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新田義貞の兜の話。

物語を物語る

8月14日は、旧暦では7月2日にあたる。
新田義貞が戦死した日は旧暦の7月2日であった。現代では残暑が厳しく、まだまだ盛夏の印象があるが、昔は夏も短く、暦上では立秋も過ぎて、秋の気配が感じられるころであっただろう。
さて、新田義貞討ち死にの場面は、歴史ミステリー小説「東毛奇談」の第2章あたりで書いたし、「7月2日は新田義貞の命日」という記事にも少し書きました。命日にちなんで何か義貞について書きたいので、今日は、新田義貞が死ぬときにしていた兜の話をしたいと思います。
新田義貞戦没伝説地は、現在の福井市新田塚で、当時は灯明寺畷といわれています。
なぜ、伝説地かというと、新田義貞の戦死場所は確定されていないんです。
たぶんこの辺りだろうということで、決まったんです。(うー名将の最期としては悲し過ぎる)
その経緯が因縁めいているんです。
それは、江戸時代の1653年のこと。この地の百姓であった嘉兵衛なる人物が、水田から古兜を見つけた。農民にとっては兜も農具に代わる。おーこれは、何か入れるものに丁度いいと芋桶として使っていた。
これを当時の福井藩軍学者の井原番右衛門がたまたま通りがかりこの兜を見つけた。その芋桶に使っている兜をちょっと見せてみろ、なんて言ったんでしょうね。で、この井原という人はなかなかの目利きだったらしく、この兜が年代物で名のある品であることを一目で見抜いた。そこでこれを貰い受けて、早速、兜を調べてみた。
四十二間の筋兜で、兜の周りには「天照大神」「熱田大明神」などが刻み込まれ、兜の裏側には元応元年・相州作の銘がある。
そして、これは新田義貞が身につけていた兜に間違いないと鑑定したのだ。
これにより、兜が発見された場所が義貞戦死の地となった。
これは当時大ニュースとなった。
1660年、その時の福井藩主・松平光通は、新田源氏を名乗る将軍家の遠祖として、また自分の祖先として『暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所』と刻んだ石碑を建立し、遺跡を顕彰した。そこで、その辺りは新田塚と呼ばれるようになった。明治時代には藤島神社が建立され、兜は奉納された。そのときの福井知事が松平茂昭。いま兜は重要文化財に指定されている。

ということで、まず、新田義貞の兜が農民によって発見され、それを芋桶に使っていたということが、逸話として面白くもありますが、どこか哀しくもありますね。
それにこの話の興味深いところは、松平家・徳川家は、自分たちが新田一族の末裔であることを、全く疑っていなかったことが分かるということです。
これは、家康が、「われらは新田源氏であり、源氏であるからこそ、将軍職を受けることができ、幕府を開き、政務を掌ることができる」という自らの出自政策が見事に成功している証拠でしょう。
徳川光圀でさえ、我らは源氏の末裔である、という詩を残しているほどですから、江戸時代では、徳川家・松平家=新田源氏であると信じられていたし、一般庶民にも浸透していたんです。
家康が1586年に里見氏に出した書状には「徳川家と里見家は同家の新田の出であるから誼を結ぼう」といった内容のものを送っている。これは家康が将軍職を受ける16年前のことである。
里見氏は新田家の分家であり、「里見八犬伝」で有名なあの里見氏である。後に里見氏は改易となり、新田源氏を名乗る大名、有力者は徳川家だけになった。(このあたりは「東毛奇談」第3章に詳しく書いてあります)
そしてもうひとつ、この兜をめぐる物語は「仮名手本忠臣蔵」につながっていくですが……。
これは次回に続く。



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Comment

[29]
面白いお話ですが、実際のところ、義貞本人の兜かどうかとなると、どうなんでしょう?名のありそうな武将が打ち取られると、兜も、その武将が誰であるかを特定する材料になると思うので、土中に置きっ放しになるとは、ちょっと考えにくいのですが(まぁ乱戦であれば、そんな余裕は無いんでしょうけど、そうなると『太平記』の描写とは、また違った戦いだったという印象になりますし)。
いずれにしても、その軍学者先生が「義貞の兜」だと断定するに至った、詳しい根拠が知りたい気がします。

>松平家・徳川家は、自分たちが新田一族の末裔であることを、全く疑っていなかったことが分かるということです。

そういえば、東京大田区の新田神社に新田義興の生涯を描いた絵巻物を奉納したのは、旗本寄合席だった松平政種、「新田神君の碑」を建てたのは、水戸光圀の甥にあたる松平頼寛でしたね。
[31] コメントありがとうございます
朝倉さまコメありがとうございます。
さて、新田義貞の兜の話ですが、「藤島神社」の由来などに詳しく載っています。
あとは、兜図鑑から引いた話でした。義貞が討たれたときは、足利方はその武将が義貞とは分からずに、首だけをもって帰陣しています。あとになってこの首が義貞だと知れて、斯波高経は慌てて、「鬼丸、鬼切り丸」の刀だけを捜索させています。兜は全く眼中になかったようです。それがそのまま残されていたようです。鑑定については、かなり推量の部分が多く、軍学者が功名のために報告したのでは、ないかと思われる節もあります。
新田義貞、兜で検索すると、画像付で解説しているサイトがありますので、そちらを見てもよいかと思います。

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消えた二十二巻

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