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物語を物語る

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正田文右衛門さんはなかなかの人物であった。

物語を物語る

図書館で郷土資料「館林人物誌」(昭和15年 福田啓作、寺島錬二編)を見ていたら「正田文右衛門」の小伝が載っていた。これを読むとかなりの「人物」だというのが分かった。
この正田文右衛門(3代目)は、美智子皇后陛下の祖先にあたる方である。
正田家家系図

当ブログでは、「美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!」シリーズその1その2その3その4と4回に分けて詳しく書いてあります。
その正田文右衛門が「館林人物誌」によると、「徳の高い好人物」として興味深い逸話の数々が綴られていた。これが昭和15年編とあるので、別に正田家から皇室に入った方がいるから提灯記事を書いたというわけではない。つまりは、「正田家」が江戸時代から地元の名士であったことは間違いなく、あらぬ噂など全く根拠のないことだというのがこういうところでもわかる。

では、その部分を抜いてみます。
(旧カナづかい、「勵・・黨」などといった難しい漢字は、現代の表記に直してあります。また意味が分かりづらいところは、文意が変わらない程度に表現を変えてあります。)

正田文右衛門、幼名を藤十郎と称し、文政元年七月二日を以て館林に生まれる。
家督を継ぐに及び先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改める。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした。
十七歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に使った。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった。(これは「本場館林麦」の略語だ)
また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された。また、中央商人と地方商人とのために為替業を営みその取引を円滑にした。
明治維新に至り、世の中の変革を見て、明治六年に米穀業を廃して醤油業を始めた。それ以来生業を堅実に努め、今日の正田醤油株式会社の基礎を作った。平素から勤勉倹約であり、東京・京都へ行くにも絹布をまとわない。父母にも孝行を尽くし、母が目の病を患ったときは、端午の節句で来客が多いときであったが、上州藤岡に名医がいると聞けば、徹夜して母を連れて行って治療させ、失明の難を逃れたこともあった。
また慈善の心にも富み、凶年天災にあたっては窮民に対して私財を投げ打って救済したことは一度や二度のことではない。ことに、安政の大地震のときは、倉庫にあった米穀を舟に満載させ、急遽、江戸に向かって被災民を救った。
かつて次男作次郎は目の病気を患っていた。当時外国人の名医が横浜にいるというのを聞き、住居を横浜の野毛山に移し治療を受けた。これに米人ヘボン博士は深く感ずる所があって、眼病の秘薬を授けた。文右衛門はその効き目に驚き、他の人にもこの薬を分け与えた。それが「米屋精水」として遠近に伝わる。
業務の余暇として、将棋をたしなんだ。二八歳のときに二段になるほどの腕前だった。しかし業務の妨害になるのを恐れて、これをやめてしまった。あるとき、江戸往復の舟中で、賭け将棋をする者がいた。一人が策謀を弄して(インチキ)、カモ相手にたちまち五十両を巻きあげてしまった。これを見ていた文右衛門は傍観しているのに忍びず、絶っていた将棋でこの男と戦って、たちまちこの金を取り戻してしまった。その金をすべて負けていた男へ返し、このイカサマをした男にはいくらかの金を与え、「そんなことではいけない」と将来のことを考えるように諭したという。
その他にも善行や美事はたくさんあった。
明治二十八年三月二十六日、病で没した。七十八歳。石町、常光寺に葬る。遺言により山積する流質物を質入主に無償で返した。郷党(村の人々)はこれを「人徳」だと言った。

備考 
1、石町常光寺の文右衛門の墓石に、蘭舟高橋濟撰文の墓碑銘あり、全文二百三十字より成る。
2、正田家の醤油醸造は大正六年十二月会社組織に改め、正田醤油株式会社と称す。現在資本金百万円、昭和九年十一月本県に行われたる陸軍特別大演習のみぎり、畏くも産業奨励の御思召を以って侍従御差遣の光栄に浴せり。

お~、将棋のエピソードが最高です。大地震で貧窮した江戸の庶民へ食料を運ぶなんていう話もいいですね。

昔の商人にはこういった「仁義」「人情」に厚い人が多く、昔の郷土の偉人伝といった本にはこういった逸話がかなり出てくる。読むと結構グッときます。

それに比べて、現代の浮かれた経営者っていうのは「自分さえ儲かればいい、稼げる人間がエライ」みたいな人ばかりが出現して目立っている。それにホリエモンみたいな人が出てくると、それを担ぎ上げる人がいて、囃し立てるマスコミがいる。こんな風潮を見るとガックリくる。
現代日本において、「徳」「仁」に欠けた世の中を作り出しているのがこの手の人々であるような気がしてならない。
正田文右衛門でもいいし、渋沢栄一でもいいので、江戸・明治期の私利私欲のない商人を大河ドラマにすればいいのに、と最近つとに思う。(戦国、幕末、忠臣蔵はもういいよ)

追記  正田文右衛門の孫・正田貞一郎(のちの日清製粉創業者)のWikipediaにほかの記事があった。

明治4年 5月22日 - 父・作次郎、風邪がもとで26歳で急逝する。母とともに郷里の群馬県館林に戻り祖父・正田文右衛門(3代目)の下で育つ。

祖父・文右衛門(3代)(商人)
1818年(文政元年)7月生~1895年(明治28年)3月没
『正田貞一郎小伝』26頁によると、「(貞一郎の)父母は日蓮宗を深く信仰していたので、父の病気が重くなった時、貞一郎を僧侶にしようと祖父に相談したことがあった。その時祖父は屹然として「貞一郎は私が立派な人間に育てるから心配はいらない」と答えたという。後年、貞一郎は「祖父がいなかったら、私は坊さんになっていたかもしれない」と語った。

お~、やはり文右衛門さんはエライ。この正田貞一郎が美智子皇后陛下の祖父にあたるわけだから、あのまま坊主になっていたら今の皇室の形になっていなかったことになる……。

今度、菩提寺の常光寺に行ってみようと。
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Comment

[261]
昔はまともな人間に富が集まる仕組みになっていたので、集まった富が有効に活用されていたのでしょう。
今はまともでない人間に富が集まる仕組みになっているので、集まった富が有効に活用されないんでしょうね。
周囲を見ても、羽振りの良い生活をしている連中にはろくなのが居ませんからね。
[391] 誠に勝手ながら・・・
はじめまして。
いつも参考にさせていただいてます。
とても勉強になります。
所で、アップされている正田家系図ですが、画像拡大してもよく見れません。誠に勝手なお願いですができれば全体が見れる様にして頂けたら幸いです。
どうぞ宜しくお願いします。
それにしても皇后陛下も正田家も素晴らしい方々ですね。

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