴史に学ぶ姿勢、そして何より、この日本に潜在的に蓄えられた日本本来の強み・底力を再発見する作業が、まず求められる。それにより「ガラパゴスの種」を発見するのだ。
そして、この再発見の上に立って、何を国内に残し、何を外に出すべきかを選別するのである。この「選別」と「集中」を最も的確な方法で行い、最も有効な手段で成果につなげるためのフレームワークが「超ガラパゴス戦略」である。
日本は島国である。そして、日本語というかなり独特の言語を古来、国語としてきた。そのため、ヨーロッパ系の言語とはもちろん、中国や韓国など他のアジア圏の言ともかなり違いがある。これは、良い意味でも悪い意味でも“文化的垣根”になっている。
また島国であることに加え、江戸時代という三〇〇年にわたる時代を通じて、政策的に他の国々とはかなり限定的・選択的な交流しか行ってこなかった。そのため、技術にとどまらず、人々の感性・習慣・思考法など、文化全般に及んで独自性が強く、「ガラパゴス的」ともいえる特徴を数多く備えている。
これらの特徴はまた、モノ作りやサービスを飛躍的に進化させていく原動力である。そう考えれば、隔離されているという意味ではなく、商材やビジネスの競争力を生み出す独特の進化を可能にする環境といえる。これは大変な強みではないだろうか。
そして、これらの強みを縦横に活用し、日本発の製品・サービス・情報・ビジネスが世界を変え、世界をリードしていくことを今、目指そうというのが、戦略のコンセプトである。
つまり「世界を変える島国」となることが目的なのだ。同時に、それこそが、ほとんど唯一残された日本の生き残る道となるだろう。それを達成するためにここで提案するのが、超ガラパゴス戦略なのである。

超ガラパゴス戦略とは、日本の独自の文化や環境を積極的に活用し、世界に通用する産業を戦略的に生み出そうというものである。
その一つとして、真似をされにくい種を見つけて進出する方法である。わかりやすい例でいえば、日本のアニメは世界で高い評価を得ている。と同時にあのテイストそのものは外来種では模倣できない「種」である。

職人気質とサブカルチャー
それでは、独自の進化を育む土壌とは、いったいどのようなものであろうか。どのような環境の中で、それらは生成・発展し、あるいは、進化を遂げるのであろうか。
その問いに答えるカギは、作る側と使う側の両面から眺めると、見えてくる。そのカギとは、「職人気質」と「サブカルチャー」である。
日本のモノ作りを支えてきた価値観は、いわゆる職人気質である。職人は現代のマーケティング活動といった、市場のニーズを推し量り、「売れるものを作ろう」という動機に基づいて仕事をしない。自身がイメージした孤高のゴールにどれだけ近いモノを作ったか、それが彼らのモノを世に出す基準である。そのためには、あらゆる努力や工夫、ひいては修業もいとわないのである。こうして追い求めたモノは、自己満足の欲求に応え、ある意味で過剰品質な製品といえる。しかし、こういった作り手側の文化が、日本の市場や産業に対してさまざまな提案をしてきたのもの事実である。
こうした作り手側の提案によって生まれたモノは、コストや生産性を度外視した製品であり、金融資本主義的な見方をすれば、非常識で玄人ウケしかしないガラパゴス進化の産物と映るかもしれない。グローバル経営を誤解した連中からは、職人などというのは、古臭くて、まずははじめに駆逐すべき敵なのだろう。しかし、そういった表面だけを見て、世界に通用しないといいきるのは理論が飛躍しすぎていないだろうか。
ビジネスのモデルを考える際に、顧客(カスタマー)、競合(コンペティター)、自社(カンパニー)という三つに視点がある。
この中で最初に、かつ謙虚に考え抜かなくてはいけないのは、自社の視点である。つまり、わが社はいったい何を作りたくて、どうどうやって世の中に貢献しようと思うのか。その際に自社が持っている職人気質、つまり孤高のゴールは何なのか、を再認識することは、世界に共通するモノ作りの出発点のはずである。
さて、作り手側の文化の担い手が職人であるとするならば、サブカルチャーは使う側の文化といえる。この国には、すでに江戸時代のころより、サブカルチャーの重厚な蓄積があった。今、世界的な好評を博している東洲斎写楽や葛飾北斎、歌川広重などを代表とする浮世絵をはじめ、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・為永張水などの作者をもって知られる戯作、そして近松門左衛門や竹本義太夫の名で象徴される浄瑠璃、さらには歌舞伎も、みなこの時代の所産である。
これらはおしなべて、庶民の文化の佳日である。朱子学を精神的支柱とする徳川幕藩体制、武家階級による支配体制の文化とは異なる独自の文化、いわゆる、サブカルチャーである。江戸時代は、まさに、サブカルチャー爛漫の時代であった。
さて、「サブカルチャー」を精密に定義し、明確に位置付けすることは至難であるが、ここでは、一応、ほぼ一般的な理解に沿って、「メインカルチャー」(正統的・支配的な文化)の対義語として、「ある社会内で、その社会全般よは価値基準を異にする一部の集団を担い手とする文化。下位文化」と定義しておく。
ヨハン・ホイジンカ(1872~1945 オランダの歴史家にして文明評論家)は、人間を「ホモ・ルーデンス」(「遊ぶ人」を意味)と規定した。猥雑さをも呑み込むサブカルチャーを内に育む文化は、それを許容する雅量も備えているものといえる。それゆえ、そこから、重層的な文化が熟成し、基層文化の裾野も広がり可能性を限りなく保障する。
こうしたサブカルチャーの醸成は、その社会のありようを示す一つの指標である。なぜならば、その社会の所得水準にとどまらないある種の豊かさ、一応の平和、余暇時間などのゆとり、寛容な精神性などがサブカルチャーの発展の条件となるからである。
サブカルチャーが、まさに遊び心のあるところに芽生え、涵養されていくものとするならば、衣食住といった生活に必須の物資を得るだけが精一杯の経済圏では、モノに対する「こだわり」は生まれにくい。現代の日本は、社会インフラも衣食住といった、生活のベースとなるモノはコモディティ化している。したがって、自身が気に入ったモノを求めるとき、コモディティの部分ではなく、そこを超越した感性を満たすものを追求することとなる。
こうして追い求めたモノは、自己満足を満たしてくれる製品となる。こういった使い手側の文化が、日本の市場や産業に対してさまざまな提案をしてきたのも事実である。
ところで、感性を満たすモノ作りを推進する現代日本のサブカルチャーの一つとして、「オタク文化」と呼ばれるものがひそかに大きな意味を持っているのではないかと考えている。
「オタク」とは、特定分野のみに異様なまでの関心を示し、深く通暁した若者を指す言葉として定着した新語である。もともとは、熱烈なアニメ・マンガファンに対して使われ、この言葉で示される対象となる若者たちが、話し相手とお互いに「オタク」と呼び合う習わしがあることから、このように命名されたともいわれる。
そして「鉄道オタク」「アイドル・オタク」といったように、さまざまな分野のマニアに対して使われるようになってきた。現在では、「オタク」はすでに市民権を得て、その裾野を限りなく広げている。
さらには、、この潮流は国境を突き抜け、世界にまで広がりつつある。米国でも、自らを「OTAKU」と称する若者が増えている。また、2004年の「ベネチア・ビエンナーレ(国際展示会)」において、日本は「おたく:人格=空間=都市」というタイトルで、オタク趣味が秋葉原などの都市空間に与えた影響に関する展示を行い、大反響を呼んだ実績もある。
中略
欧米とはかなり様相の異なる文化圏に属する日本の、しかも、かなり閉ざされた世界に芽生えたオタク文化は、今や、インターナショナルとなった。そして、そこからの派生形として生まれたものが、キャクターに恋する「萌え」である。バーチャルで、命を持たず、血も通わない、二次元の世界上にのみ躍動するイリュージョンのような対象しか恋せないという新しい境地に達するオタクが増えてきた。
中略
アニメーション作品でいえば、日本のマーケットに合わせた作品がたくさん制作される。しかしユーザーはそれを受動的に享受するだけではなく、例えば、それに “コスプレ”といったような価値を加えてしまう。そして、それを海外のアニメファンがネット上で知ることによって強い関心を示し、海外に波及していく。そして、そのうちのあるものは、グローバルスタンダードの位置を占めるのである。
中略
このようなベクトルはどのように生まれるのかといえば、やはり、先に挙げた国民性やその国の文化など、不確定で、不可視なさまざまの要因に負うところが多い。そして、それらが複雑に絡み合い展開するところに発するものだ。ただ、そのメカニズムがある程度まで解明でき、把握できれば、戦略敵ガラパゴス化は可能になる。

まさしくこの通りだと思う。「職人気質とサブカルチャー」などなるほどと納得してしまう。

そして、第一回で書いたように 経済原理をアニメに導入すれば、文化性・独自性を失い、その価値を失う、つまり強みである「ガラパゴス化」が消えてしまうということだ。これは第二回の日本語にも通じることである。

文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。
この一言に尽きます。

さて、毎回何かしらアニメの画像を載せているので、今回も載せてみた。
小学校低学年の娘が見ていた「リルぷりっ」
(たまたま一緒に見たといっても、私は新聞を読み、不甲斐ない日中外交をする民主党の悪口をブツブツ言いながらだが……。)

今回は、十五夜が近いというので、「かぐや姫」を基にした話だった。
ユーチューブの動画サイトでは早速、英語の字幕が付いたものがUPされていた。
リルぷり
なるほど字幕では「プリンセス かぐや」とある。
リルぷり かぐや姫
ここで「かぐや姫」つまり「竹取物語」がアニメの主人公らの話と絡まって紹介されている。
リルぷり 月見
また、主人公らが「お月見」をする場面もある。
この回では、色取りの綺麗な「着物」や「扇子」、「日本の庭園」「日本家屋」など和風なモノが多く登場し、そして「十五夜」という日本の風習を通じて、「月」をめでるという日本人の心や精神までも、この愛らしいキャラアニメで何気なく紹介されていることになっていた。
興味深いのは、世界の子ども(大人も)がアニメを通して、これらの「日本文化」を見ることになり、日本最古の物語「竹取物語」も知るということだ。
日本人が見れば何でもない話だろうが、これを動画サイトを通じて世界中の人々が見ることになるのだから、毎回言うが、これが実にスゴイことなのだ。
またこれを、子どもが見るものだからといって馬鹿にしてはいけない。
海外の大人たちが、小さい頃「ドラえもん」や「アルプスの少女ハイジ」「キャンディ・キャンディ」などの「ジャパン・アニメション」を見て育ったと語っている記事はいくつも読んだ。またこれらの子どもが大きくなり、日本のアニメがハリウッド映画として作られたという話も聞いた。(「マッハGO!GO!GO!」や「鉄腕アトム」など)
そして重要なのが、かつて日本のアニメに育った外国の子供たちが、いまや大人になり「日本の伝統・歴史・文化に興味を持ち、「日本」を尊敬しているというのだ。
こんな形で「日本文化」が広まり、「日本ファン」が増えていることになっている。
こういうことが大事なのです。

それが結果、「日本」を守ることになる。
「アニメ文化」で「国・民族」を守る。
これが「アニメ・マンガで文化防衛論」なのです。

このシリーズは、まだまだ続きます。
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

«  | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ --年--月 --日 (--)
  ├ カテゴリー
  |  └ スポンサー広告
  └ スポンサーサイト
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ 2010年09月 25日 (土)
  ├ カテゴリー
  |  └ 「アニメは日本文化を救えるか」シリーズ
  └ アニメは日本文化を救えるか  第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。