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吉田松陰の母・滝も偉かった。前篇

物語を物語る

小川煙村著 「幕末裏面史 勤皇烈女伝」 (新人物往来社)を読んだ。
昭和18年発刊のものを再編集(木村幸比古の解説)して、平成に再出版したもの。
幕末の女性にスポットを当てていて、「木戸孝允の妻・松子」「松尾多勢」「野村望東尼」など11人が紹介されている。
その中でも「吉田松陰の母・滝」の話が良かったので書き起こしてみました。

吉田松陰の母・滝
1、松陰の“母性訓”を通して視る母
維新勤皇の大頭目吉田松陰の事は余りにも悉知されている。松陰は忠誠の人であると共に忠孝の児であった。江戸獄中で死刑の詮議が定まったと漏れ聞いて、父母に向かって次の和歌を贈っている。
 親思ふ心にまさる親心
  けふの音づれ何と聞くらむ
痛切腸を断つ想いがある。松陰の父は長州藩士百合之助、母は同藩老臣毛利志摩の臣、村田右中の三女、滝である。この結婚は滝女の二十歳の時(文政九年)で新夫は三つ上であった。実家村田の家格は低いけれど家計はいくらか楽であったが、杉家は禄高二十六石、まず貧乏侍である。だから禄米だけでは食って行けぬ。勤仕の合間に農良仕事をする。米をつく、草鞋を作る、縄をなう、川に出かけて魚釣りをする。けれども百合之助は親譲りの読書好きで、こんな忙しい仕事の最中でも書物を離さなかったのである。妻の滝も夫を助け、子を育て、苧(お)をうみ、糸を操り、機を織り、針仕事、田草とり、稲刈り、麦作り、真っ黒になって年中働きつづけに働いた。
家は貧しいが子宝には恵まれていた。男児三人、女児四人(うち一女夭折)あった。松陰は次男である。始名「大次郎」、後に寅次郎と改む。だから家庭的には「大(だい)さん」と呼ばれていた。
松陰は五歳の折、叔父吉田大助の養子となり、爾来吉田寅次郎である。松陰が吉田家の養子となった翌年(天保六年)に、養父大助が死去したから、五十七石六斗の禄を受けて相続したが、まだ六歳の幼児であるから、すっと杉家に養われて、生みの母の手で育てられていた。養母久満は その実家へ移って独り未亡人生活をいとしめてつづけていたのである。
滝が杉家に嫁ぐ時、村田の家格が低いために、杉と同格の児玉兵右衛門の養女として縁づいたので、氏を児玉と書物にも書き残されてある。杉家は格こそ村田より上といえ、貧乏な暮らし向きの上に六人の子供を持つ母の苦労というものは並大抵のものでない。ただ子供を大きく育てればよいのというのではなく、いずれも立派な人間に育て、男児は男らしく、女児は女らしく、申し分のないように育てるには、母のになう責務はけだし軽くはない。松陰の母はそれをやり遂げたのである。中にも松陰の如き傑物を育て上げたのであるから、後年、畏き辺りから賞賜を辱(かたじけの)うしたのも道理である。
松陰がまた常に母を慕ったのも、母の労苦の多大なるをよく知っていたからでもあろう。
一家の貧窮に加え滝はさらに重い負担がおっかさぶった。姑が年老っているから、これをいたわり助けるのに骨が折れる。よしや骨が折れるとて姑に対して尽くすことは善良なる嫁の務めで、滝は少しもこれを意に介せぬ。ところが年老いたる姑だけではない。姑の妹が岸田というのに縁付いていたが、この岸田が杉の上を越す貧困で、困り抜いたあげく、一家あげて杉家へ転がり込んで来た。さなくとも苦しい杉家の世帯は、この三人家族の奇遇で一層貧の重圧を加えていった。のみならずその姑の妹というのが至って弱い体質で、とうとう病気になって臥せることになった。こうなると食うことの心配のほかに、病人の介抱というものに、相応気も身体も使わねばならぬ。気立てのよい滝は、
「他人の家に厄介になって、病気で寝ている女性(おなご)の心は悲しいものに違いない。これはあくまで慰めてあげねばなりません」
身を粉にしてまめまめしくかしずく。その親切には病人も泣いて喜ぶ。姉なる姑も我が嫁の美しい心根に感じ入って、老人であるから涙をこぼしてばかりいた。ある時他人に向かって、「うちの嫁は仏様の生まれ替わりでしょう。世の人を救おうとしてこの世に生まれ出たのに違いありません。でなければああまで優しく親切に出来るものじゃありません」と心の底から有りたがって話していた事があった。
百合之助の末弟玉木文之進は、松下村塾の開始者であって、松陰はそれを継いだのであるが、明治九年(1876年)に前原一誠が長州萩に乱を起こした時、一誠等が敗れて島根において囚われたと聞くや「萩の正気既に殲く」と長嘆して、先祖の墓前で割腹して果てた人である。その養子直人もこの乱で戦死したが、直人こそ乃木大将の実弟で、大将伝の初期の部に現れ出る人である。乃木大将自身すら玉木文之進の薫育を受けたもので、文之進は松陰の叔父らしい謹直清廉、操行は秋霜烈日の概があり、萩で厳正をいう時は「まるで玉木先生のようだ」と称したほどの人物であった。
この文之進すら兄嫁滝を目して、
「我が兄嫁は男子も及ばぬ婦人である」
と賞揚した。容易に許さぬ剛直文之進がかく言うほどであるから、他人が滝の実際の働きぶりを見て感嘆せぬもののないのは当然である。松陰の母はまずこんな女性であったのである。
松陰はまた叔父文之進の訓育を受けた。十一歳にして藩主毛利敬親の前で、山鹿素行の「武教全書」を講義した事があるが、あまりにもよくできたから、藩主からその師匠は誰であるかと聞かれ、「玉木文之進でござります」と答えた。まさにこの叔父にしてこの甥ありというべしである。

松陰は安政元年(1854年)十二月、野山の獄中から妹千代に宛てた手紙の中に次のごとき文言がある。
「凡そ人の子のかしこきも、おろかなるも、よきもあしきも、大てい父母の教えによる事なり。就中男子は多くは母の教えを受ける事また其大がいなり。さりながら男子女子ともに十歳以下は、母の教えを受けること一しほ多く、或いは父はおごそかに、母はしたし、父は常に外に出て、母は常に内にあればなり。しからば子の賢愚善悪に関する所なれば、母の教えゆるかせにすべからず。併し其教といふも、十歳以下小児の事なれば、言語にて諭すべきにあらず。ただ正しきを以てかんずるの外あるべからず。」
とて児女の養育に母性の重大性を説き、その次には、「昔の聖人の作法に胎教というものがある。子胎内に居る時、母が立ち居振る舞い言語心構え、さては食物の末まで心を用いて正しきを行えば、生まれる子は身体が正しく、器量もすぐれたものが出来る。胎内にいる子が何も知らぬ筈であるが、そうではない。凡そ人は天地の正しき気象を得て形をととのえ、天地の正しき理を得て心をととのえるのであるから、母の行為が正しければ自然感化を受けて正しく感ずるのである」とのべている。その終わりに、
 因てここに人の母たるものの行ふべき大切なることを記す。此他ちいさき事は記さずとも、人々いう所なれば略し置きぬ。
 いろはたとへにも、氏よりそだちと申事あり。子をそだつることは大切なる事なり。
以上は松陰の女訓の一節と見るべきものであるが、また松陰が現実に母から受けた感化を克明に告白したものであろう。松陰の“母性訓”は松陰の母の感化を裏付けしたものと見て至当である。しかしてそこにひめられたる松陰の母の価値が確認し得らるるのである。


松下村塾がどこか家庭的であったり、吉田松陰の中にどこか「母性」的部分があるのは、母親の影響だったのだなと納得してしまいました。
やはり、親が子に与える教育は重要なのだと、改めて思いました。

後篇に続く。
(これは資料1です)
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