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中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回

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新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回
中島知久平と新田義貞 


久々の「新田義貞伝承を追う!」シリーズ。
日本に危機が訪れると、新田一族の伝承(児島高徳も含む)を持つ者が必ず現れ、陰で活躍するといったことを追ったものが、このシリーズのテーマです。ほんとうにこれが不思議なもので、必ず新田伝承を持った人物が出てくる。なぜでしょうか。
当サイトでは、これまで、天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石、正田家(美智子皇后陛下)と書いてきて、今回が中島知久平です。(高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、と続く予定)
戦前・戦中においては中島知久平がその役割を負っているかのようです。
中島知久平 新田神社金山の頂上にある中島知久平像。 ここに新田義貞及び一族を祀った新田神社がある。
新田義貞願文 中島源太郎 
その脇には中島知久平の息子・中島源太郎(衆議院・元文部大臣)による「新田義貞願文」の碑がある。そうあの願文ですよ。太平記巻十七 義貞北国落ち前に日吉大社を詣でたときに奉った願文。
『願ワクバ往路万里ノ末マデモ擁護ノ御眦ヲ巡ラサレ、再度大軍ヲ起コシテ朝敵ヲ滅ボス力ヲ加エ給エ、我レ、タトエ不幸ニシテ命ノウチニ此ノ望ミヲ達セズトユウトモ、子孫ノ中ニ必ズ大軍ヲ起ス者アッテ、父祖ノ屍ヲ清メン事ヲ請ウ』のこと。詳しくは「東毛奇談」で。

中島知久平 銅像 尾島尾島役場にある「中島知久平の銅像」 

中島知久平像 岸信介中島知久平像には「元内閣総理大臣 岸信介」の名がある。

また経歴や中島飛行場については、過去記事において軽く触れているので、そちらをまずは参照してください。
二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5 シリーズ第25回
「富士重工・スバル」と「新田義貞せんべい」と「新田一族」

また中島飛行機については長島芳明さんのブログに詳しく、また本にも書かれる予定なのでそちらを。

スバル 矢島工場とりあえず、「富士重工・矢島工場」の写真を。スバル・レガシーとともに飛行機が展示されている。

さてさて、ここでは、中島知久平と新田義貞の関係についてのみ、手島仁著「中島知久平と国政研究会」(みやま文庫) から抜き出しておきます。

新田公挙兵六百年祭
新田神社と葉住利蔵
福井県福井市には新田義貞を主神とする藤島神社がある。同社は義貞が延元三年(1338)に戦死したと伝えられる燈明寺畷に、万治3年(1660)、福井藩主松平光通が石碑を建て、明治三年(1870)に同茂昭が小祠を建立したものを、同九年に別格官弊社に指定し、地名の藤島を社名としたものであった。
群馬県では、明治元年に幕末の新田勤王党を結成し、金井之恭とともに太政官へ出仕した橋本多賀之助が、新田神社と高山神社造営の建議書を太政官へ提出した。同三年に新田郡の荒牧孫三郎らが金山城本丸跡(山頂)に創建することを岩鼻県に、同六年には「新田神社創建願」を当時所管であった栃木県に、それぞれ提出した。同年許可がおり翌年に井上馨らの協賛を得て着工、同八年新田俊純ら新田義貞の末裔が社号を「新田神社」としたい許可願を提出し、許可となり社殿も完成。翌九年県社、同十二年に県社兼郷社となった。
新田郡では、新田神社を藤島神社と同じ別格官弊社に昇格させようという運動が起こった。その中心は葉住利蔵であった。衆議院議員となった葉住は、明治四十四年に新田家の縁戚にあたる井上馨を介して宮内省へ誓願書を提出したり、原敬内務大臣にも談判に及んだ。誓願書には三上参次に監修者になってもらい、岡野精一に「新田氏勤王事蹟」を纂述させたが、実現しなかった。武藤金吉も大正十年三月二十二日、横田千之助・鳩山一郎らを賛成議員に「県社新田神社合祀昇格に関する建議」を第四四帝国議会に提出した。同建議は採択されたものの実現には至らなかった。豊国覚堂によれば、葉住は新田神社昇格運動を勤王の念から行ったのに対して、武藤は新田郡の選挙民のために建議書を提出しただけであった(「上毛及上毛人」一九五号)。
皇太子裕仁が大正十年(1921)にヨーロッパ諸国を視察すると、葉住は、「摂政宮御渡欧記念」として翌年五月に太田町へ金山図書館を建設し、皇室中心主義の鼓舞と思想善導に役立てようとした。皇太子にならって同十二年に長男利次と義兄渋沢直一(金蔵)を伴い、ヨーロッパ21ヵ国を視察、帰国後に東京と群馬県内で20回に及ぶ講演会を開いた。講演会は、「世界中で唯一の崇敬賛美すべきの国体を有して、日本人が世界のすべての国民より幸福な国民である。それは忠孝の大義を有するからである。帝国々体が一般国民に反映して生活が安全を得ているからである。そして治国天下の大策は、政争をさけ妥協交譲による政治である」とする「愛国的大宣伝」であった。「上毛及上毛人」一一五号。
知久平は武藤金吉の後継者であったが、その政治的な活動を見ると、皇室主義、国家主義、非政争主義など葉住の遺訓を受け継いだといえる。

ここで登場する井上馨の新田神社創建などは「上州遷都論」のときにまとめてあります。
高山神社 正面 高山彦九郎高山彦九郎を祀る「高山神社」。閑散としていますが、社殿は立派です。吉田松陰を知るにはまず高山彦九郎を知らねばならないのに、現在では忘れ去られた存在となっています。 
高山神社 中島飛行機高山神社境内の手水舎をよく見ると「六百五十年祭 中島飛行機」とあります。
高山神社 中島知久平高山彦九郎を祭神とする「高山神社」にある碑。ここに協賛者筆頭として中島知久平の名が見える。
高山彦九郎の生誕地は細谷村で、中島知久平の出身地・尾島の押切はすぐ近くである。地元の偉人として中島は高山彦九郎を尊崇していた。

群馬会館の新田義貞像
昭和天皇の御大典を記念して群馬県では、県庁舎と群馬会館を建設し、同会館は昭和五年に完成した。同会館は「産業の殿堂」として建設され、当時、群馬の実業界を代表する知久平と上毛新聞社長・篠原秀吉は、「群馬県の三大先覚の像」を寄贈した。知久平は「勤王の忠臣新田義貞」の銅像、篠原は「勤王の志士高山彦九郎」と「幕臣・小栗上野介忠順」のレリーフで、制作者は佐波郡連取村(伊勢崎市)出身の鋳金工芸家・森村酉三であった。(森村は高崎の白衣大観音の原型製作者として知られる)
新田義貞の銅像(像の高さ四尺五寸、台座の高さ五尺)は群馬会館一階の広間に安置され、高山彦九郎と小栗忠順のレリーフは二階広間休憩室の壁にはめ込まれた。銅像は戦争で供出されたが、レリーフは現在も同会館にある。制作にあたり森村は各方面から資料を収集し、新田義貞は勤王の義気に燃える義貞を理想化するため、台座の上を洗う波、稲村ケ崎の劈頭から剣を投じようとする姿とした。高山彦九郎は京都三條大橋から皇居を遥拝して悲憤の涙に咽ぶ姿、小栗忠順は羽織袴の上半身で、徳川幕府の産業経済金融を一身にになったその手腕を偲ぶ姿となった。(『上毛』昭和5年2月10日・5月11日・6月19日、『上毛及上毛人』155号・158号)。
<中略>
昭和三年十一月に知久平は、井上理三郎(元館林税務署長)らが尾島町武蔵島の花見塚神社境内の新田義貞の首塚・勾当内侍(義貞婦人)の墓と伝える五輪塔のそばに、「勾当内侍遺墳碑」を建てると、最高額の百円を寄贈した。題額は金子堅太郎によるものであった。


勾当内侍の碑 花見塚神社勾当内侍遺墳碑。
碑の背面には「中島知久平」の名がある。
新田氏関連の寺社を巡って、昭和初期に建てられた碑を見れば必ずといっていいほど「中島知久平」の名前を見つけることができる。

挙兵六百年祭
知久平が幼少期から育んできた天皇主義・皇室中心主義を国民教化運動としたのが、「新田義貞公挙兵六百年祭」をはじめとする新田義貞の顕彰事業であった。第六四議会(昭和七年十二月十六日~八年三月二十六日)では思想問題が政治問題化し、斎藤実首相は施政方針演説で、「今後モ益々政治、教育其他各方面ニ於テ思想ノ善導ニ努力シ、不祥事ノ根絶ヲ期シタイト思ヒマス」と述べた。
挙兵六百年祭は昭和八年五月八日が挙兵から六百年にあたることから計画され、知久平は委員長に就任し、市政会館事務所内と太田町役場内に「新田公挙兵六百年記念碑建設会」を設け、国政研究会理事長中村藤兵衛を発起人総代とした。同会は金沢正雄県知事や各郡市教育会関係者、県出身の衆議院・貴族院議員、岡田啓介首相をはじめ内相・文相・衆貴両院議長、県内の旧藩主、野間清治らを賛助員とする大規模な組織であった。
事業内容は、①挙兵の地・生品神社と新田家累代の菩提寺・金龍寺に「新田公挙兵六百年記念碑」を建設。②群馬県出身で東京帝国大学史料編纂官兼助教授・中村孝也が執筆の「新田義貞公」(一万部)、「鎌倉攻」(六万部)、「笠懸野」(五千部)を作成配布。③中村作詞で群馬県出身の井上武士作曲の記念歌「五月の空」(小学児童合唱歌)と薩摩琵琶歌「新田義貞公」・筑前琵琶歌「天竜川」、中村作の児童劇「鎌倉攻」の制作などであった。「新田義貞公」などの書籍は、小学校尋常五年生以上と中学生に配布され、中村と鈴木孝雄陸軍大将の講演会や記念歌と児童劇が太田町で上演されたほか、東京中央放送局で「新田公の夕」という特別番組が編成された。また、野間の経営する講談社発行の「雄弁」「少年倶楽部」「幼年倶楽部」などの雑誌でも取り上げ、メディアを動員した国民教化運動となった。(「上毛」昭和八年四月三十日・五月一日・七日・九日)。

中島知久平の政治家としての力の凄さが、「新田公挙兵六百年記念会」これ一点をみただけでも分かります。衆議院・貴族院議員、岡田啓介首相をはじめ内相・文相・衆貴両院議長、県内の旧藩主を動かすほどだったんですから。
それに講談社創業者の野間清治(群馬県出身)をも巻き込んで、これって、今でいうメディアミックスじゃないの。
お~、新田義貞でメディアミックス! 夢のようです。(歌舞伎・芝居でも新田義貞及び一族は取り上げられることも多かったので、当時は本当に人気があったんですね。今では考えられませんが……)


金龍寺の碑は徳川家達が「左中将 新田公 誠忠碑」と揮毫し、撰書は碓井郡出身で学習院長の荒木寅三郎が担当。生品神社の碑は徳川家達が「新田公挙兵六百年記念碑」と揮毫し、国分青崖の漢詩が刻まれた。知久平は祭典の意義を「我が新田公は忠臣であり、寡兵よく逆臣の大軍に向った大勇こそ大いに学ぶべきことと思ふ。今年は丁度六百年に当るので精神教育に資したい意味で記念碑を建設した訳である。新田公を思ひ起こす度毎に今後の青年も奮起して来るであろうことを信じて居る」と語った。(「上毛及上毛人」一九四号)
祭典に皇室から金百円の祭粢料が下賜され、関係者は歓喜した。委員長の知久平が五月六日に宮内省に出向き、湯浅倉平宮内大臣から祭粢料を拝領した(「上毛」昭和八年五月六日)。
知久平は生品神社境内に、次の文字を刻んだ石碑を建てた。「昭和八年五月八日ハ新田義貞公挙兵六百年ニ相当スルヲ以テ記念碑ヲ建設シ祭典ヲ執行スルニ当リ事、天聴ニ達シ畏クモ祭粢料御下賜ノ御沙汰ヲ拝シ光栄アル式典ヲ終レリ 爰ニ御沙汰書ヲ刻シ後世ニ傳フ云爾 昭和八年十月 新田公挙兵六百年挙兵六百年記念碑建設委員長 中島知久平」
昭和九年十月十日、「非常時国民の精神作興」に役立てることを目的に、「新田公会」が金沢県知事によって建設され、総裁に徳川家達、会長に金沢正雄、副会長に星子県学務部長と中村藤兵衛、顧問に新田俊純、評議員に知久平、野間らが就任した。同会は新田一族の遺蹟・遺物の調査保存、史料の収集・編纂刊行、「帝都に義貞公の銅像」建設、講演会のほかに、同十三年の戦没六百年祭と新田神社に子孫・一族・郎党を合祀し、同社の社格を別格官弊社とすることを課題とした(「上毛」昭和九年十月七日・十一日、「上毛及上毛人」二一〇号)


金龍寺 新田義貞公誠忠碑金龍寺 新田義貞公誠忠碑

金龍寺・案内板 2金龍寺・案内板 2

金龍寺 案内板金龍寺 案内板

金龍寺・扁額金龍寺・扁額

戦没六百年祭
昭和十二年四月十八・十九日、東京から松平頼壽伯爵・酒井忠正伯爵・奈良武次陸軍大将・深井英五前日本銀行総裁・中島知久平・峰岸米造東京高等師範学校教授・新田公会副会長中村藤兵衛らを貫前神社隣の東国敬神道場に迎え、新田公戦没六百年祭の打合会が行われ、その後、長楽寺・総持寺・生品神社・新田神社などの遺蹟を視察した。七月六日には君島清吉県知事が東京で新田公会幹部会を開催し、本格的な準備が始まった。幹部会には鉄道大臣に就任したばかりの知久平や文部大臣安井英二、徳川圀順・松平頼壽・新田義美・徳川家達・中村藤兵衛などが集まった。
福井県の藤島神社では「新田義貞公六百年大祭」が昭和十三年五月二十二日から二十四日まで営まれた。群馬県これに呼応し、知久平が中心となり、奉賛会を結成して祭事にあたることにした。事業は新田神社での大祭、金龍寺・大光院・正法寺・照明寺・円福寺・安養寺・長楽寺・総持寺で大供養を行い、国民精神総動員運動を兼ね各種の教化行事を行った。五月二十三日には、知久平が「新田公殉節六百年記念碑 鉄道大臣 中島知久平書」と揮毫した碑が、金龍寺に建立された。撰分は中村孝也であった。(「上毛及上毛人」二五三・二五四号)。
新田郡世良田村では、村内有力者二三〇名を網羅して「新田公奉賛会」(会長・粕川宗造村長)をつくり、事業計画を立て、新田館址としてゆかりのある総持寺に記念碑(新田館址碑)を建て、小学校には新田義貞の銅像を建立した。記念碑の篆額は政友会総裁となった知久平で、碑文は中村孝也であった。「新田館址」の石標は、川岸文三郎陸軍中将が書いた(「上毛及上毛人」二七七号)。これは、紀元二千六百年(昭和十五年)を記念する事業でもあった。
さらに、昭和十六年には同村の村長・粕川宗造、村議・大野道衛、長楽寺住職鹽入良善らが「新田一族竝従臣忠霊供養塔建設会」を組織し、中島知久平・川岸文三郎・新田俊純・薄田美朝県知事らの支援を得て、「新田一族竝従臣忠霊供養塔」(花崗岩の十三重塔)を建設し、義貞の挙兵日の五月七日に「忠霊供養法会」と中村孝也による講演会が行われた(「上毛及上毛人」二八七号)。
自己顕示や売名行為が嫌いで、揮毫を頼まれても断るか、「―」という文字きり書かなかった知久平が、猛烈な天皇主義者であったゆえ、新田義貞挙兵六百年祭をはじめとする事業では、石碑への揮毫に応じた。これらの石碑は、書嫌いに知久平の文字を見ることの出来る数少ない遺蹟となった。刻まれた文字を見ると、知久平は達筆であった。

それにしても義貞戦没六百年祭に参加したメンバーがスゴイですね。日銀総裁や大臣、知事、学習院長などなど。いま義貞に関する式典を行っても市長クラスしか来ないでしょうね。
長楽寺 新田一族供養塔画像は、長楽寺にある「新田一族供養塔」

さて中島知久平の生家は、尾島町押切(合併し、太田市に編入)にある。
中島知久平 新邸中島知久平 新邸。外からしか中の様子は窺えないが、建物や蔵、車寄せの玄関など、かつての栄華がわかる。ただいまは屋根も朽ち果てていてかなりボロボロだ。太田市が改修するという話もあるようだが、反対派がうるさいらしい。文化財・歴史建造物・歴史的価値のあるものをすべて放置してきた太田市のことだから、また捨て置かれることだろう。ほんと市民に何の利益のない英語学校なんかに金を使うなら、こういうところに使って欲しい、と思う。
中島知久平 新邸 門中島知久平 新邸 門

この一帯は、新田氏関連の遺跡に溢れている。
満徳寺、勾当内侍関連の儀源寺や花見塚神社、そして利根川の川向うが埼玉県深谷になる。(渋沢栄一の菩提寺は新田氏関連の華蔵寺)
市内へ向かえば金山、呑龍さんの大光院、金龍寺。旧新田町方面へは斎藤佑樹とも縁が深い生品神社、反町薬師。
そして、この川を上がっていけば世良田東照宮や長楽寺へ、そして、幕末の志士に影響を与えた高山彦九郎の生家があり、下っていくと大泉町にある児島高徳の墓・高徳寺へ、さらに下ると館林へ行き美智子妃陛下を生む正田家へ続くことになる。

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中島知久平がこの地に生まれた意味は大きい。

続く。

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