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物語を物語る

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いま日本に必要なのは「ディズニーランド」でも「パンダ」でもない。「祭り」や「年中行事」「花見」こそいま行われるべきなのだ!

物語を物語る

1、
原発問題や被災地の状況といった重要な情報に交じって、「東京ディズニーランドはしばらく休園だ」とか、「設備に問題はない」といった、ディズニーランド情報がニュース番組で報道されるのは何故なのだろう。
不思議なことに、震災直後から「東京ディズニーランド」の情報がテロップでしきりに流されていた。マグニチュード9の地震が起こって日本が大混乱になっている時に、なぜ一遊園地の情報だけを繰り返して伝えるのか、ほんとに気味が悪かった。このことは前に少し触れた。
過去記事
日本人にとって「ディズニーランド」がそんなに重要なものなのか?
そして、こんな記事を読んだ。
http://news.livedoor.com/article/detail/5459769/

東京ディズニーランド営業再開にブーイングも…
日本最大のテーマパークである東京ディズニーランド、東京ディズニーシーは、東北関東大震災の影響で休園している。
 施設内では駐車場の一部に、液状化現象が見られたが、すでに復旧工事を終え、全施設が営業可能な状況だという。そんななか、両リゾートを運営するオリエンタルランドでは、4月上旬にも営業再開すべく、検討に入っていることが明らかになった。
 そうなると、不足している電力問題が大きく浮上する。施設運営に当たり、全リゾートが稼動すれば、1日の電力使用量が一般家庭の約5万7000世帯分にも相当するのだ。東京ドームで野球の試合を行った場合、電力使用量は一般世帯の3000~4000世帯分といわれている。プロ野球では政府の要請もあり、4月中の同会場での試合中止を決めた。その遥かに上を行く膨大な電力を使用するディズニーが営業再開ともなれば、一般市民も看過できない問題となる。
 東京電力による計画停電は、気温の上昇と節電効果で3月29日以降は実施されていない(4月1日現在)。しかし、これだけ大きな電力を使用するディズニーが営業すれば、それが原因で電力不足に陥り、計画停電再開の憂き目にも遭いかねない。
 「せっかく、みんなの節電努力で計画停電が回避されているのに、ディズニー再開で停電させられたらたまらない」(千葉県在住の30代の会社員A氏)などといった強硬な意見も、数多く聞こえてくるのだ。
 オリエンタルランドでは再開に当たり、夜間営業の自粛、ランドかシーのどちらか1パークのみ営業等の対応策を検討しているもよう。とはいえ、それでも膨大な電力を使うことに変わりはなく、思案のしどころ。同社には一般市民が納得いくような形での営業再開を望むばかりだ。
(蔵元英二)

計画停電によってどれだけの影響が出るか考えてみれば、ディズニーランド再開なんてありえない。停電で、近隣住民は夏場でもクーラーが止まり、工場もストップ、商店も閉店で、その一方ではディズニーランドで遊んでいる奴がいるというのも変な話だろう。
それにしても、浦安市は成人式をディズニーランドで行うというが、バカな街だと思う。成人式の本来の意味を考えてみれば、こんな発想は出ないし、今まで誰も止めなかったというのも、私には不可解でしかない。アメリカ文化の象徴のような場所で日本人が成人になるという儀式を行うという愚行が繰り返されてきた街が、液状化現象で沈むという被災を受けても、私には何の同情心が湧くことはない。(もちろん他の地域の方々には憐憫の情を抱きます)
ほかにいろいろある、ただこれ以上続けると、なお罵詈雑言を浴びせかけてしまいそうなのでやめておく。
ただ、日本人にとって、震災のこと被災地のこと以上に「ディズニーランド」が必要なものなのかを閉園しているこの機会に考えるべきだ、と思う。
関連記事 「ディズニーランド」をアメリカ文化の侵略とみる中国人、逆にそれを取り入れて自分の文化にしてしまう日本人。

そしてこれ。
http://news.walkerplus.com/2011/0401/4/

徹夜行列組も! 待望の“上野のパンダ”本日ついに公開
4月1日(金)、東北地方太平洋沖地震の影響により、公開が延期されていた恩賜上野動物園のジャイアントパンダ「リーリー」と「シンシン」の一般公開がついにスタート。上野動物園の表門前には、前日から並んだという“徹夜行列組”も出るほど大盛況となった。

2月21日に中国よりやって来た2頭のパンダは、3月9日に日本名が「リーリー」と「シンシン」に決定。当初3月22日に公開される予定だったが、地震の影響により同園は3月17日から休園となり、パンダのお披露目も延期となっていた。本日4月1日(金)より、動物園の営業が再開され、同時にパンダの一般公開もスタートとなった。
日本中が待ち望んだパンダ公開とあって、午前10時の開園を前に、2頭の姿をひと目見ようと集まった人々で表門前には大行列が! 先頭に並んでいたのは、なんと“パンダ好き”として人気のタレント・藤岡みなみさん(22歳)! 早速話を聞くと「昨日の午後2時から並んでます! 小2の時からのパンダファンで、リーリーとシンシンがきっと日本を元気にしてくれると期待しています!」と、待望のパンダとの対面を前に満面の笑みで答えてくれた。

あまりの行列に、開園を15分早め、9:45に開園すると、あっという間にパンダ舎の前には大勢の人だかりが。肝がすわっているメスの「シンシン」は、大勢の見物客の前でもどっしり構え、エサをムシャムシャ。一方、神経質なオスの「リーリー」は、落ち着かない様子でウロウロしたり、「シンシン」の方を気にする素振りを見せていた。100キログラム以上もある大きな体で動き回ったり、エサをおいしそうに食べる愛らしい2頭の姿に、大勢の見物客からは「かわいい~!」と歓声が上がっていた。
待望のパンダとの対面を果たした、先ほどの“パンダアイドル”の女性に感想を聞いてみると、「お腹を見せてくつろいでいたり、とにかく元気そうで良かったです!」とニッコリ。来日直後に大きな地震に見舞われ、2頭への精神的影響も心配していたが、実際に元気よく動き回る姿が見られて、安心していた人も多かったようだ。
ちなみに、現在メスの「シンシン」に発情兆候が見られるということで、ペアリング(交配のための同居)の際には、公開が中止されることもあるという。さらに、使用電力削減のため当面の間、通常よりも時間を短縮しての営業(10:00~16:00 ※入園は15:00まで)となり、計画停電が予定される場合は閉園。また、余震などの状況によっても閉園される場合あるので、事前にホームページ等での確認が必要だ。
ちなみに、1日(金)の入園者数は午前11時時点で約8000人を記録。春休み期間中ということもあって大勢の人が“パンダ見物”に駆けつけたようだ。震災の影響で沈みがちだった日本に、ようやく訪れた久しぶりの明るい話題。園内では東北地方太平洋沖地震への義援金も受け付けており、これから上野のパンダが日本中に笑顔をもたらしてくれることを期待しよう。【東京ウォーカー】

なんか読んでいて悲しくなった。
ほんとに「パンダ」が日本を明るくすると思っているのか? 地震があったけど「パンダ」は元気で大丈夫、よかったよかったって……、アホか。
「パンダ」が来ることによって日本が中国に払うレンタル料の額は知ってるのかい?
死んだら賠償金を払い、子どもが生まれたらその分の金を取られるというのを知ってるのかい?
中国政府が「パンダ」を外交目的、観光資源として政治利用しているという事実を知っているのかい?
「パンダ」の原産地は元々は「チベット」であり、その土地にいたチベット人を大虐殺したことを知っているのかい?
その昔、中国の皇帝が周辺国に従属関係を置いた際(柵封体制)、朝貢してきた土産物として「パンダ」を与えたという話を知っているのかい? そして中国皇帝から日本へ「パンダ」を贈ったという古文書の記述があると捏造して、それを以って、かつて日本は中国の柵封下にあったと主張する学者がいるということを知っているのかい?(685年、則天武后から遣唐使に「大熊(パンダ)」を贈ったという説)

マイケル・ユー著「パンダは日本に必要ですか? 中国ソフトパワー戦略の脅威パンダ……」を読むと、中国がパンダを外交手段として利用している話や、希少価値を高めるために頭数制限をしているなんて話がわんさと出てくる。(一読を)過去記事
パンダは日本に必要ですか?

そんなことを知ってから、日本人がパンダを見て喜んでいる姿を見ると虚しくなる。
特に震災後に、パンダ見たさに数千人が並び、その日だけで数万人が訪れたなんて話を聞くと余計だ。

2、
その一方では……。
東日本大震災 埋葬(画像は産経新聞から)

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110317/dms1103171556016-n1.htm

東日本大震災の死者数が数千人単位に及ぶ中、各地の安置所は泥だらけの遺体であふれているが、火葬施設はほぼ全滅しており、被災者の救援活動と並行して遺体の埋葬問題が地元自治体に重くのしかかっている。逼迫する事態を受け、関係各所では土葬に向けた動きも本格化し始めた。
 警察庁によると、地元だけでなく全国から派遣された警察官計1050人が遺体の検視と身元確認にあたっているが、検視が追いつかない。遺体の冷蔵保存やドライアイスの調達は困難なため、身元が分からない場合でも、速やかに市区町村長に引き渡すよう指示しているという。

テレビでは「遺体」に関して報道は少ない。放送するにも難しい問題があるのだろう。だが現実はテレビ報道よりも厳しいようだ。美談や感傷的な話もいいが、埋葬されない遺体が数多くあるという現実も知らされるべきだ。
ネットの記事から少し拾ってみる。
「燃料不足もあって施設の火葬能力は限界に達している」「町の火葬場が復旧しておらず、遺体を搬送できる人に限り、隣の登米市で火葬を受け付けているが、ガソリン不足で、遺体の引き渡しも進んでいないのが現状だ。」「ドライアイスを手配しているが足りない」「一時的に遺体を土葬した宮城県気仙沼市内の広場。名前ではなく、番号だけが記された墓標も多い」
「遺体の放射線量が高かったため、収容を断念した」「発見される遺体は当面は1日400体程度で推移するものの、水面に浮上する地震発生2週間~1カ月後には、1日1千体程度まで増えると指摘。」
「幼稚園の帽子をかぶった男の子は泥だらけだった。「怖かっただろう。きれいにしような」。そう語りかけながら体を洗い流すうち、涙で前が見えなくなった。水不足で泥水を使うしかなく、体を拭く布はすぐに変色した。」

これが自分だったら、自分の子どもだったら、親や親類だったら、、知り合いだったら、尊敬した人だったら、愛したひとだったら……。そんな人々が死んでも、葬式もあげることも、火葬することもできないのだ。(放射能を浴びていたら、土壌に放射能がしみ込むために土葬もできない、火葬すると放射能をまき散らすためにこれもできない、という) 
悲運の中で命を落とした方々の魂を慰霊(鎮魂)することが、生き残った人々の役目である。
だが、いまはこれも出来ないというのだ。遺族にとってこれほど悲しいことはないであろう。
これは外国の話ではない。まさに日本で今現在起こっていることなのだ。
「ディズニーランド」「パンダ」なんてことよりも、もっと大事なことがあるんじゃないかとつくづく思う。
2東日本大震災 埋葬(画像は産経新聞から)

それに経済のために自粛ムードを壊そうというスローガンの下に「はしゃぐ奴ら」は何であろうか。
「自粛ムードは経済の停滞になるから、居酒屋に行ってビールを飲もう」と言って週刊誌で小銭を稼ぐ森永卓郎。こんなのが経済学者だという。
「昨日、高島屋に行ったら暗くって、そして節電で電気式のロッカーも使えなかったよ」とラジオで言っていたキャスターがいた。こんなのがテレビではニュース番組の司会を務めている。
週刊新潮には「六本木や銀座のネオンの灯が消えて寂しい」といった話を例に出して経済活性化を論じていた。少しは「夜のお遊び」を我慢しろよ、東京人。(自分のお誕生会を気にする和田アキ子ぐらいバカげた話だ。)
「こんな時だからこそ、笑いで日本を元気にする」と自己弁護し、テレビに出て下らない駄話を喋るだけのタレント芸人いた。節電というなら、まずこんな番組を流すべきではない。これ以上のムダはない。
なぜこんな人が多いのか。
「自粛ムード反対、経済を回すことが先決」といって「イベントをやれ、消費をしろ」と勧める。「こんな時だからこそ……」と言って、テレビでドンチャン騒ぎをする。
みんなこのスローガンを言えば「免罪符」になると思っているのだろうか。そしてこの「免罪符」で「自己正当化」して「この悲惨な状況」あるいは「いま世の中の雰囲気)」から「逃避」しようとしているのではないか。
それともしたら、ただ単に俺には関係ねぇ、所詮他人事だよ、とでも思っているのだろう。

3、
それでは何か、すべてを自粛しろとでもいうのか、という声も出るだろう。
いや、そうではない。
いま日本に必要なのは「祭り」や「儀式」、「年中行事」であり、これこそ中止せずに行うべきだと思う。
「祭り」の本来の意味の中に死者への鎮魂や慰霊というものもあるのは忘れてはならない。
また「花見」の桜に死と再生を意味することがあるという意味からいっても、中止すべきではない。
バカ騒ぎをするためのイベントは今の雰囲気に合わないが、昔から続く「祭りや年中行事」はどんどん行うべきである。
いくつか本から引いてみる。
大村英昭「日本人の心の習慣 鎮めの文化論」(NHKライブラリー)から。

日本文化の基調
わが国の祭礼には、何かを鎮めるという趣旨のものが少なくありません。家を建てる前にされる地鎮祭がれば、地方にとっては“風の盆”と呼ばれたりする風鎮祭もあります。おわら節で知られる越中(富山県)八尾町のものは歌謡曲にもうたわれてあまりにも有名です。
実は花鎮め(鎮花祭)というものがあるのですが、ご存知でしょうか。春の、花が落ちる頃は“木の芽立ち”とも言いまして病気になりやすい。それで「やすらへ花よ」とうたいながら、落ちた花の精を鎮めることで、病気がはやるのを防ごうとしたのでしょう。もとは宮廷行事でしたが、現在は、薬屋さんがスポンサーになって一般寺社でもされているところがあります。「花粉症」のことなど思いあわせすと、なかなか味わいのある祭礼です。
もちろん死者、とりわけ殉難者の御霊を鎮める慰霊祭は、今も広く行われています。その元祖のように言われる菅原道真公の怨霊鎮め、ご存知のように、これが北野天満宮のはじまりですが、実は、我が国の文化事業は寺社の造営に限らず、和歌の撰集なども含め、その大半が魂鎮めをひそかなモチーフにしていると言われます。それだけ我が国は、古来、鎮めることに意を用いてきた国だったと言ってもいいでしょう。諸外国の祭りの大半が、人々を元気づけ煽る方向でなされるのに対し、日本の古くからある祭礼が、むしろ癒したり鎮めたりする側に傾斜しているのは興味深いことではないでしょうか。そう、民族の文化的基調(通奏低音と言う人もあります)が、どちらかというと、煽る側より鎮める側にあったといって過言ではない、と私は思います。
クリスマスのような生誕祭より、日本では宗教的偉人への感謝の気持を表すにしても七百回大遠忌のように、むしろ亡くなった忌日(命日)を目当てにして営まれることが多いのです。このあたりにも、私は、同じ通奏低音が流れているように思えてなりません。恩に報いる感謝(おかげさま)の気持ちと、魂鎮めの供養の心とが渾然一体になっている。皆さまがなさっている“ご先祖供養”も含めて、そこに「民俗のこころ」がよく表れていると言ってもいいわけです。
ところが、いつの頃からでしょうか。私たちは、この供養するとか鎮めるとかいう気持ちをどこかへ置き忘れたような文化状況に慣れ親しんでまいりました。
<中略>
例えば国を単位に考えましても、時代の曲がり角ごとに、つまりは「体制疲労」を癒し、心鎮めて反省するような時間(とき)が必要なのではありますまいか。今の日本が、まさにそういう時期だと考え、かつ、この国には、もともと厚い「鎮めの文化」の蓄積があった。……


宇野正人著「祭りと日本人」(青春出版社)から

「まつり」とは何か
昔から「日本人の祭り好き」とよく言われてきた。それは単にお祭り騒ぎが好きだというだけでなく、日本人の信心深さ、神に対する姿勢を物語ることでもあった。
現代は芸術祭、映画祭、学園祭から果てはデパートの駅弁祭りまで、特別な催し物という意味で「祭り」という言葉が使われることも多いか、それが本来の「祭り」ではないことを私たちは知っている。
祭りの主役は言うまでもなく神様である。「祭り」というのは、「神をまつること」であり、「神とそれをまつる物」との間で行われることだ。そのようなことを、私たち日本人は誰から教えられたわけでもなく、なんとなく常識として身につけている。
では、日本人にとって祭りは何なのだろう? そもそも祭りの本義である、「神をまつる」とはどういうことなのだろう?
日本の民俗学の祖・柳田国男は、日本語の「まつり」という言葉は「まつろう」と同義語で、尊い方のおそばにいて仕え奉るという意味だ、と説いている。それは、ご様子を伺い、何でも仰せごとがあれば皆承り、思し召しのままに勤仕しようという態度に他ならないと述べている。ただ遠くから敬意を表すのではなく、もっと積極的にお仕えし、神の意に応えようとする姿勢の現れだとも言う。これらの考え方は、近世以降の国学者も同じように指摘している。
もう一人の民俗学者の先達・折口信夫は、有名な『古代研究』の中で「献る(たてまつる)」を「まつる」の語源とする説を、数ある祭りの語源説の中で最上位のものとしている。これは折口の国語学の師・三矢重松の説で、「神・霊に食物、供物を捧げること」を意味しているのだが、折口は、もう少し先の、「まつるは神意を宣(の)ること」と説いている。
つまり「まつり」とは、祝詞、詔旨を唱誦する儀式であり、神意を具象する為に、祝詞の意を体して奉仕することなのである。そしてそれらが、神意の現実化したことを覆奏する義(繰り返してよく調べてから申し上げること)になったとも言っている。
神の命令である「みこと」が神の代弁をする人「みこともち」によって具体的な言葉「祝詞、詔旨」として唱えられる。その言葉には神の霊力が乗っており、実効力を持っている。人はその言葉に示された神の御心のまま奉仕し、「みこと」の内容が具現化するようにつとめる。これが祭りの原義だと言うのだ。
また、「まつる」の語幹として「まつ」も考えられている。この「まつ」には期待以上の強く期する心があって、神が現れて神意、神慮が告げられるのを「待ち」こがれ、示された神意を「守つ(まつ)」という意味がある。さらに「みこと」の実現した状態を示す語が「全し(まつし)」(完全な様子)だとしている。
「まつり」には、そこに人がいるように神にお仕えすることを重視する考え方がある。これらの考え方には微妙な差があるのだが、共通しているのは、神をもてなし、神意を伺い、神の御心のままに奉仕する、ということである。
日本古来の信仰の神髄は「唯神之道=かんながらのみち」である。これは、神の御心のままに生きる、ということだ。単に神に絶対服従することではない。人知を超えた大いなる威力を持った神と波長を合わせ、一体化していくことを願い、そこに幸福と歓び、人の生きる道を見出していたのである。
神と人との間を釣り合わせること、「間(ま)釣り合わせ」「真(ま)釣り合い」こそが「まつり」の本来の意味なのである。
そのために、神に降臨してもらい、精一杯の感謝を捧げ、神の御心を伺い、神と人とが交流交歓して調和をはかる儀式こそが「祭り」なのである。
「祭り」になると、荘厳な気持ちになったり、血湧き肉躍る状態になったりするのは、まさに神霊と通じ合っているからで、神霊の波動が入ってくることによって、自身の魂が浄められ、威力が与えられ躍動するというように、私たち日本人の祖先は考えたのである。

日本人古来の信仰には、いわゆる「経典」がない。もっとも、戦前は『古事記』や『日本書紀』が経典に準ずるとする説もあった。確かにそれらには天地創世や神々の系譜などが書かれているが、それはあくまでも神話であって、仏教の経典やキリスト教の聖書のように、教えが説かれているわけではないのだ。
そもそも日本古来の信仰というのは、人々が文書によって教義を教えられ、信仰してきたわけではない。体系だった教義などないし、教義を説く説教者などいなかったのだ。
専門の神職が出てきたのはだいぶ後の時代になってからだし、元は神社の建物もなかったといわれている。教組もいないし他国の宗教のような教団組織もない。平日――つまり祭りでない日の伝道もなかったのである。
ただ、「祭り」にはかならず祭主がいて、それぞれのお社のまわりには儀式の作法や心得を指導する者はいた。しかし、その教えはもっぱら行為と感覚によって伝達されるべきもので、常の日、常の席でこれを口にすることははばかられていた。そもそも口で説明できるようなことではないからだ。それらの儀式や作法は、祭りに参加した者だけが体験するべきもので、その体験を通して感得するものなのである。
毎年繰り返される四季折々の祭りによって個々人の心身に刻み込まれ、共通体験として共有され、伝承されてきたのが日本古来の信仰である。したがって祭りに参加しないのは非常な損失であり、許されざる怠慢とさえ考えられていた。
「神道」という言葉が文献に初めて出てくるのは、『日本書紀』の用明天皇(第三一代・在位585~587年)の時代の頃である。仏教に対して、日本古来の信仰を「神の道」と称したのだ。神の教え「神道」としなかったのは、教義や経典によって教えられるものではないからであろう。
なぜなら日本人は、森羅万象に霊性が宿り、神霊の意志が働いていると考え、自然現象を神の意思の現れと捉えてきたからだ。雷は「神鳴り」であり、神が怒っている受け止めた。火山の噴火を「御神火(ごじんか)」といい、火の神の怒り荒ぶる姿を感じ取った。洪水は水の神の荒ぶる様である。そしてその大いなる力がプラスに働けば、ものを生み出す産土(うぶすな・人の生まれた土地)の力となり繁茂繁栄がもたらされる。自然現象だけでなく、人事、社会、この世のすべてに神霊の威力が作用していると私たち祖先は考えたのである。
人が神意に背けば神の怒りをかい、戒告が下され、病貧争災がもたらされる。逆に人が神意に応えれば、神は人を愛で喜んで、五穀豊穣、平和、繁栄といった様々な恵みを与えてくれる。だからこそ日本人は、神の意のままに生きていこう、神と調和していこうとしたのである。
「神の道」とは、神によって作られた道であり、人が神に向かう道である。人は「この筋を歩んで行くより他にない」――となれば、神に深い敬意と感謝を捧げ、神の御心を伺い、示された神意の通り実践、実行する以外にない。「祈り」とは本来「意乗り」であり、それは「神の意に乗ること」なのだ。
ただし、人知を超えた大いなる存在と交流交歓するには、大変なエネルギーがいる。だから、最もふさわしい特別な日に、特別な場を設けて、集団で想いを一つにして、「祭り」を行ってきたのである。
「祭り」は日本人にとって最も重要なものであった。政治も本来「政(まつり」)であり、神を祀ってお伺いを立て、神意に則って国や地域を治めることであった。生き方、考え方、心のあり方から、日々の生活、家庭、地域社会、国家のあり方まで、日本人のすべてが「祭り」を元に形作られてきたのである。

この通りである。(本文中の「神」という言葉を「自然」という言葉に言い換えてもいいだろう。)
だからいま行うべきは「祭り」である。
これは「花見」にもいえることだ。
いくつか本から拾ってみましょう。(「日本祭礼行事総覧」(新人物往来社)、新谷尚紀「日本人の縁起かつぎと厄払い」(青春出版社)、丸谷才一・山崎正和「見わたせば柳さくら」(中央公論社))
「日本人の花見は、外側から眺めるだけでなく、花の下に入って酒を飲んだり、踊ったりするするところの特徴がある。この習慣は、ウメやサクラの花の下に入ることによって、花の精気を全身で受けとめ、自分の生命力を補強するという古代以来の自然信仰のあらわれと思われる。
本来は風流の催しではなく、物忌み祓いのため、家を空けて集団で花見をしたり山遊びをするという、古代の信仰行事であった。」
「柳田国男は、死者の霊魂を慰める祀りの場所が桜の花であり、花見というのは死者の祭りをすることだった。折口信夫は、「花」というのは桜の花も基本的に先触れである、何かが出て来る、そこから稲が実る、その花は稲の豊作を予言してくれる花だった」「桜は死と再生の樹」「桜でよみがえる共同体感覚」
などなど
こうして「花見」本来の意味を考えていけば、バカ騒ぎしさえしなければ中止するべきではない。

また「祭り」には地域コミュニティーの結び付きを強め、近隣住民の絆を深め、他の地域との人々との交流をもたらす。この地域コミュニティーが災害時において大きな役割をしたことは今回の災害でも再認識されたはずだ。
過去記事「マイケル・サンデルか池田信夫か、どちらが正しいのか? 大震災のときだけコミュニティーの大切さを問うのでは意味がない。」
この前、NHKラジオを聞いていたら阪神大震災経験者の評論家が、祭りや町内会のイベントは災害時の予行演習になる、といった話をしていた。確かにそうだ。神社や公民館などに町内の人々が集まり、炊き出しをしたり、テントを張ったり、名簿を作って役割を決めたりする……、これらはまさに災害時に避難した際にすることと同様のことを行うことになる。これだけでも十分に「祭り」を行う価値があるというものだ。

ということで、いま日本に、中国ソフトパワーの象徴「パンダ」やアメリカ文化の象徴「東京ディズニーランド」なんてものはいらない。(もちろん、和田アキ子お誕生会もいらない。)

いま必要なのは、日本人の魂の源である「祭り」を行うことなのだ!
そこには、鎮魂と安寧を願う心があり、自然を敬意する気持ちがあるからだ。
「花見」に行って死者の霊魂を慰めるために祈り、復興を願う、こういうことが行われるべきなのだ!
桜の樹には「死と再生」の意味があるのだから。
世良田東照宮の桜(画像は「世良田東照宮」の桜)

日本人にとって何が必要なのか、何が必要でないのか、それをよく考えるいい機会になったのではないか、そう思えてならない。
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