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物語を物語る

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「塔の話」その3 「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている」

物語を物語る

第1回「塔の話 その1 東京スカイツリーと東京タワー
第2回 塔の話 その2 「西洋の塔と東洋の塔」
の続きで、今回が「塔の話」の第3回目「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている」です。 長っ!
で、これが資料6となります。

ということで、いつものように梅原猛の「塔」から引用。
今回のポイントは、
1、西洋の塔が垂直への意志、東洋の塔(特に日本)は水平への意志があり、大きな違いがあるということ。
2、それは、宗教的な違いであること。
3、日本の塔は、神の宿る「柱」や「木」が基になっているのではないか、ということ。
4、日本人は「塔」に「生」と「死」を見て、そこに精神的支柱を求めているということ。
まずは、塔はリンガ(男性器)の象徴であるということから。

(アンコール・ワット建物)の頂上は巨大な塔であるが、この塔の下には、巨大なリンガがそなえられていたのではないかと思われる。それは、おそらく小乗仏教の流行とともにその多くはとり去られてしまったが、かつてこのリンガこそ、王室の権力のシンボルであったのである。リンガとは、まことに忠実にその形を模した巨大な男性のシンボルであるが、おそらくヒンズー教の塔そのものが、男性シンボルの象徴という意味をもっているのあろう。
垂直に天に直立する意志、それは子孫生産の意志を示し、権力の意志を示し、そしてそれ以上に、形而上学的な根源的な生への意志をも示している。
アンコールワット

「塔」がリンガを象徴しているというのは、とても分かり易いものだろう。これは東も西も今も昔もすべてにあてはまるところだ。(いかにもフロイトぽい解釈)
リンガに関する過去記事 
奇説その2 「テポドン=男性器説」はなかなかいい奇説です。
2月3日なので、「恵方巻きとは何か 恵方巻きとは正月行事の凝縮されたものではないのか(仮説)」を再録してみました。
これらにも通じる話ではあります。

では、梅原猛の「塔」から。

水平への意志と垂直への意志

涅槃図において、釈迦は静かに横たわっている。ここで働く意志は、垂直を志向する意志ではなく、水平を志向する意志である。垂直を志向する意志が、限りなく己れの権力を増大する意志であるとすれば、水平を志向する意志は安定を欲する意志なのである。
涅槃像 南蔵院
(福岡県篠栗町・南蔵院の涅槃像 )
このような水平への意志は、キリスト図と、キリスト教の塔においては、まったく現れない。そこに現れるのはもっぱら垂直への意志である。十字架にかかったキリストは、死してなお直立している。彼にとって、地上に横たわることは、敗北に他ならない。彼は死においても、なおかつ旺盛なる垂直への意志を保持しているのである。
レンブラント キリストの昇天(レンブラント 「キリストの昇天」)
この垂直への意志は、昇天への意志となる。キリストは、死後三日にして復活し昇天する。昇天は永遠なる生への証しとされるが、それは、限りなく上昇する生への意志の念願といってよいであろう。キリスト教において、死は仏教の涅槃が意味するような、存在の無化でない。死に直面し、生は、かえって、より強い力を発揮するのである。死は来るべき新しい生、永遠の生のための一時の休息にすぎない。死は、むしろ有限な生がその有限を失うことにより、無限にして永遠なる生として生まれ変わる中間段階にすぎない。
この無限永遠なる生への意志が、天上への意志として、垂直的な意志としてあらわされる。アレキサンダーが明らかにした、西洋の塔のもつ無限上昇的性格は、実は、このようなキリスト教のもつ垂直的意志と深く関係しているのである。それゆえ、すべての塔が無限への意志を無条件をもっているわけではない。無限への意志は、キリスト教の塔、特にそのゲルマン的形態において、もっともいちじるしく現れる。
キリストの磔刑 アンドレーア・マンテーニャ (アンドレーア・マンテーニャ 「キリストの磔刑」 )

アレキサンダーは、ロマネスクに代表されるイタリアの塔とゴシックに代表される中北欧の塔を比べている。前者はやはり、完結性、調和性の性格が強いが、後者においては未完結性、意志性の性格が強い。もし塔をして塔たらしめるものが、無限の上昇への意志であるとしたら、塔はむしろ、ゲルマン的塔において、もっともその本質を表現しえたといいうるであろう。イタリアの塔においては、キリスト教の無限上昇の生の理想とともに、美を調和と見る思想が支配し、けっして全体の調和を乱す恐れのあるような建物を建築の中に取り入れなかった。ギリシャ的な美の精神が残っていたといえるのかもしれない。
アントワープ ノートルダム大聖堂(アントワープ ノートルダム大聖堂)

アレキサンダーのこの著書は、西欧的な塔の本質を見事にえがき出すが、これはやはり、あまりにも西欧思想の土台の中から育った塔の考察である。塔のなかには、無限なる生への意志とともに、死への根深い自覚がふくまれているのである。
限りなく高所をのぞみ、限りなく天上への接近を意志する西洋の塔すら、その背後に、死への恐怖を含んでいるように私は思われる。昇天への意志は、死からの脱出の意志なのである。ゴシック建築の多くの塔は、その一つ一つが昇天の意志を秘めている。キリストに倣って天に、永遠なる生へと上昇しようとする垂直的意志のなかに、ヨーロッパの塔の本質ばかりか、ヨーロッパの文化の本質がかくされているのである。
フランチェスコ・グアルディ キリスト昇天祭のサン・マルコ広場(フランチェスコ・グアルディ 「キリスト昇天祭のサン・マルコ広場」)

こう言われると、確かに西洋キリスト教圏では祈りを捧げるのに「天」に向って祈る。教会でもキリスト像は高い位置にあって、自然と上に向って拝むことになる。天に神がいると考えているからだ。(あるいは直接神を見ないようにうつむいて祈りを捧げることもある。これも同じことで、神がいる天に頭を垂れ、自ら神のしもべであることを表現していることになる。)すなわち、ここでいうところの「垂直への意志」ということだろう。
一方、日本はどうだろうか。西方浄土に向って拝む、薬師如来のいる東に拝む、あるいは、「あちらの方向に尊い方がいらしゃる」ということで、その方角に向って拝むことが一般的だろう。(「雨乞い」や「お天道様」に拝むときは天に向って拝む。だがこれも、その方向に向って拝むという感覚に変わりはない) いわば、日本では、神社でも拝殿でも水平方向に拝むことになる。つまりここでいうところの「水平への意志」ということだ。
なるほど、こうみていけば「垂直の西洋と水平の日本」という考えは、非常に面白い考察だと思う。
本書では、同じ権力者の墓でも縦に伸びた「ピラミッド」と横に広がる「仁徳天皇稜」との違いで説明している。

で、塔の話に戻れば、日本の塔には、西洋的垂直の意志と東洋的水平の意志が混ざり合い、そこに日本的精神が合わさっているというのだ。
では、日本人の柱(塔)の本質にあるものとは。

日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている……。

古代の日本人にとって、神は石や木に宿るものであった。神奈備山といわれるあの笠形の形の良い山、その山に神が降りてくる。しかも神が降りてくるのは、尖った岩や高い木を通じてである。私には山の上に聳える高い木に神が降りてくるという信仰が心理的にわかるような気がする。その高い木は、天と地を結ぶものである。天と地を結ぶ古い高い木、それは天と地の接点であり、そこにあらゆる生物の根源がある。天国と地獄の接点、すべてのあらゆる存在するものの原点がそこにあると、古代人は考えた。それは極めて形而上学的な思惟であった。
三輪神社「三輪の神奈備山」(「三輪の神奈備山」三輪神社)

柱、それはいったい古代日本人にとって何を意味したのであろうか。われわれは、「古事記」において、奇妙な柱を知っている。イザナギノミコトとイザナミノミコトは、「天の御柱を見立て、八尋殿を見立て」て国生みをはじめる。天の御柱とは何であろうか。「日本書紀」には、「この時天地の相去ることいまだ遠からず。故、天の柱を以ちて天上に挙げまつりき」と、この国生みの話にちなんで書かれている。これを見ると、柱の役割がだいたい理解される。それは天と地の交流をはかるところである。天から柱を伝わって神々が降りてくる。そしてそこで天と地の結合が行われる。イザナギ、イザナミの結婚が、そういう天の御柱、すなわち天と地の接点をめぐって行われたことは意味が深い。
神木 (注連縄の巻かれた御神木 由岐神社)
かつては山や木に、神が降りてきた。巨巌や巨木が、神の依代であった。しかし、岩や木は不動であり、不動のものにしか神が降りてこないとしたら、不便である。私は柱の信仰は、岩や木の崇拝の後に起こった信仰ではないかと思う。柱は人工的な、移動可能な神の依代である。その移動可能な柱に神が降りてくるとすれば、天地の接点はまさにどこにでも出現可能となる。政治の中心地は天地の中心地である必要があるが、それは文化の発展とともに、山であっては困るのである。都には広い平野が必要であろうが、もし柱に神が降りてくることができるとすれば、平野においても都の建設が可能である。ミヤコとは宮処、すなわち宮殿のある所であるが、ここにおいて、いつも宮殿は宮柱太しりましてという形で語られることに注意したい。柱はまさに、天と地との接点、そこに天の神が降り、地の神が呼応するところなのである。そこは祭ごとの場所であるとともに、政治の中心地でもある。都には、まず柱が建てられる必要がある。私は、最近、万国博の地鎮祭をテレビで見た。ここでも、まず柱がたてられる。柱をたてることは神事なのである。それはここに神が降りてくる知らせなのである。
中略
かつて柱は、まさに祭事と政事の中心地のシンボルであったのである。神を数えるのに、現在もまだ、一柱、二柱というのも、古代人のそういう考え方の名残りであろう。

龍田神社は、天と地の真中にある柱、いってみれば『古事記』に書かれている天の御柱のような役をする柱を祀ることになる。『古事記』では、この宇宙の中心、天と地の接点に立つ柱をまわって、イザナギ、イザナミの両神は、国生みの儀式を行う。この柱は、支配の柱でもある。超越的支配権を象徴する柱である。 
法隆寺

日本人の塔の原型は柱にあり、そこには「神」がいる。(依代、神が降りてくる所)
これは、神に近づこうとして天に伸びていく西洋の塔とは、本質的に違うということだ。
だから、日本人は柱の発展形である塔に特別な感情を抱き、そこに精神的支柱を求めているのだ。

そして、「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている……。」ということになる。
生の理念とは「西洋的垂直」、死の理念とは「東洋的水平」、そこに日本人的精神が合わさっている、これが日本の塔だということだ。

梅原猛の「塔」では、このあと広隆寺や東大寺や四天王寺などの塔を時の権力者の怨霊封じとして解説しています。
そこをまとめるのは面倒なので、興味のある方は本書をあたって下さい。
ここで必要なのは「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている」というこの一文です。

さてさて、長々と3回も書いて何がやりたのかというと、これです。
銀魂 塔
アニメ「銀魂」。
この物語に再三登場するこの塔。
東京スカイツリーの完成予想図(画像提供:東武鉄道株式会社・東武タワースカイツリー株式会社)そして、この東京スカイツリー。
この東京スカイツリー、ほんとうによく権力と富の象徴(批判しているのではありませんよ。あくまでも主観的感想)を表している「西洋的な塔」だと思う。
だが、今まで見て来た通り、日本人はここに「精神的支柱」も求めているのだ。
……。

と、これで塔の話は終わり。
これは後の資料に続きます。

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