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物語を物語る

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マイケル・サンデルと夏目漱石

物語を物語る

NHKの番組で、2011年4月16日放送の マイケル・サンデル 究極の選択「大震災特別講義~私たちはどう生きるべきか~」を見た。
マイケル・サンデル NHK
番宣にはこうあった。

震災の苦しみのなか、多くの人が途方に暮れながらも手を携え、未来へと踏み出している。大震災の様子は世界各地に報道され、世界の人々は、震災のすさまじさに驚くとともに、過酷な状況でも、冷静に協力し合う日本人の姿に感動し、称賛のエールを送った。その1人が「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授だ。番組では、いま日本がおかれた状況に対し、世界の若者が意見を述べ、「わたしたちは何をすべきか」を考える。

これは良かった。サンデル教授はやはり仕切りが上手いと思う。見てる側にも思考する間を与えてくれる。
こういう議論番組は日本でもよくあるが、その辺のタレントが司会だと、感情むき出しのサルのようなやかましいものになって、見ていて腹立だしくなってくる。(田原総一朗とか太田光とかテリー伊藤とか)
サンデル教授形式の手法をまねたもの(白熱教室JAPAN)もあるが、これも見ていて何か違和感を感じる。やはり、根本的なものが違うのだろう。
内容は過去記事 マイケル・サンデルか池田信夫か、どちらが正しいのか? 大震災のときだけコミュニティーの大切さを問うのでは意味がない。にあるように「共同体」や「日本の伝統的社会」について語られていました。

さて、番組内でも「個人主義と共同体意識」ということが取り上げられていて、この2つは相反するものかどうかが議論されていた。
大災害にあっても国を危うくする事態になっても、過度な個人主義を唱える人々が出て来る。
これは、過去記事「ブルーノ・タウトの言葉を信じれば、東日本大震災からの復興は成し遂げられる。」の中でも取り上げた「自粛・不謹慎は同調圧力だ」ということを盾に取って異常なまでの個人主義を唱える人々だ。彼らは「社会・家族・国家は個人を縛るもの」という思考が根底にはあって、たとえこんな災難を向えようとも、巧言令色を弄して「過度な個人主義」主張しようとする。(サヨク思想者や新自由主義者も交じって)
これがいままで戦後日本の世の中に蟠踞していた「自分さえよければいいという意識」という身勝手な私的個人主義だったが、この災害を機会に世の中の雰囲気も変わりつつある。

さてさて、そもそも本来の「個人主義」はこういう意味のものであったのだろうか。
それほど社会や共同体と敵対するようなものだろうか。
そういうことで、ここで「夏目漱石」先生の言葉を引いてみよう。
夏目漱石 文明論集「夏目漱石文明論集」(岩波文庫)の「私の個人主義」から。
書き起こそうと思ったら、ネットの「青空文庫」にそのまま掲載されていた。http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html そこから良い所を抜粋(コピペ)していきます。

近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴(ふちょう)に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。

第一に自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴(ともな)う責任を重(おもん)じなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。

漱石の言う個人主義は、他者を尊重してこその自己ということになる。まさしくその通りであるが、現代の個人主義は「自分優先」が言われ過ぎている。 

こうした弊害はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、権力なり金力なりで、一般に推し広めようとするわがままにほかならんのであります。だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。 もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党(ほうとう)を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動(もうどう)しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。

「個人主義者」の漱石が今の私的個人主義者のあり様を見たら、「それは違う」といって多分怒ると思います。

ご存じの通り英吉利(イギリス)という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英吉利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などはとうてい比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。

自由と義務はセットであるという基本的ことは今は忘れ去られているようです。大切なのはやはり教育。

個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有(きょうゆう)するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云った方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨脹して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違(かんちが)いをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾(ずきん)が必要だと云って、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい

このくらいのバランスが良いのではないか。
日本大百科全書の個人主義の項目に漱石の解説があった。(http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9/)
日本では、夏目漱石(そうせき)に『私の個人主義』(1915)という講演がある。彼はこの講演で、イギリス留学中に「自己本位」の思想に達したと語り、個性の発展を図る個人主義を説くが、しかし「自己の個性の発展を仕遂(しと)げようと思うならば、同時に他人の個性をも尊重しなければならない」とする。個人主義は「道義上の個人主義」でなければならず、「もし人格のないものが無暗(むやみ)に個性を発展しようとすると、他人を妨害する」結果になる。彼はまた「常住坐臥(ざが)国家の事以外を考えてはならない」といった偏狭な国家主義を批判するが、前述の個人主義が真の国家主義と矛盾しないことも主張する。なぜなら、国家存亡の際に、「人格の修養の積んだ人は、個人の自由を束縛しても国家の為(ため)に尽すようになるのは天然自然」だからである。漱石のこうした考えに、ヨーロッパの個人主義の反映をはっきりみることができよう。
とあった。
国家主義の強かった時代、かなり窮屈であっただろう。(本文にそんな逸話がいくつも述べられています) その中で個人主義を唱えるのだから漱石も大変であったのだろう。
以下、漱石によるこの両者の兼ね合いの付け方が述べられています。

国家は大切かも知れないが、そう朝から晩まで国家国家と云ってあたかも国家に取りつかれたような真似はとうてい我々にできる話でない。常住坐臥(じょうじゅうざが)国家の事以外を考えてならないという人はあるかも知れないが、そう間断なく一つ事を考えている人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、けっして国家のために売って歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあろうともその結果は社会に必要なものを供するという点において、間接に国家の利益になっているかも知れない。これと同じ事で、今日の午(ひる)に私は飯を三杯たべた、晩にはそれを四杯に殖(ふ)やしたというのも必ずしも国家のために増減したのではない。正直に云えば胃の具合できめたのである。しかしこれらも間接のまた間接に云えば天下に影響しないとは限らない、否観方(みかた)によっては世界の大勢に幾分か関係していないとも限らない。しかしながら肝心の当人はそんな事を考えて、国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実できない事をあたかも国家のためにするごとくに装うのは偽りである。


いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂いが少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。けれどもその日本が今が今潰れるとか滅亡(めつぼう)の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。火事の起らない先に火事装束(しょうぞく)をつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈(か)け歩くのと一般であります。必竟ずるにこういう事は実際程度問題で、いよいよ戦争が起った時とか、危急存亡の場合とかになれば、考えられる頭の人、――考えなくてはいられない人格の修養の積んだ人は、自然そちらへ向いて行く訳で、個人の自由を束縛し個人の活動を切りつめても、国家のために尽すようになるのは天然自然と云っていいくらいなものです。だからこの二つの主義はいつでも矛盾して、いつでも撲殺し合うなどというような厄介なものでは万々ないと私は信じているのです。この点についても、もっと詳しく申し上げたいのですけれども時間がないからこのくらいにして切り上げておきます。ただもう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。

平和な時なら「個人主義」もいいだろう。
だが、東日本大震災のただ中である今の日本は、国家的危機を向えている。
まさに国難の時であるのに、必要以上の「個」を訴える人、または国が危ういということに気付かない鈍感な人たちが同調圧力だなんてことを言っている。実際はこれが本物の日本の危機なのではないのか。
「国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。」と漱石は言っているが、現代日本には国の安否を考えない人の方が多いのでは……と不安になる。
漱石が生きていたら今の日本の現状を見てどう語るか聞いてみたいものである。
また共同体主義のマイケル・サンデルと個人主義の夏目漱石の対談したらどうなるか見てみたい。もちろん想像ででしかできませんが、きっと面白いものになるものに違いない。(案外似たような意見になるかも)

さて最後に漱石の「私の個人主義」から一文を。

 金力についても同じ事であります。私の考によると、責任を解しない金力家は、世の中にあってならないものなのです。その訳を一口にお話しするとこうなります。金銭というものは至極重宝なもので、何へでも自由自在に融通が利く。たとえば今私がここで、相場をして十万円儲けたとすると、その十万円で家屋を立てる事もできるし、書籍を買う事もできるし、または花柳(かりゅう)社界を賑わす事もできるし、つまりどんな形にでも変って行く事ができます。そのうちでも人間の精神を買う手段に使用できるのだから恐ろしいではありませんか。すなわちそれをふりまいて、人間の徳義心を買い占める、すなわちその人の魂を堕落させる道具とするのです。相場で儲けた金が徳義的倫理的に大きな威力をもって働らき得るとすれば、どうしても不都合な応用と云わなければならないかと思われます。思われるのですけれども、実際その通りに金が活動する以上は致し方がない。ただ金を所有している人が、相当の徳義心をもって、それを道義上害のないように使いこなすよりほかに、人心の腐敗を防ぐ道はなくなってしまうのです。それで私は金力には必ず責任がついて廻らなければならないといいたくなります。自分は今これだけの富の所有者であるが、それをこういう方面にこう使えば、こういう結果になるし、ああいう社会にああ用いればああいう影響があると呑み込むだけの見識を養成するばかりでなく、その見識に応じて、責任をもってわが富を所置しなければ、世の中にすまないと云うのです。いな自分自身にもすむまいというのです。

いいこと言うわ。ほんと偉人ですね。そして漱石は「金持ちは社会的に責任を果たさなければならない」ということを繰り返し述べています。
東日本大震災で多くの資産家が寄付をしましたが、まさしく漱石の言うところの「徳義心」(人間としてふみ行うべき道徳上の義務) ということでしょう。
こういう心がホリエモンには全くないので、私は彼を嫌悪するのです。
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消えた二十二巻

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